【短】まだ名前のない帰り道




「……で、どう、……なったの」

「どうって、どうせ分かってるんだろ」


 まあね、と答える球体を横目に、凪は椅子ではなくベッドに座った。

 動けなくなった日から、球体は湊の部屋ですごすことが多くなった。前までは凪が呼べば来てくれたが、今は自分から行かなくてはいけない。


「修理する方向で決まった」

「そっか。やっぱ……りそうだ、よね」


 球体は部屋の端にぽつんと佇んでいる。


「……修理されるの、嫌なのか」

「別に嫌、な、わけじゃないけどさ、ほら、いろい……ろあるじゃん? 記憶とかなくなって、ほし、いわけないもん。……まあ、本当に変わるのかも分か、……んないし、変わってても気、付けないんだけど、ね」


 それもあって、どこか寂しげな声音に聞こえる。

 凪は、さっきまで下でしていた話し合いで、一言も言えなかったことを思い出した。

 なにがあっても湊は湊だから、と賛成する母。

 今まで一緒にすごした時間すべてがあっての湊だ、と反対する父。

 どっちも湊のことを大切にしているからこその考えだ。

 湊が生きていたときもそうだった。

 母は湊の昔の話をよくする人だった。

 父は湊が成長して変わっていくことをよく見ている人だった。

 凪は違う。湊のことは大切だ。だから、脳にある記憶がなくなる可能性があるとしたら反対していた。

 でも、今回なくなる可能性があるのは、湊の記憶ではなく球体の記憶だ。

 湊へ向けられていた『大切』が球体に向いているわけではないから、なくなることを気にしていないはずだった。

 なのに、賛成も反対もできない。できなかった。


「兄ちゃん、修理ってい、つになったか知って……る?」

「明日。……ちょうど土曜日だから」

「そうなの? 早い、ね」

「……そうだな」


 短かかった。球体がここに来たのも、球体を拒絶したのも、きちんと話したのも、少し会話が増えたのも、――球体が壊れたのも。

 やるせないような、もどかしいような気持ちが胸の中に広がっていく。

 もやもやは晴れることなく、抱えたまま修理の日を迎えた。

 検査で行った施設の隣にある建物で修理するとのことで、前と同じように車で向かうことになった。


「ほら、凪も早く乗りなさい」


 言われて、後部座席に乗り込んだ。母は球体を抱えたまま助手席に乗って、それを凪は見ていた、


 ――だけのはずだった。


「母さん、俺が持っていいか」

「持つって……」

「そいつ。俺が持つから」


 後ろに振り向いて話していた母は、唇が半開きになったまま固まった。


「ええ、いいけど……」


 不思議そうな視線を注ぎつつも、球体を差し出す。凪はそれを受け取って、膝の上にのせた。

 車が発進する。シートから心地よい揺れが伝わる。凪は、こわばっていた手のひらを見て、力を緩めた。


「兄ちゃん、重、い?」


 ちらりと、思い出が脳をよぎる。


――ねえ兄ちゃん、重い?


 テレビを見ていた凪の膝に無断でのって、今とは違う、途切れることのない声で聞いてきた湊。まだ小学生だった湊は軽かった。でも、画面が見づらかったから『重いよ』と答えたのだった。


「……いや。軽いよ」


 凪はかすかに笑った。


「軽すぎる」


 会話はないままあっという間に施設に到着する。父が受付をし、部屋に案内された。その間ずっと、凪は球体を持ったままだった。


「失礼します」


 研究員が二人、中に入ってくる。


「本日、修理を担当させていただきます。よろしくお願いします」


 頭を下げた研究員に合わせて、母と父も頭を下げる。凪は軽く会釈した。

 一通り修理の説明をしたあと、『ではそろそろ』と研究員は言う。


「責任を持って修理を行うことをお約束します」

「……お願いします」


 母はもう一度頭を下げた。

 凪は研究員に球体を手渡す。家族はこの部屋で待機で、次に会えるのは修理が終わったあとだということは分かっていた。


「行って……くる、ね」


 研究員とともに部屋を出る直前、球体が言った。


「……行ってらっしゃい」


 母と父は声だけは気丈に、でもどこか泣き出しそうな様子だった。

 息を吸う。凪は姿の見えない球体に向けて、呼びかけた。


「――湊」

「…………え?」


 かすれたつぶやきから、驚きと戸惑いが伝わってくる。


「兄ちゃん? どう、か、した?」

「……呼んだだけだ」


 凪はそれだけ言うと、背を向けた。


「そう? それじゃ、……今度こそ行っ、てく、る」


 球体はそれ以上は聞かなかった。

 研究員の足音とドアが開閉する音。凪は椅子に座る。うつむきかけて、顔を上げた。

 球体の声が少しだけ弾んで聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。