魔力の少ない魔法使い

「ハァ、ハァ……ッ」
 焦げた匂いが漂う戦場に、荒い呼吸音が響く。
 ルクスの身体はすでに傷だらけだった。激しい魔力の消耗と蓄積したダメージにより、肩を大きく上下させている。
 対する楓も無傷ではない。衣服の端は焦げ、白い肌には煤汚れや細かな擦り傷が刻まれていた。
 それでも呼吸は乱れておらず、強い眼差しで真っ直ぐにルクスを見据えている。
「……正直、小娘一人にここまで追い詰められるなんて、想定外ね」
 ルクスは乱れた息を整えながら、忌々しげに呟いた。
 まさか学生である楓を相手に、自分がここまで追い込まれるとは思っていなかったのだ。
「降参……は、しないわよね?」
 楓は答えが分かっていながらも、一応そう問いかける。
「……するわけないでしょう?」
「そう。だったら仕方ないわね」
 楓は短く息を吐き、両拳を構え直した。
「動けなくなるまでやるしかないわ」
 言葉と同時に地面を蹴り、ルクスとの距離を一気に詰める。
「舐めないで!」
 ルクスの長い髪が魔力を帯び、鋼のように硬質化した。
 無数の束へと分かれた髪が槍のように尖り、接近する楓へ次々と突き出される。
 鋭い刺突が四方から迫る。
 しかし、楓は足を止めない。
 首を僅かに傾け、身体を捻り、迫る髪を必要最低限の動きで躱していく。避けきれないものだけを炎を纏わせた拳で弾き、確実にルクスとの間合いを縮めていった。
「……ッ! だったら、【火炎龍】!」
 ルクスが右手を突き出す。
 炎が渦を巻き、巨大な龍の姿を形作った。
 咆哮するように口を開いた炎龍が、正面から楓へ襲いかかる。
「火拳壱ノ型――【紅虎】!」
 楓は右拳へ炎と魔力を集中させ、そのまま真っ向から拳を振り抜いた。
 放たれた炎が猛々しい虎を形作り、迫る炎龍へ食らいつく。
 ドゴォォンッ!!
 二つの炎が正面から激突した。
 熱風が吹き荒れ、互いの炎が激しくせめぎ合った末、ほぼ同時に弾け飛ぶ。
「なっ……!?」
 ルクスが僅かに目を見開く。
 その一瞬。
 楓は爆炎の向こう側から飛び出し、すでにルクスの懐へ潜り込んでいた。
「火拳弐ノ型――【紅蓮撃】!」
「ッ!」
 炎を纏った両掌が、ルクスの腹部へ迫る。
 ルクスは咄嗟に両腕を交差させた。
 直後、楓の掌底がその防御へ叩き込まれる。
 ドンッ!!
「ぐっ……!」
 重い衝撃に耐えきれず、ルクスの身体が大きく後方へ弾き飛ばされた。
 そのまま背後の校舎の壁へ激突し、周囲に細かな破片が散る。
「……ギリギリで防がれたわね」
 楓はルクスの吹き飛んだ方向を鋭く見据える。
「くっ……」
 ルクスが壁際からゆっくりと立ち上がった。
 両腕には強い痺れが残っているのか、僅かに震えている。
 先ほどよりさらに消耗しているのは明らかだった。
「……このままだと、さすがに無理ね」
 ルクスが俯いたまま呟く。
「仕方ないわ。本気を出してあげる。……どうせヴァニタスから聞いてるんでしょ?」
「させると思う?」
 楓の表情が変わった。
 ルクスが何らかの奥の手を使おうとしている。
 そう察した瞬間には、すでに追撃へ動いていた。
「……ええ。思うわ」
 迫る楓を前にしても、ルクスは血の滲んだ口元に笑みを浮かべる。
 そして懐から、青色に輝く小さな水晶を取り出した。
 パァンッ!
 水晶が弾けるように光り、ルクスを取り囲むように幾何学模様の結界が展開された。
「これは……!」
 楓の拳が結界へ激突する。
 硬質な音が響き、拳はルクスへ届く寸前で阻まれた。
「結界石よ。長くは持たないけど――」
「こんなもの!」
 楓は炎を纏わせた拳を立て続けに叩き込む。
 ガンッ! ガンッ!
 結界の表面が激しく揺れた。
「数秒あれば十分なのよ」
 ルクスは結界の内側で静かに目を閉じる。
「汝、我が声に応えよ。闇より生まれ、来たりし大いなる罪よ――」
「くっ……!」
 楓の拳がさらに結界を打ち据える。
 表面に細い亀裂が走った。
「万物を惑わし尽くす、大罪が一つ――色欲の罪」
 亀裂が一気に広がっていく。
「間に合え……!」
 楓がさらに強く拳を叩き込む。
「――淫せ、アスモデウス」
 パリンッ!!
 詠唱が終わったのとほぼ同時に、結界が砕け散った。
「……ッ!」
 だが、一歩遅い。
 ルクスの身体からどす黒い魔力が噴き出し、その全身を覆い隠していく。
 楓は咄嗟に距離を取った。
「〈悪魔融合〉」
 黒い魔力の奥から、ルクスの声が響く。
 やがて周囲へ溢れていた魔力がその身体へ収束し、ゆっくりと新たな姿が露わになっていった。
「どう? これであなたに勝ち目はないわよ?」
 ルクスの背には、コウモリを思わせる大きな黒い翼。
 頭部には禍々しく湾曲した二本の角が伸びている。
 肌には黒い紋様が浮かび、その身体から漂う魔力も、先ほどまでとは比較にならないほど濃密なものへと変わっていた。
「……そうかしら?」
 楓は気丈に返す。
 だが、その頬を一筋の汗が伝っていた。
(これは……想像以上ね)
「だったら、教えてあげるわ」
 ルクスが黒い翼を広げる。
「たっぷりとね」
 次の瞬間、地面を蹴った。
「……ッ!」
 楓が目を見開く。
 先ほどまでとは明らかに速度が違う。
 構えるより早く、ルクスが懐へ入り込んでいた。
「まずは、さっきのお返しよ」
 ルクスの掌が楓の腹部へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
 重い一撃が腹部へ沈み込み、肺から強制的に空気が押し出された。
 楓の身体が後方へ弾き飛ばされ、地面を何度か転がる。
「っ……ゴホッ、ゴホッ……!」
 腹部を押さえながら、楓は激しく咳き込んだ。
 口元に僅かに血が滲む。
「どう? 今ので分かったでしょ?」
 ルクスは翼を広げ、少し浮いた位置から楓を見下ろしていた。
「あなたに勝ち目なんてないって」
「……っ」
 楓は震える足へ力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
(パワーも速度も、さっきとは比べものにならない……)
 腹部には鈍い痛みが残っている。
 それでも、戦意だけは失っていなかった。
(でも――絶対に負けられない!)
 楓は口元の血を腕で拭い、ルクスを睨み返す。
「……言ったでしょ?」
「何?」
「『そうかしら』って」
「……ハァ。本当に生意気な小娘ね」
 ルクスが呆れたように息を吐く。
「いいわ。そんなに強がるなら、じっくり思い知らせてあげる」
「やってみなさいよ」
 楓は不敵に笑った。
 そして――。
「おばさん」
「…………」
 ピキッ、と。
 ルクスの表情から笑みが消えた。
「……今、何て言ったのかしら?」
「聞こえなかった? お・ば・さ・ん」
 楓がわざと一文字ずつ強調してみせる。
 ルクスのこめかみが僅かに引きつった。
 その瞳に、それまでとは種類の違う怒りが宿る。
「……殺すわ」
 低く響いた声に、楓は拳を構え直した。