魔力の少ない魔法使い

「はぁ……っ、はぁ……!」

息が上がる。胸がじんわりと熱い。

それでも俺――桐宮隼人は足を止めなかった。人生で一番、全力で走っている自信がある。

理由は単純だ。

入学式当日に寝坊した。

今まで一度もそんなことなかったのに、今日に限ってやらかした。

(――洒落にならない。初日からこれかよ)

ようやく見えてきた巨大な校門に、俺は最後の力を振り絞る。

「はぁ……はぁ……なんとか、間に合った……」

額を流れる汗を拭い、大きく息を吸い込んだ。

目の前にそびえ立つ校舎を見上げ、思わず苦笑する。

(相変わらず、デカすぎだろ……)

それは“校舎”というより、もはや城だった。幾何学的な塔と重厚な外壁。青空を背に、威圧するように立っている。

門には、誇らしげに校名が刻まれている。

星雲魔術師学園(せいうんまじゅつしがくえん)

日本屈指の魔法教育機関。

今日から、俺はここの生徒になる。

平均を遥かに下回る魔力しか持たない俺が、この場所で何を成せるのか。

脳裏に、入試の日の光景がよぎる。
測定室には、俺と数名の試験官だけがいた。
 
「では、装置に手を触れてください。力まず、自然に魔力を流せば大丈夫です」
 
指示に従い、俺は測定装置へ手を置いた。
意識を集中させ、わずかに魔力を送り込む。
 
数値を見た試験官たちは、軽く眉をひそめただけだった。
だが、試験官の一人――藍色の髪の男が、周囲の試験官へ静かに告げた。
 
「…一応、合格基準は満たしているので、問題ないのでは?」
 
理由は分からない。
だが、あの時から、胸の奥に小さな不安が残っている。
本当に俺は、この学園にいていいのか――と。
 
足の震えを誤魔化すように、俺は一歩、敷地の中へと踏み出した。



校門をくぐり、敷地を進んでいく。

期待に満ちた顔の新入生たちが、あちこちで笑い合っている。その中を歩いていると、背後から凛とした声が届いた。

「あら。アンタ、よく間に合ったわね」

振り返る。

そこにいたのは、陽光を弾く金髪と、宝石のように澄んだ碧眼を持つ少女だった。

西園寺玲奈(さいおんじれいな)

八大貴族の一角、西園寺家の令嬢であり、俺の幼なじみだ。

彼女が歩くだけで、周囲の新入生たちはその気品に圧倒され、波が引くように道を開けていく。だが、俺にとっては見慣れた顔だ。

「……なんだ、玲奈か。見てたのか」

「必死な顔で走るアンタの姿なんて、嫌でも目に入るわ。……それじゃ」

玲奈は足を止めることなく、俺の横を通り過ぎていく。

すれ違いざま、彼女が安堵したように小さく息を吐いたのを、俺は見逃さなかった。

相変わらずの塩対応だが、わざわざ声をかけてくるあたり、本当は心配していたのだろう。

「あ、俺も行かねぇと」

俺も遅れないよう、彼女の背中を追うようにして足を速めた。



入学式は滞りなく終わり、俺は割り当てられた一年C組の教室にいた。

周囲では既に小さなグループが出来上がっている。中学からの知り合い同士や、家同士の繋がりがある者も多いのだろう。

俺と同じ中学出身は玲奈だけだが、当の本人は、周囲の喧騒などどこ吹く風とばかりに泰然と本を読んでいる。あいつの周りだけ、まるで別の時間が流れているようだった。

(……さて、これからどうなることか)

俺は自分の席に座り、ぼんやりと周囲を眺める。

この学園にいるのは、全国から選りすぐられたエリートたちだ。そんな中で、これからどうやって渡り合っていくべきか。

期待がないわけではないが、この先に待ち受ける道を想像すると、自然と息が重くなる。

そんなことを考えていると、不意に背後から声が飛んできた。

「よお。お前、今朝めちゃくちゃ必死に走ってたやつだろ?」

「……なんだ、見てたのか」

振り返ると、そこには茶髪を少し遊ばせた、人懐っこい笑みを浮かべる男子が座っていた。

「ああ、後ろからな。寝坊してさ。追い抜いたんだよ。全力で走るお前の背中が見えた」

「……追い抜いた?」

一瞬、記憶を探る。

そういえば――学校に来る途中で誰かが横を通り過ぎた気がする。

「必死なのは伝わってきたぜ。いいフォームだった」

彼はそう言って、屈託のない笑みを浮かべながら手を差し出してきた。

「俺は九条紘弥(くじょうこうや)。紘弥でいいぜ」

九条。その名字に、俺の思考がわずかに止まる。

この国を支える八大貴族。強大な権力と魔力を有するあの九条家だろうか。

目の前の男を改めて見る。整った顔立ちは確かに育ちの良さを感じさせるが、漂う空気はあまりに気さくだ。

「……桐宮隼人(きりみやはやと)。俺も隼人でいい。九条って、まさかあの?」

「はは、その『まさか』だよ。よろしくな、隼人」

紘弥は隠す様子もなく笑い、力強く握手を交わした。名門の重圧など微塵も感じられない、どこまでも軽いノリの男だ。

そのまま二、三言葉を交わしたが、始業の時間を過ぎても教壇に教師が現れる気配はない。

教室には次第に困惑と、新入生特有の浮ついたざわめきが広がり始めていた。

結局、予定の時間を十分ほど過ぎた頃だろうか。

前方の扉が、やる気のない音を立てて開いた。

「……あー、悪い悪い。自分が担任だってこと、すっかり忘れてたわ」

現れたのは、およそ最高峰の学園の教師とは思えない、だらしない風貌の男だった。

少し跳ねた藍色の髪は整えられた様子もなく、ネクタイは緩み、シャツの襟元はわずかに乱れている。スーツもどこか着崩されていて、眠たげな目のまま教壇に立つ姿からは、やる気というものがほとんど感じられない。

(…あの人は)

間違いない。入試の時、不合格でもおかしくなかった俺を「合格だ」と周囲に告げた、あの試験官だ。
 
透明な板の縁を、精巧な金属装飾が取り囲んだ端末を、机の上に放り出した。

その中心には淡く発光する魔結晶が埋め込まれており、男が指先で適当に叩くと、ガラスの表面に生徒たちの顔写真が電子回路のような光と共に浮かび上がる。

「今日からお前らの担任になる烏廻辰巳(うかいたつみ)だ。よろしく」

あまりに身も蓋もない遅刻理由に、教室はしんと静まり返る。じわじわと困惑が広がっていく中、俺も思わず心の中で毒づいた。

(……とんでもない担任に当たったな)

だが、後ろに座る紘弥は違った。彼は不快感を見せるどころか、椅子の背もたれに体を預け、どこか楽しげに鼻を鳴らした。

「いいじゃん、あれくらい抜けてる方がさ。なんか面白そうだし」

「……面白さと信頼は別問題だろ」

俺が呆れて突っ込むと、紘弥は「まあな」と短く笑って、教壇の先生を眺めていた。
 
一方、教壇の先生は名簿代わりの端末を気だるげに操作すると、顔を上げた。
 
「んじゃ、生徒証配るぞ。これ、寮の鍵から学園内の施設利用、ルールなんかも読めるからな。なくすなよ? 再発行の手続きとか、怒られんの俺なんだから」
先生が端末の端をフリックするように弾く。
すると、端末から放たれた光が小さな粒となって教室中に飛び交い、それぞれの新入生の机の上で、一枚のカードへと実体化した。
手元に現れたのは、淡い赤みを帯びた半透明のクリスタルカードだった。表面には学園の紋章が刻まれ、見る角度によって複雑な光沢を放っている。
「それ、ただ持ってるだけじゃ動かねぇぞ。自分の魔力を指先からちょいと流してみな。そうすれば持ち主の波長が登録されて、機能が有効化される。ま、魔力の強弱は関係ねぇ。流しさえすれば誰でも使える仕様だ」
先生の言葉に従い、周囲の生徒たちが次々とカードに指を触れ始めた。あちこちでカードが赤く柔らかな光を放ち、情報のホログラムが小さく浮かび上がる。
俺もカードを手に取り、指先に意識を集中させた。
(流すだけでいい)
魔力をわずかに送り込む。
その瞬間――
カードの光が、不自然に揺らいだ。
「っ……?」
表面の紋章が白く飽和したかと思うと、一瞬だけ発光が完全に途切れた。
教室の中で、俺のカードだけが沈黙する。
(え……?)
だが次の瞬間。
何事もなかったかのように光が復帰し、紋章が正常に点灯する。
空中に俺の名前が表示された。
桐宮隼人。
……正常に登録されている。
指先には、わずかに違和感だけが残っていた。
その時。
ふと顔を上げた瞬間、先生と目が合った。
眠たげだった目が、わずかに細められている。
値踏みするような視線。
だが次の瞬間には、いつもの気怠げな表情へ戻っていた。
(なんだ?)
小さな違和感だけが背中に残った。
「よし、全員行き渡ったな。今日はこれで終わりだ、明日はまず自己紹介、その後授業だ。なんか面白いこと考えとけよー」
先生はそれだけ言い残すと、またしても足早に、逃げるように教室を出ていった。

嵐のような担任が去った後、俺と紘弥は連れ立って教室を出た。

一歩外に出れば、またあの城砦のような巨大な建築物が目に飛び込んでくる。学年ごとに分かれているという寮棟を改めて間近で見上げ、俺は思わず呟いた。

「……やっぱ、とんでもなくでけぇな」

「そうか? 普通だろ」

紘弥が事も無げに言う。八大貴族の彼にとっては、この規模すら「普通」の範疇らしい。

その時、背後から冷ややかな、しかし聞き慣れた声がした。

「なに騒いでんのよ」

振り返ると、そこには玲奈が立っていた。

彼女の視線が一瞬だけ俺の手元――生徒証に向く。

ほんの僅かに眉が寄った。

だが次の瞬間には、いつもの澄ました表情に戻っていた。

「玲奈か。……いや、寮が想像以上に大きいと思ってな」

「アンタの家だって、一般的に見れば十分お金持ちの部類でしょうに。相変わらず庶民くさいわね、隼人は」

玲奈は呆れたように肩をすくめた。

彼女の言う通り俺の家も十分お金持ちの部類に入るが、驚くものは驚く。

「え? お前ら、知り合いなのか?」

横で見ていた紘弥が、驚いたように目を丸くして俺と玲奈を交互に見やった。

「ああ。腐れ縁の幼なじみだ」

玲奈は「私は、先行くわよ」とだけ言い残し、優雅な足取りで寮の方へと消えていった。

「……まさか隼人が西園寺家のお嬢様と知り合いとはな」

「お前だって九条家の人間だろ。お互い様だよ」

「あ、それもそうか。あはは!」

紘弥は豪快に笑いながら、俺の肩を叩いた。

寮の重厚な扉の前に立ち、生徒証をセンサーに近づける。
 
「部屋、何階だ?」
 
「三階の三〇三だ」

「俺は三〇五。近いな! 毎日遊びに行っていいか?」

「……勘弁してくれ」

俺は苦笑いしながら、センサーにカードをかざした。カチリ、という硬質な音と共に、解錠のランプが灯った。

紘弥と別れ、三〇三号室の扉を開ける。

室内は一人で使うには十分すぎるほど広く、必要最低限の家具はすべて魔法工学に基づいた最新のものが揃えられていた。

俺は荷物をデスクに置くと、窓際へ向かった。

三階という高さからも、学園の広大な敷地が一望できる。夕闇が迫り始めた校庭には、まだ入学の余韻に浸る生徒たちの姿が点々と見えた。

そういえばさっきのは、なんだったんだ。

ポケットから、先ほど受け取ったばかりの生徒証を取り出す。
俺は指先に意識を集中させ、もう一度だけ魔力を流してみた。

だが――

何も起きない。

紋章は安定した光を保ったまま、
正常に反応している。

(……気のせい、か?)

「……ま、今更気にしても仕方ないか」

誰に宛てたわけでもない言葉が、静かな部屋に落ちる。

遠くで鳴り響いた閉門の鐘の音を合図に、俺はカーテンを閉めた。

これから始まる学園生活に思いを馳せながら、最初の夜を迎えるべく明かりを灯した。