命にかかわる失恋


何が起こったのか咄嗟には分からず、俺は目を瞬いた。一瞬の間に世界に音が戻ってきて、周りの家族連れや恋人たちがゆったりと水槽周りを歩いているのが視界の端に映る。
命の真っ黒な目を水槽から漏れる薄ぼんやりとした光が彩っている。俺は放心して口が塞がらなかったが、命の口も半開きになっていた。

「…今、キスした?」
「した」

俺の願望が生み出した幻覚でないことを確かめるため、ゆっくりと自分の唇を撫でる。かすかにかさついているのが今更になって恥ずかしくなってきた。

「なんで?」
「ごめん」

足に力が入らなくなり、俺はその場にくたくたとしゃがみ込んだ。命は慌てて俺の肩に手を置き、「大丈夫か」と励ますようにゆする。

「なんでそんなことするんだよ」
「ごめん、気持ち悪かったよな」
「そういうことじゃない!」

今や俺の両目からは涙がぼろぼろこぼれ落ちて、声も情けなく枯れている。恥ずかしくて辛くて悔しいのに、肩に置かれた命の手の重さと温かさに安心してしまう。寂しい時、心細い時、何よりも支えになるのは好きな人の温度だ。命が俺を真帆ちゃんの身代わりにしてキスをしたという状況でありながらも、俺は命を嫌いになることができない。

「やっぱり嫌だ、思い出巡りなんて始めるんじゃなかった」
「海里…」
「ずっと嫌だったんだ」
「ずっと?」

命の声はあくまで優しいが、俺に続きを促している。

「ずっと、じゃないけど。途中から」

鼻を啜り、つっかえながら話す俺に命が頭を寄せる。一言も聞き漏らすまいと心を決めているみたいに。

「お前が、俺を真帆ちゃんの代わりにしてるって気づいてから」
「真帆の代わりになんてしてないよ」
「代わりじゃなくても。一緒にいる俺じゃなくて真帆ちゃんを見てるって、分かってる」

涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっているのは分かっていたけれど、それでも命に向かって顔を上げる。もうどうにでもなれ、俺が抱え続けていた世界一小賢しくて情けない恋心をぶちまけるなら今だ。

「お、俺を見て欲しい。命のこと、好きになっちゃったから」

命が目を見開いて、かすかに震える。俺の肩に置かれた手に力が入るのが分かって、ドン引きされたことを悟る。でももう後戻りはできないし、こんな状態で思い出巡りを続けられる気もしない。これ以上命への思いを抑えたまま、何事もなかったかのように振る舞うなんて無理だ。嗚咽が止まらず、溺れてるみたいに息が苦しくなって俯く。

「…海里」
「ひっ…く」
「海里、こっち向いて、海里」
「い、いいまは…」
「お願い」

命が俺の顎に手を添えて、優しく上向きにさせた。

「俺も海里のことが好き」

その時に俺の体全身を貫いた海里の声は、とても言葉では言い表せない響きだった。深海から響いてくるようでも、海面から波を分け入って突き抜けてくるようでもあった。どちらからともなく頭を傾けて、探し当てた相手の唇に唇で触れる。その瞬間、また世界から音が消える。
好きな人とキスをするために、人はいったいどれほどの痛みを乗り越えてくるんだろう。最初からお互い好きなことが分かりきってるなんてエスパーでもなければ確証は持てないし、多かれ少なかれ恋は最初は痛みから始まるはずだ。命を好きだと気付いた時最初に俺を襲った痛み、彼の心が俺のものではなくずっと真帆ちゃんのものだという絶望的な痛みは、命の唇の温かさでゆっくりと癒えていく。遠く離れた場所に沈んでいた命を引き上げようと思っていたら、一緒に沈んでいきたいと思ったあの恋しさ。俺と入れ違いに海面へと向かっていくんじゃないかという恐れ。すべてが唇の温度の上に溶けていく。
名残惜しくも唇同士が離れた時、俺よりは控えめに潤んだ命の瞳と目が合う。命はやわらかく微笑みかけてきて、俺の額に額をくっつけた。
俺たちはしばらくそうしていたけれど、頭上から降ってきた係員さんの「お客様、体調は大丈夫ですか?よろしければ救護室にご案内しますが…」という声でふたりして我に返った。