魔力の少ない魔法使い

「…………」
 激しい魔力の衝突が嘘のように消え去り、静まり返ったグラウンドに夕暮れの乾いた風が吹き抜けていく。
 俺はクラウ・ソラスを握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 先ほどまで上空に浮かんでいたイーラの姿は、どこにもない。
 あれほど濃密な魔力と殺気が吹き荒れていたというのに、今はただ、不気味なほどの静寂が辺りを支配していた。
 ゆっくりと視線を巡らせる。
 焼け焦げ、所々が鋭く抉られたグラウンド。
 幾重にも刻まれた剣戟の跡。
 残されているのは、それだけだった。
「……イーラ?」
 掠れた声で空を仰いで呼んでみるが、当然、応える声はない。
 俺は重い足を引きずり、イーラが最後に浮かんでいた場所の真下へと近づいた。
 見上げても、夕闇が迫る空には何もない。
 足元の土は魔法の余波で黒く変色しているが、人が墜落してきたような痕跡はない。
 死体はおろか、一滴の血痕すら残されていなかった。
「……いない」
 言葉が零れ落ちる。
 吹き飛ばされたのか?
 いや、それは違う。
 俺の放った純白の斬撃は、確かにイーラを正面から捉え、その身体を光の中へ飲み込んだ。
 どこかへ弾き飛ばしたような感触ではなかった。
 けれど――。
「…………」
 結局、それ以上のことは俺にも分からない。
「跡形もなく消え失せたな」
 不意に背後から声をかけられ、俺は振り返った。
 少し離れた場所から戦況を見守っていた烏廻さんが、抉れた地面を避けながらこちらへ歩いてくる。
 その視線は、イーラが消えた上空へ向けられていた。
「さすがに俺も、こんな結末になるとは思っていなかった」
 烏廻さんは俺の横まで来ると立ち止まり、宙へ手をかざす。
「大気中に魔力の残滓はある。だが、イーラ本人のものか、魔法が砕け散った余波なのか判別できないほど希薄だ」
「つまり……?」
「消滅した可能性はある。だが、断定はできん」
 かざしていた手を下ろす。
「何らかの方法で逃れた可能性も否定できない。少なくとも、今の段階ではな」
「…………」
 俺は黙って空を見上げた。
 俺自身にも、あいつを「殺した」という確かな手応えはない。
 最後の一撃は間違いなく届いた。
 イーラの渾身の魔法を斬り裂き、その身体まで光の中へ飲み込んだ。
 それでも――。
「……あいつ、死んだんでしょうか」
 自分でも驚くほど声に力がなかった。
 烏廻さんはすぐには答えなかった。
 しばらく夕空を見上げた後、静かに口を開く。
「分からん」
「…………」
「だが、少なくとも今ここにイーラはいない。それだけは確かだ」
 俺はもう一度、荒れ果てたグラウンドを見渡した。
 戦っている最中は、目の前のイーラを止めることしか頭になかった。
 あいつの力にどう対抗するか。
 どうすればみんなを守れるか。
 ただ、それだけを考えていた。
 なのに戦いが終わった今、胸の奥には妙な虚しさが残っている。
 勝った。
 俺たちは生き残った。
 それなのに――。
「……なんだか、勝った気がしません」
 口から本音が零れた。
 烏廻さんが静かにこちらを見る。
「イーラのことか?」
「……はい」
 俺は小さく頷いた。
 あいつは本当に世界を憎んでいた。
 二十年前、理不尽に家族を奪われたその日から、ずっと怒りと憎しみを抱え続けてきたのだろう。
 だけど――。
「あいつが本当に、全部を壊したかったのかって考えると……どうしても、そうは思えなくて」
「エスクードから聞いた話か」
「……はい」
 ルイから聞いた話を思い出す。
「身寄りのない子供たちを助けていたことも、無関係な生徒たちを殺さなかったことも……あいつの中に、捨てきれずに残ってたものなんじゃないかって」
「そうだろうな」
 烏廻さんは静かに答えた。
「少なくともあの男は、自分が憎んでいる『理不尽な世界』と同じものにはなりきれなかった」
「…………」
「だからこそ、最後まで矛盾を抱えていたのかもしれん」
 返す言葉が見つからなかった。
 ――私は理不尽な世界を壊し、再構築する者だ。
 イーラが口にした言葉。
 あれは本心だったのか。
 それとも、自分自身にそう言い聞かせていただけなのか。
 もう、それを確かめることはできない。
「……それにしても」
 不意に烏廻さんの視線が、俺の手元へ落ちた。
「その剣……クラウ・ソラスと言ったか」
「はい」
 俺も純白の剣へ視線を落とす。
 柄から刀身まで全てが純白。
 その刀身からは、今もドス黒いオーラが陽炎のように静かに揺らめいている。
「アースの武器なんだな?」
「……そうです。さっき、アースが……今だけ貸すって」
「なるほど」
 烏廻さんが僅かに目を細める。
「つまり、お前自身の武器ではないわけか」
「はい」
 俺はもう一度、クラウ・ソラスを見る。
 あの一撃がなければ、イーラの魔法を止めることはできなかった。
「……助けられました。アースに」
「そうか」
 烏廻さんはそれ以上、何も聞かなかった。
 その時――。
『もういいだろ』
 頭の中にアースの声が響いた。
(アース?)
『返してもらうぞ』
 直後。
 握っていたクラウ・ソラスが、純白の光へと変わり始める。
「っ……」
 柄から指がすり抜ける。
 剣は無数の光の粒となって散り、そのまま跡形もなく消えていった。
「消えた……」
「やはり、アース側の力ということか」
 烏廻さんが呟く。
(……ありがとな)
『ふん』
 それだけを残して、アースの声も聞こえなくなった。
「…………」
 消えた剣があった右手を見つめる。
 精神世界で言葉を交わした時間は僅かだった。
 それでも最後の瞬間だけは、確かに俺とアースは同じ相手に向かって戦っていた。
 その時だった。
「……っ」
 突然、身体から力が抜けた。
 膝が崩れそうになり、咄嗟に足を踏ん張る。
「おい」
「大丈夫、です……」
「大丈夫な奴はそんな顔をしない」
 烏廻さんが呆れたように溜息をつく。
 俺は引き攣った苦笑いを浮かべた。
「……ちょっと疲れただけです」
「ちょっと、ではないだろう」
 言われて初めて、自分の身体が限界に近いことを自覚した。
 腕は鉛のように重い。
 足にもほとんど力が入らない。
 全身の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸をするだけでも胸が痛む。
 ここまで戦い続けた反動が、一気に押し寄せてきたようだった。
「体育館へ戻るぞ」
「……はい」
「他の連中も待っている」
 その言葉にハッとして、俺は体育館の方角を見る。
「……みんな、無事ですよね」
「ああ」
「……良かった」
 その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
 俺は痛む足を動かし、体育館へ向かって歩き始める。
 だが、数歩進んだところで一度だけ足を止めた。
「…………」
 肩越しに振り返る。
 夕暮れのグラウンドには、やはり誰の姿もない。
 イーラは光に飲まれ、そのまま消えた。
 あいつは本当に死んだのか。
 それとも、どこかでまだ生きているのか。
 今の俺には分からない。
「……行くぞ、桐宮」
 前を歩く烏廻さんの声が背中を押す。
「はい」
 俺は今度こそ振り返るのをやめた。
 長かった戦いは終わった。
 少なくとも今は、そう思うしかない。
 夕暮れが夜闇へと変わり始める中。
 荒れ果てたグラウンドだけが、そこで起きた激戦の跡を静かに残していた。