朝、ジノは柔らかな光の中で目が覚めた。
レースのカーテンから朝陽が差し込み、広い寝室の中をうっすらと照らしている。
だだっ広いベッド、絡まるように抱きつかれて目覚める朝も、……もう、慣れたものだった。目の前の緩んだ寝顔を、一瞥。
白金色の髪が秋の陽光にきらめき、翠色の瞳は今は閉じられている。口元が緩く弧を描いているのは、まぁいつものことだ。
「…………」
……今日は、約束の"半年目"、だった。
捕縛され、断罪され、連行に近い形でこの邸に連れてこられ、結婚だなんだとつなぎ留められ。
使用人には奥さまと呼ばれ、魔王やら、女神やら、死んだはずの人間やら、……まぁ。
……ちょっと色々ありすぎて、人生で一番濃い半年間だった、気が、する。
『半年後、どうしても私を好きになれなければ、』
――その時は自由にして構わないと、この男は言った。
そんな、シーツの中でぬくぬくとしている勇者のまぶたが、ぴくりと動く。
「……んん……♡」
……、……寝ぼけた声まで、甘ったれている。布団の中で、伸びをする仕草。髪が柔らかく乱れて、……腕の中の気配にゆるく身を寄せ。
「……ん、……ジノいる……♡」
「……いるだろそりゃ……」
低いぼやきにもへらりと笑って、翠の瞳に光が宿った。そのまま嬉しそうに身を乗り出しかけて――けれどぴたりと、止まった。
「あっ……」
「…………」
普段なら、飛びついてくる距離。笑顔は変わらず向けられているが、目元はほんの少しだけ、探るように。
「……起きて、飯、行くか」
「……うん、……そだね♡」
半年生活最後の朝は、そうして静かに始まった。
リックはゆっくりと、けれど躊躇いのない動きで身を起こすと、片手でシーツを押さえながらベッドの端に腰を下ろした。足元に置かれたスリッパに足を通しながら、ひとつ、息をつく。
「……半年かぁ……」
後ろを振り返りもせず、ぽつりとこぼされたその声は、珍しく湿度を帯びていない。ただ、確認するような、通過するような、そんな音だった。
寝間着の裾を指先で整えながら立ち上がると、窓辺に歩いていき、レース越しの光に一瞬だけ顔を向けた。
カーテンを少しだけ開けて、朝の空気を確かめる。庭の木々に朝露がきらめいていて、どこかで小鳥が鳴いている。白金の髪が光を受けてふわりときらめく。
ひょいと振り返り、やはりいつもの笑顔で、首を傾げて。
「ジノ、おはようのちゅーは?♡♡」
「飯だ」
「アッはーい♡」
軽く笑って、素早く踵を返す。少しだけ伸びをしてから、寝室の扉へ向かう足音。その背中は、どこか少しだけ、いつもよりまっすぐ。
ジノは、その背からわずかに目をそらして、窓の外を見やった。
カチャ、カチャと、アキアが朝食の支度を整えていく。栗色の髪はコンパクトにまとめられ、伏せられた瞳には、いつもの明るさが漂う。
ジノは――、いつ、勇者にリコンの話を切り出そうか……、今朝のスープは、好きなやつだなぁと思いながら、それを見ていた。
正面では、リックが……やはりにこにこと、ジノを見つめている。
「今日は、何をして過ごそうか♡」
――穏やかで、柔らかな声が、正面からかかる。ジノが顔を上げれば、リックの後ろ、支度を終えて傍に控えたアキアも、静かに微笑んでいた。
「……特に、予定はねぇな」
「私も今日は任務もないから、……じゃあ、家でのんびりしようか♡」
「…………」
……ちらり、ジノの視線が、窓の外へ向く。
空は秋晴れで、
…………秋晴れで……。
それきり、黙って、朝食を食べた。
* * * * *
午前中はそのまま、リックの私室から、庭の手入れをするエンを見ていた。
芝は少し色を落ち着け、穏やかな褐色になっている。トピアリーは控えめに整えられ、庭木は根元にかけ布がされていた。
勇者は、何を言うでもなく、隣にいる。
なお、ジノの腰には、しっかりと手が回っており、――最初からほんとにブレねぇな、とジノが横目でそれを見下ろした。
くるりと見上げれば、目を細めて見つめてくる、翠の眼差し。
「……。……エン風邪ひかねぇかな」
「うん、あとでおやつとお茶持っていってあげようか」
――言いながらも、ぎゅう、と抱き寄せられ、流れるように肘で応戦。
なお、肘が入ってもリックの笑顔は崩れない。むしろ嬉しそうにすり寄り、頬をジノの首元に預け、腕にさらに力をこめている。背中からまるごと、包み込むように。
「くっそ邪魔だな……」
「ジノ、あったかい……♡」
耳元で囁かれて、肩がぴくりと跳ねる。が、勇者はこんなことではへこたれない。もうわかりきっている。
「ジノは本当に嫌だったら殴る♡」
「…………」
「……、……♡」
すり、と白金色の髪が、ジノの肩に。声は低めに抑えているが、胸板から伝わる脈がうるさい。視線を逸らしたジノに、またひときわ柔らかな声が降ってくる。
「あ~ぁ……あっという間すぎたなぁ……♡」
その一言に、庭の風が少しだけ冷たくなったような錯覚があった。
ふと、褐色の芝の上、エンがこちらを見上げた気配がして――しかし何も言わず、再び庭の冬支度に意識を戻していた。
「……行かないでほしいなぁ……」
ぽそりと、ため息混じりの囁き。ジノの肘がじわりと食い込む。
「いだっ!?あっ、ちがっ、ごめんごめん!!♡♡」
慌てて、腕がほどかれる。外では今もエンが、作業の手を止めることなく、静かな音だけが庭に流れている。
ジノは窓辺から踵を返し――、
――とさりと、部屋のソファに腰かけた。
足に肘を乗せ、手のひらに、額を置く。リックが隣に来る気配はない。けれど、視線は感じた。
――しばし、沈黙。
そののち、……ゆるりと頭を巡らせた。
「……。……リック」
「……、うん、なに♡」
「……家、出ていく、荷造りをさ」
荷造、り。
……ひやりと、リックの背に冷たいものが走った。
の、だが。
「――しようかと、数え切れねぇくらい、思ったんだけど」
「……う、うん」
――リック、一歩、にじりよる。ずり、と足裏が、絨毯をこすりながら。
「……俺は……くそ甘ったるいことも言えねぇし」
「…………」
「お前と、ミルヴァたちが困ってたら、ミルヴァたちの味方になるし」
「んっふ……」
小さく笑みをこぼし、肩を揺らして……リックが、ジノの前に膝をついた。今にも飛びかかりたいがしかし、勇者にも学習能力はある。
"待て"をする大きな犬のように、けれども堪えきれない分は、ジノの膝に、……手のひらを乗せた。
「買ってもらったコートも、まだ、着てねぇし……」
「うん……」
「…………あと……子どもとか、うめねぇけど」
「……っ……"そういうこと"も視野に入れてくれてるの?♡……」
「…………」
は、と、眉をしかめて、ジノが小さく笑う。
結婚相手に適さないぞ、なんて……こいつにはもう、脅しにすらならない。なんにもならない。
"俺"のことなんて、半年も経てば、……飽きると思っていたのになぁ。なんて。
「……はは、まぁ、やめた」
「う、うん……?♡」
「リコン、しねぇ、わ」
リックの肩が、ぴく、と跳ねた。
「……、……っっ♡♡♡」
膝に置いていた手のひらが、ぶるぶると震える。
もう片方の手もそろそろと伸びかけ――しかし床に拳をぎゅっとついて堪えた。
好きだと言われたわけではないのに、もう何もかもを肯定された思い。甘く、どうしようもない、思い。
叫びたい。跳ねたい。抱きつきたい。ちゅーしたい。転がりたい。けど、今はダメ。今は。
「あ、……あり、がとう……ッ♡」
吐息まじりの、声ともつかぬ囁き。それ以上何もできず、しばし膝元に正座したまま硬直していたが――
「…………っゆ、夢かな!?♡♡」
「夢かぁ」
「アッ!♡ごめんなさい夢じゃないです!!♡ジノが僕と離婚しないって言った!!♡♡♡」
喜びがついに制御不能になったリックの額が、倒れ込むようにして、ジノの膝にぽふんと落ちた。重たくも、湿ってもいない、ただ甘ったれた犬のような動作。
「……幸せにするよぅ……♡♡♡」
「…………」
目の端で見上げてきたリックからは、そんな甘やかな声。
望めば何でも手に入りそうな人徳と力を持っていて、なのにそれらを振りかざすことなく全身から好きを溢れさせて、いや、始まりこそ確かに"強制"だったかもしれないが……。
けれどジノがリックの髪に指を通せば、そこにあるのはもう違えようのない夫夫の温度。
賑やかしいふたりのお話は、これでこうして幕を閉じ、――られると思います……?
* * * * *
ドタバタと、勇者邸の階段を、勇者が駆け下りてくる。顔には満面の笑み。腕――というか肩にはジノ。
「セノール!!ミルヴァアキアドマエンんんん!!♡♡♡」
「待っ、リックちょっ、待っ!」
ジノの制止など、もう聞こえてすらいない。さっきまで部屋でしっとりしてたのに。さっきまで部屋でしっとりしてたのに――!!
使用人の通路から出てきたセノールの背筋はやはり、ピンと伸びていた。
「おや、リック様。お急ぎですか」
厨房からは、ドマとミルヴァも顔を覗かせる。アキアは洗濯の途中だったようで腕まくりをしていたし、エンも何事かとちょっと慌てて玄関から飛び込んできた。
まるで樽でも担ぐかのように肩にジノを抱えていた勇者が、――しゃなりとそれを床に降ろす。
「――ジノが……♡正式に私の奥さんになります♡♡」
「…………」
「…………」
「……あ、はい……」
「奥さまから昨日……出ていくつもりはないと伺っています……」
エンと、アキアの声が、玄関ホールに悠々と溶ける。
「……ッッえ!?!?♡♡♡」
――勇者、衝撃と喜びで絶句。
「…………っじゃ、じゃあ!じゃあ!!も、もう、もう今すぐ入籍してくるね!!♡♡♡」
「えッッ!?俺らって籍入ってなかったの!!?」
――続けざまに、奥様の絶叫も玄関ホールに溶ける――。
…………。ゆ、勇者邸に、沈黙が訪れ
「うっそだろお前!?じゃあ今までなに、え、ただの同棲!?だったってことかよ!!」
「同棲!?♡♡♡」
「そこじゃねぇ!!っていうかあんだけ皆に奥様奥様呼ばせといて、お、おま、お前!!」
「えっ♡でもみんなも籍入ってないのわかってたよ!?♡♡」
「そっ、ほっ、マジかよセノール!!」
「はい、奥様」
「おっ、奥様って言うなァァァ!!!」
……沈黙は、訪れなかった……知ってた……。
「ジノ♡♡♡これで私も正式に"旦那様"だね♡♡♡」
「なぁ!!じゃあ籍入ってねぇのに、俺一人でリコンだなんだって騒いでたってことか!?」
「うん♡♡ごめんね、ジノの方から"結婚した"って思ってくれたみたいで嬉しくて♡言えなかった♡♡」
「てンめぇ!!」
後方では、いつもの光景ですね、といった具合の使用人たちが、笑いながら散会していくところ。
セノールだけが、唯一表情を崩さぬまま、ぺこりと一礼。
「ご入籍、おめでとうございます。……奥様、旦那様」
「ばっ……大体、おかしいと思ってたんだ!セノールだけずっと俺のこと名前で……!」
「ほっほっほ……これからはもう"奥様"でございますな」
「やめろォォォ!!」
ホールに響く絶叫に、笑いながら庭に出たエンが、玄関の扉をひとつ、そっと閉めた。
通りすがりの郵便配達人が、この家いっつも賑やかだな、といった顔をして、音もなく立ち去っていく。
しっちゃかめっちゃかに、けれど世間を揺るがすほどでもなく、しかしどこにもないような"夫夫"の毎日をめぐるお話が、今やっと静かに幕を閉じようとしていたが。
「うるせぇ!!好きだよバカ!!」
――という奥様の怒りの絶叫が響いて……、っぴゃーん!♡♡という締まりのない勇者の鳴き声が轟いたことも、最後に記しておく。



