命にかかわる失恋


命と真帆ちゃんの思い出巡りで一つだけ絶対に行けない場所がある。
それは真帆ちゃんの家だ。

俺と命がある日「突然失礼します、失恋の傷を癒すために思い出の場所を巡っているので家に入れてもらえませんか」と真帆ちゃんの家を訪ねた場合、間違いなく通報されるだろう。

真帆ちゃんの家には行けないので、真帆ちゃんがよく来てくつろいでいた命の家に行くことになった。これは俺にとって思ってもみなかったラッキーチャンスで、俺は命の家に行くことが決まった日からそわそわと落ち着かなかった。
家に行く当日の放課後下駄箱の前で命を待っている間は、今日穴が空いている靴下を間違えて履いてきてしまっていないかが異様に気になった。

命が好きだと気づいてから、命の前に立つと自分の姿勢や服装、態度など、何か間違えていないか、変に映っていないかそわそわしてしまう。毎日のストレートアイロンだとこの癖毛には足りない気がして、母さんに頼んで小遣いを前借りし強制縮毛を当てたいという思いも日に日に強くなる。とうとう梨奈が持ち歩いてたようなコンパクトミラーを持ち歩くようになってしまい、ヒゲの剃り残しがないかとか、鼻毛出てないかとか、まじまじ自分の状態をチェックする日々が続いていた。命の前では完璧でいないといけないという強迫観念が俺を襲う。人を好きになるって、正直しんどい。恋愛してると毎日楽しいって声高に叫ぶ恋愛中の皆さんは、ニキビができたり癖毛が爆発したり、好きな人の前で便意を催したりする瞬間も「恋愛って楽しい!」って叫べるのだろうか。俺は無理。

恋愛って苦しい。失恋の苦しさにも負けないくらい、苦しい。

「お待たせー。って俺、なんか海里のこと待たせてばっかりだな」
「本当にそうだよ」

命はちょっと時間にルーズだ。おかげで俺は念入りに自分のコンディションをチェックできて助かるけど一緒にいられる時間を増やしたいという意味では残念なポイントでもある。

電車を乗り継いで命の家まで向かう。席が空いてなかったので吊り革に掴まりながら並ぶと、電車が揺れるたびに肩が触れ合った。制服のシャツの上からでも分かる、形のよい少し角ばった肩。なあ俺、よく梨奈の肩にもたれかかってたんだ。そんな嘘をついてでももたれかかりたくなる。この前まで悪ふざけのように気軽に腕を組めていたのに、今は命に軽く触れるだけでもすごく勇気が要る。好きだって気づいてしまってから、ずっと身動きが取りづらい。一挙手一投足がぎこちなくなって、俺は命に変な風に映ってないかをずっと気にしてしまう。

「…海里、海里?」
「えっ?え、ああ、何?」

俺は自分の身だしなみと命の存在ばかり意識していたせいで、肝心の命の話を右から左に流してしまっていた。

「なんだよ。なんか心配事でもあるのか?妙にそわそわしてるけど」
「そうかな。別に…普通だよ」

これから好きな人の家に行くのに、平常心でいる方が難しい。いつの間にかかいていた手汗を制服の裾で拭う。

「俺の家に来るのに緊張してる演技までしてくれてるのかと思った」

命がけらけらと笑う。

「そこまで手の込んだことやるわけないだろ」

演技ではない。本当に緊張してるのだ。だって家と言えば、当然…

俺は親がいない時、自分の家に梨奈を連れて帰ったことを思い出す。まだ日が沈みきっていないうちからカーテンを完全に閉めきり部屋を薄暗くして、ベッドの中で隠れて何をしたか。
真帆ちゃんと命だって…したはずだ。今から俺が向かう部屋で。
想像すると鋭い痛みが胸に走って、かき消すように目をこする。

「今日うち親いないから。気兼ねなくダラダラしていってくれよ」

何気なく言った命に、俺は勝手な期待と妄想を膨らませる自分をバカみたいに思った。

駅から命の家までは、閑静な住宅街の中を少し歩いた。到着してみると命の家は結構大きな一軒家で、玄関先には綺麗な鉢植えに丁寧に花が飾られている。

「花、綺麗だね」
「ああ、あれ?兄ちゃんが花屋で働いててさ。兄ちゃんがいろいろ花飾ってくれるんだよね」
「そうなんだ、お兄さんが。てっきりお母さんが飾ってるのかなと思った。男の人で花を飾ってくれるって、なんかいいね」
「海里はさ」

命は俺の方を見て嬉しそうに目を細める。

「いつも細かいところに気づいてさりげなく褒めてくれるよな。海里、やっぱりいい奴だよ」

胸の奥が切なく疼いて、急にここでうずくまってしまいたくなった。
命の方がずうっと、ずーーっといい奴だ。俺の知らない、誰にも気づかれなくても平気なような長所をいとも簡単に捕まえて口にする。命に褒められると自分がものすごく優しくていい人間になったような気がする。

命の部屋はちょっと散らかっていた。初めに目に入ってきたのは深い青色の遮光カーテンで、部屋を見渡してみるとベッドカバーも青く、部屋全体が青を基調にしているせいか海の中のような雰囲気だった。部屋に入った瞬間から、いつも命からほんのり香る優しい匂いがして、ああこれは命の匂いなんだと思う。無意識に俺は大きく息を吸い込んだ。

「茶でも持ってくるから待ってて」

命が部屋を出ていってからふと散らかった勉強デスクの上に目を走らせると、そっと控えめではあったが写真立てが置いてあった。

中にはまだ真帆ちゃんと2人で撮った写真が飾られている。

写真立てを手に取って、2人の姿をじっくりと見つめる。写真の中の2人は、2人の行く先には幸せしか待っていないと信じきっている表情だ。

次第に俺の腹の底からどす黒い嫉妬心が湧き上がってくる。
俺はますます自分の目に怨念を込めて、写真の中の真帆ちゃんを睨みつける。

過去になれ。遠い遠い過去になれ。
命がもう二度と思い出すことがないくらい、忘れ去られた遺物になって欲しい。

俺と好きな人の前に立ちはだかるのは好きな人から去ってしまった彼女、彼女がいる限り好きな人は彼女の幻影を追いかけ続けて、俺はこっちを振り向かない好きな人を追いかけ続けて、永遠のいたちごっこ。

命が入ってきたのにも気づかないくらい真剣に写真を睨みつけてしまっていたらしい。
気づくと命が後ろに立っていて、「どうした?」と覗き込んできた。その能天気な顔を見ていると、理不尽だと知ってはいながら湧き上がる怒りが抑えられない。

「…こんないつでも目につくようなところに飾るのはやめた方がいいんじゃない」

自分の出した声が思ったより冷たく響いて驚く。命は気まずそうに目を逸らして頭をかいた。

「そうだよな。でもなんとなく、見えないところにしまっちゃったら本当に終わりの気がして」
「本当に終わり?」

煮えたぎるマグマみたいに、腹の底から怒りがせり上がってくる。

一体なんのために俺たちが、馬鹿げた思い出をせっせとなぞり直しいるのか命はまるで分かってない。

「君らは終わったんだよ」

命の見開いた目にははっきりと傷ついた色が現れていて、俺はなんとか喋るのを止めなければと思う。だけど胃のなかで妬み嫉みが許さない許さないと暴れている。

「海里…」
「俺たちがやってることは、全部を本当に終わりにするためなんだよ。全部を過去にするため。そのために俺は協力してる。なのに命は」

軽蔑するように、写真立てを音を立ててデスクに置き直す。

「いつまでも真帆ちゃんにしがみついて。本当は忘れる気なんてないんじゃない?今も復縁できるなら復縁したいって、そう思ってるんだろ?」

全部言いきってしまってから、自分が肩で息をしているのが分かった。命はわずかに震えていて、開いた口から言葉は何も出てこない。何も言えないまま項垂れた命の頭を見ていたら、自分が取り返しのつかないことを言ってしまった実感が後から追いかけてきた。

「ごめん。今日は帰るよ」

俺はバッグを抱えて逃げるように命の家から出て行った。後ろから慌てた声で命が俺を呼ぶのが聞こえてきたけど、あんなことを言ってしまった今戻るわけにもいかなかった。
駅まで全力で走ったら立ち止まった途端吐きそうになって、駅前にあった自販機のそばでうずくまる。
海里、お前やっぱりいい奴だよな。
命はほんの30分程前に言った言葉を、早くも撤回したくなっていることだろう。

俺はずっといい奴なんかじゃなかった。俺よりひどい失恋の痛みを負っている男に近づいて、無茶苦茶な立ち直り方を押し付けて、勝手に楽しんで、勝手に好きになって、勝手に傷つけた。吐きはしなかったけど代わりに熱い涙が溢れてきて、アスファルトの上に落ちた。

俺は永遠に真帆ちゃんに勝てない。
命がどれだけ俺をいい奴だって思ってくれようと、一緒にいろんなところに出かけようと。
すべては真帆ちゃんの焼き直しで、俺は真帆ちゃんの代わりに動いているだけだ。
俺が命をどれだけ好きでも、命にとってそれはなんの意味もない。
命の心の中にいるのは真帆ちゃんで俺じゃないから。

誰だ、恋愛が楽しいって言った大馬鹿野郎は。
楽しくなんかない。このままここで溶けて消えてしまえればいいのに。