魔力の少ない魔法使い

「――っ!?」
 男子生徒が驚愕に目を見開く。
 視界が爆炎の赤に染まった次の瞬間、五十嵐はすでに彼の懐へと潜り込んでいた。先ほどまで防戦一方だったはずの彼女の動きは、属性付加【火】による爆発的な推進力を得て、もはや物理法則を無視したかのような鋭さへと変貌している。
 ドォッ! と空気を踏み抜く音が響き、彼女の足元のアスファルトは踏み込みの衝撃で浅く陥没した。彼女が地を蹴るたびに、超高温に熱せられたゴムの焦げるような匂いと、微かな火花が周囲の空気を焦がしていく。
「くッ……やるじゃねぇか!」
 男子生徒は本能的な危機感に従い、交差させた両手の鉤爪で強引に五十嵐の刺突を正面から受け止めた。キィィィィィン! と、鼓膜を突き刺すような鋭い金属音が無人の市街地に響き渡り、二人の間で火花が狂ったように弾け飛ぶ。
 だが、五十嵐の猛攻はそこで止まらない。
 右、左、そして死角となる斜め下から。進化した〈獅子王〉の、先ほどまでとは比較にならないほど分厚く鋭利な刃が、紅蓮の軌跡を描きながら全方位から襲いかかる。一撃一撃の重みが、もはや刃物のそれではない。まるで巨大な猛獣の四肢が直接叩きつけられているかのような暴力的な衝撃に、受け止める男子生徒の腕の骨がミシミシと悲鳴を上げた。
 刃が交差するたびに獅子王の刻印から溢れ出す炎が指向性の爆発を起こし、その反動が五十嵐の剣速をさらに一段階、未知の領域へと押し上げていた。
「チッ、調子にのんな!」
 男子生徒は怒号と共に魔力を強引に爆発させ、五十嵐の重圧を力任せに弾き飛ばした。
「今度はこっちの番だ!」
 体勢を立て直した男子生徒が、虎のような荒々しい踏み込みで反撃に転じる。豹のしなやかさを加えたその一撃は、空気を切り裂く高音を立てて五十嵐の喉元を正確に射抜こうと迫る。
 しかし、五十嵐はその必殺の一撃を、まるで最初から軌道を知っていたかのように、最小限の首の傾げだけで避けてみせた。
「……なっ!?」
 完璧なタイミングだったはずの攻撃が、空気を掴むような虚無感に終わったことに男子生徒が戦慄する。
 今の五十嵐の動きは、単に速いだけではない。全身に炎の魔力を巡らせることで五感が極限まで鋭敏化し、相手の筋肉の僅かな収縮、足元の重心移動、放出される魔力の揺らぎ――そのすべてを「視る」のではなく、肌で、野生の直感で捉えていた。
「くそッ、なんで当たんねぇ!」
 焦燥に駆られた男子生徒が、さらに速度を上げて大振りのフックや刺突を乱れ打つ。金属の爪が空を切るたびに不快な音が響く。だが、五十嵐は燃え盛る陽炎のようにその合間を音もなくすり抜け、あるいは〈獅子王〉の重厚な刀身で、最小限の力でその軌道を逸らしていく。
「あなたじゃ、今の私には勝てないよ」
「なめんじゃねぇぞッ!」
 プライドを傷つけられた男子生徒の怒声が、静まり返った廃墟に木霊する。だが、その攻撃は怒りに任せて次第に大振りになり、精密な連携を完全に欠き始めていた。
「隙だらけだよ!」
 五十嵐はその一瞬の「淀み」を見逃さなかった。
 男子生徒が大きく右腕を振りかぶった、そのがら空きになった懐。そこへ向けて、炎を纏った右足が電光石火の速さで叩き込まれた。
「ガハッ……!?」
 重戦車が衝突したかのような凄まじい衝撃波と共に、男子生徒の身体が弾丸のような速度で後方へと吹き飛ぶ。
 ドゴォォォンッ!
 凄まじい破壊音を立て、彼は道路脇のビルの壁面に激突した。分厚いコンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散り、崩落した瓦礫が土煙と共に彼の姿を覆い隠す。
「ッ……!」
 男子生徒は苦悶に顔を歪め、腹部を押さえながらよろよろと立ち上がった。口の端からは一筋の血が滴り、制服はボロボロに裂けている。
「くそ……なんで、あんな女に……」
 彼は忌々しげに舌打ちし、五十嵐を真っ向から睨み据えた。その瞳には、敗北への恐怖よりも、格下と見なしていた相手に圧倒されることへの耐え難い屈辱が色濃く滲んでいた。
(……もう魔力も少なくなってきた。次で終わらせないと)
 一方で、五十嵐の心拍数も限界に達していた。〈獅子王〉の形状維持と、高密度の属性付加を同時に続けるのは、彼女の魔力残量を急速に削り取っている。肺が焼けるように熱く、呼吸のたびに喉の奥が血の味を覚えた。
「俺は負けねぇ……! 負けてたまるかよ!」
 男子生徒が狂ったように叫び、その両手に禍々しいほど巨大な火炎の塊を凝縮させる。周囲の酸素が一気に吸い込まれ、空気が薄くなったような感覚が広がる。
「これで終わりよ!」
「喰らえぇ! 【クリムゾンフレイム】!」
 放たれたのは、周囲の建造物を一瞬で焼き尽くさんばかりの熱量を持った、巨大な火柱。
「!?……あれは、上級魔法……ッ」
 五十嵐は目を見開いた。回避するにはあまりに広範囲、かつ高速。足元のアスファルトは熱に耐えきれずドロドロに溶け出し、視界の全てを赤く染め上げる圧倒的な破壊の濁流が、迫り来る巨大な壁となって彼女に襲いかかった。
 彼女は咄嗟に腕を交差させ、防御の姿勢をとったが、紅蓮の濁流は容赦なく彼女の小さな身体を呑み込んでいく。
 皮膚を灼く激痛。吸い込む空気すら肺を焼き、全身の水分が瞬時に奪われていくような錯覚。
(……痛い、熱い……。でも、ここで負けるわけにはいかない!)
 炎の中で、五十嵐は意識が遠のきそうになるのを、奥歯が砕けんばかりの噛み締めによって繋ぎ止めた。絶対に、勝つ。その一点にのみ絞られた強烈な意志が、震える足を一歩前へと踏み出させる。
「ッ……あああああ!」
 五十嵐は気合いの叫びと共に、自身の身体を焼き尽くそうとする熱風を真っ向から突き破った。炎の渦の中から、弾け飛ぶような勢いで男子生徒の懐へと肉薄する。
「な!? 炎の中から……!?」
 男子生徒が絶望に顔を歪める。彼の視界に、自身が放った紅蓮の炎をむしろ追い風にするかのように背負い、百獣の王の如き威圧感を纏った五十嵐の姿が映り込んだ。
「負けられないのよ! ――【楼炎百華(ろうえんひゃっか)】!」
 瞬間、視界が白く飛ぶほどの閃光。
 一瞬の間に、炎を纏った苛烈な連続斬撃が男子生徒の全身を駆け抜けた。
 それは無数の炎の軌跡が空中に停滞し、彼を中心にして巨大な紅蓮の花を咲かせたかのような、幻想的かつ恐ろしい剣舞だった。
 一撃一撃が重厚な獅子の牙となって敵の防御を粉砕し、逃げ場を塞ぎ、反撃の意思すらも焼き切る圧倒的な蹂躙。
 空間そのものが幾重にも切り刻まれたかのような余韻の中、男子生徒は断末魔を上げる暇もなく、ただその場に棒立ちとなった。
「がッ……」
 ――パキィン!
 無機質な、しかし決定的な音が響く。一定のダメージを超えたことを知らせる腕時計が、その衝撃に耐えきれず粉々に砕け散った。
「はぁ……はぁ……、勝った……」
 五十嵐は、維持していた魔法を強制的に解くと同時に、膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。全身から白い蒸気が立ち上り、手足はすでに自分のものとは思えないほど感覚を失っている。
「……負けただと」
 一方、仰向けに倒れた男子生徒は、呆然と、焦点の定まらない目で空を見上げていた。
「こんな女に……くそ!」
 悔しさに地面を拳で叩く彼に、五十嵐はふらつく足取りで一歩一歩歩み寄り、静かに言葉をかけた。
「あなたが、私をなめて時間をかけたからよ」
 彼女の顔には、死線を越えた者だけが浮かべられる、晴れやかな微笑みがあった。
「今度やったら、たぶん、あなたが勝つと思う」
「……」
 男子生徒は驚いたように彼女を見上げた。そして、ふっと自嘲気味に笑う。
「……女にリベンジなんて、カッコ悪い真似したくねぇよ」
「そう? まあ、私も……しばらくは、もう戦いたくないかな」
 やがて、男子生徒の身体が淡い光の粒子に包まれ、境界を溶かすように薄れていく。
「もう時間か。……じゃあよ」
 男子生徒は不敵な、どこか満足げな笑みを一瞬だけ残し、光と共にその場から完全に消え去った。
「……ッ、勝ったといっても、私ももう動けないや」
 五十嵐は再び、その場に力なく座り込んだ。
 遠くで響く断続的な爆発音や魔法の鳴動を聞きながら、彼女は鉛のように重くなった瞼を閉じ、心地よい疲労感と静寂の中で、しばしの休息に身を委ねた。