魔力の少ない魔法使い

深い、深い泥の底に沈んでいるような感覚だった。
 冷たくもなく、熱くもない。
 ただひたすらに重く、心地よい微睡み。
 指先一つ動かす気力すら湧かず、このままずっと意識を手放していたいとすら思えるほど、俺の精神も身体も限界を迎えていた。
 永遠に続くかと思われた静寂は、ぶっきらぼうな声によって唐突に破られた。
「……おい。いつまで寝ているつもりだ、隼人」
 暗闇の底から、ゆっくりと意識が浮かび上がっていく。
 重い瞼をどうにか開く。
 そこに広がっていたのは、現実の景色ではなかった。
 見渡す限り続く草原。
 何度か訪れたことのある、俺の精神世界。
 そして目の前には、腕を組み、呆れたようにこちらを見下ろすアースが立っていた。
「……アース」
「まだまだ戦い方がなってねぇな。俺の力まで使っておいてこの様とは……よく生き残ったもんだ」
「起きて早々説教かよ……これでも、自分なりにかなり頑張った方なんだけど」
 苦笑しながら返すと、アースは小さく鼻を鳴らした。
「今回は運が良かったな。あいつに迷いがなけりゃ、やられてたのはお前の方だったかもしれねぇ」
「……イーラか」
「ああ。まあ、その場合はあのクソガキがどうにかしただろうがな」
「……そうかもな」
 そう答えかけて、俺はふと引っかかった。
「って……クソガキって、烏廻さんのことか?」
「他に誰がいる」
「やっぱり……」
 十五年前。
 アースがこの学園に現れた時、烏廻さんはまだ生徒だった。
 そして父さんは、唯一アースとまともに渡り合えた人間だった。
 そこまでは聞いている。
 でも――。
「なあ、アース」
「なんだ」
「十五年前……なんでお前はこの学園を襲ったんだ?」
「…………」
 アースの目が僅かに細くなる。
 けれど、すぐに面倒そうに視線を逸らした。
「今はまだ、お前が知る必要はねぇ」
「またそれかよ」
「焦らなくても、そのうち嫌でも分かる」
「そのうちっていつだよ」
「さあな」
「おい!」
 取り付く島もない。
 アースはそれ以上話すつもりがないらしく、無理やり話を打ち切るように息を吐いた。
「もう戻れ。外で騒がしい連中がお前の目覚めを待ってるぞ」
「え?」
 その言葉を最後に、アースの姿がゆっくりと霞み始めた。
 同時に、精神世界全体が眩い白に染まっていく。
「あ、おい、アース! まだ話は――」
 抗議の声も届かない。
 意識が強く引っ張られる。
 そして――。
「……ん」
 ゆっくりと目を開ける。
 最初に視界へ入ったのは、真っ白な天井だった。
 鼻を突く薬品の匂い。
 静かな室内に響く、微かな機械音。
(……どこだ、ここ)
 身体を起こそうとした。
「っ……」
 全身が重い。
 腕にも足にもほとんど力が入らず、身体を少し動かしただけで筋肉の奥に鈍い痛みが走った。
「……っ、隼人!?」
 突然、すぐ横から大声が響く。
「うるさ……」
 顔だけをそちらへ向けると、ベッド脇にいた紘弥が勢いよく立ち上がっていた。
 髪は少し乱れ、目元には疲労の色が残っている。
「お前……目ぇ覚ましたのか!?」
「……紘弥。声でかい……頭に響く」
「バカ野郎! でかくもなるだろ! お前、丸三日も寝てたんだぞ!」
「……三日?」
 思わず聞き返した。
 せいぜい一晩程度だと思っていた。
「マジで?」
「マジだよ!」
 紘弥はそう叫ぶと、勢いよく病室の外へ飛び出していった。
「おい! みんな! 隼人が目ぇ覚ましたぞ!」
「……相変わらずうるせぇな」
 思わず苦笑する。
 それから間もなく、廊下から複数の足音が聞こえてきた。
 次の瞬間。
 病室の扉が勢いよく開く。
「隼人!」
 真っ先に入ってきたのは姉ちゃんだった。
 その後ろから玲奈、サラ、橘、五十嵐たちも続いてくる。
「あんたって子は、本当に……!」
 姉ちゃんは俺の顔を見るなり目に涙を浮かべ、ベッドのそばまで駆け寄ってきた。
「三日も目を覚まさないから……っ」
「ごめん、姉ちゃん」
「謝るくらいなら、もう少し自分の身体を大事にしなさいよ……」
 声を震わせながらも、その表情には安堵が滲んでいた。
 玲奈を見る。
「…………」
 目が合った瞬間、玲奈はふいっと顔を逸らした。
 その目元は少し赤い。
「玲奈?」
「……何よ」
「いや……」
「三日も寝てたくせに、起きて最初から呑気そうな顔してるから腹立っただけよ」
「それ俺のせいか?」
「うるさい」
 そう言いながらも、玲奈の口元が僅かに緩む。
「……本当に、よかった」
 最後の一言だけが、小さく聞こえた。
「隼人君、本当に大丈夫?」
 サラが心配そうに俺の顔を覗き込む。
「ああ。身体はめちゃくちゃ痛いけど」
「それを大丈夫とは言わないと思う……」
「確かに」
 そのやり取りに、周囲から小さな笑いが漏れた。
「ふん。やっと起きたか」
 入り口の壁際では、帝が腕を組んで立っていた。
「手間のかかる奴だ」
「起きたばっかの病人にそれ言うか?」
「三日も寝続けた奴が悪い」
「無茶言うなよ……」
 いつもの調子。
 けれど帝の表情からも、明らかに肩の力が抜けているのが分かった。
 みんなの顔を見渡しているうちに、ふと一人の姿がないことに気づく。
「……そうだ。ルイは?」
 空気が僅かに変わる。
「あの時、まだ意識戻ってなかっただろ」
「ああ、大丈夫だ」
 紘弥が答えた。
「あいつなら昨日目ぇ覚ましたよ。まだ安静にしてるから、ここには来てねえけどな」
「……そっか」
 思わず、深く息を吐いた。
 ルイも無事だった。
「よかった……」
 その一言が自然と漏れる。
 本当に、誰も欠けなかった。
 そこでようやく、戦いが終わったことを少しずつ実感できた。
「お前らー、見舞いもそこそこにしとけよ。桐宮はまだ絶対安静なんだからな」
 聞き慣れた、気の抜けた声が飛んでくる。
 病室へ入ってきたのは烏廻さんだった。
 その後ろには優斗さん、茜さん――そして母さんもいる。
「母さん……」
 みんなが道を空ける。
 母さんは真っ直ぐ俺のベッドまで歩いてくると、小さく息を吐いた。
「……無事でよかったわ、隼人」
 そっと頬に手を添えられる。
「本当に、よく頑張ったわね」
「……うん」
 それだけで、少し照れ臭くなった。
「母さん。学園は……どうなった?」
 俺が尋ねると、母さんの表情が学園長のものへ変わった。
「被害はかなり大きいわ。結界の修復も必要だし、壊された施設も多い。しばらく学園は休校にする予定よ」
「やっぱりか……」
「魔法協会への報告、襲撃者への対応、生徒たちや保護者への説明もある。教師陣はしばらく忙しくなりそうね」
 よく見ると、母さんだけじゃない。
 烏廻さんも、優斗さんも、茜さんも疲れた顔をしている。
 俺が眠っていた三日間、ろくに休む暇もなかったのだろう。
「……あいつらは?」
 もう一つ、気になっていたことを尋ねる。
「捕まってたイーラの部下たち」
 優斗さんが答えた。
「全員、学園の地下にある特別拘束室へ移した。今のところは驚くほど大人しい」
「全員?」
「ああ。目を覚ました直後に多少暴れた奴はいたが、今は落ち着いている。逃げようとする様子もない」
「…………」
「それどころか、こちらの質問にも素直に答えている。今回の襲撃の目的や、拠点にしていた場所についてもな」
「そんなに?」
「恐らく、イーラから何か言われていたんだろう」
 その言葉で、体育館へ戻る途中に聞いた話を思い出した。
 ――俺がどうなろうと、お前たちは自分の人生を生きろ。
「……イーラは?」
 俺は烏廻さんを見る。
「死体……見つかったんですか?」
「いや」
 烏廻さんは首を横に振った。
「あの後、周辺も徹底的に調べたが、何も見つかってねぇ」
「…………」
「お前の一撃で消滅した可能性はある。だが、痕跡すら残ってねぇ以上、死んだと断言することもできない」
「……そっか」
 予想していた答えだった。
 それでも、胸の奥に何かが残る。
「たぶん……生きてると思います」
「隼人?」
 母さんが俺を見る。
「根拠はないけど……なんとなく、あれで終わった気がしないんです」
 烏廻さんは何も言わなかった。
 ただ、少しだけ目を細める。
 イーラが生きているのか。
 もし生きているなら、どこにいるのか。
 そして次に会った時、また敵として向き合うことになるのか。
 今は、何一つ分からない。
 けれど――。
(次に会えたら……)
 今度は、剣を交える前に。
 もう少しだけ、あいつの話を聞いてみたい。
「……今はまだ、先のことは考えなくていいわ」
 母さんが俺の頭を優しく撫でる。
「まずは身体を治すこと。それが今のあなたの最優先よ」
「……うん」
「そうそう。今度こそ大人しく寝てなさい」
「三日も寝たんだけどな……」
「足りないわ」
「マジかよ」
 姉ちゃんの即答に、みんなから小さな笑いが漏れた。
 俺もつられて笑う。
 身体はまだ痛い。
 学園もボロボロだ。
 イーラがどうなったのかも分からない。
 問題は何一つ、綺麗には片付いていない。
 それでも――。
 みんな生きている。
 今は、それで十分だった。
 俺は静かに息を吐き、枕へ身体を預けた。
(……今度こそ、ちゃんと話せたらいいな)
 そんなことを考えながら、俺はそっと瞼を閉じた。