テスト期間が近付いてきたことで普段よりも急いで帰ってきた凪は、足早に部屋に上がろうとして、違和感を感じた。
なにかが違うような、忘れているような。いつものことが、ものが、ないような。
背負っていたリュックを前に持ってきて中を見た。教科書も筆箱も入っている。
不思議な感覚のまま階段の一段目に足をかけたところで、忘れていたことの正体に思い当たった。
――ただいまって言いに来てない。
断じて来てほしかったわけではないが。毎日来るのが当たり前だったのに、急に来なくなったら違和感くらい誰でも抱くはず。
――だから、俺が球体の様子を見に行こうとしているのだって自然なことだ。
上がるついで、上がるついでと心の中でつぶやきながら、リビングに入った。
見える場所に球体の影はなかった。じっくりと、白いものに注目しながら再び見回す。
ソファの陰からなにかが覗いていることに気付いて、近寄った。動いていない。充電切れだろうか。
凪との距離が縮まるごとに姿があらわになっていく。半分くらい見えたところで、凪は目を見張った。
球体に充電コードが絡まっていた。一、二、……三本。どうやったらこんなに絡まるんだ、というほど複雑に。
「あ、兄ちゃんおかえり!」
見えたからか足音に気が付いたからか、球体が嬉しそうに言う。凪は無言のまま球体のそばで足を止めた。
「なんで誰も呼ばなかった」
リュックを置いて、言いながら手を伸ばす。絡まっていたコードをほどいていった。コードの中の線を切らないよう慎重に。
「こんなにひどいことになるとも思ってなかったし、そのうちどうにかなると思ってたからさ」
「どうにもなってねえだろ。誰か呼べよ」
「……兄ちゃん?」
凪はコードを持ったまま手を止めた。
「どうせ俺が帰ってきたのも聞こえてたんだろ。ていうか、今日木曜日だろ。木曜日は母さんが部屋にいるって知ってたよな?」
「うん……知ってた。……でもさ、呼んだら迷惑かけちゃうかなって。母さんは仕事だし、兄ちゃんはテスト期間でしょ? それに、このままでも誰も困んないし」
凪はまたコードを外し始める。しばらくして凪がすべてほどくと、球体は自分の動きをたしかめるように転がった。
「ありがと、兄ちゃん」
お礼の言葉にはなにも返さない。凪はコードをまとめてテーブルに置くと、リュックをつかんでリビングから出た。
――『あれ』を湊だと思ったから助けたんじゃない。
階段を上りながら、自分に言い聞かせるように思う。
ただ、困っているものを放っておけなかっただけだ。
――……いや、『もの』じゃないのか。
『あれ』は……『あいつ』は、自分のことを『僕』だと言っていた。『もの』だと言うのは正しくないのかもしれない。
部屋に入ってすぐ、リュックを隅に投げて椅子に座った。置いてあった問題集を開いて問題に目を通すが、集中できそうにもない。
問題集を閉じて、背もたれに体重を預ける。目を閉じても、球体のことしか浮かばない。
――あいつは湊じゃない。……けど、俺はその言葉を言い訳にしすぎていたのか。
『湊じゃない』から、放っておいていい。
『湊じゃない』から、無視していい。
……本当に、そうなのか?
違うから、あいつを否定していい理由になるのか? それだけであいつを無視していい理由になるのか?
――湊とも、周りにある機械とも違う。じゃああいつはなんだ?
『だから、もう僕は僕でいいかなってことにしようと思って』
球体の言葉を思い出す。
――じゃあ、あいつは……。



