「――ちゃん。にい……ん。兄ちゃん」
深い底から水面に浮き上がってきたように体の感覚や温度、音がはっきりしてきて、凪は目を覚ました。
瞼の裏からでも分かる眩しい光に、目を開けたくない。それに、朝から球体の声も聞きたくない。
凪が布団を頭まで被ると、球体はそれを見たのか感じ取ったのか、また声をかけてくる。
「兄ちゃん、遅刻するよ」
ついこの前、家に来た翌日から球体は起こしに来るようになった。凪は今と同じく初日から無視を決め込んでいて、球体も無視されているということに気付いているみたいだ。それなのに、球体は毎日来る。
凪を起こすのは、ずっと湊の役目だった。
朝に弱いくせに、毎朝来るのだ。寝ぼけたまま『兄ちゃん、起きて』と呼びかけられることなんかほぼ毎日。起こしに来たはずなのに、逆に湊が凪のベッドにダイブしてきたりすることもあった。
球体にはその記憶がある。そうじゃなかったら湊が起こしに来ていたのと同じ時間に来ることなんてない。
――それがどうした?
凪は被っていた布団をよけると、体を起こした。
「兄ちゃん、おはよう!」
すかさず球体が言うが、凪はただベッドから下りた。視界に入れることなくクローゼットを開ける。
凪は背を向けて制服を取り出しながら、吐き捨てた。
「出ていけ」
「……はぁい」
球体は返事をすると、転がってドアの隙間から出ていった。
凪が着替えてから下に下りると、両親はもう朝食をとり始めていた。
「おはよう、凪」
「ああ。おはよう」
凪は挨拶を返すと、まっすぐダイニングテーブルの自分の席へ向かった。
椅子を引いて席につこうとする。そこで、隣の椅子の上に球体がのっているのを目にした。一緒に食卓を囲むのも、球体が来た日からだ。
「だから、なんで『これ』をここに置いてんだよ」
「あら、凪と湊、ずっと隣でご飯食べてたでしょ?」
母はトーストにジャムを塗りながら言った。
凪は意味もなく机の角をにらみつける。顔をしかめて、椅子を遠ざけてから席についた。
「――僕ね、実は卵焼きが好きだったんだ。今まで言ってなかったけど、母さんの料理で一番好き!」
「……そうだったの?」
「うん。だから僕も食べたいなぁ」
母と父は湊が生きていたときのように球体と話している。
――嫌だ。
両親が嬉しそうなのは、湊が死んだ悲しみから解放されたからなのか、本当に湊が帰ってきたと思っているからなのか、分からない。
凪はそんな二人と一つの輪の中に入ることなく朝食をとり終えた。
食器を片付けてカバンを取りに二階に上がろうとすると、階段の手前に球体がいて通行を妨げていた。
球体は、普段は転がって動く。しかし階段や急な上り坂は上ることができない。そういうときは誰かが持って移動する。どうやら球体は二階に上がりたいようだった。
凪は立ち止まる。少しだけ手を伸ばしかけた。
――でも、俺には『これ』を助けてやる義理はない。
すぐに手を引っ込める。脇を通りすぎて階段を上る途中に入ってきた、父の『上りたかったのか』という言葉は聞かなかったことにした。
学校から帰ってくると必ず球体がいて、『僕がやりたいだけだから』と言って毎日『おかえり、兄ちゃん』と出迎えに来る。
夜ご飯の時間も隣ですごし、テレビを見るときは凪の横へ。寝る前には必ずおやすみと言いに来る。
日常だけが湊が生きていた頃の形に戻っていくような。球体がだんだん生活の一部になっていくような、気がした。



