ドームの中では、僕らの恋も売り切れません。

 事件は、休憩室の冷蔵庫から始まった。
「――なあ、これ、誰のプリン?」
 蓮さんが、名前も書かれていない小さなプリンを一つ手に持って、休憩室にいた僕たちに聞いてきた。誰も名乗り出なかった。
「持ち主不明ってことは、早い者勝ちだよな」
 そう言いながら、蓮さんはスプーンを取り出し、実に楽しそうにプリンを食べ始めた。ほんの数分後、休憩室に戻ってきた彩乃さんが、それを見て静かに固まった。
「……蓮さん、それ」
「ん? どうした」
「私のです」
 蓮さんの手が、スプーンごと止まった。
「……あの、名前書いてなかったから」
「書き忘れてただけです」
 彩乃さんの声は、いつも通り穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に、蓮さんをじわじわと追い詰めているように見えた。
「べ、弁償する。今度なんか奢るから」
「大丈夫ですよ。次から名前ちゃんと書きます」
 彩乃さんはあっさりそう言って、それ以上蓮さんを責めることはなかった。けれど、その日の午後、僕は妙な現場を目撃することになる。
 蓮さんの作業用エプロンのポケットに、いつの間にか小さな付箋が貼られていたのだ。
「これ、たちばな」
 シンプルな一言だけが書かれた付箋を見て、蓮さんが「なんだこれ」と首をかしげていた。近くにいた芽衣さんが、それを見て小さく吹き出した。
「彩乃、根に持つタイプなんだ」
「持ってません。これはただの、忘れ物防止です」
 彩乃さんは涼しい顔でそう言ったけれど、蓮さんのエプロンには、その日一日、ずっとその付箋が貼られたままだった。
「――なあ律、これ、どう思う?」
「彩乃さんなりの、穏やかな仕返しだと思います」
「怖くない? この静かな感じ」
「怖いというより、丁寧、だと思います」
 僕がそう言うと、芽衣さんが「律、変な擁護の仕方する」と笑った。
 夕方、片付けを終えたところで、彩乃さんが小さな袋を蓮さんに差し出した。
「これ、お詫びの分です。プリン」
「え、いいの? もう気にしてないって」
「気にしてます。でも、蓮さんが美味しそうに食べてたので、ついでにもうひとつ買ってきました」
 その言い方に、怒っているのか許しているのか、どちらとも取れる絶妙さがあった。蓮さんは戸惑いながらも、素直にお礼を言って受け取っていた。
 一部始終を見ていた芽衣さんが、僕にだけ聞こえる声でつぶやいた。
「彩乃って、ほんと敵に回したくないタイプだよね」
「同感です」
 短いやり取りだったけれど、僕たちはその日、彩乃さんという人の、新しい一面をひとつ知ることになった。