Angel Rest ――英雄を棺に納めた男――

 今日はいい天気よ、と話しかけられ、窓に目を向ける。
 ああ、いい日差しだ、と応えれば、やさしい笑みが返った。

「すまない、な、いつも」
「何を言ってるの、もう」

 ヘルヘイムの毒霧に肺をやられて数年。日々弱っていくこの体を支える妻に、ありがたさより申し訳なさが募る。
 起き上がることも難しくなった体。せき込むと、温かな細い手が背中をさすってくれた。

「もうじき、お前を自由にできるかな」
「そんなこと言わないで」

 ベッドの敷布を整え、カバンを持った妻が振り返る。

「お昼には一度帰ってくるわ」

 背中を見送る、その視界が少しかすんだ。
 行かないでくれ、と言いそうになるのを、必死にこらえた。
 一人きりのこの部屋は寒い。初めてそう思った。

 ……だから。

「……ああ、行ってらっしゃい」

 何も言わずに送り出した。
 妻には、決して知られてはならない。
 心配をこれ以上、かけることはできないから。

 ◆ ◆ ◆

「ハイ、中・下層部の魔物討伐任務、完了よ。これは二人分の報酬ね」
「うーす」
「サンキュ」

 ガシャリと二つに分けておかれた金の袋を同時に手に取る。周囲からは、羨望と、好奇、それに畏れにも近い視線を寄せられた。
 ガッシュは居心地の悪い顔をして周囲を見渡す。一般の冒険者が命がけで足を踏み入れる下層近くの魔物を討伐したのだ。視線はある程度覚悟していたが、「何だあいつら」と言わんばかりの視線を浴びせられるのは気分が滅入る。

「よーし金が入ったっと。ガッシュ飯行こうぜ、飯」

 今回の討伐最大の功労者である前衛のユリウスがその視線を気にも留めずにガッシュに話しかけてきた。おう、とうなずき、そのあとを追いかける。ギルドから行きつけの宿酒場まではほんの数分の距離だ。

「にしても、妙に狂暴じゃなかったか。中・下層とはいえ、あのオーガ」

 ユリウスの隣に追いついて問いかけたのは、討伐任務外で襲われ、討伐したオーガのことだ。群れで活動するはずのオーガが一体で襲い掛かってきたのである。

「そうかぁ? 殴られる前に斬り捨てちまったから……よくわからん」

 ユリウスの言う通り、確かに攻撃はユリウスの髪一本掠ることもなく、オーガは即座に首を飛ばされてこと切れた。ガッシュが声をかける暇すらなかった。

「……強すぎってのも考えもんだな」
「そんなこと言うなよ……」

 言い合いながら宿酒場に入る。

「……あれ」
「どうした?」

 ガッシュは怪訝に思って周囲を見渡した。聞こえるはずの声が聞こえない。ユリウスがガッシュの反応に気づくより前に、ガッシュはカウンターで料理をしているマスターに問いかけた。

「なあ、マリエラさんは今日来てねえの?」

 マリエラ。そう。この宿酒場で働いている女性。いつもは来店と同時に必ず「いらっしゃいませ!」と明るい声であいさつしてくれたのに、今日はそれが聞こえない。

「なんだよ、おまえマリエラさんって人のこと気になってんのか?」

 ユリウスがからかうように問い掛けてくるので、ガッシュは苦々しく思いながらにらみ返した。

「バカ。あの人人妻だよ」
「……悪い」

 申し訳なさそうにユリウスは頭をかく。ガッシュにとってはそれどころではない。重ねてマスターに問いかけた。

「なあ、マリエラさんは?」
「ああ、昼も来てくれる予定だったんだが、何かあったのかもしれん」
「ああ……ロイさんか」
「ロイ?」

 ユリウスが首をかしげる。ガッシュはちいさくうなずいた。

「マリエラさんの旦那。ロイさんはヘルヘイムに潜った新米を救出するために毒霧吸っちまって……以来寝たきりなんだ。俺もよく世話になった先輩なんだけど」
「そういうことか」
「ガッシュ頼む、マリエラさんの様子見に行ってやってくれないか。ついでにこいつも」

 マスターは言いながらワインの瓶をカウンターに置く。

「ロイの奴も、たまにはいい酒を飲ませてやりたいと思ってな」
「……そうだな。悪いユリウス、俺マリエラさんのところに行ってくる」
「あっ、待てよガッシュ、俺も行く」

 ついてくるユリウスに驚いた顔になる。出会った頃の、知らない男を見捨てようとしていたやつとは人が変わったようだ。
 そう思っていることが分かったのか、ユリウスも困った顔をして視線をさまよわせる。

「……いや、正直そのロイさんって人にもマリエラさんって人にも興味はないんだけど……」
「ストレートに言うなよ。せめてオブラートに包めよ」
「いやそれはまあ……ていうか、一人で飯食うの、寂しいからさぁ」

 ガッシュのツッコミに情けない声でユリウスが応える。

「何かあったら、飯とか食う暇なくなるかもしれないぞ」
「その時はお前におごってもらうからいい」
「……変な奴」

 何も言えなくなり、ガッシュはついてくるユリウスに肩をすくめた。

 ◆ ◆ ◆

 ガッシュとユリウスがマリエラの家に着いたのは、それからほどなくのことだった。店からほとんど距離の開いていない質素な家の前には人影がある。
 黒いコートとなでつけられたシルバーヘア、大きなトランクを下げた男——デンケンだった。

「あんた……どうして」
「こちらのご夫人と懇意にしていただいておりまして」

 ガッシュの問いかけに、デンケンはモノクルを直しながら表情を変えずに答える。

「でも、納棺師が生きてる人間と何の用があるんだ?」
「……あんたそのストレートな聞き方いい加減にどうにかしろよッ……!」

 ユリウスの問いかけはガッシュにツッコミを入れられるも、デンケンは気にも留めない。

「生前から、お別れのご準備を始められる方もおられますので」
「そんなもんか?」
「そのようなものです」

 そんな会話をしている二人をしり目に、ガッシュはドアをノックする。

「マリエラさん、ロイさん。俺です、ガッシュです!」

 返事は……ない。
 ユリウスと顔を見合わせ、ガッシュはもう一度声を上げる。

「マリエラさん、ロイさん!」
「……おい、カギ開いてるぞ」

 隣からノブをひねったユリウスが囁く。建付けの悪いドアが音を立てて開くと、病人特有の臭気がかすかによどんでいる。

「ロイさん、マリエラさん……?」

 ガッシュがのぞき込むと、奥の部屋の中でへたり込むマリエラの背中が見える。

「マリエラさん、上がるよ!」

 叫んで飛び込む。駆け込んだ部屋の中、目を閉じて動かないやせこけたロイと、開けっ放しのカーテンのほうを見上げて呆けたように座り込むマリエラ。
 ユリウスがロイの首元に指を添え、デンケンとガッシュに向かって首を横に振った。

 デンケンは静かにマリエラのそばに膝をつく。

「……お辛いところ、失礼いたします」
「……あ……、デンケン、さん」

 ようやく、マリエラの目が、ようやくデンケンに向かって焦点を結ぶ。

「あの、……主人が」
「……はい」
「主人が……私が出ている間に、息を……引き取り、ました」

 静かに、デンケンが目を伏せる。

「……左様で、ございますか」
「あの私、どうしたら」

 まだ混乱しているらしいマリエラに向けて、デンケンが静かに問いかける。

「お召し物の準備は、お済みですか」
「着る、もの……」
「旦那様が生前気に入っていたもの、ぜひ、旅立ちにお召しになってほしいもの、何か、ございますか」
「それなら……」

 ふらりと立ち上がり、クロゼットへ向かうマリエラを見送り、コートを脱いだデンケンは、立ち尽くすガッシュとユリウスに向きなおった。

「清拭を行います。湯の準備を。それとガッシュ」
「……何をすればいい」
「ご夫人は働いておられたはず。職場へのご連絡お願いいたします」

 何も言わず、ガッシュは走り出した。
 一人、大切な先輩が逝った。
 その事実を、うまく受け止めきれないまま。

 ◆ ◆ ◆

 ロイ逝去の報は、ギルドと宿酒場に瞬く間に広まった。
 ギルド直轄のヘルヘイム救援部隊に所属していたロイは、現役の頃何人もの若い冒険者の命を救っており、納棺所へ運ばれる棺の周囲には多くの人が付き添った。

「——ガッシュ君、ありがとうね、主人の最期に付き合ってもらって」
「いや、俺は全然……」

 納棺の準備を待つ間、マリエラの言葉にガッシュはうなだれる。いつか来る別れとわかっていても、世話になった先輩との別れを、その妻のこんなに静かな表情を、いまだガッシュは受け止められずにいる。

「不思議だわ。涙も出てこない。……薄情な女だと思うでしょうね」
「……いや……」

 何とも返すことができず黙り込むガッシュ。ユリウスは「俺はこういう湿っぽいの苦手なんだ」と言い放つや、宿酒場のマスターやギルドのメンバーに交じって葬式の準備に参加している。

「帰ってきて、あの人が息をしてないってわかったとき。……最初に思ったのは、ああ、これで終わったんだ、だったの」

 ぽつり、ぽつりとマリエラは話す。

「長かったわ。本当に長かった。あの人、今朝私に言ったのよ、ようやく自由にしてやれるって。本当になっちゃった」

 口元に笑みすら浮かべているマリエラに、かける言葉が見つからない。

 ずっと、マリエラはロイのために生きていたのだろう。ロイの性格からして、そんなマリエラの献身を当然のものだと思っていたとは思えない。

 ——「生前からお別れの準備をする人もいる」。

 デンケンが言っていた言葉を思い出す。
 それが、この表情だというのか。この、状況だというのだろうか。

 やがてドアが開いて、デンケンが棺を台車に乗せてやってきた。
 マリエラははじかれたように立ち上がり、棺に吸い寄せられるように歩いていく。

 ガッシュもそのあとに続いた。
 痩せこけたロイの顔。土気色の肌。亡くなったときの、あの弱り切った顔を覚えている。

『ようガッシュ! お前また、変な無茶してねえだろうな!?』

 そんな風に言ってばしりと肩を叩かれた、元気なころのロイの顔は、今も脳裏によみがえるのに。
 あの、別人のように痩せこけたロイを見るのはつらいと、思わず視線をそらした。——その時。

「……あなた……?」

 空気が抜けたような、不思議なトーンのマリエラの声。恐る恐る視線を棺にやり……ガッシュは目をみはった。

 痩せた体は変わらない。ただ、部屋で眠っていたあの、憔悴しきった男の姿ではなかった。
 穏やかで、静かに眠るその姿は、どこか昔のロイを思わせる。

「デンケン……さん、これ」

 デンケンは応えない。ただ、静かに目を伏せ、黙礼する。

「ご準備が整いましたら、式場へご案内いたします」

 それだけを言って、棺のそばに控えた。

「……今日ね、結婚記念日なの」

 マリエラは微笑みながら、胸の上で組んだロイの薬指、その指輪をなでる。
 宿酒場のマスターが今日に限って、ロイにワインを、といった理由を、ガッシュはようやく察した。

「毎年おめかししてご飯に行く約束だったのにもうしばらく行ってなくて。元気なころからよ。でも——今日は、着てもらえたわ」

 確かに、ロイの着せられた服は、パリッと糊のきいたシャツにジャケット。きっと長い闘病生活で着られなかった服なのだろう。

「恥ずかしいからこんな服着られるかって言われたけど。私、あなたがこの服着るの、好きだったのよ。……よく、似合ってると思わない……?」

 後半は、後ろから覗き込むガッシュへの問いかけだった。あふれだした涙をそのままに、それでも口元に笑みをたたえてそういうマリエラに、ガッシュはうなずく。

「はい。……よく、似合ってると思います」
「……ありがとう」

 それだけ言って棺に顔を埋め、泣き崩れるマリエラを支えながら。
 ガッシュは何も言えず、デンケンを振り返って頭を深く下げた。