そのチラシを受け取ったとき、俺も伊織も、右下に印刷された「ドリンク一杯二百円引き」という文字しか見ていなかった。
学校帰り、駅前のゲームセンターで財布の中身を減らした俺たちは、特に目的もなく繁華街をうろついていた。
夕方になって人通りが増え、スーツ姿の会社員や買い物帰りの学生が狭い歩道を行き交っている。
制服を着崩し、派手な金髪にピアスだらけの耳。そんな俺の格好を見ると、向こうから歩いて来る連中はわざわざ隙間を空けてくれる。
隣を歩く伊織も赤く染めた髪に口ピアスを着けているから、二人並べば避けられるのには慣れている。
そんな俺たちに、駅前でチラシを配っていた女の子が近づいてきた。
黒を基調にした膝丈のドレスには深紅のリボンとレースが幾重にも重なり、頭には小さな薔薇を飾った白いフリルの飾り(?)を着けている。ドレスの上には髪飾りと同じ白いフリルのエプロンを纏っているので、これはメイド服なんだろう。
普通のメイド服よりずいぶん派手だなと思った。
「チラシどうぞ。割引券付いてます。すぐ近くのお店です」
差し出されたチラシを受け取ると、女の子は俺たちとは目も合わさずに、ほかの通行人に声をかけに行った。俺が怖かったのか、最後のほうは笑顔が少し硬くなっていた気もする。
チラシの中央には、さっきの女の子と似た格好をした店員たちの写真が載っていた。
黒と赤で統一された画面の上に、蔓を絡ませたような飾り文字で「宵薔薇ドールズ」と書かれている。その下には店までの地図と料金表があり、切り取り線のついたドリンク割引券まで付いていた。
「メイドカフェ? 俺、いっぺん行ってみたかったんだよな」
伊織がチラシを眺めながら、いかにも今思いついたような調子で言った。
「お前、こういう店に興味あったのかよ」
「一回くらい行ってみてえだろ。せっかく割引券も付いてるし」
「ゲームで負けたから金ねえんだけど」
「割引券あるからそんなに高くねえだろ。場所もここから三分だって」
「高かったら、お前が払えよ」
「なんで俺が払うんだよ。ゲーセンで金なくしたのは自業自得だろ」
ほかに行きたい場所があるわけでもないし、家にも帰りたくない。
俺たちはチラシの地図を頼りに、大通りから一本外れた路地に入った。
店は雑居ビルの三階にあった。一階にはラーメン屋、二階には看板の色が褪せたスナックが入り、外壁沿いの細い階段を上がった先に、黒い扉がある。
扉には店名を囲むように造花の薔薇が飾られていたが、薄暗い廊下も相まって、かわいいというより吸血鬼でも住んでいそうだった。
「本当にここか?」
「店の名前も合ってるだろ。入ろうぜ」
伊織がためらいもなく扉を開けると、頭上で小さなベルが鳴った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
店内にいた数人の店員が、ほとんど同時に俺たちを迎えた。
壁紙やテーブルは黒と深紅で揃えられ、天井から下がるシャンデリアの光も普通の喫茶店より暗い。
窓には分厚いカーテンが引かれ、壁際の棚には西洋人形や燭台が並んでいる。外から見た雑居ビルの古臭さとは違い、店の中だけが夜の洋館みたいに作り込まれていた。
平日の夕方だからか、客はカウンターとテーブル席を合わせても五、六人しかいない。俺たちが扉の前に立っていると、カウンターの近くにいた店員がこちらを振り返った。
腰まで届く暗い赤色の巻き髪に、黒い薔薇を載せた髪飾り。白い肌には化粧が施され、目尻を長く見せるアイラインとツヤのある唇が、照明の下で人形みたいに映えている。
黒いドレスの胸元から腰にかけて深紅の編み上げリボンが通され、膨らんだスカートの裾には細かな薔薇模様が刺繍されていた。
もしこれが綺麗な女だったら、たぶん見とれていたと思う。
ただ、そいつは俺たちと大して変わらないほど背が高く、ドレスで隠しきれない肩や顎の線にも、女とは違うゴツさがあった。
メニューを持つ手も大きく骨ばっているし、スカートの下から覗く編み上げブーツは、どう見ても女物として売られているサイズではない。
どれだけ化粧が上手くても、骨格までは変えられない。目の前にいるのが男だということは、近くまで来られればすぐに分かった。
俺たちの姿を認めたそいつは、驚いたように目を大きくした。
手にしていたメニューまでわずかに傾いたものの、すぐに口元を整え、営業用の笑顔を作った。
見るからにヤンキーな見た目の二人組を見れば、警戒するのも無理はない。俺はそう考えながら、睨んでいると誤解されないように少し顎を引いた。
「二名様ですね。こちらのお席にどうぞ」
声は高く作ってあるが、注意して聞けば男の声が下に残っていた。
俺たちは案内されたテーブルに向かい合って座り、そいつからメニューを受け取った。
胸元には薔薇形の名札があり、白い文字で「Rose」と書かれている。
「本日お給仕を担当するローズです。ご来店は初めてですか?」
「ああ。さっき駅前でこれもらった」
伊織がチラシを差し出すと、ローズは割引券を確認してから、テーブルの端に置いた。
「ありがとうございます。こちらはお会計の際に適用しますね。当店にはお飲み物だけでなく、お絵描きオムライスやケーキもございますので、よろしければご覧ください」
作った声だけでなく、言葉遣いや手の動かし方まで徹底している。
男だと分かってから見ても雑なところはない。
その店員が去っていった後、向かいに座る伊織が、メニューで口元を隠しながら俺に顔を寄せてきた。
「なあ、あの店員、男だよな?」
「たぶんな。つーか、ほかの店員も全員そうじゃねえか?」
カウンターの中にいる金髪の店員は、客と話すときだけ声を高くしている。
隣のテーブルに紅茶を運んでいる黒髪の店員も、遠目には小柄な女に見えたが、トレーを支える手や首元には男らしさが現れていた。
駅前でチラシを配っていた子も、もしやそうなんだろうか。
伊織はテーブルに置かれたチラシを取り、最初から読み直す。やがて店名のすぐ上を指で叩き、呆れたように俺を見た。
「女装って書いてあんじゃん」
「どこに?」
「ここ。『女装メイドカフェ 宵薔薇ドールズ』って、普通に書いてある」
「文字ちっせえよ」
「俺らが割引券しか見てなかっただけだろ」
「お前、メイドの写真も見てたじゃねえか」
「写真じゃわかんねえよ」
ローズが注文用紙を持って戻ってきたため、俺たちはチラシを伏せた。
俺たちの会話が聞こえていたのか、唇には笑みを浮かべていても、ペンを持つ指には力が入っている。
男がメイド服を着ていることを面と向かって馬鹿にするつもりはない。だが、向こうにはそうは見えなかったのかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
「俺、アイスコーヒー」
「俺はクリームソーダ。色は青いやつで」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ、ご主人様」
ローズは注文をメモすると、逃げるようにテーブルから離れようとした。
その横顔を近くで見た途端、何か引っかかりを感じた。
「なあ」
呼び止めると、ローズの背中が不自然に強張った。
振り返った顔には営業用の笑みが残っているものの、俺が次に何を言うのか探るようにこちらを見ている。
「俺、お前とどっかで会ったことある?」
「いいえ。ご主人様とは、本日が初対面だと思います」
「そうか。なんか見たことある気がしたんだけどな」
「お店の写真を、SNSなどでご覧になったのではありませんか?」
「いや、俺、こういう店があることも今日初めて知った」
ローズの笑顔がまた硬くなったので、それ以上聞くのはやめた。
髪も化粧も声も普段とは違うのなら、知り合いだったとしても見分けられる気がしない。
それにもし知り合いだとしても、こいつは女装して働いてるなんてバレたくないだろう。
ローズがカウンターに戻ってから、伊織もその後ろ姿を眺めながら首を傾けた。
「やっぱり、お前も見覚えあんの?」
「おう。なんか見たことある顔のような気がする。お前は?」
「俺も、どっかで見た気がすんだよな。でも、あんな美人の知り合いはいねえし」
「男だけどな」
「男でも美人は美人だろ」
確かに、それについては否定できなかった。
カウンターの中に戻ったローズは、ほかの店員から何かを尋ねられ、俺たちには聞こえない声で答えている。
横顔にはもう驚きも警戒も残っておらず、店内の照明に似合う完璧な人形に戻っていた。
それでも、ときおり確かめるようにこちらを見る目だけは、初めて会った客に向けるものには思えなかった。
学校帰り、駅前のゲームセンターで財布の中身を減らした俺たちは、特に目的もなく繁華街をうろついていた。
夕方になって人通りが増え、スーツ姿の会社員や買い物帰りの学生が狭い歩道を行き交っている。
制服を着崩し、派手な金髪にピアスだらけの耳。そんな俺の格好を見ると、向こうから歩いて来る連中はわざわざ隙間を空けてくれる。
隣を歩く伊織も赤く染めた髪に口ピアスを着けているから、二人並べば避けられるのには慣れている。
そんな俺たちに、駅前でチラシを配っていた女の子が近づいてきた。
黒を基調にした膝丈のドレスには深紅のリボンとレースが幾重にも重なり、頭には小さな薔薇を飾った白いフリルの飾り(?)を着けている。ドレスの上には髪飾りと同じ白いフリルのエプロンを纏っているので、これはメイド服なんだろう。
普通のメイド服よりずいぶん派手だなと思った。
「チラシどうぞ。割引券付いてます。すぐ近くのお店です」
差し出されたチラシを受け取ると、女の子は俺たちとは目も合わさずに、ほかの通行人に声をかけに行った。俺が怖かったのか、最後のほうは笑顔が少し硬くなっていた気もする。
チラシの中央には、さっきの女の子と似た格好をした店員たちの写真が載っていた。
黒と赤で統一された画面の上に、蔓を絡ませたような飾り文字で「宵薔薇ドールズ」と書かれている。その下には店までの地図と料金表があり、切り取り線のついたドリンク割引券まで付いていた。
「メイドカフェ? 俺、いっぺん行ってみたかったんだよな」
伊織がチラシを眺めながら、いかにも今思いついたような調子で言った。
「お前、こういう店に興味あったのかよ」
「一回くらい行ってみてえだろ。せっかく割引券も付いてるし」
「ゲームで負けたから金ねえんだけど」
「割引券あるからそんなに高くねえだろ。場所もここから三分だって」
「高かったら、お前が払えよ」
「なんで俺が払うんだよ。ゲーセンで金なくしたのは自業自得だろ」
ほかに行きたい場所があるわけでもないし、家にも帰りたくない。
俺たちはチラシの地図を頼りに、大通りから一本外れた路地に入った。
店は雑居ビルの三階にあった。一階にはラーメン屋、二階には看板の色が褪せたスナックが入り、外壁沿いの細い階段を上がった先に、黒い扉がある。
扉には店名を囲むように造花の薔薇が飾られていたが、薄暗い廊下も相まって、かわいいというより吸血鬼でも住んでいそうだった。
「本当にここか?」
「店の名前も合ってるだろ。入ろうぜ」
伊織がためらいもなく扉を開けると、頭上で小さなベルが鳴った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
店内にいた数人の店員が、ほとんど同時に俺たちを迎えた。
壁紙やテーブルは黒と深紅で揃えられ、天井から下がるシャンデリアの光も普通の喫茶店より暗い。
窓には分厚いカーテンが引かれ、壁際の棚には西洋人形や燭台が並んでいる。外から見た雑居ビルの古臭さとは違い、店の中だけが夜の洋館みたいに作り込まれていた。
平日の夕方だからか、客はカウンターとテーブル席を合わせても五、六人しかいない。俺たちが扉の前に立っていると、カウンターの近くにいた店員がこちらを振り返った。
腰まで届く暗い赤色の巻き髪に、黒い薔薇を載せた髪飾り。白い肌には化粧が施され、目尻を長く見せるアイラインとツヤのある唇が、照明の下で人形みたいに映えている。
黒いドレスの胸元から腰にかけて深紅の編み上げリボンが通され、膨らんだスカートの裾には細かな薔薇模様が刺繍されていた。
もしこれが綺麗な女だったら、たぶん見とれていたと思う。
ただ、そいつは俺たちと大して変わらないほど背が高く、ドレスで隠しきれない肩や顎の線にも、女とは違うゴツさがあった。
メニューを持つ手も大きく骨ばっているし、スカートの下から覗く編み上げブーツは、どう見ても女物として売られているサイズではない。
どれだけ化粧が上手くても、骨格までは変えられない。目の前にいるのが男だということは、近くまで来られればすぐに分かった。
俺たちの姿を認めたそいつは、驚いたように目を大きくした。
手にしていたメニューまでわずかに傾いたものの、すぐに口元を整え、営業用の笑顔を作った。
見るからにヤンキーな見た目の二人組を見れば、警戒するのも無理はない。俺はそう考えながら、睨んでいると誤解されないように少し顎を引いた。
「二名様ですね。こちらのお席にどうぞ」
声は高く作ってあるが、注意して聞けば男の声が下に残っていた。
俺たちは案内されたテーブルに向かい合って座り、そいつからメニューを受け取った。
胸元には薔薇形の名札があり、白い文字で「Rose」と書かれている。
「本日お給仕を担当するローズです。ご来店は初めてですか?」
「ああ。さっき駅前でこれもらった」
伊織がチラシを差し出すと、ローズは割引券を確認してから、テーブルの端に置いた。
「ありがとうございます。こちらはお会計の際に適用しますね。当店にはお飲み物だけでなく、お絵描きオムライスやケーキもございますので、よろしければご覧ください」
作った声だけでなく、言葉遣いや手の動かし方まで徹底している。
男だと分かってから見ても雑なところはない。
その店員が去っていった後、向かいに座る伊織が、メニューで口元を隠しながら俺に顔を寄せてきた。
「なあ、あの店員、男だよな?」
「たぶんな。つーか、ほかの店員も全員そうじゃねえか?」
カウンターの中にいる金髪の店員は、客と話すときだけ声を高くしている。
隣のテーブルに紅茶を運んでいる黒髪の店員も、遠目には小柄な女に見えたが、トレーを支える手や首元には男らしさが現れていた。
駅前でチラシを配っていた子も、もしやそうなんだろうか。
伊織はテーブルに置かれたチラシを取り、最初から読み直す。やがて店名のすぐ上を指で叩き、呆れたように俺を見た。
「女装って書いてあんじゃん」
「どこに?」
「ここ。『女装メイドカフェ 宵薔薇ドールズ』って、普通に書いてある」
「文字ちっせえよ」
「俺らが割引券しか見てなかっただけだろ」
「お前、メイドの写真も見てたじゃねえか」
「写真じゃわかんねえよ」
ローズが注文用紙を持って戻ってきたため、俺たちはチラシを伏せた。
俺たちの会話が聞こえていたのか、唇には笑みを浮かべていても、ペンを持つ指には力が入っている。
男がメイド服を着ていることを面と向かって馬鹿にするつもりはない。だが、向こうにはそうは見えなかったのかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
「俺、アイスコーヒー」
「俺はクリームソーダ。色は青いやつで」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ、ご主人様」
ローズは注文をメモすると、逃げるようにテーブルから離れようとした。
その横顔を近くで見た途端、何か引っかかりを感じた。
「なあ」
呼び止めると、ローズの背中が不自然に強張った。
振り返った顔には営業用の笑みが残っているものの、俺が次に何を言うのか探るようにこちらを見ている。
「俺、お前とどっかで会ったことある?」
「いいえ。ご主人様とは、本日が初対面だと思います」
「そうか。なんか見たことある気がしたんだけどな」
「お店の写真を、SNSなどでご覧になったのではありませんか?」
「いや、俺、こういう店があることも今日初めて知った」
ローズの笑顔がまた硬くなったので、それ以上聞くのはやめた。
髪も化粧も声も普段とは違うのなら、知り合いだったとしても見分けられる気がしない。
それにもし知り合いだとしても、こいつは女装して働いてるなんてバレたくないだろう。
ローズがカウンターに戻ってから、伊織もその後ろ姿を眺めながら首を傾けた。
「やっぱり、お前も見覚えあんの?」
「おう。なんか見たことある顔のような気がする。お前は?」
「俺も、どっかで見た気がすんだよな。でも、あんな美人の知り合いはいねえし」
「男だけどな」
「男でも美人は美人だろ」
確かに、それについては否定できなかった。
カウンターの中に戻ったローズは、ほかの店員から何かを尋ねられ、俺たちには聞こえない声で答えている。
横顔にはもう驚きも警戒も残っておらず、店内の照明に似合う完璧な人形に戻っていた。
それでも、ときおり確かめるようにこちらを見る目だけは、初めて会った客に向けるものには思えなかった。
