ドームの中では、僕らの恋も売り切れません。

 僕の名前は樋口律。今日から、みずほPayPayドームでスタッフとして働くことになった。
 面接のとき、担当の人に「志望動機は?」と聞かれて、僕は正直に「ドームって、外から見るより中から見たほうが面白そうだったので」と答えた。相手は苦笑いしていたけれど、採用にはなったから、まあいいのだと思う。
 初日の朝、バックヤードに集合した僕たちに、スタッフ用の制服と、簡単な仕事の説明が渡された。頭の中で手順を並べ直しているうちに、周りはもう談笑を始めていて、僕だけが少し遅れて輪に入るような形になった。こういうのは、昔からよくある。
「――あ、寝癖」
 不意に声をかけられて振り向くと、売り子の制服を着た女の人が、僕の頭を指差して笑っていた。肩までの黒髪をふたつに分けて垂らした、のんびりした顔立ちの人だった。
「治さないんですか、それ」
「気づかなかったので」
「気づいてなかったんかい」
 彼女は笑いながら、それでも特に手伝おうとはせず、ただ面白そうに僕を見ていた。あとで知ったけれど、これが安藤芽衣さんだった。売り子として、僕よりずっと長くこのドームで働いている人らしい。
「樋口です。今日からよろしくお願いします」
「うん、よろしく。芽衣でいいよ」
「じゃあ、芽衣さん」
「さん、いる?」
「いります。僕、慣れない呼び方をすると変な間ができるので」
 芽衣さんは一瞬きょとんとしてから、「変なひと」と言って笑った。悪口には聞こえなかったので、たぶん褒め言葉なのだと思うことにした。
 初日の仕事は、思っていたよりずっと忙しかった。飲み物の補充、通路の案内、迷子になった子どもの対応――試合が始まる前から、ドームはもう戦場のようだった。
 休憩時間、自販機の前で偶然また芽衣さんと会った。
「どう、初日の感想は」
「思ったより、覚えることが多いです」
「うちも最初そうだったよ。慣れたら平気」
「芽衣さんは、いつから?」
「もう三年目かな」
 三年という数字に、僕は少しだけこの人を見直した。のんびりして見えるのに、ちゃんと積み重ねてきた人なのだと分かったからだ。
「――で、寝癖は?」
「まだ直してません」
「一日中それ?」
「たぶん」
 芽衣さんはおかしそうに笑って、それ以上は何も言わなかった。ただ、僕の頭のあたりをちらちら見ては、思い出したように笑っていた。
 その日の帰り道、僕はなぜか、寝癖のことよりも、彼女の笑い方のほうが記憶に残っていた。
 まだ、ただの同僚。それ以上でもそれ以下でもない。
 けれど、ドームでの毎日は、今日から確かに始まったのだった。