命にかかわる失恋

高校生の時の失恋は水ぼうそうみたいなもの。物心もつかない頃にかかっておけば、大人になってからまたかかっても、経験済みの苦しさだから甘んじて受け入れられる。

かつて純粋な高校生だった大人たちは口を揃えて言う。「失恋はしておいた方がいい、大人になってからこじらせずに済む。子どもの頃の失恋なんて大した痛みは残らない。かさぶたすらも残らない」

でも俺はそうじゃなかった。

たった1度の失恋は致命傷となって体も心もずたずたに切り裂いて、細胞まで粉々に砕いて俺自身を破壊しようとしていた。もがき続けるまま海底に沈んで、やがてやってくるであろう二度と浮かび上がらなくなる日を待っていた。

だけど海里が現れた。
同じ海に飛び込んだのに、軽やかに泳ぐ海里が俺を海底から引き上げた。


真帆と別れて一ヶ月が経った。彼女のいない日々は溺れかけながらなんとか息を吸って吐いてを繰り返しているだけのような状態で、時間が経つのが遅かった。食欲がないせいで日に日に体重は減っていくし、誰もがみんな「そのままでいると本当に死んじゃうよ」と心配していた。廊下で偶然真帆とすれ違うとやつれた体に真帆の冷たい視線が氷柱みたいに刺さって、いたたまれなかった。初めてあんなに好きになった人に、俺はもう憎まれる寸前まで来ている。

そもそも俺がこざっぱりした見た目に反して、本当のところはとても嫉妬深かったのが原因のひとつかもしれない。いつ真帆が俺以外の男に目を奪われるか気が気じゃなくて、先回りして牽制したり真帆にくる連絡一つ一つを疑っているうちに俺は真帆を少しずつ疲弊させていった。「そんなに心配しなくても命のことしか好きじゃないよ」と笑う真帆の顔に翳りが見えてきたのはいつ頃からだっただろう。

真帆に言わせれば俺はちょっと「だけ」感情が突っ走りやすくて、何事も大袈裟に考えすぎるところがある。
でも俺にとって真帆は初めてのすべてで、起こる出来事を全部運命だと思ったし、俺たちの間には切っても切れない見えない糸があるんだと信じ切っていた。でもそんな運任せに恋愛の楽しさを享受していたのは俺だけで、真帆はずっと悩んでいたらしい。俺たちの気持ちの間に差があるんじゃないかとか、俺はいちいちロマンチックに受け止めすぎるとか。

結局大人が口を揃えて言うように、俺と真帆の間に起こった出来事も「若いうちに経験しておくべき失恋のひとつ」だったのかもしれない。

だけどすべてが初めてだったからこそ、失ったあとの過ごし方が分からなかった。
失恋からの立ち直り方なんて、教えてくれる人は誰もいない。

でもそんな時に海里がやってきた。
真帆のことを考えて考えて考え尽くせば、逆に疲れて真帆のことを忘れてしまえるなんていう変な計画を携えて。

半信半疑で始めたこの取り組みは、結構楽しかった。結構どころか、ものすごく楽しかった。
初めて一緒に真帆の思い出の場所を一緒に訪れて、海里が俺の失恋の傷を癒そうと真帆と同じように側溝にハマってくれた時、俺は海里を世界一優しいやつだと思った。

時々気だるげに見える瞳やふわふわ広がる髪に、いつも飄々としている姿はなんとなくここではないどこか異国から来た青年のように見える。俺とほぼ同じ時期に失恋したと言っていたけれど、そんなに大打撃を受けているようには見えなかった。俺より経験豊富で、これまでにも失恋の立ち直り方を自分で編み出して痛みを乗り越えてきたのだろう。
今回、俺に思い出巡りを提案してくれたように。

俺から見る海里はとても強い人間に見えたから、誰かと一緒にいないとすごく寂しいと打ち明けられた時はその意外性に驚いた。達観したような目つきで俺の失恋を眺めていた海里の心の裏に、奈落のような寂しさが潜んでいたなんて想像もしなかった。俺が真帆を失って辛い苦しいと泣き喚いていた間、海里は俺を励ましながら俺なんかよりずっとどうしようもない痛みと戦っていたのだった。
その事実に気づいた時からだった。少しずつ俺は真帆を忘れ始めた。
そして入れ替わるように、海里の存在がだんだん大きくなり始めた。

星座をなぞるように思い出をなぞっても、過去と同じ形には出来上がらない。その代わり、新しい形のものが出来上がる。俺と真帆との思い出の場所は、ひとつひとつ海里との思い出の場所に上書きされていった。よく「女子の恋は上書き保存、男子は名前をつけてフォルダに保存」とか言うけれど、今回の俺は完全に上書き保存側だった。
真帆のショートの茶髪は海里の癖毛の茶髪に、真帆の女の子らしくて儚い後ろ姿は海里の細くはあるものの男らしさを備えた後ろ姿に置き換わっていった。
思い出巡りという口実があるから、一緒に過ごす時間は何も約束せずとも長く伸びていくのが嬉しかった。
限りなくあると思っていた真帆との思い出の場所が終わりに近づいてきた時、俺は自分がどれだけ海里と離れがたくなっているかを思い知った。公園、ミュージアム、さりげない寄り道、インスタの投稿を見返して何度も数え直してみたものの、忘れてしまった思い出はあっても新たに思い出が増えることはなかった。
俺と海里の共通点はただひとつ、失恋だけだ。
クラスも別だしこんな特別な事情がなければ廊下ですれ違っても気にも留めず、知り合うこともなかっただろう。海里は俺から見て、人付き合いが良くて友達も多い。思い出巡りが終われば俺との関係も終わり、元の友達の輪の中に戻っていき、やがては新しい恋人ができるかもしれない。
そんな葛藤の最中に海里が家に来て、出しっぱなしだった俺と真帆の写真を見て取り乱した時は自分がいかにずるかったかを身をもって知った。俺が真帆を忘れられるように全力を尽くしてくれている海里の前で、俺は真帆を忘れられないふりをしながら海里とずっと一緒にいられるようにと企んでいる。元カノを今好きな人との間の命綱にするなんて最低な奴だから、真帆も俺のことを見限ったのかもしれない。
きっとその最低さは海里にも見抜けたはずだ。
逃げるように帰って行った海里と合コンで再会した時は、気まずさよりも嫉妬で胸が焼けそうになっていた。俺の読み通り、やっぱり思い出巡りが終わったら海里は俺から離れて彼女を作って新しい生活を始めるつもりだ。
海里を手放したくない。海里に俺から離れて行って欲しくない。
だからあともう一回だけでも一緒に思い出を残せたら、もう一度だけでも一緒にいられたら。
そう決意して誘ったのが水族館だった。
そして深海みたいに静まり返った水族館の中、最後の思い出巡りという口実を使ってキスをした。海里の優しさを利用した最低の行為を、海里を手放したくないという思いだけで強引にやってしまったのだ。