夏休みが終わり、日常が戻ってきた。
みんなに会えるのが嬉しくて、僕はいつもより少しだけ早く家を出た。昇降口から入ってすぐの階段を上ると、すぐ目の前が僕の在籍する2年1組だ。
あれ?
教室の入り口そばに見慣れた後ろ姿を見つけてドキッとする。
逢坂くんだ。
逢坂くんの広い背中に隠れて、もう1人が見え隠れする。結菜か誠士だろうか?
「おは……」
僕は声をかけようとして、途中で言葉を飲み込んだ。クラスメイトの黒崎さんと話していた。
黒崎さんと目が合う。ふわりと優雅に微笑みながら彼女は言った。
「浅井くん、おはよう」
「あ! 浅井先輩、おはようございます!」
逢坂くんもすぐに挨拶をしてくれた。
「……おはよう」
「浅井先輩、どこか具合悪かったりしませんか? 元気ないです」
戸惑いが声のトーンに滲んでいたのだろう。僕はごまかすように言葉を紡ぐ。
「んー、暑いからちょっと元気ないだけだよ。逢坂くん、黒崎さんと仲良かったんだね」
そんなことどうでもいいことなのに、どうしても気になった。
2人が並んで話している姿は、まるで映画のワンシーンのように綺麗だ。けれどもなぜか息苦しい気がして、早くこの場を去りたかった。
「はい。色々相談に乗ってもらってます」
「この前、現国の授業を少しだけ一緒に受けた日があったろう? あの日、ボクから声をかけたのさ」
黒崎さんの話し方は個性的だ。けれど、その独特な語り口がかえって彼女の中性的な美しさを際立たせているように思えた。
「もしかして、この前言ってた先輩って黒崎さんのこと?」
「そうです。実はバイト先のオーナーが黒崎先輩のお母様なんです」
「逢坂くんが成し得たいことがあると聞いてね。ボクは感動してそれに協力しようと思ったんだ」
成し得たいこと?
黒崎さんの仰々しい言い方に引っかかりつつも、僕はスクバにつけた海老のマスコットを隠すように手で包み込む。
一緒に映画に行った時は、確かにやりたいことがあるとは言ってたけれど、具体的には教えてもらえなかった。あの時はなんとも思わなかったのに、黒崎さんには相談してるんだなと思うと胸に錘が落ちたようだった。
「黒崎先輩のおかげでようやく資金が貯まったんです! あとは両親を説得するだけです!」
「そうなんだ。良かったね」
僕はそれだけ言ってその場を後にする。机にマスコットを下にしてスクバを置くと誠士の席に向かった。
「あ……、浅井先輩!」
聞こえないふりをした。
こんな気持ちのまま逢坂くんと話したくなかったし、これ以上突っ込んで話をする気にもなれなかった。
僕はおかしい。
「おはよ」
誠士は机に覆い被さるように座って、こっちを見ていた。
「おはよー。いおりん、元気ないね」
「暑いからね」
「それはそうだけど、違うでしょ」
「違わないよ」
「まあ、ちょっと前ならなんとも思わなかっただろうから、逢坂大躍進だけど」
「逢坂くんのことは関係ないって!」
思わずいつもより大きな声が出る。早くこの話題から逃げ出したくてイライラしていた。
そこに結菜が合流する。
「おは。はるちゃんがいる! と思ったら、めっちゃ萎れてるんだけど」
「それな。ほい、ドバイ土産」
誠士は体を起こすと、バッグから紙袋を出した。
「サンキュー! 石油王!」
「石油王じゃないし。親父が単身赴任でドバイにいるだけだから。それにドバイは石油に頼って経済回してないから」
「そんな難しいことはどーでもいいし!」
僕は2人のいつもの掛け合いを聞いて、少し気持ちが落ち着いてくる。
イライラしても仕方ない。そもそも、イライラする権利もない。
だって僕と逢坂くんは何でもないのだから。
「石油王っていないんだ」
いつものくだらない会話に混ざっていく。クスッと笑いながら聞いてみる。
「石油王国があればいるんじゃね?」
結菜はお土産のチョコを食べながら適当なことを言う。
これでいい。
僕の日常はこれが正しい。
2人に気づかれないように、小さく深呼吸をする。
予鈴が鳴って、僕は自分の席を見た。もう逢坂くんはそこにはいなかった。
「また後で」
誠士と結菜に声をかけてからわざとゆっくりと席にもどる。さっきはきっと不自然だったから、黒崎さんにも何か言われるかもしれない。
案の定、席に戻ると同時に黒崎さんが凛とした声で僕に問いかける。
「どうしたんだい? 子猫ちゃん。子犬は寂しそうに帰って行ったよ」
「子犬?」
逢坂くんのことだろうか?
意味がわからない。
「ボクはただあの人懐こい小犬の手助けをしているだけさ。そうだ! 逢坂くんの働きぶりを見に来るといいよ! 最後に一つだけ。時には信じて待つことも愛のスパイスさ」
そう言って黒崎さんはミステリアスな笑みを浮かべると、制服の胸ポケットから一枚の名刺のようなものを出し、そっと僕に手渡した。
そこには、
『Cafe Étoile 黒崎 麻央』
とお洒落な字体でプリントしてあり、裏返すと簡易的な地図があった。僕は、黙ってそれを受け取る。
わけがわからない。
わからないけど、みんなで一緒に遊びに行くと約束した。
逢坂くんに聞いた住所もある。けれどなぜか言えなかった。
「じゃあ、みんなを誘って行ってみるよ」
僕は黒崎さんの顔は見られずに、そう返事をしてから席についた。
「遥、バイトしてたんスね」
誠士のお土産のドバイチョコを食べながら、神崎くんが言った。
「それな。遥、あんまり物欲ないイメージなんだけどなー。それより富豪先輩、この中の緑のヤツ、何かな? バッタ?」
「俺はしがないサラリーマンの息子だから。んで、それはピスタチオだろ」
呆れた様子で誠士が返す。ドバイ旅行の結果、当分誠士は富豪ネタでいじられそうだ。
「うひひ、美羽ちゃんウケるんだけど!」
「カメムシって言ったお前と大差ないけどな」
放課後、1人欠けたいつものメンバーでお土産をつまむ。
今日は始業式で、授業もなく半日だ。
急遽、逢坂くんのバイト先にみんなで行こうと誘ったことから、一旦学食のいつもの席で合流した。逢坂くんは早々にバイト先へと向かったらしい。
これだけにぎやかだと、さっきまでのモヤモヤはだいぶ薄れる。僕はぼうっとみんなの様子を眺めていた。
それにしても神崎くんや杉村さんが逢坂くんのバイトを知らないとは意外だった。特に秘密、というわけではなさそうだけど。
メンバーで僕だけが知っているのは嬉しくもあり、でも黒崎さんのことを思い出すとモヤモヤする。
「地図で見ると、ここからよりも駅から行った方が近いね」
もらった名刺の地図を見て、杉村さんが言う。
「あー、もしかしたら知ってるかもっス」
神崎くんが言った言葉にみんなが反応する。
「巧、知ってんの?」
「行ってみないとわかんないけど、たぶんめっちゃ豪華なとこ」
「え? 豪華なの? 制服じゃ目立つじゃん。一旦帰って着替えてからにしよーよ」
結菜のセリフに誠士も同意する。
「荷物も置いてきたいし、そうするか」
僕たちは一度解散して、14時に駅で待ち合わせることになった。
蝉の声がうるさくてイライラする。
僕は悩んだ末に、逢坂くんに選んでもらったミントグリーンのサマーニットを着て、駅に向かっていた。
胸に燻るこの気持ちは、認めたくないけれど黒崎さんに対する嫉妬だ。逢坂くんを振っておいて、どの口でそれを言うのかと自分でも思う。でも僕は嫉妬してる。もうそれを認めないわけにはいかなかった。
「いおりーん! こっちー!」
結菜がよく通る声で呼んでいる。
僕は恥ずかしく思いながら結菜の元に向かった。
「大声で呼ぶのやめてよ」
「えー、別にいいじゃん」
結菜に軽くチョップをしてから、僕は辺りを見回す。
「来てないのは、後は誠士だけ?」
「そうっスね。ところでいおりん先輩、おしゃれっスね」
「それな。遥でイケメンは見慣れたと思ってたけど、タイプの違う王子でなんか浄化される気がする」
1年生の2人に褒められて、僕は嬉しい反面、なんだか気恥ずかしかった。
「うーん、いつもは割と残念なファッションなんだけどなー。どうしたいおりん? ファッションに目覚めた?」
結菜に不思議がられて、苦笑しながら言った。
「この前、逢坂くんと映画見に行った時に選んでもらったんだ」
「え? いつの間に? 地味に進展してんじゃん」
「いや……別に……」
僕が返答に困っていると、誠士がやってきて面倒くさそうにみんなに向かって言った。
「ごめーん。遅れた。昼寝の予定があるの思い出してさー、ちょっと寝てた」
「後半のセリフは心の中にしまっといてほしいっス」
みんなで神崎くんの言葉に同意して、僕たちは黒崎さんにもらった名刺を片手にCafe Étoileを目指して歩き出した。
「ここ、だよね?」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
看板には確かに『Cafe Étoile』と書いてある。レンガ作りで蔦が這っており、入り口の辺りには天使を模した彫刻が配置されていた。まるで結婚式場のようだ。
ここがカフェって……。
僕はここで寛げる気がしない。
「ここかあ。気になってたけどなんか高そうで入れなかったんだよね」
結菜が頬を掻きながら呟く。
「あ。そんなに高くはないはずっスよ。店のお客さんに勧められたって前に親父が言ってたんで。タルトが美味いらしいっス」
神崎くんが少し長い前髪を耳にかけながら言った。
「らしいってことは、巧も入ったことないんだ」
「だって、見た目がこれだぜ? 入りにくくね?」
「確かに」
「さあさあ、ぐだぐだ言ってないで入る。俺、暑くて溶けそう」
こういう時、誠士の動じなさは頼もしい。
「さすがドバイの人は違うっスね!」
「お前らいつまでそのネタ引っ張るの?」
誠士はあくびをしながら、扉の取っ手に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けるとすぐに店員から声がかかる。
「何名様でいらっしゃいますか?」
「5名です」
誠士はいつもの無表情で堂々と告げる。
店員は優雅に一礼した。
「5名様でいらっしゃいますね? それではご案内致します」
僕たちは店内を遠慮がちに見回しながら席につく。
「それではご注文がお決まりの頃、また伺いに参ります」
店員が去るのを見届けてから結菜が誠士に小声で言う。
「……さすがドバイ人。この雰囲気にも動じないとか強すぎる」
「ドバイは関係ないだろ。ってか普通に入ったけど値段が気になる」
さすがの誠士もお財布事情は僕たちとそう変わらないようだ。
「それな。神崎父の言葉を信じるしかない」
結菜と杉村さんが、恐る恐るといった様子でメニューを開いた。
店内の装飾は外観に輪をかけて煌びやかだった。
店員の制服も店内の雰囲気に負けていない。男女とも黒を基調としたクラシカルなデザインで、接客中の丁寧な所作も相まって、まるで執事やメイドの衣装を連想させる。
この制服を着た逢坂くんは誰よりも似合ってかっこいいんだろうなと思った。
独特の雰囲気に若干気圧されながらも、僕は記憶の中に似たような情景があるのを感じていた。
少し考えてから、思い出す。
映画『背徳のマスカレード』を。
「接客の参考に」と言われたという逢坂くんの言葉も今なら納得できる。
改めて周囲を見回して、伊勢海老がいないことにちょっとだけがっかりする。
その時、僕は目の端に執事のような姿の店員がこちらへ向かってくるのをとらえた。
「やあ、浅井くん。来てくれたんだね!」
よく見ると、それは黒崎さんだった。
これが俗にいう男装の麗人というやつだろうか。
「……黒崎さん」
僕はなんと言ったらいいかわからず、一瞬口ごもる。
「麻央ちゃんじゃん。なんで?」
僕の気持ちを代弁するかのように結菜がいつもの調子で質問した。
「ここはボクの母の店だからね。時々こうやって手伝ってるのさ」
「髪のセットでだいぶ雰囲気変わるな……」
神崎くんが誰に言うともなくぼそっと言った。美容師志望は伊達じゃないなと、どうでもいいことに感心した。
黒崎さんは僕をじっと見つめると、優しく微笑む。
「逢坂くんを呼んでこようか。彼は今、別の場所を担当しているんだ」
「仕事の邪魔をしに来たわけじゃないからいいよ」
慌てて黒崎さんを止めた。
「そうそう。そんなことより割引してくんない?」
すると、誠士がとんでもないことを言い出す。
「構わないよ。でもこれはボクとキミたちだけの秘密だよ」
人差し指を形の良い唇に当てて、黒崎さんは小声で言った。
「麻央ちゃんサンキュー!」
結菜の大きな声が場違いすぎてヒヤヒヤする。
「じゃあ、逢坂くんを呼んでくるから、ちょっと待っておいで」
「結局、遥も連れてきてくれるんだね。麻央ちゃん先輩かっこよすぎ」
杉村さんが呟いた。
逢坂くんがもうすぐここに来る。
でも、僕はまだ覚悟ができていない。
僕はただ目の前に置かれたグラスの水滴をずっと眺めていた。
「ご注文はお決まりですか?」
聞き慣れた耳障りの良い声に、僕は顔を上げる。
そこにはいつもと違って髪を緩くオールバックにした逢坂くんがいた。
「逢坂くん、かっこいいね。制服がよく似合ってるよ」
思わず、口をついて出た褒め言葉に、僕は動揺する。
「逢坂、顔に感情が出過ぎ」
誠士が冷めた声で言った。
逢坂くんは頬を染めて満面の笑みを浮かべていた。
「いおりん先輩に褒めてもらってよかったねー!」
「遥、真っ赤じゃん」
1年の2人が茶化しているのを僕はぼうっと眺めていた。
「逢坂くん、せっかくキミの可愛い子猫ちゃんが来てくれたんだ。今はいつも通りにするといいよ」
黒崎さんが逢坂くんに耳打ちする。
その様子を見て、チクリと胸が痛む。
僕はまた嫉妬している。
「浅井先輩! その服、やっぱりお似合いです!」
とろけるような微笑みで言われて、そしてやっと気がついた。
僕は、逢坂くんが好きなんだ。
「……うん」
それ以上の言葉が出なかった。
なんて言ったらいいかわからなくて、僕はうつむいた。
「いおりん先輩だけじゃなくって、俺らもいるんだけど?」
神崎くんの言葉を受けて、逢坂くんが答える。
「あ! 巧、ごめん。浅井先輩しか見えてなくて」
「まあ、そうじゃなくちゃ遥じゃないよねー」
まだ僕を好きでいてくれてるんだ。
1年生の何気ない会話を聞いて、僕は安心する。 そしてどうしたらいいかやっぱりわからない。
「いおりん、大丈夫?」
そっと、僕の背中を結菜がさする。
「なんでもないよ」
僕は作り笑いをして、逢坂くんに言った。
「逢坂くんのおすすめメニューは何?」
みんなが美味しいと絶賛するタルトが、僕にはなぜかあまり味がしなかった。
みんなに会えるのが嬉しくて、僕はいつもより少しだけ早く家を出た。昇降口から入ってすぐの階段を上ると、すぐ目の前が僕の在籍する2年1組だ。
あれ?
教室の入り口そばに見慣れた後ろ姿を見つけてドキッとする。
逢坂くんだ。
逢坂くんの広い背中に隠れて、もう1人が見え隠れする。結菜か誠士だろうか?
「おは……」
僕は声をかけようとして、途中で言葉を飲み込んだ。クラスメイトの黒崎さんと話していた。
黒崎さんと目が合う。ふわりと優雅に微笑みながら彼女は言った。
「浅井くん、おはよう」
「あ! 浅井先輩、おはようございます!」
逢坂くんもすぐに挨拶をしてくれた。
「……おはよう」
「浅井先輩、どこか具合悪かったりしませんか? 元気ないです」
戸惑いが声のトーンに滲んでいたのだろう。僕はごまかすように言葉を紡ぐ。
「んー、暑いからちょっと元気ないだけだよ。逢坂くん、黒崎さんと仲良かったんだね」
そんなことどうでもいいことなのに、どうしても気になった。
2人が並んで話している姿は、まるで映画のワンシーンのように綺麗だ。けれどもなぜか息苦しい気がして、早くこの場を去りたかった。
「はい。色々相談に乗ってもらってます」
「この前、現国の授業を少しだけ一緒に受けた日があったろう? あの日、ボクから声をかけたのさ」
黒崎さんの話し方は個性的だ。けれど、その独特な語り口がかえって彼女の中性的な美しさを際立たせているように思えた。
「もしかして、この前言ってた先輩って黒崎さんのこと?」
「そうです。実はバイト先のオーナーが黒崎先輩のお母様なんです」
「逢坂くんが成し得たいことがあると聞いてね。ボクは感動してそれに協力しようと思ったんだ」
成し得たいこと?
黒崎さんの仰々しい言い方に引っかかりつつも、僕はスクバにつけた海老のマスコットを隠すように手で包み込む。
一緒に映画に行った時は、確かにやりたいことがあるとは言ってたけれど、具体的には教えてもらえなかった。あの時はなんとも思わなかったのに、黒崎さんには相談してるんだなと思うと胸に錘が落ちたようだった。
「黒崎先輩のおかげでようやく資金が貯まったんです! あとは両親を説得するだけです!」
「そうなんだ。良かったね」
僕はそれだけ言ってその場を後にする。机にマスコットを下にしてスクバを置くと誠士の席に向かった。
「あ……、浅井先輩!」
聞こえないふりをした。
こんな気持ちのまま逢坂くんと話したくなかったし、これ以上突っ込んで話をする気にもなれなかった。
僕はおかしい。
「おはよ」
誠士は机に覆い被さるように座って、こっちを見ていた。
「おはよー。いおりん、元気ないね」
「暑いからね」
「それはそうだけど、違うでしょ」
「違わないよ」
「まあ、ちょっと前ならなんとも思わなかっただろうから、逢坂大躍進だけど」
「逢坂くんのことは関係ないって!」
思わずいつもより大きな声が出る。早くこの話題から逃げ出したくてイライラしていた。
そこに結菜が合流する。
「おは。はるちゃんがいる! と思ったら、めっちゃ萎れてるんだけど」
「それな。ほい、ドバイ土産」
誠士は体を起こすと、バッグから紙袋を出した。
「サンキュー! 石油王!」
「石油王じゃないし。親父が単身赴任でドバイにいるだけだから。それにドバイは石油に頼って経済回してないから」
「そんな難しいことはどーでもいいし!」
僕は2人のいつもの掛け合いを聞いて、少し気持ちが落ち着いてくる。
イライラしても仕方ない。そもそも、イライラする権利もない。
だって僕と逢坂くんは何でもないのだから。
「石油王っていないんだ」
いつものくだらない会話に混ざっていく。クスッと笑いながら聞いてみる。
「石油王国があればいるんじゃね?」
結菜はお土産のチョコを食べながら適当なことを言う。
これでいい。
僕の日常はこれが正しい。
2人に気づかれないように、小さく深呼吸をする。
予鈴が鳴って、僕は自分の席を見た。もう逢坂くんはそこにはいなかった。
「また後で」
誠士と結菜に声をかけてからわざとゆっくりと席にもどる。さっきはきっと不自然だったから、黒崎さんにも何か言われるかもしれない。
案の定、席に戻ると同時に黒崎さんが凛とした声で僕に問いかける。
「どうしたんだい? 子猫ちゃん。子犬は寂しそうに帰って行ったよ」
「子犬?」
逢坂くんのことだろうか?
意味がわからない。
「ボクはただあの人懐こい小犬の手助けをしているだけさ。そうだ! 逢坂くんの働きぶりを見に来るといいよ! 最後に一つだけ。時には信じて待つことも愛のスパイスさ」
そう言って黒崎さんはミステリアスな笑みを浮かべると、制服の胸ポケットから一枚の名刺のようなものを出し、そっと僕に手渡した。
そこには、
『Cafe Étoile 黒崎 麻央』
とお洒落な字体でプリントしてあり、裏返すと簡易的な地図があった。僕は、黙ってそれを受け取る。
わけがわからない。
わからないけど、みんなで一緒に遊びに行くと約束した。
逢坂くんに聞いた住所もある。けれどなぜか言えなかった。
「じゃあ、みんなを誘って行ってみるよ」
僕は黒崎さんの顔は見られずに、そう返事をしてから席についた。
「遥、バイトしてたんスね」
誠士のお土産のドバイチョコを食べながら、神崎くんが言った。
「それな。遥、あんまり物欲ないイメージなんだけどなー。それより富豪先輩、この中の緑のヤツ、何かな? バッタ?」
「俺はしがないサラリーマンの息子だから。んで、それはピスタチオだろ」
呆れた様子で誠士が返す。ドバイ旅行の結果、当分誠士は富豪ネタでいじられそうだ。
「うひひ、美羽ちゃんウケるんだけど!」
「カメムシって言ったお前と大差ないけどな」
放課後、1人欠けたいつものメンバーでお土産をつまむ。
今日は始業式で、授業もなく半日だ。
急遽、逢坂くんのバイト先にみんなで行こうと誘ったことから、一旦学食のいつもの席で合流した。逢坂くんは早々にバイト先へと向かったらしい。
これだけにぎやかだと、さっきまでのモヤモヤはだいぶ薄れる。僕はぼうっとみんなの様子を眺めていた。
それにしても神崎くんや杉村さんが逢坂くんのバイトを知らないとは意外だった。特に秘密、というわけではなさそうだけど。
メンバーで僕だけが知っているのは嬉しくもあり、でも黒崎さんのことを思い出すとモヤモヤする。
「地図で見ると、ここからよりも駅から行った方が近いね」
もらった名刺の地図を見て、杉村さんが言う。
「あー、もしかしたら知ってるかもっス」
神崎くんが言った言葉にみんなが反応する。
「巧、知ってんの?」
「行ってみないとわかんないけど、たぶんめっちゃ豪華なとこ」
「え? 豪華なの? 制服じゃ目立つじゃん。一旦帰って着替えてからにしよーよ」
結菜のセリフに誠士も同意する。
「荷物も置いてきたいし、そうするか」
僕たちは一度解散して、14時に駅で待ち合わせることになった。
蝉の声がうるさくてイライラする。
僕は悩んだ末に、逢坂くんに選んでもらったミントグリーンのサマーニットを着て、駅に向かっていた。
胸に燻るこの気持ちは、認めたくないけれど黒崎さんに対する嫉妬だ。逢坂くんを振っておいて、どの口でそれを言うのかと自分でも思う。でも僕は嫉妬してる。もうそれを認めないわけにはいかなかった。
「いおりーん! こっちー!」
結菜がよく通る声で呼んでいる。
僕は恥ずかしく思いながら結菜の元に向かった。
「大声で呼ぶのやめてよ」
「えー、別にいいじゃん」
結菜に軽くチョップをしてから、僕は辺りを見回す。
「来てないのは、後は誠士だけ?」
「そうっスね。ところでいおりん先輩、おしゃれっスね」
「それな。遥でイケメンは見慣れたと思ってたけど、タイプの違う王子でなんか浄化される気がする」
1年生の2人に褒められて、僕は嬉しい反面、なんだか気恥ずかしかった。
「うーん、いつもは割と残念なファッションなんだけどなー。どうしたいおりん? ファッションに目覚めた?」
結菜に不思議がられて、苦笑しながら言った。
「この前、逢坂くんと映画見に行った時に選んでもらったんだ」
「え? いつの間に? 地味に進展してんじゃん」
「いや……別に……」
僕が返答に困っていると、誠士がやってきて面倒くさそうにみんなに向かって言った。
「ごめーん。遅れた。昼寝の予定があるの思い出してさー、ちょっと寝てた」
「後半のセリフは心の中にしまっといてほしいっス」
みんなで神崎くんの言葉に同意して、僕たちは黒崎さんにもらった名刺を片手にCafe Étoileを目指して歩き出した。
「ここ、だよね?」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
看板には確かに『Cafe Étoile』と書いてある。レンガ作りで蔦が這っており、入り口の辺りには天使を模した彫刻が配置されていた。まるで結婚式場のようだ。
ここがカフェって……。
僕はここで寛げる気がしない。
「ここかあ。気になってたけどなんか高そうで入れなかったんだよね」
結菜が頬を掻きながら呟く。
「あ。そんなに高くはないはずっスよ。店のお客さんに勧められたって前に親父が言ってたんで。タルトが美味いらしいっス」
神崎くんが少し長い前髪を耳にかけながら言った。
「らしいってことは、巧も入ったことないんだ」
「だって、見た目がこれだぜ? 入りにくくね?」
「確かに」
「さあさあ、ぐだぐだ言ってないで入る。俺、暑くて溶けそう」
こういう時、誠士の動じなさは頼もしい。
「さすがドバイの人は違うっスね!」
「お前らいつまでそのネタ引っ張るの?」
誠士はあくびをしながら、扉の取っ手に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けるとすぐに店員から声がかかる。
「何名様でいらっしゃいますか?」
「5名です」
誠士はいつもの無表情で堂々と告げる。
店員は優雅に一礼した。
「5名様でいらっしゃいますね? それではご案内致します」
僕たちは店内を遠慮がちに見回しながら席につく。
「それではご注文がお決まりの頃、また伺いに参ります」
店員が去るのを見届けてから結菜が誠士に小声で言う。
「……さすがドバイ人。この雰囲気にも動じないとか強すぎる」
「ドバイは関係ないだろ。ってか普通に入ったけど値段が気になる」
さすがの誠士もお財布事情は僕たちとそう変わらないようだ。
「それな。神崎父の言葉を信じるしかない」
結菜と杉村さんが、恐る恐るといった様子でメニューを開いた。
店内の装飾は外観に輪をかけて煌びやかだった。
店員の制服も店内の雰囲気に負けていない。男女とも黒を基調としたクラシカルなデザインで、接客中の丁寧な所作も相まって、まるで執事やメイドの衣装を連想させる。
この制服を着た逢坂くんは誰よりも似合ってかっこいいんだろうなと思った。
独特の雰囲気に若干気圧されながらも、僕は記憶の中に似たような情景があるのを感じていた。
少し考えてから、思い出す。
映画『背徳のマスカレード』を。
「接客の参考に」と言われたという逢坂くんの言葉も今なら納得できる。
改めて周囲を見回して、伊勢海老がいないことにちょっとだけがっかりする。
その時、僕は目の端に執事のような姿の店員がこちらへ向かってくるのをとらえた。
「やあ、浅井くん。来てくれたんだね!」
よく見ると、それは黒崎さんだった。
これが俗にいう男装の麗人というやつだろうか。
「……黒崎さん」
僕はなんと言ったらいいかわからず、一瞬口ごもる。
「麻央ちゃんじゃん。なんで?」
僕の気持ちを代弁するかのように結菜がいつもの調子で質問した。
「ここはボクの母の店だからね。時々こうやって手伝ってるのさ」
「髪のセットでだいぶ雰囲気変わるな……」
神崎くんが誰に言うともなくぼそっと言った。美容師志望は伊達じゃないなと、どうでもいいことに感心した。
黒崎さんは僕をじっと見つめると、優しく微笑む。
「逢坂くんを呼んでこようか。彼は今、別の場所を担当しているんだ」
「仕事の邪魔をしに来たわけじゃないからいいよ」
慌てて黒崎さんを止めた。
「そうそう。そんなことより割引してくんない?」
すると、誠士がとんでもないことを言い出す。
「構わないよ。でもこれはボクとキミたちだけの秘密だよ」
人差し指を形の良い唇に当てて、黒崎さんは小声で言った。
「麻央ちゃんサンキュー!」
結菜の大きな声が場違いすぎてヒヤヒヤする。
「じゃあ、逢坂くんを呼んでくるから、ちょっと待っておいで」
「結局、遥も連れてきてくれるんだね。麻央ちゃん先輩かっこよすぎ」
杉村さんが呟いた。
逢坂くんがもうすぐここに来る。
でも、僕はまだ覚悟ができていない。
僕はただ目の前に置かれたグラスの水滴をずっと眺めていた。
「ご注文はお決まりですか?」
聞き慣れた耳障りの良い声に、僕は顔を上げる。
そこにはいつもと違って髪を緩くオールバックにした逢坂くんがいた。
「逢坂くん、かっこいいね。制服がよく似合ってるよ」
思わず、口をついて出た褒め言葉に、僕は動揺する。
「逢坂、顔に感情が出過ぎ」
誠士が冷めた声で言った。
逢坂くんは頬を染めて満面の笑みを浮かべていた。
「いおりん先輩に褒めてもらってよかったねー!」
「遥、真っ赤じゃん」
1年の2人が茶化しているのを僕はぼうっと眺めていた。
「逢坂くん、せっかくキミの可愛い子猫ちゃんが来てくれたんだ。今はいつも通りにするといいよ」
黒崎さんが逢坂くんに耳打ちする。
その様子を見て、チクリと胸が痛む。
僕はまた嫉妬している。
「浅井先輩! その服、やっぱりお似合いです!」
とろけるような微笑みで言われて、そしてやっと気がついた。
僕は、逢坂くんが好きなんだ。
「……うん」
それ以上の言葉が出なかった。
なんて言ったらいいかわからなくて、僕はうつむいた。
「いおりん先輩だけじゃなくって、俺らもいるんだけど?」
神崎くんの言葉を受けて、逢坂くんが答える。
「あ! 巧、ごめん。浅井先輩しか見えてなくて」
「まあ、そうじゃなくちゃ遥じゃないよねー」
まだ僕を好きでいてくれてるんだ。
1年生の何気ない会話を聞いて、僕は安心する。 そしてどうしたらいいかやっぱりわからない。
「いおりん、大丈夫?」
そっと、僕の背中を結菜がさする。
「なんでもないよ」
僕は作り笑いをして、逢坂くんに言った。
「逢坂くんのおすすめメニューは何?」
みんなが美味しいと絶賛するタルトが、僕にはなぜかあまり味がしなかった。


