【短】まだ名前のない帰り道




 死んだ弟が、家に帰ってきた。

 弟が交通事故で死んでからまだ数日。

 葬式と通夜が終わって、つい先日家に戻ってきたばかり。

 弟の部屋には、誰も手を付けられていない。

 着ていた制服も、乱雑に置かれた教科書も、しおりが挟まった読みかけの本も。

 片付ける理由なんて誰にもなかった。そんな中。

 死んだはずの弟が、家に帰ってきたのだ。


――ピンポーン


 インターホンの音が、静まり返った家の中に響いた。

 異様な静寂だった。時計の秒針がやけに大きく聞こえていて、冷蔵庫の低い駆動音はいつの間にか耳につかなくなっていた。

 両親は動かなかった。母は両膝で手を揃えたまま。父はうつむいたまま。凪(なぎ)はしばらく二人を見て、立ち上がった。

 モニターまで歩き、通話ボタンを押す。画面に映ったのは、白衣を着た男性。白い球体を抱えている。その顔を見て、すぐに思い出した。


――あの研究機関の人だ。


 凪は通話ボタンを押す。


「……はい」

『突然の訪問で申し訳ありません。本日、お約束していたものをお届けに……』


 来るとは言っていた。

 だが今日、この人たちが来るまで、その話を本当に実行するつもりなのだとは考えていなかった。


「……分かりました。どうぞ上がってください」


 凪は玄関まで向かい、研究員たちを通した。


「父さん、母さん、例の機関の人だって」


 そう声をかけてから、研究員たちをリビングまで案内する。自分は二階にある自室に戻った。どうせ関係ないことだ。

 数分後。父に呼ばれて、凪は階段を下りた。

 リビングに入って、一番最初に目についたのはソファに座った母だった。母は何度も涙を拭い、細かく肩を震わせていた。

 その隣には父が座っていて、父も泣いてはいないものの戸惑っているような、そんな様子だった。

 テーブルを挟んで向かいには無表情をした研究員たち。その手には、さっきも見た球体。

 それが、かすかに動いた。白い表面が震える。

 誰かが揺らしたのかと思った。でも、研究員は持っているだけで揺らしていない。

 球体がもう一度震える。

 ソファの後ろに立っていた凪は、息を止めた。


「ただいま、兄ちゃん」


 凪は何度か瞬きを繰り返す。ソファの背もたれにのせようとしていた手が、空中で固まった。

 それがなんなのか、知っていた。

 弟が死んだ直後、葬儀の準備に追われていた家に彼らはやって来た。

 説明は、凪には半分も分からなかった。ただ、死んだ人の脳を保存していて、そこから記憶を読み取っていることは分かった。

 研究者からの言葉に、母は何度も泣きながら頷いていた。父も、長い沈黙のあとに頷いた。


――お願いします。


 あのとき、父がそう言ったのを覚えている。

 そして今、球体は笑いながら父と母に声をかけていた。戻ってきたよ、これからもここですごせるから、僕、お母さんとお父さんのこと、忘れてないよ。

 父も母もすでに受け入れていて、言葉につまりながらもときに短く返事を返している。それを見て、凪はなにも言えなかった。


「……ほら、凪も」


 母が涙声で言う。凪は『それ』を見た。ただの球体のはずなのに、目が合った気がした。


「兄ちゃん」


 凪は目をそらして、拳を握りしめる。


――その呼び方を、知っていた。


 何度も聞いた。朝、眠そうに呼ばれたことも、くだらないことで笑いながら呼ばれたこともある。

 凪は顔を上げる。それから、『それ』をにらんだ。


「俺の弟はもう死んだ」


 硬い声で、でもはっきりと言った。一瞬静かになってから、父が『おい、』と咎める。凪は『それ』をにらみつけたまま続けた。


「だってそうだろ。弟は……湊(みなと)は、もういない。死んだんだ」

「凪!」

「……それと」


 父の激昂にも動じずに、凪はすっと表情を冷たくして言い放った。


「兄ちゃんって呼び方もやめろ。いいな」


 誰かが言う間もなく、凪はリビングを出ると再び部屋に戻った。


――たしかに、湊に似ていた。


 落ち着かなさを表すように早歩きで階段を上って、普段より勢いよくドアを閉めた。


――声も、話し方も。記憶も、多分行動も。


 ドアにもたれかかると、ずるずると床に落ちていく。


――いや、『似ていた』じゃない。……同じだ。同じだった。


 知っている声だった。懐かしい呼び方だった。

 間違えるはずがない。『あれ』は湊と同じように、呼びかけてきた。

 説明されたとおりだ。嘘ではなく湊の脳を保存していて、湊と同じ記憶を持っているのだろう。

 だからあんなふうに話せる。あんなふうに笑える。

 だけど、あれは湊だと言えるのか?


――『あれ』は湊じゃない。俺の弟じゃない。


 目もない。口もない。湊の顔も、身体も、ない。ただの白い球体。声や記憶が同じというだけの。


――『あれ』は湊をもとに作られた、別の『なにか』だ。やっぱり湊は帰ってきてない。


 湊の、弟の死を目の当たりにして、それでもこれから受け入れていこうとしていた。

 そこで、球体が来た。

 両親は救われただろう。喜んだだろう。愛する息子が帰ってきて、当然だ。


――でもそうじゃないんだよ。


 代わりを用意されたみたいだった。じゃあ脳をのせた機械を、と。

 湊が死んだ。それはなにをしても動かない事実だ。

 なのに、『あれ』は明るく話した。笑った。

 湊の声で。湊の言葉で。まるでなにもなかったかのように。

 それが、凪には許せなかった。