魔力の少ない魔法使い

体育館を後にしてすぐ、烏廻は舌打ちと共に廊下の床を強く蹴り飛ばした。
「くそっ……結界を張ったことが裏目に出たか」
彼にとって、目的地へ一瞬で移動する転移魔法は本来十八番である。だが、今はそれが使えなかった。今回の襲撃に備え、学園全体に空間の歪みを検知して遮断する強固な結界が張られているからだ。不用意に転移を発動させても結界に弾かれてしまうため、結果としてこうして自分の足で走る羽目になっている。
普段ならば、魔力を通わせるだけで空間を縫い、瞬時に目的地へ到達できるというのに。侵入者たちの侵攻を防ぐために敷いたはずの防衛網が、皮肉にも味方の機動力を削いでいる。
「まったく、誰だこんな強固な結界を構築した馬鹿は……って、学園長と俺か」
自嘲気味に口の端を持ち上げながら、烏廻は肺を焼くような激しい呼吸を無理やり押し殺す。
「……まあ、いまさら文句を言ってもどうしようもないな」
目的地は学園長室。捕らえたインヴィから聞き出した「七人目」のイレギュラーであり、今回の襲撃の黒幕、あるいは最も厄介な敵がそこにいる可能性が高いからだ。
優斗たちには既に状況を伝えてある。あとは自分が急行し、事態を収拾するだけだった。
焦燥感を胸に抱きながら、静まり返った校舎の角を曲がった、その時である。
「――っ!」
前方から、身を寄せ合うようにして足を引きずりながら歩いてくる三つの影を見つけ、烏廻は慌てて急ブレーキをかけた。
「う、烏廻先生……?」
煤と泥に塗れた顔。あちこちが破れ、痛々しい姿になった制服。
だが、見間違えるはずがない。彼が受け持つクラスの生徒である、西園寺玲奈、九条絋弥、サラ・クロイツの三人だった。
「お前たち……! 無事だったか!」
「先生っ……!」
烏廻が駆け寄ると、サラが張り詰めていた糸が切れたように泣き顔を作った。彼はすぐさま三人の状態を素早く確認する。魔力はほとんど底を尽き、玲奈の腕には深い擦過傷、絋弥は足を庇うように立ち、サラは立っているのもやっとという状態だ。満身創痍という言葉がこれほど似合う姿もないだろう。だが、幸いにも命に関わるような致命傷はない。
(……馬鹿野郎どもが。なんでこんなになるまで……)
烏廻の胸の内に、安堵と共に教師としての怒りがふつふつと湧き上がった。本来であれば、生徒は有事の際、速やかに避難させなければならない。彼らがこれほどの傷を負うまで前線にいたということは、明らかな無断戦闘であり、一歩間違えば命を落としていた無謀な行動の代償だ。
「お前らな……」
キツく叱り飛ばそうと口を開きかけた烏廻だったが、ふと三人の顔を見て言葉を飲み込んだ。
恐怖に震えながらも、必死に仲間を守ろうとした痕跡。死線を超えてきた者特有の、縋るような、それでいてどこか成長した強い瞳。
こんなボロボロになってまで生き延びた生徒に、安全な場所から駆けつけただけの自分が何を言えるというのか。
説教など、後でいくらでもできる。今はただ、生きてここにいることを肯定すべきだ。
烏廻はふうっと長く息を吐き出し、喉まで出かかった小言を無理やり胸の奥へ押し込んだ。
「……いや、よく生きててくれた。本当によかった。……お前たちだけか? 桐宮は一緒じゃないのか?」
「隼人なら……学園長室。あいつ、私たちを逃がすために一人で残って……」
「なに?」
玲奈の言葉に、烏廻は再び眉を顰めた。
詳しく聞けば、隼人は無事にアースとの契約を済ませて彼らの絶体絶命の窮地に駆けつけ、単身で敵を引き受けて三人だけを逃がしたのだという。
「あの馬鹿……。だが、無事に契約を済ませたようだな」
強大な敵を前にして、学生一人を残すなど本来なら言語道断だ。だが、相手の力量差を考えれば、三人を逃がすために盾となった隼人の判断は戦術的には正しい。
何より、目の前の三人がこうして生き延びているという事実こそが、隼人が既にどれほどの力を得て、どれほどの覚悟で彼らを守ったのかを如実に証明していた。これ以上の叱責は、彼らの決意を踏みにじる行為でしかない。
「先生……隼人君、大丈夫だよね……?」
不安そうに見上げてくるサラの頭を、烏廻は乱暴にならないようにぽんと優しく撫でた。
「ああ、問題ない。契約が完了しているなら、少なくともすぐにやられるなんてことはない」
「……はい」
「お前たちはこのまま真っ直ぐ体育館へ向かえ。そこには俺の姉貴や、学園長たちがいる。あそこなら安全だ」
烏廻の言葉に、三人はこくりと頷いた。
「先生は……?」
絋弥が気遣うように聞いてくる。烏廻は学園長室のある方角へと鋭い視線を向け、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
「俺は学園長室へ向かう。馬鹿の首根っこを掴んで帰らないといけないからな。……それに、生徒だけにカッコつけさせるわけにはいかないだろう?」
「……お願いします。隼人のこと」
玲奈が、真っ直ぐな瞳で烏廻を見据えて言った。
「ああ、任せておけ。お前たちはよくやった。……後は、大人の仕事だ」
そう言い残し、烏廻は三人に背を向ける。だが、地を蹴る直前、肩越しに彼らを振り返った。
「いいか、勘違いするなよ。お前らが無茶をやらかしたことについては、事態が収拾したあとにたっぷり絞ってやるからな。全員並べて、朝までみっちり説教してやる」
あえて憎まれ口を叩くようにそう告げると、絋弥と玲奈は一瞬きょとんとした後、どこか安心したように苦笑した。
「……ええ、覚悟しとくわ」
「楽しみに待ってるよ、先生」
その返事に満足げに頷き、烏廻は再び目的地へと向けて力強く地を蹴った。
すれ違いざま、後ろから「気をつけてくださいね!」というサラの声が背中を押す。
結界の影響で使えない転移魔法を恨めしく思いながらも、烏廻は身体強化の魔法を全開にして廊下を疾走する。
学園長室へ近づくにつれ、周囲の惨状は想像を絶するレベルへと酷さを増していった。壁という壁は文字通り剥ぎ取られ、剥き出しになったコンクリートには、刃物で切り裂かれたような無数の深い傷跡が走っている。天井の照明は跡形もなく砕け散り、床には巨大なクレーターがいくつも穿たれていた。
(……インヴィが言っていた『七人目』。間違いなく、他の連中よりも強いな)
走りながら、前方からビリビリと肌を突き刺すような凄まじい魔力の余波を感じ取る。
教師として、生徒をあんな死地に立たせている自分の不甲斐なさに腹が立つ。
 同時に、あの隼人がどれほどの領域に足を踏み入れたのかという、かすかな期待も混じっていた。
(……待ってろよ、桐宮。俺が着くまで、絶対に死ぬんじゃねえぞ)
教え子の無事を祈りながら、烏廻はさらに速度を上げ、迷うことなく崩壊の気配渦巻く戦地へと駆け抜けていった。