魔力の少ない魔法使い

静寂が、夕暮れのグラウンドを支配していた。
先程までの激しい剣戟の音が嘘のように鳴りを潜め、ただ、冷え込み始めた夕風が砂埃を運んでいく音だけが鼓膜を打つ。
深く抉れた足元の土。所々が断裂した防球ネットと、宙を漂う焦げた匂い。茜色の残光と忍び寄る夕闇が混ざり合う死闘の最中、不意に訪れた凪のような時間。
その中で、俺――桐宮隼人は、眼前に降り立った漆黒の翼を持つ男を真っ直ぐに睨みつけていた。
『名前か……。二十年程前に捨てた。今は、イーラと名乗っている』
先ほど男が発したその言葉が、まだ耳の奥で反響している。
二十年前。俺が生まれるよりも前、彼に何があったのかは分からない。悪魔と融合してなお残る、人間めいた執念と消し去れない過去の影。その背負うものの重さは、これまでの立ち振る舞いからも十分に伝わってきていた。
だが……だからといって、ここで刃を引く理由にはならない。俺の後ろには、血を流しながらも俺を信じて校舎へと逃げてくれた仲間たちがいるのだ。俺がここで倒れれば、次に狙われるのはあいつらだ。
俺は深く息を吐き出し、双剣の柄を握る手に限界まで力を込めた。双剣の炎が、持ち主の意志に呼応するように赤々と鋭い熱を放ち始める。
「イーラ、か。悪いが、あんたの過去に同情してる余裕はねえんだわ!」
言葉と共に、魔力で強化された脚力が大地を踏み抜く。
爆発的な推進力でグラウンドの土を蹴り飛ばし、俺は疾風と化してイーラへと肉薄した。双剣から立ち上る炎の軌跡が、逢魔が時の薄闇に一直線の赤を描く。
「来い!」
迎え撃つイーラの体勢に揺るぎはない。大上段から、問答無用で両断せんとする漆黒の剣が鋭く振り下ろされる。
風を裂く音が響く直前、俺はあえて前のめりに倒れ込み、スライディングの要領でその死の刃を潜り抜けた。
頭上を通り過ぎる鋭利な風圧に髪が煽られる。俺は地面を滑る勢いを殺さず、下段から双剣を跳ね上げるように力一杯振り抜いた。狙うは無防備な胴体。
「……チッ」
だが、刃が届くより刹那早く、イーラが漆黒の翼を盾のように前面へと展開した。
ガギィッ! と、鋼鉄同士が激突したような硬質な音が響き渡り、火花と共に黒い羽が数枚宙を舞う。規格外の硬度を誇る翼に防がれはしたものの、その体勢を崩すことには成功した。
そのまま俺は、スライディングの勢いから反転して地面を蹴り、跳躍する。後方へ空中に逃れようとするイーラの頭上を完全に取った。
俺は空中で身体を捻る。
「双炎剣壱ノ型――【陽炎】!」
双剣に炎を纏わせ、両腕を交差させるようにして十字の斬撃を放つ。燃え盛る炎の刃が、イーラを空から地上へと押し込むように迫った。周囲の空気が熱で激しく歪む。
「甘いな」
しかし、イーラは焦る様子もなく翼を翻した。巻き起こったのは、凝縮された魔力の突風。それが鋭い風の刃となって炎の斬撃を真っ向から相殺し、火の粉を暮れなずむ空へ散らす。
さらにイーラは、その風に乗って俺と同じ高度まで一瞬で上昇してくると、漆黒の剣にバチバチと紫色の雷光を纏わせた。
「【紫電・崩刃(しでん・ほうじん)】」
短い言葉と共に、雷を帯びた高速の斬撃が迫る。
空中にいては回避行動が取れない。だが、焦りはない。俺はアースから供給される無尽蔵の魔力を双剣に注ぎ込み、逃げることなく真っ向から迎え撃った。
――ガギィィィィィンッ!!!
雷と炎が空中で鋭く衝突し、火花が視界を白く染める。
双剣の柄から伝わる規格外の衝撃が両腕の骨を軋ませるが、アースの魔力がその負荷を強引に押し返す。紫電の蛇と紅蓮の炎が幾重にも絡み合い、上空の大気を激しく焦がした。
鍔迫り合いの最中、火花越しにイーラの瞳に微かな歓喜の光が宿るのが見えた。
「まさかここまで力を馴染ませているとはな……だが、君のその力はあくまで借り物だ。その魔力、果たしていつまで持つ?」
「さあな! けど、少なくともあんたをぶっ飛ばすまでは余裕で持つぜ!」
俺は叫びと共に双剣を力任せに振り払い、その反動を利用して地上へと着地する。イーラもまた、反発の勢いを殺しながら漆黒の翼を広げ、音もなく地面に降り立った。
静寂を取り戻したグラウンドの中央で、再び対峙する。
呼吸を整える隙すら惜しく、肺に焼け付くような空気を吸い込みながらイーラを睨みつける。互いから漏れ出る濃密な魔力だけで、足元の小石がカタカタと震えている。
「底知れぬ魔力……それに、傷を瞬時に塞ぐその異常な再生能力。やはり私の目に狂いはなかった……実に見事だ」
イーラが探るように目を細める。
「……だとしたら、どうする?」
「決まっている。君の肉体からその内に宿る力を抜いて、我らが悲願を成就させるための、絶対的な力として利用させてもらう」
その瞬間だった。イーラの全身から、重厚で密度の高い魔力が静かに立ち上り始めた。
足元の土がその圧力で微かに沈み、周囲の空気が重く張り詰めていく。
(……まだギアを上げてくるか)
イーラの見せる圧力を前にしても、胸にあるのは恐れではなく、己のギアをさらに引き上げる覚悟だった。
『ハッ、その意気だ』
脳内に響くアースの短い声には、相変わらずの余裕と不敵さが漂っている。
(ああ。これ以上引き延ばす気はない)
俺は深く息を吐き出し、体内の魔力回路を全開にする。
アースから溢れ出す膨大な魔力が、全身の細胞、骨、筋肉の隅々にまで一気に流れ込んでいく。右肩の傷が治った時に感じたあの熱い奔流が全身を巡り、集中力が極限まで研ぎ澄まされていった。
「……いくぞ、イーラ」
ダンッ! と、互いが同時に地面を蹴った。
夕闇が迫るグラウンドの中央で、漆黒の影と紅蓮の炎が幾度となく交錯する。
鋭い剣戟の音が連続して響き渡り、発生する魔力の余波が地面に無数の鋭利な刃の跡を刻んでいく。
右から薙ぎ払われる漆黒の剣を左の刃で受け流し、その死角から右の刃を突き込む。だがそれすらも、漆黒の翼によって軽々と弾かれる。息つく暇もない超高速の応酬。
「おおおおおッ!」
「はぁぁあああッ!」
一撃交えるごとに骨が軋み、筋肉が限界を超えて悲鳴を上げる。だが、アースの力が瞬時に細胞を修復し、俺をさらなる高みへと無理やり押し上げていく。
(もっと速く! もっと鋭く!)
余計な思考は捨てろ。魂の底から剣を振れ。
背中を押してくれた玲奈たちの顔が脳裏を過る。
――俺は絶対に、生きて帰るんだ!
イーラの黒い斬撃が俺の脇腹を浅く掠めるが、構わず踏み込む。流れた血は一瞬で蒸発し、傷はすでに塞がっていた。
「チッ……どこまでも異常な肉体だな!」
「お互い様だろッ!」
イーラの表情に微かな焦りが生じたのを見逃さず、俺は双剣に魔力を注ぎ込んだ。ただ炎を纏わせるだけではない。魔力を螺旋状に圧縮し、貫通力を極限まで高める。
「双炎剣肆ノ型――【螺旋炎纏(らせんえんてん)】!」
俺の双剣から放たれた二筋のうねる炎が、ドリル状の渦を巻きながら空気をジリジリと焦がし、イーラの纏うドス黒いオーラに絡みつき、強引に切り裂く。
「浅い!」
イーラは驚異的な反応速度で漆黒の剣を振るい、迫る炎のうねりを一刀両断にした。
だが、それこそが俺の狙いだった。
炎が斬り裂かれたことで生じた残滓の向こう側。俺はその目眩ましに完全に紛れて肉薄し、剣を振り抜いた直後で無防備になっているイーラの懐へと潜り込んだ。
「なっ――!?」
僅かに目を見開くイーラへ向け、俺は渾身の力を込めた右の刃を容赦なく振り下ろす。
だが、刃が届く直前、イーラは驚異的な反応速度で漆黒の剣を盾にした。
ガギィィンッ!
凄まじい金属音と共に、互いの刃が再び激しく拮抗した。
螺旋を描く炎の刃と、漆黒の剣から溢れ出す紫電がゼロ距離で激突する。ギリギリと刃が削れ合う音。互いの顔が触れるほどの至近距離で、イーラの瞳が酷薄な光を帯びて細められた。
「良い一撃だ……だが!」
イーラの漆黒の翼が不気味に膨張し、これまでにない未知の魔力が暴走するように膨れ上がるのが見えた。
『――隼人、不味い! 飛べ!!』
脳内でアースが切羽詰まった声で叫んだ直後。
極限まで圧縮された二つのエネルギーが、俺たちの中央で完全に臨界点を突破した。
「しまっ――」
視界を完全に奪い去るほどの圧倒的な閃光。
そして、規格外の爆発音が夕闇のグラウンドを呑み込んだ。