「……朝か」
カーテンの隙間から差し込む鋭い陽光に、俺は細めた目をこすりながらベッドを抜け出した。
まだ使い慣れないキッチンの勝手に苦戦しつつも、手早く厚切りトーストに半熟の目玉焼きと自家製ソースを添えた、簡易的なクロックマダム風の朝食を仕上げる。立ち上る香ばしい匂いが、眠っていた脳をゆっくりと呼び覚ましていく。自炊は嫌いじゃない。自分の好みの味に仕上げた朝食を胃に収めると、ようやく今日という日が現実味を帯びてきた。
制服に袖を通す。
濃紺のブレザーに白いシャツ、赤いネクタイ。いかにも名門校らしい落ち着いた制服だった。胸元には金の星と軌道を描く曲線の校章が光っている。星雲を象った意匠らしい。
鏡の前で軽く身だしなみを整え、部屋を出る。
学生寮の中央には広大なエレベーターホールがあり、そこを境界線として右側が男子、左側が女子の居住区へと厳格に分けられている。女子側の廊下の入り口では、許可なき男子の侵入を阻む防護術式のセンサーが、淡い燐光を放っていた。
(……文字通りの『聖域』ってわけか)
壁一枚隔てた向こう側には、玲奈や昨日見かけた女子生徒たちがいる。そんな当たり前の事実に少しの緊張を覚えながらエレベーターを待っていると、タイミングよく扉が滑り出した。
「あぁーっ! ちょっと待って、ストップストップ!」
女子エリアの方から、弾かれたように誰かが駆け込んでくる。俺が咄嗟に『開』ボタンを長押しすると、滑り込むようにして一人の女子生徒が乗り込んできた。
「ふー、助かったぁ! ありがとね。えぇーっと……」
「桐宮隼人だ」
「私はサラ・クロイツ! よろしくね、隼人君!」
陽光を反射するようなピンク色のショートヘア。屈託のない笑顔を向けてくる彼女は、まるで女版の紘弥といった雰囲気で、朝の静かなホールに一気に活気が満ちる。
「……俺のこと、知ってるのか?」
「もちろん! 同じクラスだもん。昨日の放課後、茶髪の元気そうな男の子と喋ってるのを見かけてさ」
紘弥のことか。あいつの目立ち方は、やはり他人の記憶に残りやすいらしい。
「なるほどな」
苦笑する俺に、サラは「今日の自己紹介、楽しみにしてるね!」と明るく笑いかけた。
人前に立つのも、自分について語るのも、昔からどうにも苦手だ。これからの時間を思うと、少しだけ足取りが重くなった。
教室に到着し、自分の席に腰を下ろして周囲を見渡すが、紘弥の姿がない。
(また、寝坊か……?)
嫌な予感は的中した。予鈴のチャイムと同時に、教室のドアが勢いよく開け放たれた。
「あっぶねー! ギリギリセーフ!」
肩で息をしながら、紘弥が俺の席までやってきた。
「……寝坊か?」
「えっ! いや、まぁ……その」
図星か。九条家の将来に、微かな不安を感じずにはいられない。
だが、上には上がいた。始業から十分が経過して現れた烏廻先生は、ネクタイを緩めたまま教壇に立った。
「いや~悪ぃ。……寝坊した。昨日の夜、ゲームしすぎたわ」
教室がしんと静まり返る。この人を『先生』と呼ぶのは今日で終わりにしようと、俺は密かに誓った。
「え~と、なにすんだっけ? あっ、そうそう。自己紹介か」
烏廻さんは面倒そうに髪をかき上げると、適当に出席名簿を叩いた。
「出席番号順にな。名前、趣味、あとは得意な属性の魔法を見せろ。じゃ、一番の奴から」
意外にもまともな進行で自己紹介が始まっていく。クラスメイトたちが次々と洗練された魔法を披露し、やがて俺の番が回ってきた。
「次ー」
烏廻さんの気だるげな声に促され、俺は教壇に立った。
「……桐宮隼人。趣味は料理。得意な属性は『火』だ。これからよろしく」
短く挨拶し、手のひらの上に小さな火を灯す。
制御を意識して出力を抑えた炎は、静かに揺らめきながら掌の上に収まっていた。
烏廻さんが小さく頷くのを確認し、俺は席へ戻る。
続く紘弥の番になると、空気は一変した。
「俺は九条紘弥! 趣味は人間観察、得意な属性は『雷』だ。よろしくな!」
紘弥が快活に笑いながら指先を鳴らすと、紫電が鋭い音を立てて爆ぜた。名門・九条家の名に、教室内が色めき立つ。
「なんか、すげぇ注目されちまったな」
自席に戻った紘弥が、満足げに小声で囁いてくる。
「あの九条家が、これ見よがしに雷を放てばそうなるだろ」
「まぁな。……あんまり家柄で見られるのは好きじゃねえんだけどさ」
肩をすくめながらも、すぐにいつもの調子に戻る。
「でも、これでモテモテの学園ライフが確定したぜ!」
彼の底抜けな明るさが本性の露呈を早め、その夢が散るのも時間の問題だろう。
続いて玲奈が教壇に立つ。
「西園寺玲奈。趣味は読書、得意な属性は『氷』です。以後お見知り置きを」
凛とした所作で氷の結晶を浮遊させる彼女に、教室のボルテージは最高潮に達した。西園寺家の令嬢というブランド、そしてあの美貌。野次馬たちが熱狂するのも無理はないが、俺だけは知っている。彼女が今、相当な『猫』を被っていることを。
次はサラの番だ。
「えぇーと……サラ・クロイツです! 趣味は人と話すこと、得意な属性は地属性です。これからよろしくね!」
彼女の手のひらから土塊が現れる。サラは席に戻る際、ふと俺と目が合うと、いたずらっぽく微笑んでみせた。
「あの子、隼人の知り合いなのか?」
「今朝エレベーターで会ったんだ。……よく気づいたな」
「いや、さっき隼人のこと見て笑ってただろ? 流石は趣味が人間観察なだけはあるな、俺」
照れ臭そうに笑う紘弥だが、別に褒めたつもりはない。
その後も自己紹介は続き、一人の男子生徒が前に出た。
「帝竜二。特に趣味はない。得意な属性は風」
鋭い突風が音もなく室内を駆け抜け、彼の特徴的な紫色の髪を揺らす。完璧に制御された魔力の奔流。
「帝って……あの帝か?」
俺が小声で尋ねると、紘弥も神妙な面持ちで頷いた。九条、西園寺に続いて帝。クラスメイトたちの困惑も無理はない。帝家もまた、八大貴族の一角なのだ。
「お前ら、騒ぎたい気持ちはわかるが静かにしろ~。一応言っておくが、クラス分けは適当だからただの偶然だ。……あ、これ内緒だったわ。今のは記憶から消しとけよ」
烏廻さんの身も蓋もない言葉に、俺は呆れを通り越してこの先の学園生活に暗雲を感じた。
(自己紹介が終わり、烏廻先生が教壇に立つ)
「よし、これで全員分終わったな。……じゃあ、残り時間は授業だ。教科書出せ」
不満げな声が上がる中、ホログラムスクリーンに複雑な術式の幾何学模様が浮かび上がる。
「まず初めに、魔法は万能じゃねぇ。無暗に魔力を流し込むんじゃなく、どう循環させれば最小の消費で最大の出力を得られるか。その『効率』こそが、実戦で生死を分ける」
周囲のエリートたちは、退屈そうにペンを回している。
だが、俺にはこの術式が、まるで精巧な時計の歯車が組み合わさっているように見えた。どこか一つでも噛み合わせがズレれば、全ての動きが止まってしまう、危うい均衡。
「――桐宮。お前、さっきから熱心だな。この術式の『流れ』、どこか気になるか?」
烏廻さんが不敵に笑いながら問いかける。俺はスクリーンをじっと見つめ、その中心部を指差した。
「……ここです。魔力の密度が、一箇所だけ高すぎる。例えるなら、川の流れを無理やり一箇所の細い管に押し込んでいるようなものです。発動の瞬間、そこが『詰まって』、魔法が形になる前に霧散する気がします」
一瞬の間。烏廻さんは口角をわずかに上げ、俺の頭をポンと叩いた。
「正解だ。大抵の奴は『魔力を注げば威力が出る』と信じて疑わねぇが、こいつは流れの渋滞までシミュレートされた意地悪な問題だ。お前ら、桐宮を見習えよ。魔力自慢だけでこの先やっていけると思うなよ」
その後も、みっちりと座学の授業が続いた。
『魔法史』に『術式構成概論』、『魔力地政学』。
周囲の生徒たちが睡魔や難解な数式と格闘する中、俺は淡々とペンを走らせた。魔力が一般的よりも遥かに少ない俺にとって、知識は唯一、自分を武装できる武器だったからだ。どの講師の言葉も、俺の頭の中にある理論のパズルを埋めていくピースに過ぎない。
(……やれる。実技はともかく、理論でなら誰にも負けない)
夕刻を告げるチャイムが校内に響き渡る。
ようやく全カリキュラムを終えた教室には、解放感に満ちた溜息が漏れた。
「あー、終わった終わった! 隼人、学食寄って帰ろうぜ。腹減って死にそうだ」
伸びをしながら声をかけてくる紘弥に誘われ、俺たちは学生たちの熱気で溢れる学食へと向かった。
「いやー、それにしてもマジで凄かったな!」
カレーを口に運びながら、紘弥が興奮冷めやらぬ様子で身を乗り出した。
「何がだよ」
「何がって、あの意地悪な問題だよ! 周りの連中がポカーンとしてる中、スッと正解しちまうんだもん。見てるこっちがスカッとしたぜ」
「……構造を理解してれば、そう難しい理屈じゃない。俺は、理論だけは人一倍叩き込んできたからな」
「――あ、やっぱり桐宮君だ! さっきは凄かったね!」
ふいに後ろから声をかけられ振り返ると、そこにはトレイを持ったサラが立っていた。その後ろには、蜜柑色のウェーブがかった髪を揺らしながら、サラの影に隠れるようにして立つ少女がいる。
「サラか」
「こっちの瑞希ちゃんとは、寮の部屋が隣で仲良くなったんだ」
サラに促され、その少女――橘瑞希が、少し緊張した面持ちで一歩前に出た。
彼女も同じクラスで、先ほど自己紹介をしていたのを覚えている。だが、こうして間近で言葉を交わすのは初めてだ。
サラに促され、その少女――橘瑞希が、少し緊張した面持ちで一歩前に出た。
「……橘瑞希です」
その後、俺の隣に座っている紘弥を見て、小さく頭を下げた。
「あの……九条君。お久しぶりです。覚えていますか? 橘の娘の、瑞希です。以前、一度だけパーティーで……」
「ああ! もちろん覚えてるぜ」
紘弥はすぐに笑顔を見せた。
「こうして同じクラスになったのも縁だし、これから仲良くやってこうぜ」
紘弥の屈託のない返答に、瑞希は少しだけ肩の力を抜いたように微笑んだ。そして、視線を俺の方へと移す。
「さっきの授業、本当に驚きました。あんな難しい問題をすぐに解いちゃうなんて、凄いですね」
少し俯き加減に、だが丁寧な敬語で話す彼女は、かなりの人見知りのようだ。
「……桐宮隼人だ。橘さん、よろしく。回答については、偶然俺の得意な分野だっただけだよ」
「あ……はい。よろしくお願いします、桐宮君」
「瑞希、行こ? じゃあね、隼人君! 紘弥君も!」
サラに腕を引かれ、瑞希はもう一度俺たちに小さく会釈をして、人混みの中へと消えていった。
「……おーおー、注目されてるねぇ、桐宮先生」
二人の背中を見送りながら、紘弥がニヤニヤしてこっちを見てくる。
「サラちゃんに続いて、橘のとこのお嬢さんまで『凄い凄いです』ってよ」
「……さっきも言ったろ?構造を理解してれば難しくない、誰だって答えられるし。それに、お世辞も入ってるだろ」
食事を終え、俺たちは人混みの学食を後にした。夕暮れに染まり始めた校舎を抜け、寮へ戻る道を歩く。
「いやー、初日から濃すぎだろ。九条に西園寺に帝とか、漫画かよって感じだわ」
「お前もその一人だろ」
「俺は違う違う。一般庶民代表だから」
どの口が言うのか。
寮に入り、エレベーターで三階へ上がる。
しかし、改めて防護術式があるとはいえ女子エリアとの生活圏の近さに妙な落ち着かなさを感じる。
部屋へ向かうため廊下へ出ると、一人の人影がドアの前に立っていた。水色の長い髪が、夕闇の差し込む廊下で淡く光って見える。
(……確か、ルイ・エスクードだったか)
俺の三〇三号室と、紘弥の三〇五号室。その間――三〇四号室のカードキーをかざしていたのは、紛れもなくクラスメイトの彼だった。
ルイはこちらの足音に気づくと、ゆっくりと振り返った。感情の読めない瞳が、じっと俺たちを捉える。
「……おや、桐宮君。それと、九条君でしたか」
鈴の鳴るような、だが温度の低い声が静かな廊下に響く。
「おう! 確かルイだったか? お前、ここが部屋だったのか! 隣同士、よろしくな!」
紘弥がいつもの人懐っこさで右手を差し出す。ルイは拒むことなく静かに握り返した。
「……ええ。こちらこそ、よろしくお願いします」
ルイは紘弥の手を離すと、今度は俺の方へと向き直った。そして、迷いのない所作で、俺の前にも右手を差し出してくる。
「……桐宮君も。これから、よろしくお願いします」
その視線には、単なる挨拶以上の「観察」の色が混じっているように感じられた。俺はその手を取り、短く「ああ、よろしくな」と応える。
「……では、失礼します。…また、明日」
ルイはそれだけ告げると、音もなく自室へと消えていった。
「……なんだか、不思議な雰囲気の奴だな」
「まあ、ああいうクールなのも格好いいんじゃねえの? 俺には無理だけどな!」
笑い飛ばす紘弥と別れ、俺も自室のドアを開けた。
静まり返った室内に、一日の疲れが一気に押し寄せてくる。ベッドへ腰を下ろし、天井を見上げる。
明日からは、いよいよ本格的な授業――そして、実戦形式の実技演習が始まるはずだ。
「……まあ、何はともあれ頑張るか」
小さく息を吐き、俺は静かに気合を入れ直した。
学園生活、二日目が終わろうとしていた。
