命は言葉通り真帆ちゃんとの写真をインスタからほとんど消してしまっていた。量が膨大なだけに時間はかかっているようだが、それでも毎日着実に数枚のペースで消していっている。
「ちょっと待って。まだ思い出巡りしてない場所は消さないでよ」
放課後の教室で、命のインスタを見ながら俺は慌てて言った。授業が終わってから命に「次どうするか相談したいから教室に残ってて」とLINEを入れておいた。俺が教室に入ってくると命はスマホから顔を上げ、「来た来た」と嬉しそうに笑っていた。
「思い出巡り、まだ続けるの?」
命が驚いたように聞いてくるので、こっちが驚いた。
それから間髪入れずに、全身から血の気が引いていくのが分かった。
「…もう、やめるつもりなの?」
「ええっと」
命は手元を意味もなくぐずつかせ、視線をうろうろさせている。
「海里に悪いんじゃないかと思って」
「この前俺が真帆ちゃんの写真立てのことで怒ったせい?あの時は俺も過剰反応しすぎたよ。思い出巡りが命の失恋の傷に効いてるなら、続けた方が…」
続けた方がいい、というか、なんとしても続けたい。
思い出巡りというイベント、失恋した者同士という絆がほどけてしまったら、クラスも違う、つるむ友達も陽真人くらいしか共通点のない俺たちは、みるみるうちに会う機会が減っていきやがて話すこともなくなるはずだ。
「そうかな」
「どうしたの、命。やっぱり本当は辛かった?思い出の再現なんて」
「違う違う!そうじゃないんだけど」
「だんだん辛くなってきたの?俺なら平気だから、命が続けたいなら俺に気なんて遣わないでよ」
お前、必死すぎるよ。もう1人の冷静な自分が頭上から俺を嘲笑っている。
命と一緒にいたいがために、もうたどる必要の無い思い出を延命治療しようとしてる。
俺の中に矛盾が存在して、綱引きみたいに引っ張り合いっこしてる。命、真帆ちゃんを忘れろ、でも真帆ちゃんの思い出を辿ることをやめるな、だってそれがなくなったら俺たちが一緒にいる理由がなくなる。過去は過去のまま消えて欲しいのに、錨よろしく俺たちの間に存在していて欲しい。
「…じゃあ、最後にもう一度だけ」
苦しそうに命が吐き出した最後という言葉に指先が冷えていくのが分かった。
次が最後なんだ。
次で俺と命の過去への旅は終わるんだ。
「…水族館、行ったんだ。真帆と。思い出に残ってる場所だから、一緒に来てくれないかな」
俺は小さく頷いた。窓から差し込む夕日が命の頬をほんのりオレンジ色に染めていく。
ああ、もう元気になったんだ。
思い出巡りは必要なくなって、命は俺のことも徐々に手放そうとしている。
日曜日は快晴で、俺の髪もストレートアイロンのおかげでしっとりとまとまり、朝日の中できらきらと輝いていた。いつも通り命の方が少し遅れてくるんだろうとたかを括っていたら、待ち合わせ場所には命の方が先に来ていた。
黒いTシャツに、ジーンズといういつものシンプルな格好だけど今日は新しく腕時計がついている。いつ頃からだろう、命の無造作なアホ毛がなりをひそめてさっぱりと整えられた美しい短髪になったのは。色が白いのは元からのようだが頬は健康的なコーラルで、形のいい唇は笑うと生命力に溢れている。
元気になった命は美しかった。そして元気になればなるほど俺から遠ざかっていくのが、どうしようもないほど悲しかった。
日曜日の水族館は混雑していて水槽の前に人が溜まるので、ゆっくりゆっくりと進んでいく。照明は暗く、周りにこんなにもたくさん人がいるのに2人で深海を漂っているような気分だ。
本当にここが深海ならいいのに。
深海の魚は出会いが少ないから、出会ったら相手がどんな見た目だろうと種族が同じであればすぐにつがいになることが多いらしい。それは選択肢が無限にある俺たち人間からしてみれば目隠しで見知らぬ誰かとキスさせられるくらいおぞましいことに聞こえるけど、深海に暮らす1人ぼっち同士、出会ってすぐに好きかどうかも分からないままひとつになれるのは合理的にも思える。
失恋で深海に沈んだ同じ種族同士、陸から女の子に捨てられた哀れな深海魚同士、俺と命がここで結ばれて、永遠に暗い海底で暮らす。そんなくだらない妄想に揺られながら、命の隣で水族館の中を徘徊する。
「マンボウって寂しいと死ぬってガチなのかな」
命は水槽に顔をくっつけんばかりの勢いでマンボウを覗き込んでいる。
「ガチだとしたら、海里みたい」
「…ちょっと。それどういう意味?」
「海里、前に言ってたから。誰かといないと寂しくて仕方ないって」
俺が話したことを逐一覚えてる。俺と話しながら思い出の真帆ちゃんばかり見ていたくせに、俺のこともちゃんと拾ってる。多分真帆ちゃんのついでなんだろうけどそれでも嬉しかった。俺越しに真帆ちゃんの幻影を見ている間、命の目にちらりとでも俺は映っていたのだろうか。
「今は、寂しくない」
俺は水槽の中のマンボウに言うふりをして命に言った。
命といるから寂しくない。でも命がいなくなったら代わりに誰がやってきたとしてもすごくすごく寂しい。だから命がいなくなったら、マンボウより先に俺が死ぬ。
命が俺の横顔をじっと見ているのが分かった。
「俺といるから?」
「うん、そうかもね」
「今は俺が、海里の穴埋め役なんだな。光栄です」
「そうだよ。光栄に思って」
永遠に俺の穴埋め役でいて。
俺の心に空いた穴は命の形で、彼以外では埋まりそうにない。
「なあ、命」
「うん?」
「手、繋がない?」
今日で、この思い出巡りも最後だ。
最後なら終わるまでできる限りの夢に浸っていたい。
「真帆ちゃんほど柔らかくて細い手じゃないけど」
俺がおずおずと手を差し伸べると、命は俺の手のひらをじっと見つめた。
やばい、引かれたかな。気づかれたかもしれない。今、俺は真帆ちゃんのふりをして遊んでるんじゃなくて、ただ命と手を繋ぎたいだけだってこと。
命は口元を緩ませて、俺の手に自分の手を重ねる。指同士が絡まる様子を見て、クラゲがダンスしてるみたいだと他人事みたいに思った。命の骨ばった手と手を繋ぐ時、女の子と手を繋ぐ時のような柔らかな安心感はない。代わりに、絶対的に守られているという心強さと、強烈なときめきに襲われる。こうして思い出を口実に手を繋げるのもこれで最後だと思うと、どうにかして新しい口実を見つけられないかと未練がましく考えてしまう。
「行こうか」
命と俺は隣同士で並び、ゆっくりと歩き出す。
本当に海の中にいるかと錯覚しそうな巨大な水槽の前で、俺と命は足を止めた。数多の魚を従えながら悠々と泳ぐジンベエザメに2人して目が釘付けになる。圧倒的なものを目の前にすると、いつだって無言になってしまう。俺が今命の手の温かさを感じながら気楽な言葉を発せないのも同じ理由だ。でもこの無言からくる静寂は気まずいどころか心地よくて、いつまでも浸っていたい。どのくらい時間が経っていくかも分からないまま、俺と命は無言で水槽の前に立ち尽くした。だんだんと水槽の周りから人がいなくなる。
「海里」
「うん?」
命は水槽から俺の方に目を移す。
「俺、ここで真帆とキスしたんだ」
俺はゆっくりと命の方を振り向いた。水槽から差し込んでくる青い光に命の頬が淡く照らされて、本当に海に沈んでいるみたいだった。魚たちの影が命の頬の上で揺れている。
命と真帆ちゃんが初めてキスをしたという中学校の教室にいた時も、俺たちはこんな風に向かい合っていた。あの時は気づいていなかった。今は違う。
俺は真帆ちゃんの代わりに、命とこうして手を繋いでいる。
流れに身を任せてさえいれば、真帆ちゃんの代わりに命とキスができる。
命は俺を見ていない。でも今はそれでもいい。
世界から音が消える。
命の右手が俺の頬を優しく撫でる。
目を閉じるより早く命と唇が重なった。
「ちょっと待って。まだ思い出巡りしてない場所は消さないでよ」
放課後の教室で、命のインスタを見ながら俺は慌てて言った。授業が終わってから命に「次どうするか相談したいから教室に残ってて」とLINEを入れておいた。俺が教室に入ってくると命はスマホから顔を上げ、「来た来た」と嬉しそうに笑っていた。
「思い出巡り、まだ続けるの?」
命が驚いたように聞いてくるので、こっちが驚いた。
それから間髪入れずに、全身から血の気が引いていくのが分かった。
「…もう、やめるつもりなの?」
「ええっと」
命は手元を意味もなくぐずつかせ、視線をうろうろさせている。
「海里に悪いんじゃないかと思って」
「この前俺が真帆ちゃんの写真立てのことで怒ったせい?あの時は俺も過剰反応しすぎたよ。思い出巡りが命の失恋の傷に効いてるなら、続けた方が…」
続けた方がいい、というか、なんとしても続けたい。
思い出巡りというイベント、失恋した者同士という絆がほどけてしまったら、クラスも違う、つるむ友達も陽真人くらいしか共通点のない俺たちは、みるみるうちに会う機会が減っていきやがて話すこともなくなるはずだ。
「そうかな」
「どうしたの、命。やっぱり本当は辛かった?思い出の再現なんて」
「違う違う!そうじゃないんだけど」
「だんだん辛くなってきたの?俺なら平気だから、命が続けたいなら俺に気なんて遣わないでよ」
お前、必死すぎるよ。もう1人の冷静な自分が頭上から俺を嘲笑っている。
命と一緒にいたいがために、もうたどる必要の無い思い出を延命治療しようとしてる。
俺の中に矛盾が存在して、綱引きみたいに引っ張り合いっこしてる。命、真帆ちゃんを忘れろ、でも真帆ちゃんの思い出を辿ることをやめるな、だってそれがなくなったら俺たちが一緒にいる理由がなくなる。過去は過去のまま消えて欲しいのに、錨よろしく俺たちの間に存在していて欲しい。
「…じゃあ、最後にもう一度だけ」
苦しそうに命が吐き出した最後という言葉に指先が冷えていくのが分かった。
次が最後なんだ。
次で俺と命の過去への旅は終わるんだ。
「…水族館、行ったんだ。真帆と。思い出に残ってる場所だから、一緒に来てくれないかな」
俺は小さく頷いた。窓から差し込む夕日が命の頬をほんのりオレンジ色に染めていく。
ああ、もう元気になったんだ。
思い出巡りは必要なくなって、命は俺のことも徐々に手放そうとしている。
日曜日は快晴で、俺の髪もストレートアイロンのおかげでしっとりとまとまり、朝日の中できらきらと輝いていた。いつも通り命の方が少し遅れてくるんだろうとたかを括っていたら、待ち合わせ場所には命の方が先に来ていた。
黒いTシャツに、ジーンズといういつものシンプルな格好だけど今日は新しく腕時計がついている。いつ頃からだろう、命の無造作なアホ毛がなりをひそめてさっぱりと整えられた美しい短髪になったのは。色が白いのは元からのようだが頬は健康的なコーラルで、形のいい唇は笑うと生命力に溢れている。
元気になった命は美しかった。そして元気になればなるほど俺から遠ざかっていくのが、どうしようもないほど悲しかった。
日曜日の水族館は混雑していて水槽の前に人が溜まるので、ゆっくりゆっくりと進んでいく。照明は暗く、周りにこんなにもたくさん人がいるのに2人で深海を漂っているような気分だ。
本当にここが深海ならいいのに。
深海の魚は出会いが少ないから、出会ったら相手がどんな見た目だろうと種族が同じであればすぐにつがいになることが多いらしい。それは選択肢が無限にある俺たち人間からしてみれば目隠しで見知らぬ誰かとキスさせられるくらいおぞましいことに聞こえるけど、深海に暮らす1人ぼっち同士、出会ってすぐに好きかどうかも分からないままひとつになれるのは合理的にも思える。
失恋で深海に沈んだ同じ種族同士、陸から女の子に捨てられた哀れな深海魚同士、俺と命がここで結ばれて、永遠に暗い海底で暮らす。そんなくだらない妄想に揺られながら、命の隣で水族館の中を徘徊する。
「マンボウって寂しいと死ぬってガチなのかな」
命は水槽に顔をくっつけんばかりの勢いでマンボウを覗き込んでいる。
「ガチだとしたら、海里みたい」
「…ちょっと。それどういう意味?」
「海里、前に言ってたから。誰かといないと寂しくて仕方ないって」
俺が話したことを逐一覚えてる。俺と話しながら思い出の真帆ちゃんばかり見ていたくせに、俺のこともちゃんと拾ってる。多分真帆ちゃんのついでなんだろうけどそれでも嬉しかった。俺越しに真帆ちゃんの幻影を見ている間、命の目にちらりとでも俺は映っていたのだろうか。
「今は、寂しくない」
俺は水槽の中のマンボウに言うふりをして命に言った。
命といるから寂しくない。でも命がいなくなったら代わりに誰がやってきたとしてもすごくすごく寂しい。だから命がいなくなったら、マンボウより先に俺が死ぬ。
命が俺の横顔をじっと見ているのが分かった。
「俺といるから?」
「うん、そうかもね」
「今は俺が、海里の穴埋め役なんだな。光栄です」
「そうだよ。光栄に思って」
永遠に俺の穴埋め役でいて。
俺の心に空いた穴は命の形で、彼以外では埋まりそうにない。
「なあ、命」
「うん?」
「手、繋がない?」
今日で、この思い出巡りも最後だ。
最後なら終わるまでできる限りの夢に浸っていたい。
「真帆ちゃんほど柔らかくて細い手じゃないけど」
俺がおずおずと手を差し伸べると、命は俺の手のひらをじっと見つめた。
やばい、引かれたかな。気づかれたかもしれない。今、俺は真帆ちゃんのふりをして遊んでるんじゃなくて、ただ命と手を繋ぎたいだけだってこと。
命は口元を緩ませて、俺の手に自分の手を重ねる。指同士が絡まる様子を見て、クラゲがダンスしてるみたいだと他人事みたいに思った。命の骨ばった手と手を繋ぐ時、女の子と手を繋ぐ時のような柔らかな安心感はない。代わりに、絶対的に守られているという心強さと、強烈なときめきに襲われる。こうして思い出を口実に手を繋げるのもこれで最後だと思うと、どうにかして新しい口実を見つけられないかと未練がましく考えてしまう。
「行こうか」
命と俺は隣同士で並び、ゆっくりと歩き出す。
本当に海の中にいるかと錯覚しそうな巨大な水槽の前で、俺と命は足を止めた。数多の魚を従えながら悠々と泳ぐジンベエザメに2人して目が釘付けになる。圧倒的なものを目の前にすると、いつだって無言になってしまう。俺が今命の手の温かさを感じながら気楽な言葉を発せないのも同じ理由だ。でもこの無言からくる静寂は気まずいどころか心地よくて、いつまでも浸っていたい。どのくらい時間が経っていくかも分からないまま、俺と命は無言で水槽の前に立ち尽くした。だんだんと水槽の周りから人がいなくなる。
「海里」
「うん?」
命は水槽から俺の方に目を移す。
「俺、ここで真帆とキスしたんだ」
俺はゆっくりと命の方を振り向いた。水槽から差し込んでくる青い光に命の頬が淡く照らされて、本当に海に沈んでいるみたいだった。魚たちの影が命の頬の上で揺れている。
命と真帆ちゃんが初めてキスをしたという中学校の教室にいた時も、俺たちはこんな風に向かい合っていた。あの時は気づいていなかった。今は違う。
俺は真帆ちゃんの代わりに、命とこうして手を繋いでいる。
流れに身を任せてさえいれば、真帆ちゃんの代わりに命とキスができる。
命は俺を見ていない。でも今はそれでもいい。
世界から音が消える。
命の右手が俺の頬を優しく撫でる。
目を閉じるより早く命と唇が重なった。


