最後のフィルムを回すまで

春が嫌いだった。

花粉症だからではない。

桜が嫌いだからでもない。

ただ何となく。

春になるとみんな変わってしまう。

新しい制服。

新しいクラス。

新しい友人。

教室のあちこちで、「よろしく」と言い合う声がする。

僕はその光景を、一人窓辺の席でぼおっと眺めていた。

「入ればいいじゃないか」

そんな声は聞こえなかったことにする。

僕はもう。

だれとも親しくなりたくないのだ。

彼女との思い出を、誰かで上書きしたくない。

別に、誰かと仲良くしたからって、思い出が上書きされて、彼女が消えるわけではない。

そんなことは、心の中ではわかっている。

それでも。

やっぱり。

春が嫌いだ。

そういえば。

僕が彼女と出会ったのも、春だった。

あの頃の僕は今よりも純粋で、春になれば少し心が浮ついていた。

新しい友人を作るために、何人にも声をかけ、その人々と「よろしく」と言い合った。

だけど。

彼女は違った。

彼女はただ一人、窓の外の桜を感情のない顔で眺めていた。

その様子に少し興味をひかれた。

だが、新しくできた「友人」に「こっちこいよ」と言われ、僕の意識の中から彼女はすぐに消え去った。

再び彼女のことを気にしたのは、放課後、学校を探検していた時だった。

その日は雨が強く降っていて、満開だった桜もすでに散ってしまっていた。

雨が強くて、とても外にはいられないくらいだった。

運動部の連中も早々と部活を終え、帰宅していた。

そんな中。

中庭に一人、びしょ濡れの女子生徒がいた。

彼女だ。

教室で桜を見ていたあの子。

僕は最初こんな雨の中、ずぶぬれになっているなんて馬鹿じゃないかと思った。

でも次第にそれは心配に変わっていった。

「ねえ」

彼女は振り向かない。

自分がよばれているのに気づいていないのだろうか。

「ねえってば」

僕は彼女の腕をつかみ、無理やり傘の中に入れる。

彼女はこちらを振り返り、そして首を傾げた。

「あなた、だれ」

そりゃあそうだ。

「よろしく」なんて言い合ってないのだから。

「僕は、山村綴。君と同じクラスの人間だよ」

「綴…・」

彼女は僕の名前を小さく繰り返す。

「なんでこんな雨の中、一人で濡れているんだ?」

僕が問いかけると、彼女は。

「私は、山科鏡子」

名乗った。

いや、まったく話がかみ合ってない。


「山科」

「鏡子」

「えっと鏡子…」

「うん」

彼女は少し満足そうだ。

僕はため息をつき、

「なんでこんな雨の中、一人で濡れているんだ?」

と繰り返した。

「雨の音、虫の声、風の歌声。全部、全部覚えときたくて」

何を言っているんだこいつは。

僕は思わず彼女の顔を見た。

だけど彼女の表情は、真剣そのものだった。

冗談を言っているようには見えない。

「…覚える?」

「うん」

「何のために?」

「忘れないように」

彼女はそう言って、空を見上げた。

雨粒が彼女の頬を伝って、そして落ちていく。

「雨の音も、虫の声も、風の歌声も。今日しか聞けないかもしれないでしょ?」

「いや」

僕はすかさず否定する。

「雨なんてまた降るだろ」

そういった僕を見て、彼女は少し残念そうに笑う。

そしてーー

「同じ雨は二度と降らないし、同じ風は二度と吹かない」

「だから私は覚えておきたいんだ。この世界のことを」

「鏡子は宇宙人か何かなのか…?」

僕がつぶやくと、初めて彼女が笑った。

「そんなわけないよ。ただの高校生。いつかは死んでいく存在だよ。」

彼女はそう言い終わるとこっちを指さして

「君と同じ」

そう言って、彼女は笑った。

僕は返す言葉が見つからなかった。

なんだか変な気分だった。

初対面の女子に、いきなり「いつかは死ぬ」と言われたからだろうか。

それとも。

彼女があまりにもそれを、当たり前のことのように言ったからだろうか。

「…変な奴だな」

思わず口からこぼれた。

「よく言われる」

「自覚はあるのか」

「うん」

即答だった。

僕は思わず笑ってしまった。

「何がおかしいの?」

「いや…」

さっきまで謎のやつだなと思っていたのに。

不思議と心地が良い。

彼女と話していると、なんだか調子が狂う。

「ほら」

僕は傘を彼女のほうへ押しやった。

「送る」

「え?」

「鏡子の家まで送る。もう暗いから女の子一人だと危ないだろ」

「そっか」

「優しいね」

「普通だろ」

彼女は嬉しそうな顔をして傘を受け取った。

「じゃあ、行こう」

「うん」

僕たちは並んで歩き始めた。

学校を出ると、雨は少しだけ弱くなっていた。

さっきまでうるさいくらいに聞こえていた雨音も、今はどこか静かに感じる。

「綴くん」

「何?」

「今日のこと忘れないでね」

「今日のこと?」

「うん。雨が降って、桜が散って、綴くんが私をこうやって傘に入れてくれたこと」

「…そんな簡単に忘れないよ」

「そっか」

彼女は嬉しそうに笑った。

「じゃあよかった」

「何が?」

「今日という日が、なくならないから」

僕は彼女を見る。

「…どういう意味?」

「人は忘れるから」

彼女は前を向いたまま言った。

「いつか必ず」

「だから」

「だから私は覚えておきたいの」

彼女はそう言って、空を見上げた。

雨雲の隙間から、ほんの少しだけ夕焼けがのぞいていた。

「今日のこともわすれないようにしないと」

「…そんなに大事なことか?」

「うん」

彼女は迷いなくうなずいた。

「私にとっては、大事なことだよ」

「…変な奴」

「また言った」

「事実だろ」

「ふふ」

彼女は笑った。

その笑い声が、雨上がりの道に響いた。

この時の僕はまだ知らなかった。

この何気ない帰り道が。

後に、何度も思い出すことになるなんて。