深い、深い泥の底に沈んでいるような感覚だった。
冷たくもなく、熱くもない。ただひたすらに重く、心地よい微睡み。指先一つ動かす気力すら湧かず、むしろこのまま永遠に意識を手放していたいとすら思えるほど、俺の精神と肉体は限界を迎えていた。
永遠に続くかと思われたその静かな空間は、ぶっきらぼうな声によって唐突に破られた。
「……おい。いつまで寝ているつもりだ、隼人」
暗闇の中で、ゆっくりと意識が浮上していく。
ひどく重い瞼をどうにか押し上げると、そこは現実の世界ではなく、草原が広がる俺の精神世界の風景だった。
目の前には、腕を組んで呆れたようにこちらを見下ろすアースの姿がある。
「……アース」
「まだまだ戦い方がなってねぇな。俺の力を使っておきながらこの様とは……よく生きていたな」
「いきなり説教かよ……これでも、自分なりにかなり頑張った方だと思うけど」
俺が苦笑交じりに返すと、アースは小さく鼻を鳴らした。
「今回は運が良かったな。相手に一瞬でも迷いがなかったら、やられてたのはお前の方だろうぜ。……まあ、その場合はあのクソガキがどうにかしただろうが」
「……そうかもな」
アースの言葉に素直に頷きかけて、俺はふと強い引っかかりを覚えた。
「って……クソガキって烏迴さんのことか? そういや、お前と烏迴さんってどういう関係なんだ? お互い知ってるようだし。あとは母さんとか……それに、俺は会ったことはないけど、父さんも」
これまでずっと胸の奥につかえていた、大人たちとアースの因縁。その問いを聞いた瞬間、アースは微かに目を細めた。
どこか遠くを懐かしむような、それでいてひどく気まずいような顔をして、ふいっと視線を逸らす。
「……目覚め際によく回る口だ。今はそんな昔話をしてる余裕はねぇよ」
「誤魔化すなって。これだけ色々あれば、そりゃ嫌でも気になるだろ」
「チッ……今はまだお前が知る必要はねぇってことだ。焦らなくても、そのうち嫌でも分かる」
アースはそれ以上語るつもりはないらしく、無理やり話を打ち切るように大きく息を吐いた。
「さっさと戻れ。外で騒がしい連中が、ずっとお前のことを待っているぞ」
その言葉を最後に、アースの姿が蜃気楼のように霞み、精神世界が眩い白に染まっていく。
「あ、おい、アース……! まだ話は――」
抗議の声も虚しく、俺の意識は強烈な引力に引っ張られるように、急速に現実へと引き戻されていった。
そして――。
眩い光に顔をしかめながら、俺はゆっくりと現実の目を開けた。
真っ白い天井。鼻を突くツンとした薬品の匂い。遠くで微かに聞こえる機械の駆動音。
どうやら、どこかの病院か学園の医務室かどこかのベッドに寝かされているらしい。
「……ん」
身体を動かそうとしたが、まるで全身が鉛になったかのように重くて全く力が入らない。全身の筋肉が軋み、鈍い痛みが走る。
だが、俺が発したその微かな物音に反応して、ベッドのすぐ横でうつ伏せになっていた人影がガバッと顔を上げた。
「……っ、隼人!?」
寝癖で髪をボサボサにし、目の下に濃いクマを作った絋弥だった。ずっと俺の傍についていてくれたのだろう。
俺と目が合った瞬間、その顔がくしゃりと無様に歪む。
「お前……ッ! 気がついたのか!?」
「……絋弥。声、でかい……頭に響く」
「バカ野郎! でかくもなるだろ! お前、丸三日もぶっ倒れてたんだぞ!?」
「みっか……?」
思わず目を丸くする。数時間、せいぜい一晩程度のつもりが、そんなに眠っていたのか。
「おい、誰か! 先生! 隼人が目を覚ましたぞ!!」
絋弥が鼓膜が破れそうな大声で叫びながら、ナースコールも押さずに廊下へと飛び出していく。相変わらず騒がしいやつだ。
それから数分もしないうちに、バタバタと複数の足音が近づき、病室のドアが勢いよく開け放たれた。
勢いよく開いた扉から、真っ先に飛び込んできたのは姉ちゃんだった。
その後ろから、玲奈やサラ、橘、五十嵐たちも顔を覗かせる。
「あんたって子は、本当に……!」
姉ちゃんは俺の顔を見るなりボロボロと大粒の涙を零し、そのままベッドの縁にへたり込んだ。強気な玲奈も真っ赤に腫らした目を隠すように顔を背け、肩を震わせている。サラは胸の前で両手を組み、祈りが通じたとばかりにほっと深い息を吐いていた。
入り口の壁際には、帝が腕を組んで立っていた。「ふん。やっと起きたか、手間のかかる奴だ」と憎まれ口を叩きながらも、その口元には確かな安堵の笑みが浮かんでいる。
俺は集まってくれた顔ぶれを見渡し、ふと一つの懸念を思い出した。
「……そうだ、ルイはどうなった?あの時、まだ意識が戻ってなかっただろ」
「大丈夫だぜ、あいつは昨日目を覚ましたんだ、まだ安静だから部屋からは出れないけど」
俺が尋ねると絋弥が答えてくれた。
「そっか……よかった」
胸の奥底から、深く安堵の息が漏れた。
ルイも無事だった。傷だらけになりながらも、本当に誰も欠けることなくここにいる。
ようやく俺は、すべてが終わったのだと、心からの安堵と共に実感することができた。
「お前らー、見舞いもそこそこにしておけよ。桐宮はまだ絶対安静なんだからな」
その時、いつものようなやる気のない、だらけた声と共に病室に入ってきたのは烏迴さんだった。その後ろには優斗さんと茜さん、そして母さんが控えている。
生徒たちがさっと左右に道を開けると、母さんは真っ直ぐに俺のベッドのそばまで来て、張り詰めていた糸が切れたように小さく息を吐いた。
「……無事でよかったわ、隼人。本当によく頑張ったわね」
優しく頬に触れる母さんの手は、少しだけ冷たかった。
「母さん……学園の方は、どうなったんだ?」
俺の問いに、母さんは学園長としての顔に戻り、僅かに表情を硬くした。
「被害は甚大よ。結界の完全な修復と、破壊された施設の再建が必要だから、当分の間、学園は休校措置を取ろうと思ってるわ。……事後処理や魔法協会への報告で、教師陣もてんてこ舞いよ」
よく見れば、母さんだけでなく、烏迴さんや優斗さんたちの目元にも深い疲労の色が滲んでいる。俺が眠っていたこの三日間、大人たちは一睡もせずに学園の事後処理や生徒たちのケアに追われていたのだろう。
「そうか……みんな、ごめん」
俺は気になっていた、もう一つの懸念を口にする。
「……あいつらは?捕まってた、イーラの部下たちはどうなったんだ」
その言葉に、優斗さんが腕を組みながら前に出た。
「全員、学園の地下にある特別拘束室に入れている。今の所は驚くほど大人しくてな。インヴィってのが目を覚ました時に多少暴れはしたが……まあ、頑丈に拘束しているから大したことはできない。他の奴らは誰一人として暴れたり、逃げ出そうとしたりする素振りを見せていない」
「……」
「それに、拍子抜けするくらいこちらの質問には素直に答えている。今回の襲撃の目的や、連中が拠点にしていたアジトの場所までな……恐らくイーラってのがもしもの時はそうしろとでも言っていたんだろう」
「……イーラの死体は見つかったんですか?」
俺が静かに問いかけると、烏迴さんが首を横に振って頭を掻いた。
「いや。あの後、周辺を徹底的に探してみたが、イーラの姿はどこにもなかった。お前の最後の一撃で跡形もなく消し飛んだと考えるのが妥当だが……痕跡すら何も残っていない以上、確実に死んだとは断言できないな」
生きていてほしい。
あの時聞いた、イーラの部下の悲痛な声が脳裏をよぎる。
「……そっか」
俺は白い天井を見上げ、小さく呟いた。
「たぶん……生きてると思います。あいつは」
「隼人?」
「俺にも上手く言えないけど……そんな気がするんです」
病室に重い静寂が落ちる。
もしイーラが生きているなら、この戦いはまだ終わっていないのかもしれない。いずれまた、互いの信念を懸けてぶつかり合う日が来るのかもしれない。
それとも、今度はちゃんと話し合うことができるのだろうか。
そんな淡い期待が、ほんの少しだけ胸の奥に残っていた。
けれど、今は何も分からない。
イーラが生きているのか。
もし生きているのなら、どこにいるのか。
そして、次に会った時、俺たちは敵として向き合うのか、それとも――。
今の俺には、答えを出すことはできなかった。
ただ一つだけ確かなのは、今は身体を休めるしかないということだ。
「……今はまだ、先のことは考えなくていいわ」
沈んだ空気を払拭するように、母さんが俺の頭を優しく撫でた。
「まずはゆっくり休んで、身体を治すこと。それが今のあなたの最優先の任務よ」
「……うん」
母さんの手の温もりと、ベッドを囲んでくれる仲間たちの気配を感じながら、俺は再び静かに目を閉じた。
次にイーラと会う時が来るのかは分からない。
けれど、もしその時が来たなら――。
「……今度こそ、ちゃんと話せたらいいな」
そんな言葉を小さく呟いて、俺は目を閉じた。
冷たくもなく、熱くもない。ただひたすらに重く、心地よい微睡み。指先一つ動かす気力すら湧かず、むしろこのまま永遠に意識を手放していたいとすら思えるほど、俺の精神と肉体は限界を迎えていた。
永遠に続くかと思われたその静かな空間は、ぶっきらぼうな声によって唐突に破られた。
「……おい。いつまで寝ているつもりだ、隼人」
暗闇の中で、ゆっくりと意識が浮上していく。
ひどく重い瞼をどうにか押し上げると、そこは現実の世界ではなく、草原が広がる俺の精神世界の風景だった。
目の前には、腕を組んで呆れたようにこちらを見下ろすアースの姿がある。
「……アース」
「まだまだ戦い方がなってねぇな。俺の力を使っておきながらこの様とは……よく生きていたな」
「いきなり説教かよ……これでも、自分なりにかなり頑張った方だと思うけど」
俺が苦笑交じりに返すと、アースは小さく鼻を鳴らした。
「今回は運が良かったな。相手に一瞬でも迷いがなかったら、やられてたのはお前の方だろうぜ。……まあ、その場合はあのクソガキがどうにかしただろうが」
「……そうかもな」
アースの言葉に素直に頷きかけて、俺はふと強い引っかかりを覚えた。
「って……クソガキって烏迴さんのことか? そういや、お前と烏迴さんってどういう関係なんだ? お互い知ってるようだし。あとは母さんとか……それに、俺は会ったことはないけど、父さんも」
これまでずっと胸の奥につかえていた、大人たちとアースの因縁。その問いを聞いた瞬間、アースは微かに目を細めた。
どこか遠くを懐かしむような、それでいてひどく気まずいような顔をして、ふいっと視線を逸らす。
「……目覚め際によく回る口だ。今はそんな昔話をしてる余裕はねぇよ」
「誤魔化すなって。これだけ色々あれば、そりゃ嫌でも気になるだろ」
「チッ……今はまだお前が知る必要はねぇってことだ。焦らなくても、そのうち嫌でも分かる」
アースはそれ以上語るつもりはないらしく、無理やり話を打ち切るように大きく息を吐いた。
「さっさと戻れ。外で騒がしい連中が、ずっとお前のことを待っているぞ」
その言葉を最後に、アースの姿が蜃気楼のように霞み、精神世界が眩い白に染まっていく。
「あ、おい、アース……! まだ話は――」
抗議の声も虚しく、俺の意識は強烈な引力に引っ張られるように、急速に現実へと引き戻されていった。
そして――。
眩い光に顔をしかめながら、俺はゆっくりと現実の目を開けた。
真っ白い天井。鼻を突くツンとした薬品の匂い。遠くで微かに聞こえる機械の駆動音。
どうやら、どこかの病院か学園の医務室かどこかのベッドに寝かされているらしい。
「……ん」
身体を動かそうとしたが、まるで全身が鉛になったかのように重くて全く力が入らない。全身の筋肉が軋み、鈍い痛みが走る。
だが、俺が発したその微かな物音に反応して、ベッドのすぐ横でうつ伏せになっていた人影がガバッと顔を上げた。
「……っ、隼人!?」
寝癖で髪をボサボサにし、目の下に濃いクマを作った絋弥だった。ずっと俺の傍についていてくれたのだろう。
俺と目が合った瞬間、その顔がくしゃりと無様に歪む。
「お前……ッ! 気がついたのか!?」
「……絋弥。声、でかい……頭に響く」
「バカ野郎! でかくもなるだろ! お前、丸三日もぶっ倒れてたんだぞ!?」
「みっか……?」
思わず目を丸くする。数時間、せいぜい一晩程度のつもりが、そんなに眠っていたのか。
「おい、誰か! 先生! 隼人が目を覚ましたぞ!!」
絋弥が鼓膜が破れそうな大声で叫びながら、ナースコールも押さずに廊下へと飛び出していく。相変わらず騒がしいやつだ。
それから数分もしないうちに、バタバタと複数の足音が近づき、病室のドアが勢いよく開け放たれた。
勢いよく開いた扉から、真っ先に飛び込んできたのは姉ちゃんだった。
その後ろから、玲奈やサラ、橘、五十嵐たちも顔を覗かせる。
「あんたって子は、本当に……!」
姉ちゃんは俺の顔を見るなりボロボロと大粒の涙を零し、そのままベッドの縁にへたり込んだ。強気な玲奈も真っ赤に腫らした目を隠すように顔を背け、肩を震わせている。サラは胸の前で両手を組み、祈りが通じたとばかりにほっと深い息を吐いていた。
入り口の壁際には、帝が腕を組んで立っていた。「ふん。やっと起きたか、手間のかかる奴だ」と憎まれ口を叩きながらも、その口元には確かな安堵の笑みが浮かんでいる。
俺は集まってくれた顔ぶれを見渡し、ふと一つの懸念を思い出した。
「……そうだ、ルイはどうなった?あの時、まだ意識が戻ってなかっただろ」
「大丈夫だぜ、あいつは昨日目を覚ましたんだ、まだ安静だから部屋からは出れないけど」
俺が尋ねると絋弥が答えてくれた。
「そっか……よかった」
胸の奥底から、深く安堵の息が漏れた。
ルイも無事だった。傷だらけになりながらも、本当に誰も欠けることなくここにいる。
ようやく俺は、すべてが終わったのだと、心からの安堵と共に実感することができた。
「お前らー、見舞いもそこそこにしておけよ。桐宮はまだ絶対安静なんだからな」
その時、いつものようなやる気のない、だらけた声と共に病室に入ってきたのは烏迴さんだった。その後ろには優斗さんと茜さん、そして母さんが控えている。
生徒たちがさっと左右に道を開けると、母さんは真っ直ぐに俺のベッドのそばまで来て、張り詰めていた糸が切れたように小さく息を吐いた。
「……無事でよかったわ、隼人。本当によく頑張ったわね」
優しく頬に触れる母さんの手は、少しだけ冷たかった。
「母さん……学園の方は、どうなったんだ?」
俺の問いに、母さんは学園長としての顔に戻り、僅かに表情を硬くした。
「被害は甚大よ。結界の完全な修復と、破壊された施設の再建が必要だから、当分の間、学園は休校措置を取ろうと思ってるわ。……事後処理や魔法協会への報告で、教師陣もてんてこ舞いよ」
よく見れば、母さんだけでなく、烏迴さんや優斗さんたちの目元にも深い疲労の色が滲んでいる。俺が眠っていたこの三日間、大人たちは一睡もせずに学園の事後処理や生徒たちのケアに追われていたのだろう。
「そうか……みんな、ごめん」
俺は気になっていた、もう一つの懸念を口にする。
「……あいつらは?捕まってた、イーラの部下たちはどうなったんだ」
その言葉に、優斗さんが腕を組みながら前に出た。
「全員、学園の地下にある特別拘束室に入れている。今の所は驚くほど大人しくてな。インヴィってのが目を覚ました時に多少暴れはしたが……まあ、頑丈に拘束しているから大したことはできない。他の奴らは誰一人として暴れたり、逃げ出そうとしたりする素振りを見せていない」
「……」
「それに、拍子抜けするくらいこちらの質問には素直に答えている。今回の襲撃の目的や、連中が拠点にしていたアジトの場所までな……恐らくイーラってのがもしもの時はそうしろとでも言っていたんだろう」
「……イーラの死体は見つかったんですか?」
俺が静かに問いかけると、烏迴さんが首を横に振って頭を掻いた。
「いや。あの後、周辺を徹底的に探してみたが、イーラの姿はどこにもなかった。お前の最後の一撃で跡形もなく消し飛んだと考えるのが妥当だが……痕跡すら何も残っていない以上、確実に死んだとは断言できないな」
生きていてほしい。
あの時聞いた、イーラの部下の悲痛な声が脳裏をよぎる。
「……そっか」
俺は白い天井を見上げ、小さく呟いた。
「たぶん……生きてると思います。あいつは」
「隼人?」
「俺にも上手く言えないけど……そんな気がするんです」
病室に重い静寂が落ちる。
もしイーラが生きているなら、この戦いはまだ終わっていないのかもしれない。いずれまた、互いの信念を懸けてぶつかり合う日が来るのかもしれない。
それとも、今度はちゃんと話し合うことができるのだろうか。
そんな淡い期待が、ほんの少しだけ胸の奥に残っていた。
けれど、今は何も分からない。
イーラが生きているのか。
もし生きているのなら、どこにいるのか。
そして、次に会った時、俺たちは敵として向き合うのか、それとも――。
今の俺には、答えを出すことはできなかった。
ただ一つだけ確かなのは、今は身体を休めるしかないということだ。
「……今はまだ、先のことは考えなくていいわ」
沈んだ空気を払拭するように、母さんが俺の頭を優しく撫でた。
「まずはゆっくり休んで、身体を治すこと。それが今のあなたの最優先の任務よ」
「……うん」
母さんの手の温もりと、ベッドを囲んでくれる仲間たちの気配を感じながら、俺は再び静かに目を閉じた。
次にイーラと会う時が来るのかは分からない。
けれど、もしその時が来たなら――。
「……今度こそ、ちゃんと話せたらいいな」
そんな言葉を小さく呟いて、俺は目を閉じた。
