帰ってきてから三時間近く課題をこなしていた凪は、ようやくそれを終わらせた。
椅子に座ったまま、凝り固まった体を伸ばす。長時間座りっぱなしだったせいで、背中や腰が痛かった。
「兄ちゃん、終わったの?」
後ろから聞かれる。凪は淡々とシャーペンを片付けた。
一人で黙々とやっていた中、途中から球体が部屋に入ってきていたことには気付いていた。球体が転がる音は地味にうるさい。
「兄ちゃん」
「なんだよ」
凪は、同じ部屋にいて一言も話していなかった球体に、初めて言葉を返した。
「課題終わったの?」
「……だったらなんだ。あと部屋に入ってくるな」
球体はなにも言わなかった。
代わりに聞こえてきたのは球体の移動音。近くで音が止まった。多分、後ろにいる。
「ねえ、兄ちゃん」
凪はため息をつく。数えられるほどの会話数しかしていないが、またどうでもいい、弟アピールをするようなことでも言ってくるのだろう。
「……兄ちゃんは、僕が弟じゃないって思ってる?」
「…………」
そう思っていたから、会話の流れ以前に、こんなことを言われるとは思っていなかった。
俺に『弟だ』って認めさせたいのか?
そもそも、こっちが言ってたこと理解してたのかよ。
ていうか待て、
――そう言ってるってことは、本当にそうなのか?
「……弟じゃないに決まってるだろ。この前の朝、卵焼きがどうのこうの話してたけど」
「あれは……本当。言ってなかっただけで、ずっとそう思ってたよ。嘘じゃない」
「言ってなかったんだったら、でっちあげかもしれないだろ。とにかく、湊とは違う」
やや間があったことに対して、球体が追い打ちをかけてくることはなかった。それどころか。
「そっか……だよね」
認めた。あれだけ湊の真似事をしていたのに。
「……否定しないのかよ」
そんなわけない、僕は湊だ、そう反論されることを覚悟していたのに。
「うん。だって、僕には分からないから」
椅子ごと後ろを振り向く。視線を下に落とすと、球体は足元にいた。
「父さんと母さんは僕のこと『湊だ』って言うじゃん? でも、兄ちゃんは『湊じゃない』って言う。……どっちが正しいのか、僕には分かんないや」
自分のことなのにね、と球体は小さく笑う。顔なんてないのに、困ったように眉を下げて笑う湊が、脳裏に浮かんだ。
「僕さ、兄ちゃんと話すの好き。今は……たまにしか話してくれないけど、それだけでも楽しいよ」
「……そうなのか」
「うん。だけどなんか、楽しいのに、楽しいのかよく分かんないっていうかさ。なんとも言えない感じ」
球体はそこで言葉を止めた。
「たしかにそういう記憶はあるんだよ? こういうことして楽しかったなって。でも……」
また止まる。
凪は机の上に残ったままだった消しゴムに目を落とした。
「今の僕だから楽しいって思うのかは……分かんない」
理由もなくつまみ上げて、机に転がす。
「だから、今はもう僕は僕でいいかなって思った。なんも分かんないままだけど」
もう一度球体を振り向く。位置は変わっていなかったが、その白が少しだけはっきりと、明るく見えた。
「だって僕は兄ちゃんと話したいし、兄ちゃんが帰ってきたらそれだけで嬉しいし」
球体は凪を見上げるように動いた。凪は、そんな球体を見ていた。
「とりあえずそんなんで……いいかなって。湊かどうかは一旦置いといて、ね。……まあ、兄ちゃんは僕がいること自体、あんまり望んでなさそうだけど」
くるりと椅子の向きを変えて、球体を視界から外した。
――なんなんだよ。
球体は、『僕は湊じゃない』とは言い切らなかった。『僕は湊だ』とも言い切らなかった。
『僕は僕だ』と言った、たった短い一文が離れなかった。
――じゃあ、『あれ』はなんなんだよ。
凪は椅子からおりた。今考えたところで、答えが浮かぶとは思えなかった。
「そういえばさ兄ちゃん、学校で嫌なこととかあった?」
思わず足を止めた。
「……なんで」
たしかにあった。でもそれはほんの小さな、なんてことのない嫌なことだ。
だから大きな嫌なことがあったときより、顔にも声音にも行動にも出さないで普通にできていたはずなのに。
球体はころころと転がって隣に並んだ。
「んー……視線? 視線がいつもよりも下向いてるからかな。前もそうだったし」
「…………」
「なんで、とは言えないけど、兄ちゃん分かりやすいよ」
「分かりやすいよ、ってどうせデータだろ」
「……そうかもね」
言うと、球体は曖昧な答えを返して横を通っていった。
出ていくんだったら早く出ていけよと思っていたそばから球体は振り返った。
「じゃあ僕、今日は静かにしておくね」
今度こそ球体は出ていった。直後、凪はドアを閉める。
――じゃあ俺はなんて呼ばれるのが正解なんだよ。
なんだか、なにもかもが分からなくなってしまった。



