『本日都合によりお休みさせていただきます』
無情な一文を前に、手に握ったスマホがつるりと滑り落ちそうになる。慌てて指先に力を込め、すんでのところで踏みとどまった。
平日の朝七時。朱莉の背後では、通勤、通学中の人々が忙しなく行き交っている。
そのうちのひとりの肩がとんっと軽く背中にぶつかって、蹈鞴を踏むと同時に我に返った。
スマホの画面には目の前の店のSNS。何度更新しても、定休のお知らせは上がっていない。どうやら突発的な休みのようだった。なんでよりによって今日。
――仕方ない。
小さくため息を吐き、朱莉は検索画面を開き直す。切り替わるまでの間、画面に残った白米と大盛りの明太子が目に入ってしまって、ぐうとお腹が鳴った。
とんとんとスマホの画面を叩いて空腹を紛らわせる。せっかく福岡に来たのだから、ここでしか食べられないものを食べたい。そう思ったところで不意に思い浮かんだ単語を検索すると、すぐに想像したメニューの写真が表示された。そのままお店の住所を地図アプリにコピペする。ただでは転べない。せっかくなら足を伸ばしてみるべきだ。
「よし」
ひとり気合いを入れ直して、朱莉は踵を返す。
人の流れに乗って、地上を目指した。
福岡はバス社会。
出張が決まり、そういえば福岡出身だと言っていたなと思い出した大学時代の友人に連絡を取れば、教えてくれたのがまずそのひと言だった。
どれだけ遠く離れた土地であっても、センサーに引っかかったお店を片っ端から保存しまくる朱莉の性質をよく理解している彼女ならではの助言だった。
「とにかくどこに行くにもバスなのよ。博多駅も何ヶ所かバス停があるから、乗り場間違えんようにね」
朱莉はただでさえ早とちりしやすいんだから、といただいた有難い忠告を思い浮かべる。
昨日の会食は、会社持ちのタクシー移動だったからバスには乗らなかった。思い返すだけでじんわりと空腹が刺激される。ツヤツヤに輝く魚の煮付けに、博多和牛。鍋はもちろん水炊きだ。仕事の場だから、うっとりするほど美しい料理を写真に残せなかったのは致し方ないにせよ、結局どの料理もほとんど食べられなかった。テーブルの上に所狭しと並べられた料理は思い返せるのに、その味を全く思い出せないという事実にいらだち、本当にただ萎えただけの飲み会だったな……と昨晩の記憶が蘇って、朱莉は慌てて頭を振った。
昨晩の不完全燃焼さを埋めるために、わざわざ早起きしたのだ。今日は午後の飛行機で帰京するだけだから午前は自由行動で良い、と言われたのにも関わらず。
せっかくなら昨日のことは忘れてしまいたい。食べ損ねた料理も、不条理に受けた叱責も。
だめだめ、と憂鬱さに支配されそうになった自分を奮い立たせ、乗換案内が教えてくれたバス停へと足を向ける。
「バス停、番号振ってあるから。ちゃんと見て」
友人の有難いアドバイスを胸に、目的地の停留所と、バス停に掲示された行き先を何度も確認してから朱莉はバスを待つ人々の列の最後尾に加わった。
知らない土地で乗るバスは緊張する。お金は先払いなのか後払いなのか。そもそも前から乗るのか後ろから乗るのか。なんとか前に並ぶ人に倣って無事に乗り込んだとしても、こちらが意思表示しなくても止まってくれる電車とは違って、降りる瞬間まで気が抜けない。
見慣れない地名を聞き逃さないように耳を澄ませ、降車ボタンを押した停留所で降りたのは朱莉ひとりだった。
とりあえず一つミッションをこなしたかのように安堵の息を吐き、交通量の少なくない大通り沿いの歩道を、スマホで表示した地図を見ながら進む。銀行、コンビニ、飲食店が立ち並ぶ通りは、まだ開店前の店が多いせいか、車の交通量に対して人間は少なかった。
二つ横断歩道を渡ったところで、小さな木製の看板が見えた。入り口上から吊られた薄いそれには、シンプルな長方形が描かれていて、ここだ、と直感する。
近寄ると、はっきりと店名が見えた。その看板を素早くスマホで写真に収め、足元の営業中という別の看板に心から安堵した。
自然と口角が上がる。レトロな木製の引き戸を開けると、目に飛び込んできた光景に「うわあ」と思わず声が出た。
小さなカウンターに所狭しと並ぶのは、大豆商品だ。豆腐、厚揚げ、がんもといったオーソドックスな食材から、豆腐コロッケや豆腐しゅうまいなんかもある。
からりとした油の香りが漂ってくる。気づけば唾を飲み込んでいた。
「お食事ですか?」
カウンターの奥にいた女性店員が、朱莉を認めて尋ねてくる。
「あ、はい」
小さく頷けば、「では二階へどうぞ」と言われる。彼女の視線を追うと、カウンターの脇に人が通りすぎることができないほどの狭くて急な階段があった。
手すりをつかみ、慎重に登っていく。
二階はほぼ五角形のような不思議な形をしていた。そのうち三面は窓になっていて、その前にテーブルと椅子が置かれている。すべてカウンター席で、中央には小さなテーブルが置いてあり、そこにはセルフサービスの水とお茶、それに漬物が三種類、こんもりと盛られていた。どうやら何度おかわりしても良いらしい。
ひとり、女性の先客がいたので、その対角線上の席に座った。テーブルにはメニューが置かれている。朝食は定食が二種類。どちらも豆汁という豆乳を使った味噌汁がメインだった。違いはその豆汁の大きさだ。大きな豆汁におかずが一種類選べる定食か、小さな豆汁におかずが三種類選べる定食。朱莉は初めてこの店を知ったときから、どちらにすべきか悩んでいた。とはいえいつ行く機会があるかもわからないから、決定はいつかお店に行けたらにしよう、と先送りにしてきた。その瞬間がとうとうやってきたのだ。
どうしよう、決められない……。悶々とメニューを眺めていると、先ほどカウンターの中にいた店員さんが上がってきた。60歳くらいだろうか。白い割烹着のようなエプロンに三角巾をしている。素早く真ん中のテーブルに水を補充すると、水滴やこぼれた漬物の汁を布巾で拭き取りながら、なんとなくこちらに注意を払っているのがわかる。
えーいままよ、と店員さんを呼んだ。選んだのは、おかずが三つの方。いろんな種類を食べたいという誘惑が勝った。グラスにお水を注ぎ、ひと口飲む。少しだけ違和感を覚えた。舌が予感していた抵抗感がない、とでもいうのだろうか。と同時に昨日もお冷を飲んだはずなのに、何も感じなかったなと思う。昨日はやはり気が張っていたのかもしれない。
漬物はしば漬け、沢庵、大根漬けの三種類だった。豆皿に少しずつよそって摘むと、適度にしょっぱくて美味しい。水をひと口飲んで、次は沢庵……なんて食べていたら止まらなくなってしまいそうで、なんとか堪えた。ああでも口寂しい……と誘惑と戦っているうちに先ほどの女性店員がお盆を持って現れた。
目の前に置かれて、ほおっと思わず声が洩れた。
奥に冷奴、豆腐しゅうまい、厚揚げが並び、手前にはご飯と豆汁。真ん中に小さなグラスで豆乳が置かれている。全体的に白い。当たり前だが。
「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく店員さんに慌ててお辞儀を返し、スマホを構える。朝の日差しを受けて、ひとつひとつのおかずがキラキラと輝いている。
素早く撮影を終え、改めてお箸を取った。なにはなくともまずは豆汁だ。
お椀を手に取ってひと口飲む。お味噌汁よりマイルドだけど、だしの効いた味がする。
「おいし……」
自然と口から溢れる。もうひと口、さらにひと口、と味わう。具材は豆腐とにんじん、大根にごぼうが入っている。豚汁のような味わいだ。味噌汁よりマイルドだけど、ちょうど良い塩気。
ああ、これなら大きな豆汁にしても良かったかもしれない。そう思いながらも、今度は厚揚げに手を伸ばす。箸で切り分けると、さくっと音が聞こえそうなほどの揚げたてだ。口に入れれば、カリッとした歯応え。中身は熱々でいて、柔らかい。咄嗟に左手でほおを押さえた。大豆の味がして、何もかけなくても美味しい。でも醤油をかけたら味変できるのかも……と卓上の調味料に手を伸ばす。柚子胡椒や七味も置かれていて、どれをかけるか迷ってしまう。幸せすぎる。冷奴には茗荷とすりおろした生姜が乗っている。こちらもひと口食べればキリッと冷えていて、厚揚げとのギャップが際立つ。それでいて、大豆のほのかな甘味を感じるところは同じだ。
シンプルに塩を振っても美味しいかもしれない。
冷奴を小さく切り分けて、そのうちのひとつにぱらりと塩を落とした。あまじょっぱくて良い。
そのままの勢いで、しゅうまいにも手を伸ばす。皮がきつね色に染まっている。揚げしゅうまいだ。こちらもカリッと歯ごたえがあり、それでいて中の餡は柔らかい。豆腐が混ぜ込まれているのだろう。適度に温かく、我慢できずに二口で食べ切ってしまった。
ご飯をひと口。ご飯のお供がなくとも、餡の下味で白米も進む。
再び息をついて、豆汁へ。至福だ。
卓上の調味料と厚揚げのマリアージュを一通り楽しんだ。それにしても美味しい。さすが専門店だ。お土産に持って帰りたい。保冷バッグに入れれば持って帰れるだろうか。ぎりぎりまでホテルの冷蔵庫に入れておくとして――。
帰りに絶対一階の売り場をくまなく覗く。そう決意しながら朱莉は箸を動かした。こんもり盛られた白米も、お漬物をおかわりすればどんどん減っていく。お腹がすいた状態でこのお店に来られて良かった。そのために昨日の会食ではまともに食べなかったのかもしれない。そう思ってしまう。
ああ、食べ終わってしまった。空になった豆汁のお椀を見て、内心ため息をつく。これなら大きな豆汁におかず三種類でも絶対完食できるのに。多少割高でもそのセットも作ってくれないだろうか。そう考えながら、改めて窓の外に視線を送った。
相変わらず人通りは少なかったけれど、時折スーツ姿のサラリーマンが店の外を通りすぎていく。いいなあ。通勤途中にこのお店があったら朝も夜も寄ってしまいそうだ。最後に残しておいたお猪口みたいに小さなグラスの豆乳を一気に飲み干して、朱莉は立ち上がった。
急な階段を、手すりを掴みながらゆっくりと降りていく。気をつけないと、あのずらりと並んだ厚揚げが恋しくて階段を駆け下りたい気分だった。
「ごちそうさまでした」
一階に降りて、例の女性店員さんの後ろ姿に声をかける。
店員さんはスーツ姿の男性と談笑しているところだった。常連さんだろうか。
邪魔したら悪いなと思った瞬間、二人が同時に振り返る。
「え」
思わず固まった。
向かいの顔も、ぴくりと引き攣ったのがわかった。
一瞬の後、すっと目が細められる。
「課長……」
呆然と呟くと、見知った仏頂面が一歩踏み出す。
「……おはよう」
それだけ言うと、そのまま朱莉の横を通り過ぎて、階段へと足をかけた。
「ちょっと東くん、今日はどっちにするの」
女性店員さんが、軽い口調で声をかけた。その名前で、ああやっぱりこの人は自分の上司で間違いないんだ、と馬鹿みたいに実感する。
「大きい方。でも厚揚げはつけて」
「はいはい、了解」
店員さんも気安い口調で応じている。朱莉が立ち尽くしていると、課長はその長い足で手すりを掴むこともなくさっさと二階へ上がってしまった。
「ごめんなさいね、お会計?」
店員に話しかけられて、我に返る。
「あ、すみません。ちょっとお惣菜とか見てからでもいいですか?」
「もちろん、ごゆっくり」
先ほどよりさらに種類が増えているような気がする。朱莉が意識を集中しようとすると、「東くんのお知り合い?」と尋ねられた。
「あ、はい……。会社の上司です」
そう言うと、店員さんはまあ、と目を丸くした。
「そうなの。東くんにも部下がいるのね……」
少し遠い目をしてから、「確かに、当たり前よね。もう三十代なんだし」と続ける。正直、課長の年齢なんて気にしたこともなかったから、朱莉は、はあ……と気のない相槌を打つことしかできない。
「東くん、来てるって?」
話が広がるわけでもなく、なんともいえない空気に居心地を悪くしていると、店の奥から、白いエプロンに作業帽、という男性が姿を現した。話していた店員さんと同じくらいの年頃のおじさんだ。
あ、お父さん、と女性店員が呼ぶ。
「そうなの、出張なんだって。あ、こちらの方、東くんの部下の方」
突然紹介されて、わけもわからないまま頭を下げる。
すると男性は、はっきりわかるほど目尻を下げた。
「そうか。東くんにも部下ができたんだな」
「そうなのよ。私もびっくりしたけど、考えてみれば当たり前よね」
うんうん、と頷き合う二人はどこか雰囲気が似ている。お父さん、と呼んでいたし夫婦で店を営んでいるのかもしれない。
それにしても、課長には朱莉より社歴の長い部下だって何人もいるのに、この二人にとっては、そんなこと今まで思いつきもしないほど意外だったらしい。
「東くんの下でだったら、楽しく働けるでしょう?」
そう言われて、朱莉は明確に自分の顔が引き攣るのを感じた。どうやらこの店と東課長はずいぶん親しい間柄のようだから、社交辞令でもいいから「はい」と言っておけばよいのに、どうしても笑みがうまく作れない。
「あ……どう、ですかね……」
そう答えると、二人はぱちぱちと目を瞬かせた。
当たり前だ、肯定でもなく否定でもない疑問系。そんなの、言葉を濁したいときの常套手段に決まっている。
夫婦――と朱莉はもう勝手に判断した――は、ふと視線を合わせると、二人揃って苦笑いを浮かべて朱莉を目線を戻した。
「でも東くん、結構頑ななところがあるから」
「確かに、振り回されて大変かもなあ……」
気を遣っているのか、そう言い出したふたりに、朱莉は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんな。全然そんなことはないです!」
頑な、なんて思ったことはなかった。というか、それ以前の問題だった。怖いのだ、単純に。
職場で笑顔を見たことはないし、指示は的確だけど必要最低限。何かを報告しても「わかった」で終わる。若くして課長になっているから優秀なひとだということはわかる。そんな課長に憧れている社員がたくさんいることも知っている。でも朱莉は仏頂面で仕事のできる上司より、温和でおしゃべり好きな上司の方がずっと良かった。それなのに、今回、よりによって課長と出張になるなんて――。
そこまで考えて、朱莉ははっと顔を上げた。
店のふたりがきょとんとした顔で朱莉を見ている。
「すみません、課長にはいつもよくしていただいています」
社会人らしく大人な対応をせねば。ようやくそう思い至り、朱莉は小さく笑みを浮かべてみせた。こんなに美味しい豆汁を食べたのだ、この夫婦に「課長のことは大嫌いです」なんて主張したって、悲しませるだけでなんの意味もない。
しかし店先のふたりは再び顔を見合わせて、同時に朱莉を見た。
「もしかして、お酒のことでなにかあった?」
遠慮がちに、けれどはっきりとそう尋ねられて、朱莉は思わず息を止めた。
「え、っと」
言い当てられて、咄嗟に言葉が浮かばない。驚きの次に、じわじわとなぜ?という疑問が浮かんでくる。そんな朱莉の態度で見当がついたのか、夫婦はだんだんと複雑な顔つきになっていく。
「やっぱり」
「東くんが飲み過ぎたってことは……ないわよね」
多分、という女性に、仰々しく隣の男性が頷いている。
いったいどういう意味だろう、と首を傾げたとき、
「ねえ、俺の定食まだ?」
階段の上から東竜樹課長その人が顔を覗かせた。
職場では聞いたこともないような少し甘えた声音に、朱莉はお化けでも見たかのような気分を味わった。ぞわぞわっと全身に鳥肌が立った気さえする。
しかし次の瞬間、朱莉がまだその場にいることに気づいた東の顔もまた、ぴしりと固まった。
「悪い悪い。ちょっと待って、すぐ用意するから」
男性店員がひらひらと手を振る。
「すぐ用意って……もう十分待ったんだけどなんかあった?」
かすかに眉を顰めて問う東に、女性店員が「お父さん、もうできてるんじゃないの?」と厨房に追いやるように背中を押す。
「出来てる出来てる。厚揚げ揚げれば終わりだよ」
「それってまだ出来てないじゃん……」
呆れ声でつぶやいた東は、つつつーっと朱莉に視線をやると、そのままぱっと身を翻して二階へ戻ってしまった。
「……今の、誰……」
呆然と呟く朱莉の声は、厨房に戻っていく男性の耳には届かなかったらしい。手前にいた女性店員さんが、けらけらと笑い出す。
「東くん、いっつもあんな感じよ。待つのが苦手で、早く早くって急かしてばっかり」
「へ、へえ……」
確かに即断即決、仕事で迷うところは予想もつかない課長だけれど、あんなふうに膨れたりねだったりするところは見たことがなかった。まるで、子どもが親に駄々をこねるような――。
「東くんね。昔、店の前で酔っ払って倒れてたことがあったの」
「え!?」
秘密を話すようにこっそり声を潜めた女性に対して、やたらと大きな声で聞き返してしまい、朱莉は慌てて自分の口を押さえた。
「まだ働き始めたばかりの頃でね、飲み会でいいところ見せようと思って飲みすぎちゃったんだって。なんとかお客さんと上司を見送ったところで限界が来たんだろうね。そのままばたーんって」
「え、それで……?」
「この店のドア、ボロいでしょう?だから深夜にすごい音がして、お父さんと慌てて様子を見に出たの。そしたら酔っ払った若い子が倒れてたから、なんとか家に運んで、寝かせてあげたの」
まさか。課長がそんな失態を犯したことがあったなんて。想像もできなくて、朱莉は思わず階段の上を見上げた。当然、そこにはとっくに姿がなくて、朱莉の脳裏に浮かぶのは、いつもの顰めっ面だ。
「朝起きて、何度も何度も謝るわけ。別に気にすることないっていっても謝って。で、店を飛び出したかと思うと、数時間後に菓子折り持ってまた謝りにきたのよ」
バタバタと飛び出して、それでもきちんとお礼をしなきゃ、と思う律儀さは朱莉の知っている課長と少しだけ重なった。
「二日酔いで辛いのに、そんなに慌てて来てくれることないのにねえ」
ふふふっと笑う女性は言葉とは裏腹にとても嬉しそうだ。
「それで、豆腐だったらつるっと食べられるだろうからって豆汁出してあげたの。そしたら美味しい美味しいって、二日酔いなのにご飯食べるって白米も大盛り食べて、試しに厚揚げ出したらそれもぺろり。若いって凄いわよねえ。でも本当に気に入ってくれたのか、こっちに来るたびに顔出してくれるようになったの」
「へ、へえ……」
とても想像のつかないエピソードに、朱莉はなんとか声を絞り出した。
「申し訳ないって思ってくれたんでしょうね。失敗すると、すごく気にしちゃう子なのよ」
気にすることないのにね、と笑う声に、朱莉は昨日のことを思い出した。
朱莉は地方の生産者を担当するのが初めてだったから、とても気合いを入れて臨んだ出張だった。……たとえ、苦手な上司と一緒でも、昼間の地元の生産者との会合はきっちりこなしたし、反応も上々だった。その後、交流会という名の飲み会があったから、そこでも精一杯頑張ろう、と思ったのだ。
にこやかにお酌をして回り、いろんな生産者の話を聞いた。美味しそうな料理に手をつける間もなく席を飛び回っている中で、地元の生産者が「とっておきだよ」と言って店の奥から出してきてくれた日本酒を、すすめられるままに飲み干した。頭の中がぐるりと反転するような感覚に陥ったけれど、その飲みっぷりに感嘆の声があがり、つい「もっと飲みたいです!」と言った。
とくとくとお猪口に日本酒が注がれる。それを口に運ぼうとしたとき、「おい」と強い声をかけられた。
溢れないようにお猪口を捧げ持つ朱莉の前に、目を吊り上げた東がやってきていた。
「仕事で来ているのだとわかっているのか」
冷たい声に、その場の空気がずんと重くなる。
「……あ、当たり前じゃないですか」
まわりの生産者が、一気に引いていくのを感じて、朱莉は焦った。
課長こそ、場の空気を読まなすぎではないか。
そう反論したかったのに、まわりの目を気にして言葉が見つからない。
「自分の限界を判断できない奴は、仕事もできない」
ぴしゃりとそう言われて、さすがに自分の顔が強張ったのがわかった。呆然とする朱莉のまわりで生産者が、「まあまあ」とか「東くん相変わらずだね〜」なんて取りなすような声をかけている。
朱莉はそっとテーブルの上にお猪口を置いた。
視界が滲みそうになって、ぎゅっと唇を噛み締める。なんとか涙を引っ込ませると、朱莉の向かいで東がその日本酒を飲んでいた。
生産者たちは、気分を害した様子もなく「つまみだったらこれがおすすめだよ」とか「東節を久しぶりに聴いたな〜」なんて声をかけていて、東もまたそれににこやかに答えていた。
――私には、あんなに厳しく言ったのに。ていうか、あそこまできつくいう必要ある?
一度そう思ってしまったら、だめだった。もちろん飲み会はお茶を飲みながらこなしたけれど、せっかくの食べ物も喉を通らない。ただただ、なんでそこまで……という疑問でいっぱいだった。
忘れようと蓋をしていた記憶が一気に蘇って、朱莉は思わず頭を押さえた。
昨日の東の言葉は、朝起きてようやく消えたと思ったのに、また朱莉の頭のなかでぐるぐると回り始める。でも、昨日とは違って、なにか引っ掛かる。
失敗。気にしちゃう――。
「お母さん、お待たせ」
厨房から定食のトレイを持った先ほどの男性――お父さんが現れる。
「はいはい、もらいます」
女性店員はそれを受け取って、ひょいひょいと階段を登っていった。
「東くん、お待たせ〜」
二階から声が響く。東もなにか言葉を返したようだったけれど、声が低いからか朱莉の元までははっきり聞こえなかった。
かわりに、また昨日の叱責が思い浮かぶ。
「自分の限界を、判断――」
思い返しすぎて覚えてしまった東の言葉を口にして、朱莉ははたと思い至った。
あれはもしかしたら、飲みすぎてしまうのを止めてくれたのだろうか。
いやまさか。それならもっと優しく言ってくれればいいのだ。でも、東は昔飲みすぎて痛い目を見ている。もしかしたら、ただ言い方がきついだけで――。
またぐるぐると考え始めたとき、「ごめんなさいね、お会計待たせっぱなしで、余計な話しちゃって」階段から降りてきた女性が、慌ててレジへと向かおうとする。
「あ、あの、いくつかお土産に買っていきたいんですが」
当初の目的を思い出してそう言うと、「ありがとう。保冷剤入れておくけど、東京まで持って帰るなら、お豆腐じゃなくてこの辺がいいかも」と厚揚げや惣菜を示される。
「確かに……そうですよね……」
「東くんは厚揚げのいろんな味を持って帰るわよ。あと忙しいときはしゅうまいを飛行機の中で摘むみたい」
そこまで真似をするのはどうだろう……と思うものの、せっかくなら美味しいものは持って帰りたい。
「えっと、じゃあ……」
勧められるままに、プレーンの厚揚げと柚の厚揚げ、それにしゅうまいを包んでもらう。
「保冷剤、多めにつけておいたから」
「ありがとうございます」
お礼を言って商品を受け取った時だった。グッと顔を近づけられる。
「実は東くんの話、もう一つあってね」
「えっ」
「この店、かなり古いでしょう?」
そう言って店内を見回す店員さんにつられて、朱莉も後を追う。確かに天井には雨漏りのあとなのかシミが残っているし、壁紙もところどころ剥がれている。それでも棚や窓は綺麗に拭かれていて、古いながらも手がかけられていることが伝わってきた。
「このパイプなんだけどね」
そう言って厨房との境にある銀の太いパイプを示す。
「東くんがきてくれるようになってちょっとした頃、調子が悪くて下から水が漏れてくるようになったのよ。でもその頃特に売り上げが良くなくて、直すのも厳しくてそのままにしておいたのね。そしたら東くんが気づいてくれて」
「へえ」
「すぐに直したほうがいいって言って。でもうちの人がそんな気にすることない大丈夫だって言ったらね」
言葉を切って、肩をすくめてみせる。
「東くん、自分のツテを使って安く見積もってくれる業者を紹介してくれたのよ。ここなら信用もおけて金額も良心的だからって」
「え……」
昨日の東の言葉がまた頭をよぎった。
『自分の限界を判断できないやつは、仕事もできない』
あの時は、ただ責められたと思った。昨晩強く噛み締めた唇は、かすかに皮がむけてふにゃふにゃと柔らかくなっている。
その下唇を舐めながら、先ほど気づかないふりをした可能性がまた胸のうちに浮かんでくる。わからない。東竜樹というひとが。
入社してから、ずっと怖かった。近寄りがたくて、承認印をもらいにいくことすら嫌だった。だから、よく知らない。
そのことに、今初めて気がついた。
「すみません。これ、ちょっと置いておいていいですか」
受け取ったばかりの袋を、もう一度店員に向けて差し出す。
首を傾げながらも受け取ってもらい、朱莉は二階席へと続く階段へ足をかけた。
手すりを掴まないと、とても身軽には登れない。でも掴んでいれば、リズミカルに登ることはできる。
トントントン、と規則正しい足音を立てて、朱莉は階段を登りきった。
二階には見慣れた後ろ姿だけがあった。ちょうど食べ終わったのか、箸を置いた東が振り返る。朱莉を見て、ぴくりと片眉を上げた。
朱莉はぐっと拳を握ると、一歩前に踏み出した。慌てて駆け上ってきたけれど、最初のひと言は何も考えていなかった。
「あの、課長」
声が上擦る。東の瞳がまっすぐに朱莉に向けられる。鋭い視線を受け止めきれずつと目をそらせば、東の手元のトレイが目に飛び込んできた。米粒ひとつ残っていない茶碗に、飲み干した豆汁のお椀。綺麗に完食したお皿に、朱莉は全身の強張りが解けていくのを感じた。
「会社に買っていくお土産空港で課長と一緒に選んでもいいですか?」
ひと息でそう言うと、東がぱちぱちっと二回目を瞬いたのが見えた。
「構わないが……」
ちらりと手首の腕時計に視線を走らせる。
「それなら早くホテルに戻ってチェックアウトしよう」
「え、あ……はい!」
あっさり頷かれたのが意外で、朱莉は一瞬立ち尽くす。
すると空のトレイを持った東が立ち上がり、朱莉の横を通り抜けた。軽々とトレイを抱えたまま階段を降りていく。朱莉は慌てて後を追った。
「お皿、片付けるんですね」
「店としては置きっぱなしで良いらしいが、あまりお母さんを何往復もさせるのもな」
そんなこと考えもしなかった、と足元をみつめる。
「次に来る時は笠原もそうしたらいい」
弾かれたように朱莉は東を顔をみつめた。なんの温度も変わらないいつもの様子で、東は背後を振り返っている。珍しく見下ろす形になった。
次、なんてあるのかわからない。また出張があればいいけれど、プライベートで頻繁に来られるような場所じゃない。けれどもし、若かりし頃の東のように通うことができたら――。
「あ、課長待ってください!」
すっかり階段を降りて、しゅうまいを物色している東を追いかける。
「厚揚げ、揚がったよ」
厨房から声が聞こえてくる。と同時にふわりと香ばしい油の匂いが広がって、朱莉は軽やかに階段を駆け降りた。
無情な一文を前に、手に握ったスマホがつるりと滑り落ちそうになる。慌てて指先に力を込め、すんでのところで踏みとどまった。
平日の朝七時。朱莉の背後では、通勤、通学中の人々が忙しなく行き交っている。
そのうちのひとりの肩がとんっと軽く背中にぶつかって、蹈鞴を踏むと同時に我に返った。
スマホの画面には目の前の店のSNS。何度更新しても、定休のお知らせは上がっていない。どうやら突発的な休みのようだった。なんでよりによって今日。
――仕方ない。
小さくため息を吐き、朱莉は検索画面を開き直す。切り替わるまでの間、画面に残った白米と大盛りの明太子が目に入ってしまって、ぐうとお腹が鳴った。
とんとんとスマホの画面を叩いて空腹を紛らわせる。せっかく福岡に来たのだから、ここでしか食べられないものを食べたい。そう思ったところで不意に思い浮かんだ単語を検索すると、すぐに想像したメニューの写真が表示された。そのままお店の住所を地図アプリにコピペする。ただでは転べない。せっかくなら足を伸ばしてみるべきだ。
「よし」
ひとり気合いを入れ直して、朱莉は踵を返す。
人の流れに乗って、地上を目指した。
福岡はバス社会。
出張が決まり、そういえば福岡出身だと言っていたなと思い出した大学時代の友人に連絡を取れば、教えてくれたのがまずそのひと言だった。
どれだけ遠く離れた土地であっても、センサーに引っかかったお店を片っ端から保存しまくる朱莉の性質をよく理解している彼女ならではの助言だった。
「とにかくどこに行くにもバスなのよ。博多駅も何ヶ所かバス停があるから、乗り場間違えんようにね」
朱莉はただでさえ早とちりしやすいんだから、といただいた有難い忠告を思い浮かべる。
昨日の会食は、会社持ちのタクシー移動だったからバスには乗らなかった。思い返すだけでじんわりと空腹が刺激される。ツヤツヤに輝く魚の煮付けに、博多和牛。鍋はもちろん水炊きだ。仕事の場だから、うっとりするほど美しい料理を写真に残せなかったのは致し方ないにせよ、結局どの料理もほとんど食べられなかった。テーブルの上に所狭しと並べられた料理は思い返せるのに、その味を全く思い出せないという事実にいらだち、本当にただ萎えただけの飲み会だったな……と昨晩の記憶が蘇って、朱莉は慌てて頭を振った。
昨晩の不完全燃焼さを埋めるために、わざわざ早起きしたのだ。今日は午後の飛行機で帰京するだけだから午前は自由行動で良い、と言われたのにも関わらず。
せっかくなら昨日のことは忘れてしまいたい。食べ損ねた料理も、不条理に受けた叱責も。
だめだめ、と憂鬱さに支配されそうになった自分を奮い立たせ、乗換案内が教えてくれたバス停へと足を向ける。
「バス停、番号振ってあるから。ちゃんと見て」
友人の有難いアドバイスを胸に、目的地の停留所と、バス停に掲示された行き先を何度も確認してから朱莉はバスを待つ人々の列の最後尾に加わった。
知らない土地で乗るバスは緊張する。お金は先払いなのか後払いなのか。そもそも前から乗るのか後ろから乗るのか。なんとか前に並ぶ人に倣って無事に乗り込んだとしても、こちらが意思表示しなくても止まってくれる電車とは違って、降りる瞬間まで気が抜けない。
見慣れない地名を聞き逃さないように耳を澄ませ、降車ボタンを押した停留所で降りたのは朱莉ひとりだった。
とりあえず一つミッションをこなしたかのように安堵の息を吐き、交通量の少なくない大通り沿いの歩道を、スマホで表示した地図を見ながら進む。銀行、コンビニ、飲食店が立ち並ぶ通りは、まだ開店前の店が多いせいか、車の交通量に対して人間は少なかった。
二つ横断歩道を渡ったところで、小さな木製の看板が見えた。入り口上から吊られた薄いそれには、シンプルな長方形が描かれていて、ここだ、と直感する。
近寄ると、はっきりと店名が見えた。その看板を素早くスマホで写真に収め、足元の営業中という別の看板に心から安堵した。
自然と口角が上がる。レトロな木製の引き戸を開けると、目に飛び込んできた光景に「うわあ」と思わず声が出た。
小さなカウンターに所狭しと並ぶのは、大豆商品だ。豆腐、厚揚げ、がんもといったオーソドックスな食材から、豆腐コロッケや豆腐しゅうまいなんかもある。
からりとした油の香りが漂ってくる。気づけば唾を飲み込んでいた。
「お食事ですか?」
カウンターの奥にいた女性店員が、朱莉を認めて尋ねてくる。
「あ、はい」
小さく頷けば、「では二階へどうぞ」と言われる。彼女の視線を追うと、カウンターの脇に人が通りすぎることができないほどの狭くて急な階段があった。
手すりをつかみ、慎重に登っていく。
二階はほぼ五角形のような不思議な形をしていた。そのうち三面は窓になっていて、その前にテーブルと椅子が置かれている。すべてカウンター席で、中央には小さなテーブルが置いてあり、そこにはセルフサービスの水とお茶、それに漬物が三種類、こんもりと盛られていた。どうやら何度おかわりしても良いらしい。
ひとり、女性の先客がいたので、その対角線上の席に座った。テーブルにはメニューが置かれている。朝食は定食が二種類。どちらも豆汁という豆乳を使った味噌汁がメインだった。違いはその豆汁の大きさだ。大きな豆汁におかずが一種類選べる定食か、小さな豆汁におかずが三種類選べる定食。朱莉は初めてこの店を知ったときから、どちらにすべきか悩んでいた。とはいえいつ行く機会があるかもわからないから、決定はいつかお店に行けたらにしよう、と先送りにしてきた。その瞬間がとうとうやってきたのだ。
どうしよう、決められない……。悶々とメニューを眺めていると、先ほどカウンターの中にいた店員さんが上がってきた。60歳くらいだろうか。白い割烹着のようなエプロンに三角巾をしている。素早く真ん中のテーブルに水を補充すると、水滴やこぼれた漬物の汁を布巾で拭き取りながら、なんとなくこちらに注意を払っているのがわかる。
えーいままよ、と店員さんを呼んだ。選んだのは、おかずが三つの方。いろんな種類を食べたいという誘惑が勝った。グラスにお水を注ぎ、ひと口飲む。少しだけ違和感を覚えた。舌が予感していた抵抗感がない、とでもいうのだろうか。と同時に昨日もお冷を飲んだはずなのに、何も感じなかったなと思う。昨日はやはり気が張っていたのかもしれない。
漬物はしば漬け、沢庵、大根漬けの三種類だった。豆皿に少しずつよそって摘むと、適度にしょっぱくて美味しい。水をひと口飲んで、次は沢庵……なんて食べていたら止まらなくなってしまいそうで、なんとか堪えた。ああでも口寂しい……と誘惑と戦っているうちに先ほどの女性店員がお盆を持って現れた。
目の前に置かれて、ほおっと思わず声が洩れた。
奥に冷奴、豆腐しゅうまい、厚揚げが並び、手前にはご飯と豆汁。真ん中に小さなグラスで豆乳が置かれている。全体的に白い。当たり前だが。
「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく店員さんに慌ててお辞儀を返し、スマホを構える。朝の日差しを受けて、ひとつひとつのおかずがキラキラと輝いている。
素早く撮影を終え、改めてお箸を取った。なにはなくともまずは豆汁だ。
お椀を手に取ってひと口飲む。お味噌汁よりマイルドだけど、だしの効いた味がする。
「おいし……」
自然と口から溢れる。もうひと口、さらにひと口、と味わう。具材は豆腐とにんじん、大根にごぼうが入っている。豚汁のような味わいだ。味噌汁よりマイルドだけど、ちょうど良い塩気。
ああ、これなら大きな豆汁にしても良かったかもしれない。そう思いながらも、今度は厚揚げに手を伸ばす。箸で切り分けると、さくっと音が聞こえそうなほどの揚げたてだ。口に入れれば、カリッとした歯応え。中身は熱々でいて、柔らかい。咄嗟に左手でほおを押さえた。大豆の味がして、何もかけなくても美味しい。でも醤油をかけたら味変できるのかも……と卓上の調味料に手を伸ばす。柚子胡椒や七味も置かれていて、どれをかけるか迷ってしまう。幸せすぎる。冷奴には茗荷とすりおろした生姜が乗っている。こちらもひと口食べればキリッと冷えていて、厚揚げとのギャップが際立つ。それでいて、大豆のほのかな甘味を感じるところは同じだ。
シンプルに塩を振っても美味しいかもしれない。
冷奴を小さく切り分けて、そのうちのひとつにぱらりと塩を落とした。あまじょっぱくて良い。
そのままの勢いで、しゅうまいにも手を伸ばす。皮がきつね色に染まっている。揚げしゅうまいだ。こちらもカリッと歯ごたえがあり、それでいて中の餡は柔らかい。豆腐が混ぜ込まれているのだろう。適度に温かく、我慢できずに二口で食べ切ってしまった。
ご飯をひと口。ご飯のお供がなくとも、餡の下味で白米も進む。
再び息をついて、豆汁へ。至福だ。
卓上の調味料と厚揚げのマリアージュを一通り楽しんだ。それにしても美味しい。さすが専門店だ。お土産に持って帰りたい。保冷バッグに入れれば持って帰れるだろうか。ぎりぎりまでホテルの冷蔵庫に入れておくとして――。
帰りに絶対一階の売り場をくまなく覗く。そう決意しながら朱莉は箸を動かした。こんもり盛られた白米も、お漬物をおかわりすればどんどん減っていく。お腹がすいた状態でこのお店に来られて良かった。そのために昨日の会食ではまともに食べなかったのかもしれない。そう思ってしまう。
ああ、食べ終わってしまった。空になった豆汁のお椀を見て、内心ため息をつく。これなら大きな豆汁におかず三種類でも絶対完食できるのに。多少割高でもそのセットも作ってくれないだろうか。そう考えながら、改めて窓の外に視線を送った。
相変わらず人通りは少なかったけれど、時折スーツ姿のサラリーマンが店の外を通りすぎていく。いいなあ。通勤途中にこのお店があったら朝も夜も寄ってしまいそうだ。最後に残しておいたお猪口みたいに小さなグラスの豆乳を一気に飲み干して、朱莉は立ち上がった。
急な階段を、手すりを掴みながらゆっくりと降りていく。気をつけないと、あのずらりと並んだ厚揚げが恋しくて階段を駆け下りたい気分だった。
「ごちそうさまでした」
一階に降りて、例の女性店員さんの後ろ姿に声をかける。
店員さんはスーツ姿の男性と談笑しているところだった。常連さんだろうか。
邪魔したら悪いなと思った瞬間、二人が同時に振り返る。
「え」
思わず固まった。
向かいの顔も、ぴくりと引き攣ったのがわかった。
一瞬の後、すっと目が細められる。
「課長……」
呆然と呟くと、見知った仏頂面が一歩踏み出す。
「……おはよう」
それだけ言うと、そのまま朱莉の横を通り過ぎて、階段へと足をかけた。
「ちょっと東くん、今日はどっちにするの」
女性店員さんが、軽い口調で声をかけた。その名前で、ああやっぱりこの人は自分の上司で間違いないんだ、と馬鹿みたいに実感する。
「大きい方。でも厚揚げはつけて」
「はいはい、了解」
店員さんも気安い口調で応じている。朱莉が立ち尽くしていると、課長はその長い足で手すりを掴むこともなくさっさと二階へ上がってしまった。
「ごめんなさいね、お会計?」
店員に話しかけられて、我に返る。
「あ、すみません。ちょっとお惣菜とか見てからでもいいですか?」
「もちろん、ごゆっくり」
先ほどよりさらに種類が増えているような気がする。朱莉が意識を集中しようとすると、「東くんのお知り合い?」と尋ねられた。
「あ、はい……。会社の上司です」
そう言うと、店員さんはまあ、と目を丸くした。
「そうなの。東くんにも部下がいるのね……」
少し遠い目をしてから、「確かに、当たり前よね。もう三十代なんだし」と続ける。正直、課長の年齢なんて気にしたこともなかったから、朱莉は、はあ……と気のない相槌を打つことしかできない。
「東くん、来てるって?」
話が広がるわけでもなく、なんともいえない空気に居心地を悪くしていると、店の奥から、白いエプロンに作業帽、という男性が姿を現した。話していた店員さんと同じくらいの年頃のおじさんだ。
あ、お父さん、と女性店員が呼ぶ。
「そうなの、出張なんだって。あ、こちらの方、東くんの部下の方」
突然紹介されて、わけもわからないまま頭を下げる。
すると男性は、はっきりわかるほど目尻を下げた。
「そうか。東くんにも部下ができたんだな」
「そうなのよ。私もびっくりしたけど、考えてみれば当たり前よね」
うんうん、と頷き合う二人はどこか雰囲気が似ている。お父さん、と呼んでいたし夫婦で店を営んでいるのかもしれない。
それにしても、課長には朱莉より社歴の長い部下だって何人もいるのに、この二人にとっては、そんなこと今まで思いつきもしないほど意外だったらしい。
「東くんの下でだったら、楽しく働けるでしょう?」
そう言われて、朱莉は明確に自分の顔が引き攣るのを感じた。どうやらこの店と東課長はずいぶん親しい間柄のようだから、社交辞令でもいいから「はい」と言っておけばよいのに、どうしても笑みがうまく作れない。
「あ……どう、ですかね……」
そう答えると、二人はぱちぱちと目を瞬かせた。
当たり前だ、肯定でもなく否定でもない疑問系。そんなの、言葉を濁したいときの常套手段に決まっている。
夫婦――と朱莉はもう勝手に判断した――は、ふと視線を合わせると、二人揃って苦笑いを浮かべて朱莉を目線を戻した。
「でも東くん、結構頑ななところがあるから」
「確かに、振り回されて大変かもなあ……」
気を遣っているのか、そう言い出したふたりに、朱莉は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんな。全然そんなことはないです!」
頑な、なんて思ったことはなかった。というか、それ以前の問題だった。怖いのだ、単純に。
職場で笑顔を見たことはないし、指示は的確だけど必要最低限。何かを報告しても「わかった」で終わる。若くして課長になっているから優秀なひとだということはわかる。そんな課長に憧れている社員がたくさんいることも知っている。でも朱莉は仏頂面で仕事のできる上司より、温和でおしゃべり好きな上司の方がずっと良かった。それなのに、今回、よりによって課長と出張になるなんて――。
そこまで考えて、朱莉ははっと顔を上げた。
店のふたりがきょとんとした顔で朱莉を見ている。
「すみません、課長にはいつもよくしていただいています」
社会人らしく大人な対応をせねば。ようやくそう思い至り、朱莉は小さく笑みを浮かべてみせた。こんなに美味しい豆汁を食べたのだ、この夫婦に「課長のことは大嫌いです」なんて主張したって、悲しませるだけでなんの意味もない。
しかし店先のふたりは再び顔を見合わせて、同時に朱莉を見た。
「もしかして、お酒のことでなにかあった?」
遠慮がちに、けれどはっきりとそう尋ねられて、朱莉は思わず息を止めた。
「え、っと」
言い当てられて、咄嗟に言葉が浮かばない。驚きの次に、じわじわとなぜ?という疑問が浮かんでくる。そんな朱莉の態度で見当がついたのか、夫婦はだんだんと複雑な顔つきになっていく。
「やっぱり」
「東くんが飲み過ぎたってことは……ないわよね」
多分、という女性に、仰々しく隣の男性が頷いている。
いったいどういう意味だろう、と首を傾げたとき、
「ねえ、俺の定食まだ?」
階段の上から東竜樹課長その人が顔を覗かせた。
職場では聞いたこともないような少し甘えた声音に、朱莉はお化けでも見たかのような気分を味わった。ぞわぞわっと全身に鳥肌が立った気さえする。
しかし次の瞬間、朱莉がまだその場にいることに気づいた東の顔もまた、ぴしりと固まった。
「悪い悪い。ちょっと待って、すぐ用意するから」
男性店員がひらひらと手を振る。
「すぐ用意って……もう十分待ったんだけどなんかあった?」
かすかに眉を顰めて問う東に、女性店員が「お父さん、もうできてるんじゃないの?」と厨房に追いやるように背中を押す。
「出来てる出来てる。厚揚げ揚げれば終わりだよ」
「それってまだ出来てないじゃん……」
呆れ声でつぶやいた東は、つつつーっと朱莉に視線をやると、そのままぱっと身を翻して二階へ戻ってしまった。
「……今の、誰……」
呆然と呟く朱莉の声は、厨房に戻っていく男性の耳には届かなかったらしい。手前にいた女性店員さんが、けらけらと笑い出す。
「東くん、いっつもあんな感じよ。待つのが苦手で、早く早くって急かしてばっかり」
「へ、へえ……」
確かに即断即決、仕事で迷うところは予想もつかない課長だけれど、あんなふうに膨れたりねだったりするところは見たことがなかった。まるで、子どもが親に駄々をこねるような――。
「東くんね。昔、店の前で酔っ払って倒れてたことがあったの」
「え!?」
秘密を話すようにこっそり声を潜めた女性に対して、やたらと大きな声で聞き返してしまい、朱莉は慌てて自分の口を押さえた。
「まだ働き始めたばかりの頃でね、飲み会でいいところ見せようと思って飲みすぎちゃったんだって。なんとかお客さんと上司を見送ったところで限界が来たんだろうね。そのままばたーんって」
「え、それで……?」
「この店のドア、ボロいでしょう?だから深夜にすごい音がして、お父さんと慌てて様子を見に出たの。そしたら酔っ払った若い子が倒れてたから、なんとか家に運んで、寝かせてあげたの」
まさか。課長がそんな失態を犯したことがあったなんて。想像もできなくて、朱莉は思わず階段の上を見上げた。当然、そこにはとっくに姿がなくて、朱莉の脳裏に浮かぶのは、いつもの顰めっ面だ。
「朝起きて、何度も何度も謝るわけ。別に気にすることないっていっても謝って。で、店を飛び出したかと思うと、数時間後に菓子折り持ってまた謝りにきたのよ」
バタバタと飛び出して、それでもきちんとお礼をしなきゃ、と思う律儀さは朱莉の知っている課長と少しだけ重なった。
「二日酔いで辛いのに、そんなに慌てて来てくれることないのにねえ」
ふふふっと笑う女性は言葉とは裏腹にとても嬉しそうだ。
「それで、豆腐だったらつるっと食べられるだろうからって豆汁出してあげたの。そしたら美味しい美味しいって、二日酔いなのにご飯食べるって白米も大盛り食べて、試しに厚揚げ出したらそれもぺろり。若いって凄いわよねえ。でも本当に気に入ってくれたのか、こっちに来るたびに顔出してくれるようになったの」
「へ、へえ……」
とても想像のつかないエピソードに、朱莉はなんとか声を絞り出した。
「申し訳ないって思ってくれたんでしょうね。失敗すると、すごく気にしちゃう子なのよ」
気にすることないのにね、と笑う声に、朱莉は昨日のことを思い出した。
朱莉は地方の生産者を担当するのが初めてだったから、とても気合いを入れて臨んだ出張だった。……たとえ、苦手な上司と一緒でも、昼間の地元の生産者との会合はきっちりこなしたし、反応も上々だった。その後、交流会という名の飲み会があったから、そこでも精一杯頑張ろう、と思ったのだ。
にこやかにお酌をして回り、いろんな生産者の話を聞いた。美味しそうな料理に手をつける間もなく席を飛び回っている中で、地元の生産者が「とっておきだよ」と言って店の奥から出してきてくれた日本酒を、すすめられるままに飲み干した。頭の中がぐるりと反転するような感覚に陥ったけれど、その飲みっぷりに感嘆の声があがり、つい「もっと飲みたいです!」と言った。
とくとくとお猪口に日本酒が注がれる。それを口に運ぼうとしたとき、「おい」と強い声をかけられた。
溢れないようにお猪口を捧げ持つ朱莉の前に、目を吊り上げた東がやってきていた。
「仕事で来ているのだとわかっているのか」
冷たい声に、その場の空気がずんと重くなる。
「……あ、当たり前じゃないですか」
まわりの生産者が、一気に引いていくのを感じて、朱莉は焦った。
課長こそ、場の空気を読まなすぎではないか。
そう反論したかったのに、まわりの目を気にして言葉が見つからない。
「自分の限界を判断できない奴は、仕事もできない」
ぴしゃりとそう言われて、さすがに自分の顔が強張ったのがわかった。呆然とする朱莉のまわりで生産者が、「まあまあ」とか「東くん相変わらずだね〜」なんて取りなすような声をかけている。
朱莉はそっとテーブルの上にお猪口を置いた。
視界が滲みそうになって、ぎゅっと唇を噛み締める。なんとか涙を引っ込ませると、朱莉の向かいで東がその日本酒を飲んでいた。
生産者たちは、気分を害した様子もなく「つまみだったらこれがおすすめだよ」とか「東節を久しぶりに聴いたな〜」なんて声をかけていて、東もまたそれににこやかに答えていた。
――私には、あんなに厳しく言ったのに。ていうか、あそこまできつくいう必要ある?
一度そう思ってしまったら、だめだった。もちろん飲み会はお茶を飲みながらこなしたけれど、せっかくの食べ物も喉を通らない。ただただ、なんでそこまで……という疑問でいっぱいだった。
忘れようと蓋をしていた記憶が一気に蘇って、朱莉は思わず頭を押さえた。
昨日の東の言葉は、朝起きてようやく消えたと思ったのに、また朱莉の頭のなかでぐるぐると回り始める。でも、昨日とは違って、なにか引っ掛かる。
失敗。気にしちゃう――。
「お母さん、お待たせ」
厨房から定食のトレイを持った先ほどの男性――お父さんが現れる。
「はいはい、もらいます」
女性店員はそれを受け取って、ひょいひょいと階段を登っていった。
「東くん、お待たせ〜」
二階から声が響く。東もなにか言葉を返したようだったけれど、声が低いからか朱莉の元までははっきり聞こえなかった。
かわりに、また昨日の叱責が思い浮かぶ。
「自分の限界を、判断――」
思い返しすぎて覚えてしまった東の言葉を口にして、朱莉ははたと思い至った。
あれはもしかしたら、飲みすぎてしまうのを止めてくれたのだろうか。
いやまさか。それならもっと優しく言ってくれればいいのだ。でも、東は昔飲みすぎて痛い目を見ている。もしかしたら、ただ言い方がきついだけで――。
またぐるぐると考え始めたとき、「ごめんなさいね、お会計待たせっぱなしで、余計な話しちゃって」階段から降りてきた女性が、慌ててレジへと向かおうとする。
「あ、あの、いくつかお土産に買っていきたいんですが」
当初の目的を思い出してそう言うと、「ありがとう。保冷剤入れておくけど、東京まで持って帰るなら、お豆腐じゃなくてこの辺がいいかも」と厚揚げや惣菜を示される。
「確かに……そうですよね……」
「東くんは厚揚げのいろんな味を持って帰るわよ。あと忙しいときはしゅうまいを飛行機の中で摘むみたい」
そこまで真似をするのはどうだろう……と思うものの、せっかくなら美味しいものは持って帰りたい。
「えっと、じゃあ……」
勧められるままに、プレーンの厚揚げと柚の厚揚げ、それにしゅうまいを包んでもらう。
「保冷剤、多めにつけておいたから」
「ありがとうございます」
お礼を言って商品を受け取った時だった。グッと顔を近づけられる。
「実は東くんの話、もう一つあってね」
「えっ」
「この店、かなり古いでしょう?」
そう言って店内を見回す店員さんにつられて、朱莉も後を追う。確かに天井には雨漏りのあとなのかシミが残っているし、壁紙もところどころ剥がれている。それでも棚や窓は綺麗に拭かれていて、古いながらも手がかけられていることが伝わってきた。
「このパイプなんだけどね」
そう言って厨房との境にある銀の太いパイプを示す。
「東くんがきてくれるようになってちょっとした頃、調子が悪くて下から水が漏れてくるようになったのよ。でもその頃特に売り上げが良くなくて、直すのも厳しくてそのままにしておいたのね。そしたら東くんが気づいてくれて」
「へえ」
「すぐに直したほうがいいって言って。でもうちの人がそんな気にすることない大丈夫だって言ったらね」
言葉を切って、肩をすくめてみせる。
「東くん、自分のツテを使って安く見積もってくれる業者を紹介してくれたのよ。ここなら信用もおけて金額も良心的だからって」
「え……」
昨日の東の言葉がまた頭をよぎった。
『自分の限界を判断できないやつは、仕事もできない』
あの時は、ただ責められたと思った。昨晩強く噛み締めた唇は、かすかに皮がむけてふにゃふにゃと柔らかくなっている。
その下唇を舐めながら、先ほど気づかないふりをした可能性がまた胸のうちに浮かんでくる。わからない。東竜樹というひとが。
入社してから、ずっと怖かった。近寄りがたくて、承認印をもらいにいくことすら嫌だった。だから、よく知らない。
そのことに、今初めて気がついた。
「すみません。これ、ちょっと置いておいていいですか」
受け取ったばかりの袋を、もう一度店員に向けて差し出す。
首を傾げながらも受け取ってもらい、朱莉は二階席へと続く階段へ足をかけた。
手すりを掴まないと、とても身軽には登れない。でも掴んでいれば、リズミカルに登ることはできる。
トントントン、と規則正しい足音を立てて、朱莉は階段を登りきった。
二階には見慣れた後ろ姿だけがあった。ちょうど食べ終わったのか、箸を置いた東が振り返る。朱莉を見て、ぴくりと片眉を上げた。
朱莉はぐっと拳を握ると、一歩前に踏み出した。慌てて駆け上ってきたけれど、最初のひと言は何も考えていなかった。
「あの、課長」
声が上擦る。東の瞳がまっすぐに朱莉に向けられる。鋭い視線を受け止めきれずつと目をそらせば、東の手元のトレイが目に飛び込んできた。米粒ひとつ残っていない茶碗に、飲み干した豆汁のお椀。綺麗に完食したお皿に、朱莉は全身の強張りが解けていくのを感じた。
「会社に買っていくお土産空港で課長と一緒に選んでもいいですか?」
ひと息でそう言うと、東がぱちぱちっと二回目を瞬いたのが見えた。
「構わないが……」
ちらりと手首の腕時計に視線を走らせる。
「それなら早くホテルに戻ってチェックアウトしよう」
「え、あ……はい!」
あっさり頷かれたのが意外で、朱莉は一瞬立ち尽くす。
すると空のトレイを持った東が立ち上がり、朱莉の横を通り抜けた。軽々とトレイを抱えたまま階段を降りていく。朱莉は慌てて後を追った。
「お皿、片付けるんですね」
「店としては置きっぱなしで良いらしいが、あまりお母さんを何往復もさせるのもな」
そんなこと考えもしなかった、と足元をみつめる。
「次に来る時は笠原もそうしたらいい」
弾かれたように朱莉は東を顔をみつめた。なんの温度も変わらないいつもの様子で、東は背後を振り返っている。珍しく見下ろす形になった。
次、なんてあるのかわからない。また出張があればいいけれど、プライベートで頻繁に来られるような場所じゃない。けれどもし、若かりし頃の東のように通うことができたら――。
「あ、課長待ってください!」
すっかり階段を降りて、しゅうまいを物色している東を追いかける。
「厚揚げ、揚がったよ」
厨房から声が聞こえてくる。と同時にふわりと香ばしい油の匂いが広がって、朱莉は軽やかに階段を駆け降りた。
