「あ、今日もいる」
通路を歩いていた芽衣さんが、三塁側の決まった席を指さして言った。そこには、白髪の混じった帽子をかぶった、おじいさんが一人、静かに座っていた。
「知り合いですか」
「知り合いっていうか、常連さん。うちが売り子始めたときから、ずっとあの席にいる」
芽衣さんの話によると、そのおじいさんは、平日のナイターも休日のデーゲームも、ほとんど欠かさずあの席に来ているのだという。
「毎回、同じ飲み物頼むんだよ。ホットのお茶」
「試合中でも、ホットなんですか」
「うん。暑い日でも、絶対ホット」
理由を聞いたことはないと言いながらも、芽衣さんは慣れた様子で、そのおじいさんの席へ向かっていった。僕もついでに、近くの通路の見回りを兼ねて後を追った。
「こんにちは、いつものでいいですか」
「ああ、頼むよ。今日もありがとうね」
おじいさんは穏やかな声でそう言うと、芽衣さんが差し出したホットのお茶を、両手で受け取った。
「――お連れさん?」
僕のほうを見て、おじいさんが聞いた。
「同僚です。スタッフの樋口です」
「そうかい。芽衣ちゃんは、いつも元気にやってるかい」
「元気すぎるくらいです」
「ちょっと、それどういう意味」
芽衣さんが横から抗議したけれど、おじいさんは楽しそうに笑うだけだった。
「わしはね、もう何年もここに通ってるんだけど、正直、試合の中身なんて半分も覚えとらんのだよ」
「そうなんですか」
「勝った負けたより、ここに来て、いつもの席に座って、いつもの一杯を飲む。それだけで、もう十分なんだ」
言葉自体は何気ないものだったけれど、僕の中に静かに残るものがあった。
「特別なことがなくても、いいんですか」
「特別なことなんて、そう毎回あるもんじゃないよ。それでも通ってしまうのが、好きってことなんだろうね」
おじいさんはそう言って、湯気の立つお茶を一口飲んだ。
芽衣さんと二人で持ち場に戻る途中、僕は何となく、その言葉を頭の中で繰り返していた。
「――律、なんか考え込んでる?」
「少しだけ」
「なに考えてたの」
「特別なことがなくても、通いたくなる場所があるっていいなと思って」
芽衣さんは一瞬きょとんとしたあと、「律って、たまに変なとこで感動するよね」と笑った。
けれど、その笑い方は、いつものからかい方とは、少しだけ違って聞こえた。
通路を歩いていた芽衣さんが、三塁側の決まった席を指さして言った。そこには、白髪の混じった帽子をかぶった、おじいさんが一人、静かに座っていた。
「知り合いですか」
「知り合いっていうか、常連さん。うちが売り子始めたときから、ずっとあの席にいる」
芽衣さんの話によると、そのおじいさんは、平日のナイターも休日のデーゲームも、ほとんど欠かさずあの席に来ているのだという。
「毎回、同じ飲み物頼むんだよ。ホットのお茶」
「試合中でも、ホットなんですか」
「うん。暑い日でも、絶対ホット」
理由を聞いたことはないと言いながらも、芽衣さんは慣れた様子で、そのおじいさんの席へ向かっていった。僕もついでに、近くの通路の見回りを兼ねて後を追った。
「こんにちは、いつものでいいですか」
「ああ、頼むよ。今日もありがとうね」
おじいさんは穏やかな声でそう言うと、芽衣さんが差し出したホットのお茶を、両手で受け取った。
「――お連れさん?」
僕のほうを見て、おじいさんが聞いた。
「同僚です。スタッフの樋口です」
「そうかい。芽衣ちゃんは、いつも元気にやってるかい」
「元気すぎるくらいです」
「ちょっと、それどういう意味」
芽衣さんが横から抗議したけれど、おじいさんは楽しそうに笑うだけだった。
「わしはね、もう何年もここに通ってるんだけど、正直、試合の中身なんて半分も覚えとらんのだよ」
「そうなんですか」
「勝った負けたより、ここに来て、いつもの席に座って、いつもの一杯を飲む。それだけで、もう十分なんだ」
言葉自体は何気ないものだったけれど、僕の中に静かに残るものがあった。
「特別なことがなくても、いいんですか」
「特別なことなんて、そう毎回あるもんじゃないよ。それでも通ってしまうのが、好きってことなんだろうね」
おじいさんはそう言って、湯気の立つお茶を一口飲んだ。
芽衣さんと二人で持ち場に戻る途中、僕は何となく、その言葉を頭の中で繰り返していた。
「――律、なんか考え込んでる?」
「少しだけ」
「なに考えてたの」
「特別なことがなくても、通いたくなる場所があるっていいなと思って」
芽衣さんは一瞬きょとんとしたあと、「律って、たまに変なとこで感動するよね」と笑った。
けれど、その笑い方は、いつものからかい方とは、少しだけ違って聞こえた。
