魔力の少ない魔法使い

「さあ、中に入りましょう。友達も待ってるわよ」
 姉ちゃんに促され、俺は体育館の鉄扉へと向き直る。
「開けるぞ」
烏迴さんが重々しい音を立てて扉を開いた。
むわっとした熱気と、微かな薬品の匂いが鼻を突く。
避難場所となっている体育館内には大勢の生徒たちが身を寄せ合っていた。
そして、ゆっくりと足を踏み入れた瞬間――。
「――隼人!」
 真っ先に俺の姿を見つけて、弾かれたように駆け寄ってきたのは絋弥だった。
 その背後から、玲奈とサラも周囲の生徒たちを掻き分けるようにしてこちらへ駆けてくる。
 三人とも、その制服は先ほどの激しい戦闘を物語るようにあちこちが破れ、土埃や煤に塗れてボロボロだった。だが、足取りはしっかりとしており、身体に目立った重傷は残っていないようだ。その事実だけで、俺の胸の奥に詰まっていた重い塊がすっと溶けていくのを感じた。
「絋弥……玲奈、サラ……」
「バカ野郎、ボロボロじゃねえか!」
 絋弥が俺の肩を力強く叩こうとして手を伸ばしかける。だが、俺が立っているのもやっとの満身創痍な状態であることに気づいたのか、どこを触っていいのか分からず、慌てて空中で手を引っ込めた。
「隼人君!……無事でよかった!」
 サラが安堵したように、涙を拭い微かに頬を緩める。
「隼人……」
 玲奈は、痛々しい俺の姿をじっと見つめていた。その大きな瞳には薄っすらと涙が浮かんでおり、ぎゅっと握りしめられた両手は微かに震えている。
「本当に、無茶ばっかりして……」
「ごめん」
「……別に。謝らなくていいわよ」
 玲奈はそう言って、涙を隠すようにふいっと顔を背けた。
「ただ……心配したんだから」
 最後の言葉だけは、消え入りそうなほど小さな声だった。強気な彼女なりの、精一杯の本音だった。
「ごめん……お前らが命懸けで繋いでくれたおかげで、なんとかなったよ」
 改めて三人の顔を見渡す。
 汚れ、傷つきながらも、俺を信じて戦い抜いてくれた大切な仲間たち。こうしてまた全員で生きて顔を合わせることができた。
「……よかった」
 自然と、そんな言葉が口から漏れた。
「桐宮」
 少し離れた場所から、黒崎が短く声をかけてくる。壁に寄りかかりながら静かに俺を見つめていた。鋭い目つきは相変わらずだが、そこに敵意はない。
「……無事でよかった」
「ああ」
 短いやり取りだったが、それだけで十分だった。多くを語らない黒崎らしい、不器用だが確かな気遣いが伝わってくる。
「本当にお疲れさま。戻ってきてくれて良かったよ」
 続いて五十嵐が歩み寄ってきて、労うように微笑んだ。彼女自身も相当な疲労を抱えているはずだが、その顔には心強い笑みが浮かんでいる。
「五十嵐……ありがとう」
「礼なんていいよ。それより――」
 五十嵐が俺の顔を見つめ、それから体育館の奥へと視線を促す。
「みんなにも、ちゃんと顔を見せてあげなよ」
 その言葉に導かれるように視線を向けると、橘が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「本当にお疲れさま、桐宮くん。今は何も考えなくていいから、ゆっくり休んで」
 橘はそう言って、深く頭を下げる。
「……ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
 橘が心底安堵したように微笑んだ、その直後だった。
「……随分と酷い有様だね、桐宮」
 その隣から、聞き慣れた声が降ってきた。帝だ。
「帝……そういうお前も結構ボロボロじゃねえか」
「……フッ、違いない」
 いつものように鼻で笑って言い返すかと思いきや、帝は自嘲気味に小さく笑って肩をすくめた。プライドの高いこいつにしては、珍しい反応だ。
 そして、それまでとは違う真剣な眼差しで俺の姿を真っ直ぐに見据える。
「それで……勝ったのか?」
「ああ」
「そうか」
 帝はそれ以上、上空で何があったのか、どうやって倒したのかといった詳細を聞き出そうとはしなかった。
「……なら、十分だ」
 相変わらず偉そうな言い方だ。けれど、その声音に以前のような棘はなく、最大の脅威が去ったこと、そしてライバルである俺が生還したことに対して、深く安堵しているように聞こえた。
 その時、俺の視線が帝の後ろにいる一人の姿を捉えた。
「……ルイ」
 体育館の壁際。そこではルイが毛布をかけられ、静かに横になっていた。目を閉じたまま、穏やかな寝息を立てている。顔色は少し蒼白いが、苦しそうな様子はない。
「安心したまえ。命に別状はない」
 帝が俺の視線に気づいて答えた。
「治療も済んでいる。まだ意識が戻っていないだけだ」
「……そっか」
 胸の奥から、深く重い安堵の息が漏れる。ルイも生きている。それだけで十分だった。
 ほっと息を吐いて周囲を見渡した時、いつの間にかすぐ近くにティオナが立っていた。
「……ティオナ」
 彼女は無表情のまま、少しだけ首を傾げてじっと俺を見上げている。
「……ん?」
 ティオナは何も言わず、小さな手で俺の制服の袖を軽く、きゅっと引っ張った。
「……まだ何かあるのか?」
 ティオナは小さく首を横に振る。そして、俺がちゃんと自分の足で立っていることを確認するようにじっと見つめると、こくりと頷いた。
「……心配してたのか?」
 また、こくり。
「そっか」
 思わず笑みが零れる。
「ありがとう、ティオナ」
 ティオナはそれ以上何も言わず、いつもの無表情に戻ってそっと袖から手を離した。けれど、そのささやかな仕草だけで伝わってくるものがあった。
 ここにいるみんなが、俺の帰りを待っていてくれた。
 それを改めて実感した瞬間――。
「……はは」
 胸の奥から、自然と笑いが込み上げてくる。
 長かった。本当に、長かった。
 精神世界でのアースとの対峙。そして、現実世界でのイーラとの死闘。
 時間にすれば、ほんの数時間の出来事だったはずだ。それなのに、すべてが終わった今になって振り返ると、それがひどく遠い昔の出来事のように感じられた。
 俺は、生きて帰ってきたんだ。
「隼人」
 その時、絋弥の真剣な声が聞こえた。
「……明日の授業は、遅刻せずちゃんと来いよ」
「……は?」
 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず絋弥の顔を見返した。
 ――あの時と同じだ。
 アースとの絶望的な戦いに向かう前にも、絋弥は今と全く同じ言葉を俺にかけたのだ。
『明日の授業は、遅刻せずちゃんと来いよ』と。
「……絋弥」
「なんだよ、ちゃんと覚えてるか!?」
「いや……流石に明日は休みなんじゃないのか?」
「……あ?」
 絋弥が間の抜けた顔をする。
「今日のこの状況で、学園も半壊してるのに、明日から平常授業ってのは無理だろ」
「そ、そういう問題じゃねえだろ!」
 顔を真っ赤にして全力でツッコミを入れてくるその様子が妙に可笑しくて、平和な日常の空気が一気に押し寄せてきた気がして、俺は思わず吹き出した。
「……ああ。ちゃんと覚えてるよ」
 笑い合った、その瞬間。
 ぐらり、と。
 視界が大きく傾いた。
「……あれ?」
 足に全く力が入らない。
 まるで糸が切れた操り人形のように、身体の奥底から急速に力が抜けていく。極限まで張り詰めていた緊張の糸が、みんなの顔を見て完全に緩んだことで、とうに限界を迎えていた肉体がようやく悲鳴を上げたのだ。
 全身の痛みが一気に押し寄せ、視界の端から急速に暗転していく。
「隼人君!?」
「隼人!」
 サラと玲奈の悲痛なほど焦った声が重なる。
 倒れかけた俺の身体を、床に崩れ落ちる直前で、すぐそばにいた絋弥が慌てて抱え込んだ。
「おい……しっかりしろ、隼人! おいッ!」
「……わりぃ、ちょっとだけ……寝るわ」
 絋弥の腕の温かさと、微かに聞こえる仲間たちの焦る声を感じながら。
 俺の意識は、底なしの深い泥のような、けれどひどく安心できる心地よい眠りへと落ちていった。