ドームの中では、僕らの恋も売り切れません。


「――ちょっと、これ届けてほしいんだけど」
 先輩に頼まれて、僕はバックヤードの事務所に向かっていた道具箱を受け取りに走っていた。ちょうどそのタイミングで、芽衣さんが在庫の追加補充を頼みに、同じ事務所に来ていたらしい。
「あれ、律もこっちなんだ」
「はい、備品の受け渡しで」
 事務所の中は、いつも通り慌ただしかった。無線からは次々と指示が飛び交い、スタッフたちが忙しそうに動き回っている。
「――樋口、三塁側の案内板、風で倒れたって連絡入ってる。すぐ直しに行ける?」
「はい、今から向かいます」
「あと、迷子の対応も一件、二塁側の案内所で発生中。手が空いたら合流して」
「分かりました」
 矢継ぎ早に飛んでくる指示を、僕は頭の中で優先順位をつけながらさばいていく。芽衣さんは少し離れた場所で、僕とスタッフのやり取りを、黙って眺めていた。
 案内板を直しに行く途中、僕は追加の在庫リストの確認も頼まれ、さらに売店の一つから機材トラブルの報告も入ってきた。ひとつひとつは大きな仕事ではないけれど、それが途切れなく続いていく。
「――律、いつもこんな感じなの?」
 いつの間にか、芽衣さんが隣について歩いていた。
「試合中は、だいたいこんな感じです」
「思ったより、めちゃくちゃ忙しいじゃん」
「表には出ない仕事が多いので、あまり気づかれないんですけど」
 案内板を直し終え、次に迷子の対応に向かう道すがら、芽衣さんはずっと考え込むような顔をしていた。
 二塁側の案内所では、小さな女の子が半泣きで座っていた。僕はしゃがみ込んで、ゆっくりと話しかける。
「お名前、教えてもらってもいい?」
「――ゆ、ゆづき」
「ゆづきちゃん、お母さんの服の色とか、覚えてる?」
 たどたどしい情報を拾い集めながら、無線で特徴を伝える。しばらくして、血相を変えた母親が駆けつけ、女の子は安心したように泣き出した。
「良かったね」
 母親から何度も頭を下げられながら、僕はいつも通りの対応で、その場を後にした。
「――律、さっきの子ども対応、すごい自然だったね」
「慣れてるだけです」
「慣れって言うけど、それ、簡単に身につくものじゃないと思うけど」
 芽衣さんは、珍しく真面目な口調でそう言った。
「うちの仕事は、お客さんの目の前でやる仕事だから、頑張ってるのが分かりやすいけど。律の仕事って、頑張ってるところ、あんまり見えないんだね」
「そういうものだと思ってました」
「もったいないよ、それ」
 その一言が、なぜか僕の中に、じんわりと残った。
 見えない場所で誰かが走り回っていることに、気づいてくれる人がいる。それだけのことが、思っていたよりずっと、心強いことなのだと知った日だった。