――最悪の男と、もう二度と会うことはない。
そう、そのはずだったのに。
恐ろしく長い廊下を看守の案内で進む。
よどんだ目でこちらをにらんでいる囚人たちを無視して、俺は廊下の奥へ案内する看守の背中を追っていた。
領内にある監獄、その最奥に、俺は向っていた。
そこにいるという「悪魔の頭脳を持つ囚人」に会うために。
「あの男は普通ではないのです」
震える声で看守はいう。
奥の扉を見つめたまま、視線を逸らさない。
まるで、そこから目を逸らすことが許されないかのように。
手にしたカンテラがカチャカチャと音を立てている。
どうやら、握りしめた手がぶるぶると震えているらしい。
それでも、まっすぐに明かりを前へ掲げ続けている。
そこから光を外してはならないという、どこか脅迫めいた感覚に支配されているようにも見えた。
そして、その名前を口にすることすら恐ろしいとでもいうように、何度も言いよどむ。
結局主語を欠いた言葉が、小さく絞り出されただけだった。
「監獄長の弱みを握ったのか、やりたい放題で……」
「閣下から概要は聞いている」
俺は言葉を遮って低く言い返した。
ばからしい話など聞いていられない。
この世界において囚人に人権はない。
そんな中、監獄内で最も大きな権限を持つ監獄長を脅して実権を握れる囚人がいる。
そんな世迷言など、それこそ質の悪い夢物語のようなできすぎた話だった。
だがそれでも、看守は止まらない。
言葉を重ねていなければ、足が止まってしまいそうだ、とでも言いたげだった。
「今では囚人どももあの男を崇め奉っている有様。どうかケイジ様のお力を」
名を呼ばれた俺はため息をつく。
返せたのは一言だけだった。
「――考慮する」
◆ ◆ ◆
この世界にはごく僅かに前世の記憶を思い出すものがいる。
その中でさらにごく稀に、この世界と異なる世界の記憶を思い出すものもいる。
かく言う俺もその一人だ。
前世で得たのは、警察官としての捜査知識だ。
今はこれを活かし、領主直属の捜査官として活動している。
そんな俺が直属の上司である領主から命じられたのは、ある囚人の調査だった。
鉄の仮面を被り、悪魔のような頭脳を持つ男。
看守からは「鉄仮面」と呼ばれるその男は、通常であれば罪を償えば出ることができるはずの監獄に堂々と居座り、今も幽閉生活を「謳歌して」いると言う。
その話を聞いた時、ふと前世関わりを持ったある男を思い出した。
生前、俺の「すべて」を奪い、ともに命を落とした男。
前世は、他者の依頼を受けて犯罪を「コーディネート」する、などというふざけたことをしていた。
犯罪を芸術のように語り、犯罪の完成度に己の存在意義と命を懸ける。
そんな、それこそ常人では理解できない思考回路で動いていた男。
もし再会することがあったなら、絶対にその存在を許してはおけない、そんな男。
(――思い出したくもない記憶だ)
あの死に際の笑顔を思い出しただけで吐き気がこみ上げる。
思い浮かべかけたその顔には努めて蓋をした。
思い出したくもなかった。前世の記憶がこれほどトラウマに満ちたものだったなら。
「ケイジ様? ――捜査官様?」
振り返り怪訝そうにしている看守に気が付き、息をついて首を横に振る。
いつの間にか、廊下の最奥、目的の部屋の前にまでたどり着いていたようだ。
「何でもない、――ここか、その囚人が収監されているというのは」
「正確にはもう『囚人』ではないのです。刑期はすでに終えていて……だというのに、いまだここに」
「追い出せないのか」
「ですから……その」
言いよどむ看守にため息が漏れた。
文字通り囚人生活を「謳歌して」いるらしい。
ドアの向こうにいる男というのはずいぶんと酔狂なようだ。
酔狂。
いやでも前世の記憶がよみがえる。
静謐な知性と狂気。
あの男に、俺はその命を差し出してでも守りたかったものを根こそぎ奪われた。
もし出会うことがあれば――今度こそ、自分の存在全てをかけて。
(――いや、そんなことは今考えなくてもいい)
ここは異世界。もはや俺は一度死んだ身。
あの男との縁など、とうの昔に切れているはず。
そう思おうとしたが、それでも引っかかる。
理性とは別のところで、本能が警鐘を鳴らす。
なぜ今になって思い出した。
あの男のことなど、金を積まれても思い出したくないことであるはずなのに。
思い出したくもない記憶がただの場違いなトラウマであることを祈りつつ、ドアをにらむ。
視線の先の鉄製の扉は、そんな俺の感傷をあざ笑うように奇妙な気配を醸し出していた。
看守は一度、息を呑む。
それから低く――声を出した。
「――お連れしました」
「……どういうことだ?」
聞こえてきた言葉に、とっさに看守を見つめる。
その声は明らかに、こちらでなく、「ドアの向こう側」にいるものへの敬意――いや、畏怖をまとっていた。
その声に応えるように、かつん、と音が届く。
かすかな、まるで革靴のかかとで軽く石床を蹴りつけたような音。
まさにそんな音だったのだろうそれに、看守は激しく体を震わせる。
まるで、裁判官の判決を待つ死刑囚のように。
あるいは、神託を待つ者のように。
そしてぶるぶると震える指で、ドアノブをつかむと、ゆっくりと引いた。
ギイ、と鉄扉が開く。
フワリと空気が動き、監獄には不釣り合いな、何処か蠱惑的な香りが鼻をくすぐった。
鍵などかかっていないという事実より、その向こうから香りと共にあふれ出した瘴気にも近い予感に、俺の体は凍りつく。
足はまるでそこで固定されたように、一歩たりとも動くことができなかった。
開いたドアの向こう側で、ゆらりとろうそくの灯が揺らめいた。
石壁の隙間から届く白い陽光がスポットライトのように、室内の人影を映し出す。
監獄に釣り合わない上質な衣服をまとい、瀟洒な椅子に腰を下ろして長い足を組んだ人物。
逆光の中でもわかる。その顔には、異相ともいえる鉄製の仮面が付いていた。
俺は足を励まして一歩部屋へ踏み込み、問いかける。
「お前が監獄に居座っているという囚人か」
問いかけに男は答えなかった。
代わりに顔を上げると、看守に視線を投げる。
「お、お約束通りお連れしました。これで私は……」
男は答えない。
一切口を開く気はないとばかりに顎をしゃくる。
出ていけ、という意味らしい。
看守はびくりと全身を震わせて、足早に部屋を飛び出していく。
「……、おい!」
振り返った目と鼻の先でドアが閉まった。
いまこの男と二人きり。そのことを締め切られたドアが思い知らせる。
俺は、嫌な予感を覚えて鉄仮面の男を振り返った。
男と目が合う。
あの目の色――見覚えが、あるような。
男はこちらを覗き込むようにして首を傾げる。
その独特の首の傾げ方にも、どこか既視感があった。
男は口元に薄く笑みを浮かべて口を開いた。
楽器のようなよく響くテノールが、俺の鼓膜を揺らす。
「やあ、待っていたよ」
その声にも聞き覚えがある。
二度と聞きたくないと、しかしもし聞けたなら二度と口をきけなくしてやりたいと願ってやまなかった声。
(――違う。そんなはずはない)
俺は努めて平常心を装い、胡乱げな表情を作って男に返す。
「……俺は囚人と仲良くするような人生は歩んでいないが」
「そう邪険にしないでほしい。私は君と再会できてとてもうれしいと思っているんだ」
「何度も言わせるな。俺は囚人の知り合いなど――」
「本当に覚えていないのか? 言ってくれたじゃないか。――『死んでも許さない』と」
その言葉に、ヒュッと喉が鳴ったのがわかった。
『死んでも許さない』。
その言葉は、この世界において誰一人知ることのない、俺が前世今際の際に吐いたセリフ。
――あの時、俺はこの男と一緒に死んだはずだった。
――「忘れるな! たとえここで死んだとしても、俺はお前を追い詰める!」――
――「死んでもお前を許さない! 何度生まれ変わっても必ず殺す!」――
刑事にあるまじき憎悪にまみれた罵声。
それを前世、浴びせかけた相手の顔が脳裏に蘇った。
掴みかかった瞬間の歓喜に満ちた笑顔。
ビルの手すりを乗り越えて落ちていく体。
恐怖のひとかけらも浮かべず、こちらと目を合わせたまま死んだ男の――。
「――ッ!」
じゃり、と石床が鳴った。
自分の足が滑るように後ずさった音だと、認識するのにかなりの時間がかかった。
「思い出してくれて嬉しいよ」
目の前の男は仮面の下でもわかるほど喜色に顔をほころばせている。
――思い出した。
この男は。
俺のすべてを壊した男だ。
あの時、俺の罵声にやつは――。
「言っただろう。『私はいつまでも待っている』と」
男はくつりと笑う。
その笑みは、かつて何度も見た――最悪の予兆と同じ形をしていた。
ゆっくりと、指先が仮面にかかる。
かちゃり、と金属が擦れ合う音が嫌に大きく響く。
外す、という確信だけで、背筋に冷たいものが走った。
やめろ、と喉元まで出かかった言葉を、歯を食いしばって押し殺す。
男は優雅な動作で仮面を外す。
そして緩やかに顔を振って、真正面からこちらを見据えた。
翻る銀灰色の髪。同色の瞳。整った顔立ち。
その瞳に宿るのは、狂気に満ちた歓びの火。
その顔を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
見間違えるはずがない。忘れようとしても忘れられるはずがない。
あの地獄のような光景の中心にいた男が、今、目の前にいる。
目の前の男はかつてと全く同じトーン、全く同じ笑顔を浮かべ、こちらをじっと見つめながら言葉を継ぐ。
「だが、想定より少し遅い」
「……てめぇ、は」
「おや、領主直轄の捜査官殿の言葉にしては少しばかり荒っぽい言葉だ。かつての自分を思い出したかな」
こいつは、今の俺の地位まで知っている。
その事実に、口の中が乾いていくのを感じる。
荒くなった息。
やつはただ、じっと見つめていた。
すぐさま胸のホルスターに吊った拳銃を探り――それが前世の記憶であったことを思い出す。
舌打ちして、胸へやったまま固まった手を無理やり下ろした。
「ライヘンバッハの滝での最期を迎えた、かの名探偵と犯罪の帝王が如く、我々も共に最期を迎えたはずだが、こうして感動の再会を果たしたわけだ。にしては君の顔色がすぐれないがね」
「……誰のせいだと」
「おや、私のせいかな。それは嬉しいことだ」
(――だめだ。揺さぶられるな)
慌てて腹に力を込めた。
震える自分の膝を罵倒する。
思い出せ。ここへきた理由を。
――「あれはおそらくお前と同じだ」――
――「使いこなせるようなら、お前に委ねる」――
領主の言葉を頭の中に思い浮かべた。
そうだ。これはチャンスだ。
相手はいま、監獄にいる。
「どうせそんな場所にいるんだ、こっちでもまともな人生を送ってないんだろう」
「そう見えるかね? 君こそ、私がいない間ずいぶんとぬるい生活を送ってきたように見える」
吐き捨てた息は、果たして笑い声に聞こえただろうか。
「お前がいない間のこの半生、これ以上ないくらい平和で幸せな生活だったよ」
「それはそれは。ではぬるま湯の生活に別れを告げて、これからは私と踊ってもらいたいところだね」
「お前ごときが、俺と踊ってもらえる立場だとでも本気で思ってんのか?」
嘲笑がわざとらしく石壁に当たって砕ける。
「覚えておけ、お前は囚人、俺は捜査官。ここでのお前の利用価値はそのお上品なおつむに詰まった脳みそだけだ。お前の頭脳を使えるだけ使い潰してから殺してやる」
虚勢とともに放った言葉。
男は嫌になるほど美しい顔を綻ばせて頷く。
「君に使い潰せる頭脳はしてないが――。
まあいい。また君と話ができるなら、それでいい」
さながら蛇に睨まれたかのよう。
そう思いながら、俺は吐き捨てた。
どうしても相手の銀灰色の瞳を睨み返せないまま。
奴の犯罪に関する知識や発想力は本物だ。
そのことを知っているのは、この世界で俺だけ。
その犯罪に特化した頭脳を、犯罪抑止に使う危険性を知っているのも……きっと俺だけだ。
「……せいぜい俺の役に立て。――かつて深窓のウロボロスと呼ばれたその脳みそでな」
「懐かしい名前だ。もっとも、私自身はその名前を気に入っていたわけではないのだけれどね」
「深窓のウロボロス」――それは、奴の名だ。
そしておそらく、今もなお、その本質は変わっていないのだろう。
そう、そのはずだったのに。
恐ろしく長い廊下を看守の案内で進む。
よどんだ目でこちらをにらんでいる囚人たちを無視して、俺は廊下の奥へ案内する看守の背中を追っていた。
領内にある監獄、その最奥に、俺は向っていた。
そこにいるという「悪魔の頭脳を持つ囚人」に会うために。
「あの男は普通ではないのです」
震える声で看守はいう。
奥の扉を見つめたまま、視線を逸らさない。
まるで、そこから目を逸らすことが許されないかのように。
手にしたカンテラがカチャカチャと音を立てている。
どうやら、握りしめた手がぶるぶると震えているらしい。
それでも、まっすぐに明かりを前へ掲げ続けている。
そこから光を外してはならないという、どこか脅迫めいた感覚に支配されているようにも見えた。
そして、その名前を口にすることすら恐ろしいとでもいうように、何度も言いよどむ。
結局主語を欠いた言葉が、小さく絞り出されただけだった。
「監獄長の弱みを握ったのか、やりたい放題で……」
「閣下から概要は聞いている」
俺は言葉を遮って低く言い返した。
ばからしい話など聞いていられない。
この世界において囚人に人権はない。
そんな中、監獄内で最も大きな権限を持つ監獄長を脅して実権を握れる囚人がいる。
そんな世迷言など、それこそ質の悪い夢物語のようなできすぎた話だった。
だがそれでも、看守は止まらない。
言葉を重ねていなければ、足が止まってしまいそうだ、とでも言いたげだった。
「今では囚人どももあの男を崇め奉っている有様。どうかケイジ様のお力を」
名を呼ばれた俺はため息をつく。
返せたのは一言だけだった。
「――考慮する」
◆ ◆ ◆
この世界にはごく僅かに前世の記憶を思い出すものがいる。
その中でさらにごく稀に、この世界と異なる世界の記憶を思い出すものもいる。
かく言う俺もその一人だ。
前世で得たのは、警察官としての捜査知識だ。
今はこれを活かし、領主直属の捜査官として活動している。
そんな俺が直属の上司である領主から命じられたのは、ある囚人の調査だった。
鉄の仮面を被り、悪魔のような頭脳を持つ男。
看守からは「鉄仮面」と呼ばれるその男は、通常であれば罪を償えば出ることができるはずの監獄に堂々と居座り、今も幽閉生活を「謳歌して」いると言う。
その話を聞いた時、ふと前世関わりを持ったある男を思い出した。
生前、俺の「すべて」を奪い、ともに命を落とした男。
前世は、他者の依頼を受けて犯罪を「コーディネート」する、などというふざけたことをしていた。
犯罪を芸術のように語り、犯罪の完成度に己の存在意義と命を懸ける。
そんな、それこそ常人では理解できない思考回路で動いていた男。
もし再会することがあったなら、絶対にその存在を許してはおけない、そんな男。
(――思い出したくもない記憶だ)
あの死に際の笑顔を思い出しただけで吐き気がこみ上げる。
思い浮かべかけたその顔には努めて蓋をした。
思い出したくもなかった。前世の記憶がこれほどトラウマに満ちたものだったなら。
「ケイジ様? ――捜査官様?」
振り返り怪訝そうにしている看守に気が付き、息をついて首を横に振る。
いつの間にか、廊下の最奥、目的の部屋の前にまでたどり着いていたようだ。
「何でもない、――ここか、その囚人が収監されているというのは」
「正確にはもう『囚人』ではないのです。刑期はすでに終えていて……だというのに、いまだここに」
「追い出せないのか」
「ですから……その」
言いよどむ看守にため息が漏れた。
文字通り囚人生活を「謳歌して」いるらしい。
ドアの向こうにいる男というのはずいぶんと酔狂なようだ。
酔狂。
いやでも前世の記憶がよみがえる。
静謐な知性と狂気。
あの男に、俺はその命を差し出してでも守りたかったものを根こそぎ奪われた。
もし出会うことがあれば――今度こそ、自分の存在全てをかけて。
(――いや、そんなことは今考えなくてもいい)
ここは異世界。もはや俺は一度死んだ身。
あの男との縁など、とうの昔に切れているはず。
そう思おうとしたが、それでも引っかかる。
理性とは別のところで、本能が警鐘を鳴らす。
なぜ今になって思い出した。
あの男のことなど、金を積まれても思い出したくないことであるはずなのに。
思い出したくもない記憶がただの場違いなトラウマであることを祈りつつ、ドアをにらむ。
視線の先の鉄製の扉は、そんな俺の感傷をあざ笑うように奇妙な気配を醸し出していた。
看守は一度、息を呑む。
それから低く――声を出した。
「――お連れしました」
「……どういうことだ?」
聞こえてきた言葉に、とっさに看守を見つめる。
その声は明らかに、こちらでなく、「ドアの向こう側」にいるものへの敬意――いや、畏怖をまとっていた。
その声に応えるように、かつん、と音が届く。
かすかな、まるで革靴のかかとで軽く石床を蹴りつけたような音。
まさにそんな音だったのだろうそれに、看守は激しく体を震わせる。
まるで、裁判官の判決を待つ死刑囚のように。
あるいは、神託を待つ者のように。
そしてぶるぶると震える指で、ドアノブをつかむと、ゆっくりと引いた。
ギイ、と鉄扉が開く。
フワリと空気が動き、監獄には不釣り合いな、何処か蠱惑的な香りが鼻をくすぐった。
鍵などかかっていないという事実より、その向こうから香りと共にあふれ出した瘴気にも近い予感に、俺の体は凍りつく。
足はまるでそこで固定されたように、一歩たりとも動くことができなかった。
開いたドアの向こう側で、ゆらりとろうそくの灯が揺らめいた。
石壁の隙間から届く白い陽光がスポットライトのように、室内の人影を映し出す。
監獄に釣り合わない上質な衣服をまとい、瀟洒な椅子に腰を下ろして長い足を組んだ人物。
逆光の中でもわかる。その顔には、異相ともいえる鉄製の仮面が付いていた。
俺は足を励まして一歩部屋へ踏み込み、問いかける。
「お前が監獄に居座っているという囚人か」
問いかけに男は答えなかった。
代わりに顔を上げると、看守に視線を投げる。
「お、お約束通りお連れしました。これで私は……」
男は答えない。
一切口を開く気はないとばかりに顎をしゃくる。
出ていけ、という意味らしい。
看守はびくりと全身を震わせて、足早に部屋を飛び出していく。
「……、おい!」
振り返った目と鼻の先でドアが閉まった。
いまこの男と二人きり。そのことを締め切られたドアが思い知らせる。
俺は、嫌な予感を覚えて鉄仮面の男を振り返った。
男と目が合う。
あの目の色――見覚えが、あるような。
男はこちらを覗き込むようにして首を傾げる。
その独特の首の傾げ方にも、どこか既視感があった。
男は口元に薄く笑みを浮かべて口を開いた。
楽器のようなよく響くテノールが、俺の鼓膜を揺らす。
「やあ、待っていたよ」
その声にも聞き覚えがある。
二度と聞きたくないと、しかしもし聞けたなら二度と口をきけなくしてやりたいと願ってやまなかった声。
(――違う。そんなはずはない)
俺は努めて平常心を装い、胡乱げな表情を作って男に返す。
「……俺は囚人と仲良くするような人生は歩んでいないが」
「そう邪険にしないでほしい。私は君と再会できてとてもうれしいと思っているんだ」
「何度も言わせるな。俺は囚人の知り合いなど――」
「本当に覚えていないのか? 言ってくれたじゃないか。――『死んでも許さない』と」
その言葉に、ヒュッと喉が鳴ったのがわかった。
『死んでも許さない』。
その言葉は、この世界において誰一人知ることのない、俺が前世今際の際に吐いたセリフ。
――あの時、俺はこの男と一緒に死んだはずだった。
――「忘れるな! たとえここで死んだとしても、俺はお前を追い詰める!」――
――「死んでもお前を許さない! 何度生まれ変わっても必ず殺す!」――
刑事にあるまじき憎悪にまみれた罵声。
それを前世、浴びせかけた相手の顔が脳裏に蘇った。
掴みかかった瞬間の歓喜に満ちた笑顔。
ビルの手すりを乗り越えて落ちていく体。
恐怖のひとかけらも浮かべず、こちらと目を合わせたまま死んだ男の――。
「――ッ!」
じゃり、と石床が鳴った。
自分の足が滑るように後ずさった音だと、認識するのにかなりの時間がかかった。
「思い出してくれて嬉しいよ」
目の前の男は仮面の下でもわかるほど喜色に顔をほころばせている。
――思い出した。
この男は。
俺のすべてを壊した男だ。
あの時、俺の罵声にやつは――。
「言っただろう。『私はいつまでも待っている』と」
男はくつりと笑う。
その笑みは、かつて何度も見た――最悪の予兆と同じ形をしていた。
ゆっくりと、指先が仮面にかかる。
かちゃり、と金属が擦れ合う音が嫌に大きく響く。
外す、という確信だけで、背筋に冷たいものが走った。
やめろ、と喉元まで出かかった言葉を、歯を食いしばって押し殺す。
男は優雅な動作で仮面を外す。
そして緩やかに顔を振って、真正面からこちらを見据えた。
翻る銀灰色の髪。同色の瞳。整った顔立ち。
その瞳に宿るのは、狂気に満ちた歓びの火。
その顔を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
見間違えるはずがない。忘れようとしても忘れられるはずがない。
あの地獄のような光景の中心にいた男が、今、目の前にいる。
目の前の男はかつてと全く同じトーン、全く同じ笑顔を浮かべ、こちらをじっと見つめながら言葉を継ぐ。
「だが、想定より少し遅い」
「……てめぇ、は」
「おや、領主直轄の捜査官殿の言葉にしては少しばかり荒っぽい言葉だ。かつての自分を思い出したかな」
こいつは、今の俺の地位まで知っている。
その事実に、口の中が乾いていくのを感じる。
荒くなった息。
やつはただ、じっと見つめていた。
すぐさま胸のホルスターに吊った拳銃を探り――それが前世の記憶であったことを思い出す。
舌打ちして、胸へやったまま固まった手を無理やり下ろした。
「ライヘンバッハの滝での最期を迎えた、かの名探偵と犯罪の帝王が如く、我々も共に最期を迎えたはずだが、こうして感動の再会を果たしたわけだ。にしては君の顔色がすぐれないがね」
「……誰のせいだと」
「おや、私のせいかな。それは嬉しいことだ」
(――だめだ。揺さぶられるな)
慌てて腹に力を込めた。
震える自分の膝を罵倒する。
思い出せ。ここへきた理由を。
――「あれはおそらくお前と同じだ」――
――「使いこなせるようなら、お前に委ねる」――
領主の言葉を頭の中に思い浮かべた。
そうだ。これはチャンスだ。
相手はいま、監獄にいる。
「どうせそんな場所にいるんだ、こっちでもまともな人生を送ってないんだろう」
「そう見えるかね? 君こそ、私がいない間ずいぶんとぬるい生活を送ってきたように見える」
吐き捨てた息は、果たして笑い声に聞こえただろうか。
「お前がいない間のこの半生、これ以上ないくらい平和で幸せな生活だったよ」
「それはそれは。ではぬるま湯の生活に別れを告げて、これからは私と踊ってもらいたいところだね」
「お前ごときが、俺と踊ってもらえる立場だとでも本気で思ってんのか?」
嘲笑がわざとらしく石壁に当たって砕ける。
「覚えておけ、お前は囚人、俺は捜査官。ここでのお前の利用価値はそのお上品なおつむに詰まった脳みそだけだ。お前の頭脳を使えるだけ使い潰してから殺してやる」
虚勢とともに放った言葉。
男は嫌になるほど美しい顔を綻ばせて頷く。
「君に使い潰せる頭脳はしてないが――。
まあいい。また君と話ができるなら、それでいい」
さながら蛇に睨まれたかのよう。
そう思いながら、俺は吐き捨てた。
どうしても相手の銀灰色の瞳を睨み返せないまま。
奴の犯罪に関する知識や発想力は本物だ。
そのことを知っているのは、この世界で俺だけ。
その犯罪に特化した頭脳を、犯罪抑止に使う危険性を知っているのも……きっと俺だけだ。
「……せいぜい俺の役に立て。――かつて深窓のウロボロスと呼ばれたその脳みそでな」
「懐かしい名前だ。もっとも、私自身はその名前を気に入っていたわけではないのだけれどね」
「深窓のウロボロス」――それは、奴の名だ。
そしておそらく、今もなお、その本質は変わっていないのだろう。

