その日は満員に近い試合日で、朝からドーム全体がいつもより騒がしかった。
僕は通路の案内役に回されていて、迷う人に席を教えたり、落とし物を預かったりと、細切れの仕事を延々とこなしていた。
事件が起きたのは、七回の攻撃中だった。
「――すみません、ちょっと、これ」
芽衣さんの売り子エリアの近くで、大きな声がした。行ってみると、階段の途中で、男性客が持っていた飲み物を派手にこぼしたところだった。段差に足を取られたらしく、床は濡れ、周りの客の靴にも少しかかっていた。
「申し訳ございません、今すぐ片付けます」
芽衣さんが頭を下げながら対応していたけれど、客の男性は納得していない様子だった。「段差が分かりにくいんだよ」と、声が少しずつ大きくなっていく。
僕はとっさに、持っていたタオルを広げて足元に敷いた。
「お怪我はないですか」
「え、あ……ないけど」
「よかったです。段差の件は、こちらでも確認して、目立つように印を付けておきます」
僕はそう言いながら、床にあった小さな案内板をずらして、こぼれた場所がよく見えるように角度を変えた。ついでに、持っていたメモ帳の切れ端に「段差注意」と書いて、板の上に挟んでおいた。
その場しのぎだということは分かっていたけれど、客の男性は毒気を抜かれたように黙り、「まあ、いいや」と言って階段を上っていった。
「――律、今の」
芽衣さんが、こぼれた床を拭きながら、僕を見上げていた。
「なんですか」
「対応、うまかったね」
「そうですか? 適当にやっただけです」
「適当には見えなかったけど」
僕は特に自覚がなかったので、「そうですか」としか言えなかった。芽衣さんはそれ以上追及せず、拭き終えた床を確認して、また自分の持ち場へ戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、僕はふと気づいた。
いつもは僕をからかってばかりの芽衣さんが、さっきは一瞬だけ、真剣な顔で僕を見ていたということに。
からかわれるのには慣れているつもりだった。
けれど、真剣な顔を向けられるのには、まだ慣れていなかった。
