魔力の少ない魔法使い

長いようで短かった夏休みが終わり、学園には再び生徒たちの活気が戻ってきた。
……といっても、今は体育館で行われている始業式の真っ最中だ。
普通、始業式といえば校長の長い話がセットだが、俺の母親でもある学園長はそのあたりが非常に合理的だ。必要な連絡だけをちゃっちゃと済ませてくれる。
(……ありがたいけど、学園長としてそれはいいのか、母さん)
壇上で凛として立つ母の姿を見ながら、俺は内心でそっと突っ込んだ。
そんなことを考えていると、隣からじっとりとした声が聞こえてきた。
「……なあ隼人、死ぬほど暑くないか?」
親友の紘弥が、滝のような汗を拭いながら恨めしそうに言った。
確かに暑い。9月とはいえ、最近の地球温暖化とやらは容赦がないらしい。体育館という巨大な蒸し風呂の中に、数百人の熱気が閉じ込められているのだから当然だ。
ふと前を見ると、同じ班の玲奈が涼しい顔をして座っている。
あいつ、1滴も汗をかいていない。不公平すぎないか?
「……玲奈。お前、暑くないのかよ」
「別に? ……っていうか、あんたたち何でそんなに汗だくなのよ」
「「何でって……暑いからに決まってんだろ!」」
俺と紘弥がハモると、玲奈は心底呆れたようにため息をついた。
「あんたたち、まさか魔法使ってないの?」
「「……はい?」」
「私は氷属性の応用魔法で、自分の周りの気温を下げてるのよ。普通、魔法使いならそうするでしょ。……まあ、見たところ他にも使えてないバカはいるみたいだけど」
玲奈が指差した先には、他にも数人の生徒が茹で上がっていた。
「なるほど、その手があったか! よし、俺も……!」
紘弥が意気込んで魔力を練る。……が、一向に汗が止まる気配はない。
「……紘弥。お前、もしかして使えてないのか?」
「…………」
無言。あんなに自信満々だったのに。
玲奈がさらに冷たい視線を俺に向ける。
「……あんたも使えないんでしょ、隼人。氷属性の基礎中の基礎よ?」
「悪かったな。どうやるのかすら知らねえよ」
魔力操作には自信がついてきたつもりだったが、こういう「生活魔法」的なセンスは皆無らしい。
「……我慢しなさい。もうすぐ終わるわよ」
玲奈は前を向いた。
確かに、壇上の教頭が「新しい先生の紹介」を始めた。保健医が新しくなるらしい。
それより気になるのは、列の横で堂々と居眠りをしている烏廻さんだ。
いいのかよ、引率の教師が。
「うお! あの人、超美人だぞ!」
紘弥が急に身を乗り出した。

壇上に上がってきたのは、長身の女性だった。藍色の髪を後ろで束ね、同じ色の瞳が体育館全体を静かに見渡している。整った顔立ちは確かに美人だが、纏う空気が、すでに医療従事者のそれではなかった。
「新しく保健医に着任される、烏廻 (うかい あかね)先生です」
紘弥は「わざと怪我して診てもらう!」なんて息巻いているが、俺はそれどころじゃなかった。
「烏廻」……?
ふと、居眠りしていたはずの烏廻さんの方を見ると、そこには誰もいなかった。
その時――シュッ! という鋭い風切り音が体育館に響いた。
「……どこへ行こうとしているんだ、辰巳(たつみ)?」
冷徹な声と共に、出口へ向かおうとしていた烏廻さんの鼻先の壁に、銀色のメスが深々と突き刺さった。
「…………」
体育館が、氷をぶっかけられたように静まり返る。
「……挨拶が遅れた。新しく保健医を担当する烏廻 茜だ。そこにいる愚弟の――姉だ。よろしく頼む」
烏廻さんの姉!?
メスを投げた当の本人は、壇上から悪魔のような微笑みを烏廻さんに向けていた。そのプレッシャーは、距離がある俺たちにまで肌を刺すような寒気として伝わってくる。
「あ、そうそう。辰巳、後で話がある。……いいな?」
烏廻さんは顔を真っ青にし、玲奈の魔法より確実に冷たい汗を流していた。
「診てもらいに行けよ」
「い、嫌だ俺はまだ死にたくない」
紘弥はガクガクと震えていた。さっきまでの興奮はどこへ行ったんだ。
「……え、えー、以上をもちまして始業式を終わりたいと思います」
教頭の声は、明らかに動揺していた。


 
始業式が終わり、教室に戻った俺たちは、担任の烏廻さんを待っていた。
「……来るかな、烏廻さん」
「さあ……でも、来てもらわないと帰れないしね」
クラス中が「あのメス投げ先生」の話題で持ち切りだ。女子たちは「カッコいい!」と騒いでいるが、男子たちは烏廻先生の安否を心配している。
みんなでヒソヒソ話していると、ガラッと勢いよく扉が開いた。
入ってきた烏廻さんは、心なしか……いや、明らかにいつもと違っていた。
何より驚いたのは、その服装だ。
「……おい、見てみろよ」
「ネクタイがきっちり締められてる……」
いつもは第二ボタンまで開けて、だらしなく着崩しているあの烏廻さんが、まるで新米教師のように背筋を伸ばし、ネクタイを完璧な位置で固定している。
「悪い、遅くなった。連絡事項を伝える。明日から授業開始だ。忘れ物は決してしないように。……それから、魔闘祭(まとうさい)のクラスの出し物を考えておいてくれ。以上、解散!」
「…………」
一分もかからなかった。教室が、嵐が過ぎ去った後のように静まり返る。
「……あれ、本当に烏廻さんか?」
「あんなに真面目なの、初めて見たわ……」
烏廻さんは、まるで背後に死神でも見えているかのように、逃げるような速足で教室を出ていった。
「……相当、脅されたんでしょうねぇ」
ルイが隣でクスクスと、いつも通りの不敵な笑みを浮かべて言った。
「あの顔は『逆らったら命がない』と完全に理解した者の顔でした」
「……お前がそれ言うと、シャレにならないんだよ」
ルイの言葉の裏にある闇を想像して、俺と紘弥は同時に身震いした。
とりあえず、ルイとあの茜先生には一生逆らわないでおこう。俺たちは無言で固い握手を交わした。
「それにしても、魔闘祭の出し物か……」
「……なあ、隼人。聞いたか? 『出し物』だってよ」
不意に、隣の紘弥が低く、重々しい声で話しかけてきた。
見ると、あいつはさっきまでの恐怖に震えていた顔とは打って変わって、まるで革命を志す戦士のような、鋭くもギラついた瞳をしていた。
「……なんだよ、急に。お化け屋敷でもやりたいのか?」
「甘い。甘すぎるぞ隼人。お前は分かっていない。魔闘祭……それは学園最大の行事。他校からも、一般客からも、大勢の人間が来る。つまり、俺たちの『理想』を世界に知らしめる絶好の機会なんだ」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「まあ、それはあとのお楽しみだ」

俺も帰る準備をしていると、廊下の方から「カツ、カツ」と、硬く重い足音が聞こえてきた。体育館で聞いた、あのメスを投げた女の足音だ。教室に残っていた生徒たちの肩が、一斉にビクッと跳ね上がる。
「……ん?まだ残っていたのか、さっさと帰れ」
入り口に立っていたのは、烏廻茜だった。
白衣のポケットに手を突っ込み、壁に寄りかかる姿は、教師というよりはどこかの用心棒か、凄腕の医者といった風情だ。その瞳は冷徹で、向けられるだけで心臓を直接掴まれたような錯覚に陥る。

「あ、あの……茜先生。烏廻……辰巳先生ならさっき……」
俺が恐る恐る声をかけると、茜先生は鼻で笑った。
「ああ、知っている。あいつなら、職員室で真面目に仕事している。……昔からそうだ。逃げ足だけは一級品だが、詰めが甘い」
茜先生はポケットから一本のメスを取り出し、器用に指先で弄ぶ。銀色の刃が夕日を反射して、不気味に光った。「お前は、確か……桐宮隼人だな」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がひやりとした。
「は、はい」
「……ふむ」
茜先生の視線が、俺の顔から首元、胸元へとゆっくり滑る。
「……確かに弱まっているな」
「え?」
 弱まっている? 何が?
体調は悪くないはずだ。むしろ合宿が終わって少し身体は軽いくらいで――そう言い返そうとした俺の言葉を、先生の声が遮った。
「気にするな」
そう言うと、先生はくるりと背を向けた。
「魔闘祭では怪我人は確実に出る。……大抵の怪我なら治せるが、怪我をしないに越したことはない。今後の授業でもそうだが、無茶はするなよ」
扉を出る直前、先生はもう一度だけこちらを振り返った。
「――特にお前はな」
その言葉だけが、妙に重く残った。