魔力の少ない魔法使い

――静寂。
 天井の高い図書室の反対側、いくつもの巨大な書棚を隔てた向こう側から響いていた、サラたちの激しい怒号と破壊音が、ふっつりと途絶えた。
「……どうやら、向こうは決着がついたようだな」
 刀を正眼に構えたまま、男子生徒が視線だけをサラたちが戦っていた「奥の閲覧スペース」の方へ向け、低く呟いた。
(サラちゃん、勝ったのかな……。それとも……)
 橘の胸に一瞬だけ不安がよぎる。しかし、彼女は即座にその雑念を振り払った。仲間を信じること。そして、目の前の敵を倒すこと。弓兵である彼女にとって、集中力の乱れはそのまま敗北に直結する。
「でもまあ、あっちから誰も加勢に来ないってことは、痛み分けの引き分けってとこか。……いいぜ、邪魔者がいなくなったんだ。こっちもそろそろ、お遊び抜きで決着をつけるとしようぜ、弓使いさん」
 男子生徒は不敵な笑みを浮かべ、高く積み上がった本を足蹴にして、橘の方を向き直した。
「望むところです」
 橘の声は静かに、広大な図書室の天井へと吸い込まれていく。彼女は一呼吸おき、愛用の弓を構える。
「ほんと厄介だよ、お前の弓は。なかなか近づかせてくれねえ」
 男子生徒は苛立たしげに刀の柄を鳴らした。
(……近づかれたら、私に勝ち目はほぼない。この書架に囲まれた狭い通路こそが、私の戦場)
 橘は迷路のように入り組んだ図書室の構造を頭に叩き込む。男子生徒が地を蹴る予備動作を見せた瞬間、彼女の指先から一本の矢が解き放たれた。空気を引き裂く鋭い音が響き、男子生徒の足元に置かれた重厚な事典を貫く。
 男子生徒は舌打ちをしながら書棚の陰に隠れ、再び接近を試みる。橘は流れるような動作で次々と矢を放ち、書棚の隙間、わずか数センチの空間を縫って彼を牽制した。
(……さっきから魔法を使ってこないところを見ると、彼は純粋な物理戦闘に特化したタイプ。この距離を保ち、射線を確保し続ければ、必ず勝てる!)
 橘の読み通り、男子生徒は矢の弾幕を前に攻めあぐね、書架の間を縫うように移動を繰り返していた。
「チッ、女だからって舐めてたけど、相当な腕前じゃねえか……!」
 男子生徒の表情から余裕が消え、焦燥の色が混じり始める。矢の一撃一撃に込められた魔力が、彼の刀を弾き、防具を削り取っていく。
「……このままじゃ埒があかねえよなぁ。……おい、あんまり格好がつかねえから隠しておくつもりだったんだが、しゃあねぇか」
 男子生徒は面倒そうに頭を掻くと、突如として刀を片手に持ち替え、空いている左手を橘の方へと突き出した。
「【フレイム・ランス】ッ!」
 彼が呪文を紡いだ瞬間、その掌から三本の火の槍が生成され、勢いよく放たれた。
「!?」
 橘の思考が凍りつく。魔法が得意ではないという前提が崩れ、予想外の魔法に、橘の反応がわずかに遅れる。
 熱風が古い書物を焦がし、視界が真っ赤に染まる。橘は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、書棚の陰へとダイブするようにしてギリギリでその炎を回避した。火の槍は彼女の背後にあった書架に直撃し、数え切れないほどの本が火花と共に宙に舞った。
「避けられたか。今のが当たってれば、もっと楽に終われたんだけどな」
「……魔法、苦手なんじゃないんですね」
 橘は煤けた髪を乱しながら立ち上がり、再び弓を構えた。今の一撃の速度、練度……どれをとっても、不得意な者のそれではない。
「まあ、不得意ってわけじゃねえな。魔力を温存したかったから、使う気がなかっただけだ。……だが、ここで負けるわけにもいかねえ。お前を確実に仕留めるために、全力で行かせてもらうぜ」
 男子生徒はニヤリと凶悪に笑うと、再び左手に魔力を集束させた。
 橘は矢を放って応戦しようとしたが、男子生徒は自ら放った魔法の光を遮蔽物に利用し、男子生徒は自ら放った魔法を目眩ましに利用し、書架の影から影へと移動して、一気に橘との距離を詰めた。
「オラァッ!!」
 男子生徒の刀が、橘の頭上から真っ向に振り下ろされる。
 ――ガギィィンッ!
 橘は弓の胴部分で辛うじてその一撃を受け止めたが、重い一撃が、受け止めた橘の細い腕を軋ませる。さらに、硬直したその隙を見逃さず、男子生徒の重い蹴りが橘の腹部を正面から捉えた。
「ッ……!!」
 肺から空気が弾け飛び、橘の身体は後方へと激しく吹き飛ばされた。
 だが、彼女は空中で意識を失うことはなかった。衝撃の瞬間にあえて自ら後ろへ跳び、威力を殺したのだ。橘は散乱した本の山をクッションにするようにして着地すると、お腹を押さえ、激痛に顔を歪めながらも即座に立ち上がった。
「上手く後ろに飛んで威力を逸らしたな? ……だが、それもいつまで持つか!」
(……後のことは考えちゃダメ。今、ここで、この一撃に全てを懸ける!)
 橘は逃げるのではなく、図書室の高い天井に向かって弓を引いた。
「ハッ、知ってるぜそれ! 一回戦でもやってた、空から矢を降らせるやつだろ!?」
 男子生徒は嘲笑うように叫ぶと、刀を構えて一直線に突進してきた。
「【流星】ッ!!」
 上空で魔力によって大量に増殖した矢が、雨のように降り注ぐ。
「そんなもん、くるって分かってりゃ、ただの目くらましにもならねえんだよ!」
 男子生徒は空からの矢の軌道を見極め、最小限の動きでそれをすり抜けていく。彼の瞳には、もう目の前の橘しか映っていない。矢の雨は、無情にも男子生徒の背後の地面へと突き刺さっていった。
「これでしまいにしてやるよ!」
 男子生徒がトドメの刃を振りかざした、その刹那。
 橘は右手の掌を広げて、目前に迫る男子生徒へと突き出した。
「……魔法か! だったら、ギリギリで避けて逆転してやる!」
 男子生徒は橘の手から放たれるであろう至近距離の魔法を警戒し、横へ回避の体勢を取る。しかし、彼女の手から魔力弾が放たれることはなかった。
「……魔法じゃないですよ。――【蓮式・枝垂桜(れんしき・しだれざくら)】」
 橘が静かに、開いていた右の手のひらを握り込んだ。
 その瞬間、男子生徒の背後――地面や書架に突き刺さっていた「流星」の矢が、一斉に宙へ舞い上がった。
「な!? 背後からだとッ……!?」
 予想外の方向から次々と迫る矢。
 男子生徒は咄嗟に刀を振るって何本かを弾くが、すべてを捌き切ることはできない。矢が肩や脚を掠め、その動きを止めていく。
「ぐっ……!」
「そして、これで本当の終わりです」
 橘は弓を構えて無防備になった男子生徒を見据えた。
 彼女の指から放たれた矢は、冷徹なまでの精度で空を飛び、男子生徒の右腕を正確に捉えた。
 ――パキィッ!!
 静寂が戻った図書室に、硬質なプラスチックが砕け散る音が響き渡った。
「ふぅ……」
 橘は構えていた弓をゆっくりと下ろし、大きく息を吐いた。全身の緊張が解け、立っているのがやっとの状態で、激しく心臓が波打っている。
「……はぁ、はぁ……。負けた、のか。俺が……」
 男子生徒はその場に力なく座り込み、自らの砕けた時計を見つめて呆然と呟いた。
「あなたが……油断せず、最初から本気で、魔法を織り交ぜて戦っていたら、結果は違ったかもしれません。勝てたのは、ただの運です」
 橘は心からの本音を伝えた。もし彼が最初から全力を出していれば、自分が「枝垂桜」を仕掛ける隙などなかっただろう。
「……運も実力のうち、ってな。そーかもしれねえなあ。ま、負けちまったもんはしゃあねえ。……おい、お前、強いな。あとの試合も、頑張れよ」
 男子生徒は負けを認めた清々しい笑みを浮かべると、そのまま光の粒子となって図書室から消えていった。
「ふぅ……」
 橘はもう一度大きく息を吐くと、足の力が抜け、その場にへたり込んだ。
(……少しでも魔力を回復してから行こう。まだ、終わってないんだから……)
 彼女は痛むお腹を擦りながら、静かに目を閉じた。崩れた書棚、散乱した本。激闘の傷跡が残る図書室で、彼女はしばしの休息を取ることにした。