魔力の少ない魔法使い

「――【大罪魔法――憤怒ノ魔王(サタン)】!」
 イーラの叫びが夕暮れのグラウンドに響いた瞬間、空気が一変した。
 その身体から漆黒の魔力が噴き上がる。
 先ほどまでとは明らかに違う。
 肌を刺すような圧と共に、濃密な怒りと憎悪が周囲へ広がっていく。
「な……なんだ、この魔力……!?」
 俺は双剣を前に構え、重心を落とした。
 息苦しい。
 ただ魔力を放出しているだけなのに、胸の奥を直接圧迫されているような感覚がある。
 イーラの周囲に渦巻いていた魔力が、その身体と黒剣へ徐々に収束していった。
 真紅の瞳が鋭い光を帯びる。
「見ろ、桐宮隼人」
 イーラが低く告げる。
「これが、この世界への怒りを糧として得た私の力だ!」
 一歩。
 イーラが踏み込んだ。
「っ!?」
 速い。
 先ほどまでとは踏み込みの鋭さがまるで違う。
 距離を詰められた瞬間には、既に黒剣が頭上へ迫っていた。
「くっ!」
 双剣を交差させる。
 ――ガギィンッ!
「ぐっ……!」
 衝撃が両腕を突き抜けた。
 踏ん張った足が地面を滑り、身体ごと後方へ押し込まれる。
(重い……!)
 さっきまでとは明らかに違う。
「オオオオッ!」
 イーラがさらに剣へ力を込める。
「く、そっ……!」
 俺は魔力を全身へ巡らせ、剣を受け流すように身体を横へ逃がした。
 直後、黒剣が地面へ叩きつけられる。
 ――ドゴォンッ!
 土が弾け、砂煙が舞った。
(まだ上がるのか……?)
 イーラから放たれる魔力は、戦い始めた時よりも明らかに強くなっている。
 俺の疑問に答えるように、後方から烏廻さんの声が聞こえた。
「……なるほどな」
 烏廻さんは鋭くイーラを観察している。
「おそらく、自分の中にある怒りや憎悪を、そのまま魔力へ変換してやがる」
「感情を……魔力に?」
「ああ。怒りが強ければ強いほど出力も上がる。そういう大罪魔法だろうな」
 二十年前に家族を奪われた怒り。
 裁かれなかった者への憎しみ。
 世界そのものへの絶望。
 それら全てを、イーラは力へ変えている。
「無駄だッ!」
 再びイーラが迫る。
 一撃。
 二撃。
 三撃。
 黒剣が振るわれるたび、両腕へ重い衝撃が積み重なっていく。
 俺は双剣で受け流し、時には身体を捻ってかわしながら必死に食らいついた。
「どうした! 仲間を守るという覚悟はその程度か!」
「ぐっ……!」
「私が二十年抱えてきた怒りに比べれば、お前の覚悟など軽いッ!」
 黒剣がさらに鋭く振るわれる。
 それでも俺は、一歩も引かなかった。
 強い。
 間違いなく今までで一番強い。
 だが――。
(……おかしい)
 戦い続けるうちに、違和感が生まれ始めた。
 【憤怒ノ魔王】が怒りと憎悪を力へ変える魔法なら。
 二十年間も世界を恨み続けてきたイーラなら。
 もっと。
 もっと強くなっていてもおかしくないんじゃないか?
「くっ……!」
 イーラの剣を受け流す。
 確かに出力は上がっている。
 だが、その上昇が途中で引っかかっているような感覚がある。
 怒りを燃やそうとするたび、その奥から別の何かが邪魔をしているような――。
(なんだ……?)
 その時。
 以前、ルイと交わした会話が脳裏に蘇った。
『隼人くん。イーラさんについて、一つだけ知っておいてほしいことがあります』
『どうしたんだ?』
『あの人は……決して、君たちが思うような血も涙もない人じゃありません』
 ルイは少し寂しそうに笑った。
『イーラさんは、行き場を失った子供たちを引き取っていたんです』
『子供たちを?』
『はい。私も、その一人です』
『ルイも?』
『幼い頃、兄と二人で生きる場所を失っていた私を救ってくれたのがイーラさんでした』
 あの時は、ただ意外だと思った。
 敵組織の長。
 俺の中にいるアースを狙う男。
 そんな人間が、行き場のない子供を救っていた。
『私だけじゃありません。あの人に救われた者は他にもいます』
 ルイの声が、今でもはっきりと残っている。
『世界を憎んでいるのは本当です。でも……だからこそ、自分と同じように傷ついた人間を見捨てられなかったんだと思います』
 その言葉と、さっき聞いたイーラの過去が繋がった。
 二十年前。
 妻と娘を失った。
 理不尽に奪われた。
 誰にも救ってもらえなかった。
 だからこそ――。
(同じように苦しんでる奴を、見捨てられなかった)
 イーラの黒剣を双剣で受け止める。
「ぐっ……!」
 火花が散る。
 俺はその向こうにある真紅の瞳を見た。
(そういうことか)
 【憤怒ノ魔王】は怒りと憎悪を力へ変える。
 なら、力を完全に引き出すためには――心の底から憎みきらなきゃいけない。
 世界を。
 人を。
 何もかもを。
 けれど、イーラにはそれができない。
 家族を奪われた。
 世界を憎んだ。
 それでも、孤児を救った。
 ルイを救った。
 傷ついた人間を見捨てられなかった。
 無関係な生徒たちの命も奪わなかった。
 その優しさが残っている限り、イーラは完全な憎悪だけでは動けない。
 怒ろうとすればするほど。
 憎もうとすればするほど。
 心の奥に残った優しさが、それを止める。
(だから……出力が上がりきらないんだ)
 今の力ですら十分すぎるほど強い。
 だが、これが【憤怒ノ魔王】本来の最大出力じゃない。
 イーラ自身が、そこまで怒りきれていない。
 世界を憎みきれていないからだ。
「……なぁ、イーラ!」
「何だッ!」
 激しい打ち合いの最中、俺は真正面から叫んだ。
「あんた、本当に世界全部を憎んでるのかよ!」
「何……?」
「ルイから聞いた!」
 イーラの目が僅かに揺れる。
「あんたが、行き場のない子供たちを助けてきたことを!」
「……!」
「ルイも……ヴァニタスだった頃のあいつも、あんたに救われたんだろ!」
「……あの馬鹿者が」
 イーラの表情が歪む。
「余計なことを……!」
「世界を憎んでるって言いながら、あんたは誰かを救い続けた!」
「黙れ!」
「自分が家族を奪われたから、同じように苦しんでる奴を見捨てられなかったんだろ!」
「黙れと言っているッ!」
 黒剣が荒々しく振るわれる。
 俺は双剣で受け流し、一歩踏み込んだ。
「だから、あんたのその魔法は本当の力を出し切れてねぇ!」
「……何だと?」
「【憤怒ノ魔王】は怒りと憎しみを力に変えるんだろ!」
 俺はイーラの剣を弾く。
「だったら、全部を憎みきれないあんたが、その力を完全に引き出せるわけねぇだろ!」
「黙れ……」
「あんたは怒ってる! 世界を憎んでる! それは本物だ!」
 一歩踏み込む。
「でも、それだけじゃない!」
「黙れ……!」
「誰かを助けたいって気持ちも、あんたの中にはまだ残ってる!」
「黙れぇぇぇぇッ!!」
 イーラが咆哮した。
 それに呼応するように、漆黒の魔力が一気に膨れ上がる。
 だが――。
 一瞬だけ。
 ほんの一瞬だけ、その魔力の勢いが揺らいだ。
 イーラ本人も、それに気づいたようだった。
「……っ」
 真紅の瞳が大きく揺れる。
 怒りだけを燃やそうとしている。
 だが燃え切らない。
 その事実を、俺の言葉で突きつけられた。
「……くだらん」
 イーラが低く呟く。
「そんなもの……とうの昔に捨てた」
「だったら、なんでルイたちを助けたんだよ」
「黙れ!」
「なんで玲奈たちを殺さなかった!」
「黙れと言っている!!」
「それが答えだろ!」
「――ッ!」
 イーラが大きく翼を羽ばたかせ、上空へ飛び上がった。
 黒剣を握っていた手をゆっくりと開く。
 剣が宙へ浮かび、そのまま静止した。
「……?」
 イーラは剣を使うことをやめ、両手をこちらへ向ける。
 次の瞬間――。
「っ……!」
 これまでとは比較にならないほどの魔力が周囲へ集まり始めた。
 ただし、それは【憤怒ノ魔王】によって際限なく膨れ上がっているわけではない。
 イーラが今、自分の中にある全ての魔力を一つの魔法へ注ぎ込もうとしている。
『隼人』
 アースの声が低くなる。
『来るぞ』
(ああ)
 巨大な魔法陣がイーラの前方へ展開される。
「これで終わりだ、桐宮隼人……!」
 イーラの声がグラウンドに響く。
「奪われた命よ、嘆きを捨てよ。踏みにじられた者よ、怒りを捨てるな。積み重ねられた理不尽を、今ここに集めよ」
 魔法陣が強く輝く。
「世界を覆う偽りを砕き、救いなき現世を深淵へと還せ。我が憤怒を礎とし、全てを終わらせる一撃となれ――」
 膨大な魔力が一点へ収束していく。
 後方で、烏廻さんが構えを取ったのが分かった。
「桐宮!」
「大丈夫です!」
 俺は双剣を握り締める。
 だが――。
『それじゃ足りねぇ』
 アースの声が響く。
(……分かってる)
『いや、お前の剣じゃ無理だ』
(じゃあ、どうすれば――)
『俺のを使え』
「……え?」
『右手を出せ』
 言われるまま、俺は双剣の召喚を解除し、右手を前へ伸ばした。
 純白の光が右手へ集まり、徐々に形を変えていく。
 柄が生まれ、そこから刀身が伸びていく。
 やがて現れたのは、柄から刀身まで全てが純白に染まった一振りの剣だった。
 息を呑むほど美しい。
 だが、その純白の刀身からは、まるで陽炎のようにドス黒いオーラが立ち昇っている。
 美しいのに、禍々しい。
(この剣……)
 その姿には見覚えがあった。
 以前、精神世界でアースが手にしていた剣。
『――クラウ・ソラス』
(やっぱり……アースの剣)
『今だけ貸してやる』
(俺に使えるのか?)
『ああ。だから余計なことは考えんな』
 目の前では、イーラの魔法が完成しようとしていた。
『あれを斬る。それだけ考えろ』
(……分かった)
 俺はクラウ・ソラスを両手で握り締めた。
 目の前では、イーラの魔法陣が限界まで輝きを増していた。
「――【憤怒の審判(イラ・ユーディキウム)】!!」
 巨大な魔法陣から、圧縮された魔力の奔流が放たれる。
「――ッ!」
 真正面から迫ってくる。
 避ければ、その先には学園がある。
(なら――)
『斬れ』
 アースが言った。
(ああ!)
 クラウ・ソラスが眩い純白の光を放つ。
「うおおおおおおおッ!!」
 腰を落とす。
 剣を大きく振り上げる。
 そして――。
 一気に振り抜いた。
 ――ズバァァァァンッ!
 刀身から放たれた純白の斬撃が、夕闇を一直線に駆け上がる。
 イーラの【憤怒の審判】と正面から激突した。
「なっ……!?」
 イーラが目を見開く。
 純白の斬撃が、魔力の奔流を正面から押し裂いていく。
「馬鹿な……!」
 光が少しずつ前へ進む。
 俺の腕へ強烈な負荷がかかった。
「ぐっ……!」
 押し返される。
『止めんな!』
(分かってる!)
 さらに力を込める。
「はぁぁぁぁぁッ!」
 純白の斬撃が再び前へ進む。
 そして――。
 イーラの魔法を最後まで切り裂いた。
 ――パァァンッ!
 圧縮されていた魔力が砕け、無数の光となって空へ散っていく。
「……そんな」
 イーラが呆然と呟く。
「私の……全力が……」
 その言葉に、俺は奥歯を噛んだ。
 全力。
 確かに今の一撃には、イーラが出せる全ての魔力が込められていた。
 けれど――。
 【憤怒ノ魔王】そのものの力を、完全に引き出せていたわけじゃない。
 あんたは最後まで。
 怒りだけにはなれなかった。
 憎しみだけの人間には、なれなかった。
 だからこそ――。
 まだ終わっていない。
 【憤怒の審判】を切り裂いた純白の斬撃が、勢いを失いながらもイーラへ迫る。
「――ッ!」
 イーラが咄嗟に翼を前へ出した。
 純白の光がその身体を包み込む。
「イーラ!」
 眩しさに目を細める。
 光の中で、イーラの姿が見えなくなる。
 やがて――。
 魔力の衝突音が止んだ。
 夕風だけが、静かにグラウンドを吹き抜ける。
 俺はクラウ・ソラスを握ったまま、光の消えていく先を見つめ続けた。