その日の芽衣さんは、いつもと少し違った。
「お疲れさまです」
「……あ、お疲れ」
挨拶を返す声のトーンが、いつもよりひとつ低い。からかい交じりの一言も飛んでこない。そんな些細なことに気づいてしまうのは、たぶん僕の悪い癖だ。
仕事中は特に変わった様子もなく、いつも通り売り子として働いていた。声を張り、笑顔で応対し、傍から見れば普段の芽衣さんとまったく変わらない。
けれど、休憩時間に自販機の前で会ったとき、その差がはっきり分かった。
「今日、元気ないですね」
「そんなことないよ」
「目の下、いつもよりちょっと重いです」
「……見すぎ」
芽衣さんは少し困ったように笑って、それ以上は何も言わなかった。プライバシーに踏み込まれるのが苦手だと、以前彩乃さんから聞いたことを思い出す。だから僕は、それ以上は聞かないことにした。
代わりに、自販機で温かい飲み物をふたつ買って、片方を差し出した。
「元気なくても、水分は取ったほうがいいので」
「……理由、それだけ?」
「それだけです」
芽衣さんは受け取りながら、少しだけ笑った。さっきよりは、いつもの笑い方に近かった。
「――昨日、一人暮らしの部屋に一週間ぶりに誰も来なかったなって、ふと思っただけ」
僕が何も聞いていないのに、芽衣さんは唐突にそう言った。
「別に、寂しいとかじゃないよ。ただ、静かすぎる部屋にいると、なんか変な感じになるだけ」
「変な感じ」
「うん。元気なくなる、みたいな」
僕はうまい返し方が分からなくて、しばらく黙っていた。慰めの言葉を探しても、どれも嘘くさく感じてしまう。
「――今度、蓮さんと彩乃さんも誘って、四人でどこか行きませんか」
結局、僕が言えたのはそれだけだった。
「なにそれ、慰め方が下手すぎ」
「下手ですみません」
「……でも、まあ、悪くない」
芽衣さんはそう言って、温かい缶を両手で包むように持った。
「律って、たまにこういう、ちゃんと見てるとこあるよね」
「見たくて見てるわけじゃないんですけど」
「知ってる。律は、そういう人だもんね」
その言い方が、責めているのではなく、どこか安心したような響きだったので、僕は少しほっとした。
休憩時間が終わり、芽衣さんはまたいつもの調子で持ち場へ戻っていった。
いつもの声に戻るまで、あと少しだけかかりそうだったけれど、それでも今日、僕は芽衣さんの「いつもじゃない声」を、初めて聞くことができた。
* * *
「――なあ、あそこの新しい店、行ってみない?」
仕事終わり、ロッカールームで着替えていると、蓮さんが唐突にそんなことを言い出した。ドームの近くに最近できたという、辛い料理専門の店らしい。
「僕、辛いのはあまり得意じゃないんですけど」
「大丈夫大丈夫、辛さは選べるらしいから」
根拠のない自信で押し切られ、気がつけば僕は着替えを終えて外に出ていた。蓮さんのこういう思いつきに逆らうのは、体感として無駄だと分かっている。
裏口を出たところで、芽衣さんと彩乃さんの二人にも遭遇した。蓮さんが同じ調子で誘うと、彩乃さんはすぐに頷き、芽衣さんは少し悩んでから「まあ、いいけど」と付き合ってくれることになった。
四人で向かった店は、赤い看板が目立つ、できたばかりの辛いもの専門店だった。
「僕、いちばん辛くないやつでお願いします」
「律、それもう挑戦する気ないでしょ」
「無理はしない主義なので」
芽衣さんに呆れられながらも、僕は自分の意志を貫いた。一方、蓮さんは迷わず「いちばん辛いやつ」を注文していた。
「蓮さん、大丈夫ですか」
「余裕余裕。俺、辛いの得意なんだよね」
彩乃さんは中間の辛さを、芽衣さんも「負けたくない」という謎の理由で、蓮さんに次ぐ辛さを頼んでいた。
料理が届いて、しばらくは和やかだった。
異変が起きたのは、五分も経たないうちだった。
「――あつ、あつい……」
真っ先に音を上げたのは、いちばん辛いものを頼んだはずの蓮さんだった。額に汗を浮かべ、水を何杯もお代わりしている。
「余裕あるんじゃなかったんですか」
「これは、想定より、ちょっと、辛かった……」
芽衣さんも次第に涙目になりながら、それでも「負けてない」と強がっていた。彩乃さんだけが、意外にも平然とした顔で食べ進めていた。
「彩乃さん、辛いの平気なんですか」
「わりと得意なんです、これでも」
見た目からは想像できない事実に、僕たちは一斉に驚いた。いちばん心配していなかった人が、いちばん平然としている。それがなんだかおかしくて、僕は少しだけ笑ってしまった。
結局、いちばんダメージを受けたのは、いちばん強気だった蓮さんだった。
「次、店選ぶ権利、しばらく誰かに譲るわ……」
涙目でそう宣言する蓮さんを見ながら、芽衣さんが「次は律が選ぶ番だね」と楽しそうに言った。
「僕、そういう挑戦的な店は選ばないですよ」
「知ってる。だから、律に選ばせたいの」
理由になっているのかいないのか分からないまま、僕はいつの間にか、次に店を選ぶ役目を引き受けることになっていた。
辛さで痛む舌よりも、そのやり取りのほうが、僕の中に長く残った。
* * *
店を選ぶ、というのは、思っていたよりずっと難しい仕事だった。
蓮さんのように勢いで決められたら楽なのだろうけれど、僕はどうしても、みんなが本当に楽しめる場所かどうかを、何日も考え込んでしまう。
「そんなに悩むこと?」
休憩中、隣に座った彩乃さんに、つい相談してしまった。
「悩みます。蓮さんは刺激的な店が好きそうですし、芽衣さんは……」
「芽衣は、律さんが選んだ場所なら、たぶんどこでも喜びますよ」
さらっと言われた一言に、僕は少し詰まった。
「そう、なんですか」
「はい。だから、律さんの好きな場所でいいと思います」
好きな場所、と言われて頭に浮かんだのは、意外にも賑やかな店ではなかった。ドームから少し離れた場所にある、古い本屋と小さな喫茶店がひとつになったような店だった。
「――そこ、僕がよく行くところなんですけど」
「いいと思います。律さんらしくて」
彩乃さんはそう言って、静かに笑った。「律さんらしい」という言葉の意味を、僕はまだうまく飲み込めなかったけれど、悪い意味ではなさそうだった。
当日、その店に着くと、蓮さんは真っ先に「渋いとこ選んだな」と言いながらも、棚に並ぶ古い雑誌を興味深そうに眺め始めた。芽衣さんは喫茶スペースの奥にある窓際の席を見つけて、「ここ、いいね」と嬉しそうに座った。
「律って、こういう店知ってるんだ」
「たまに来るので」
「一人で?」
「一人で」
芽衣さんは少し意外そうな顔をしたあと、「律っぽいね」と、彩乃さんと同じ言葉を口にした。二人して同じ表現をされると、それが僕の中でひとつの評価として定着していく気がした。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、芽衣さんは本棚のほうをちらちら見ていた。
「どんな本があるの?」
「古い小説が多いです。あと、たまに、誰かの手書きノートみたいなものも紛れ込んでます」
「それ、律が読んでそうな話」
図星を突かれた気がして、僕は少し言葉に詰まった。実のところ、そういう誰かの手書きの文章を眺めるのが、僕は結構好きだった。
「今度、詳しく教えてよ」
「今度、話します」
その「今度」が、社交辞令ではなく本当に訪れる約束のように聞こえて、僕は柄にもなく少しだけ嬉しくなった。
窓の外を、夕方の光が静かに通り過ぎていった。
蓮さんの騒がしさも、彩乃さんの穏やかさも、芽衣さんのからかいも、この店の空気にちゃんと馴染んでいた。
自分の好きな場所に、みんなが自然に馴染んでいる。
それだけのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
