「ガハッ……! ゴホッ、ゲホッ……ァッ!」
窒息の底から引きずり上げられるように、二階堂の肺が強制的に空気を吸い込んだ。
大きく胸を反らせた瞬間、全身に食い込む冷たい金属と、太い革ベルトの感触に気がついた。
目を開ける。
そこは埃まみれの廃ビルではなかった。
網膜を焼き切るような、白すぎる蛍光灯の光。無機質なコンクリートの壁と床。
二階堂は、頑丈な鉄製の拘束椅子に両手両足を固く縛り付けられていた。
そして目の前には、曽根崎が立っていた。
手には二階堂の愛用ライフルが握られ、スコープ越しに見せたのと同じ、三日月のような笑みを浮かべている。
「おはよう、二階堂遼くん。いや、凄腕の『掃除屋』と呼ぶべきかな」
曽根崎の声は、穏やかで、それゆえに狂気を帯びていた。
「ここは……。俺は、クローゼットの中で、死体を……」
「幻覚だよ。私が調合した薬が、脳から君が最も恐れる死を引きずり出した。君は三日前の夜、あの廃ビルに下見に入った直後、私の部下に拘束されていた。君がこの三日間見ていた監視任務も、切断された黒電話も、窓の外の怪異も……すべて、この椅子の上で薬品によって見せられていた夢にすぎない」
曽根崎の言葉が、二階堂の混濁した思考を侵食していく。
三日間の蒸し暑さも、額を伝う汗の感覚も、銃身の冷たさも、すべてがこの地下室で注入された薬物の悪夢だったというのか。
「なぜ、俺をこんな目に遭わせる……」
掠れた声で問い詰める二階堂の顔を、曽根崎は品定めするように、角度を変えながらじっくりと覗き込んだ。
その瞳の奥には、底なしの泥沼のような異常な執着が渦巻いている。
「君が完璧なスナイパーだったからだよ。だが——半年前だ。雨の降る夜の、十四人目のターゲット」
その言葉に、二階堂の心臓がドクンと跳ね上がった。
「あの夜、ビルの屋上から男をスコープに捉えた君は、男の足元に駆け寄った濡れた野良猫を男が抱き上げた瞬間……ほんの三秒だけ、引き金を引くのを躊躇ったね。氷のように冷徹だった君の仮面の下で、人間らしい感情が微かに揺らいだ瞬間だ」
「……なぜ、それを知っている」
「私の真のビジネスは、貿易などではない。『死の瞬間の収集』だからだ」
曽根崎は恍惚とした表情を浮かべ、二階堂の耳元へ顔を寄せた。生ぬるい呼気が肌を撫でる。
「人間という生き物はね、自分が死ぬのだと完全に理解した瞬間にだけ、魂の底にある本当の顔を見せるのだよ。社会的地位も、プライドも、理性も、すべてが剥ぎ取られ、剥き出しの『生への執着』と『絶望』が爆発する……あぁ、なんて美しい! 私はその瞬間の表情を、温度を、永遠に保存したいのだ。君のような感情を殺した殺し屋が、理解不能な恐怖に呑まれて壊れていく姿……スコープ越しに私を見た君のあの怯え切った顔は、実に素晴らしい芸術の始まりだった」
曽根崎が楽しげに指を鳴らした。
重々しい機械音とともに、地下室の奥にある巨大な鉄製シャッターがゆっくりと巻き上がっていく。
部屋を満たしたのは、強烈なホルマリンの刺激臭だった。
二階堂は目を見開き、息を呑んだ。
シャッターの向こう側は、巨大な防腐液の水槽で埋め尽くされた標本室だった。
白濁した液体の中に、無数の人間の生首が浮かんでいる。
老若男女、様々な顔。そのすべてが、眼球を限界まで見開き、口を裂けんばかりに歪め、極限の恐怖と絶望に顔を凍りつかせたまま保存されていた。
それぞれのガラス槽には、小さな金属プレートが打ち付けられている。
『氏名:広瀬 健一 / 絶命時:2025.11.03 / 最期の言葉:子どもだけは助けてくれ』
『氏名:甲斐 亮介 / 絶命時:2026.02.14 / 最期の言葉:何で俺が』
『氏名:水野 沙織 / 絶命時:2026.05.29 / 最期の言葉:誰か助けて』
曽根崎は慈しむようにガラス槽の一つに手を触れ、愛おしそうに眺めた。
「彼らは皆、死の瞬間に最高傑作となった。だが君は特別だ。感情を捨てたはずの男が、絶望の淵でどんな顔を見せてくれるのか……想像するだけで、私の心臓は歓喜に震えている」
曽根崎がトレイからメスを取り上げた。
鋭利な刃先が、白々しい蛍光灯の光を浴びて冷たくギラついた。
「さあ、幻覚の時間は終わりだ。次は現実の解体を始めよう。君のその美しい絶望の表情は、私の最高のコレクションとして、永遠にこの場所で生き続けるのだ」
「やめろ……! 来るな、やめろぉぉぉっ!!」
二階堂は絶叫し、拘束を解こうと全身の筋肉を激しく痙攣させたが、革ベルトは肉に食い込むばかりで微動だにしない。
自分がこれまでに撃ち抜いてきた十四人。彼らも、死の直前にこんな底知れぬ恐怖を味わっていたのだろうか。
だが、そんな遅すぎる悔恨すら、迫り来る狂気の前には何の意味もなさなかった。
曽根崎の三日月の笑みが視界を覆い尽くし、「あの雨の夜の、君の三秒間の揺らぎを、ここで完成させよう」と耳元で甘く囁いた。
直後、冷たい刃先が二階堂の首筋に深々と突き立てられた。
皮膚が裂け、灼熱の血飛沫が噴き出す——肉を切り裂く鈍い音と、自らの絶叫が地下室の闇にのみ込まれていった。
死ぬ。今度こそ、本当に死ぬ。
痛みと恐怖の極致で、二階堂の意識は真っ赤に染まり——
——チリッ。
蛍光灯の光が、小さく明滅した。
鼻をつくホルマリンの臭いが、ふっと霧のように消え去る。
首筋を切り裂かれたはずの激痛も、噴き出していた熱い血の感触も、跡形もなく消えていた。
代わりに肺を満たしたのは、ひどく蒸し暑い、長年の埃と正体不明の染みがこびりついた廃ビルの空気だった。
目を開ける。
だが、光はどこにもなかった。一寸先も見えない、完全な闇。
背中には硬い木の板の感触がある。
両肘が左右の壁に強く圧迫され、膝が正面の板に突っかかっている。
身動き一つ取れない。
ここは——クローゼットの内側だ。
二階堂は息を呑み、暗闇の中で凍りついた。
ここはどこだ?
地下室の鉄の椅子の上か? 廃ビルのクローゼットの中なのか?
あのメスで首を裂かれた痛みは現実だったのか? それとも、薬物による新しい『死の幻覚』がまた始まったのか?
確かめる術は何一つない。
絶対的だったはずの物理法則も、時間も、自分の肉体の感覚すら、もはや何一つ信じられる証拠にはならないのだ。
その時暗闇のすぐ外から、けたたましい音が響いた。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
切断されたはずの黒電話が、狂ったように鳴り響いている。
そして、ガタガタと激しく揺れる窓ガラスの音。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
逃げ場のない密室の中、耳のすぐ真横で、あのしゃがれた声がくぐもって囁いた。
「——まだ、見えているよ」
冷たく濡れた何本もの手が、暗闇の底から伸びてきて、二階堂の両足首をヌルリと掴み、下へと引きずり込み始めた。
終わらない。
また、始まる。
スコープ越しの無音で無機質な世界には、もう二度と帰れない。
(了)
窒息の底から引きずり上げられるように、二階堂の肺が強制的に空気を吸い込んだ。
大きく胸を反らせた瞬間、全身に食い込む冷たい金属と、太い革ベルトの感触に気がついた。
目を開ける。
そこは埃まみれの廃ビルではなかった。
網膜を焼き切るような、白すぎる蛍光灯の光。無機質なコンクリートの壁と床。
二階堂は、頑丈な鉄製の拘束椅子に両手両足を固く縛り付けられていた。
そして目の前には、曽根崎が立っていた。
手には二階堂の愛用ライフルが握られ、スコープ越しに見せたのと同じ、三日月のような笑みを浮かべている。
「おはよう、二階堂遼くん。いや、凄腕の『掃除屋』と呼ぶべきかな」
曽根崎の声は、穏やかで、それゆえに狂気を帯びていた。
「ここは……。俺は、クローゼットの中で、死体を……」
「幻覚だよ。私が調合した薬が、脳から君が最も恐れる死を引きずり出した。君は三日前の夜、あの廃ビルに下見に入った直後、私の部下に拘束されていた。君がこの三日間見ていた監視任務も、切断された黒電話も、窓の外の怪異も……すべて、この椅子の上で薬品によって見せられていた夢にすぎない」
曽根崎の言葉が、二階堂の混濁した思考を侵食していく。
三日間の蒸し暑さも、額を伝う汗の感覚も、銃身の冷たさも、すべてがこの地下室で注入された薬物の悪夢だったというのか。
「なぜ、俺をこんな目に遭わせる……」
掠れた声で問い詰める二階堂の顔を、曽根崎は品定めするように、角度を変えながらじっくりと覗き込んだ。
その瞳の奥には、底なしの泥沼のような異常な執着が渦巻いている。
「君が完璧なスナイパーだったからだよ。だが——半年前だ。雨の降る夜の、十四人目のターゲット」
その言葉に、二階堂の心臓がドクンと跳ね上がった。
「あの夜、ビルの屋上から男をスコープに捉えた君は、男の足元に駆け寄った濡れた野良猫を男が抱き上げた瞬間……ほんの三秒だけ、引き金を引くのを躊躇ったね。氷のように冷徹だった君の仮面の下で、人間らしい感情が微かに揺らいだ瞬間だ」
「……なぜ、それを知っている」
「私の真のビジネスは、貿易などではない。『死の瞬間の収集』だからだ」
曽根崎は恍惚とした表情を浮かべ、二階堂の耳元へ顔を寄せた。生ぬるい呼気が肌を撫でる。
「人間という生き物はね、自分が死ぬのだと完全に理解した瞬間にだけ、魂の底にある本当の顔を見せるのだよ。社会的地位も、プライドも、理性も、すべてが剥ぎ取られ、剥き出しの『生への執着』と『絶望』が爆発する……あぁ、なんて美しい! 私はその瞬間の表情を、温度を、永遠に保存したいのだ。君のような感情を殺した殺し屋が、理解不能な恐怖に呑まれて壊れていく姿……スコープ越しに私を見た君のあの怯え切った顔は、実に素晴らしい芸術の始まりだった」
曽根崎が楽しげに指を鳴らした。
重々しい機械音とともに、地下室の奥にある巨大な鉄製シャッターがゆっくりと巻き上がっていく。
部屋を満たしたのは、強烈なホルマリンの刺激臭だった。
二階堂は目を見開き、息を呑んだ。
シャッターの向こう側は、巨大な防腐液の水槽で埋め尽くされた標本室だった。
白濁した液体の中に、無数の人間の生首が浮かんでいる。
老若男女、様々な顔。そのすべてが、眼球を限界まで見開き、口を裂けんばかりに歪め、極限の恐怖と絶望に顔を凍りつかせたまま保存されていた。
それぞれのガラス槽には、小さな金属プレートが打ち付けられている。
『氏名:広瀬 健一 / 絶命時:2025.11.03 / 最期の言葉:子どもだけは助けてくれ』
『氏名:甲斐 亮介 / 絶命時:2026.02.14 / 最期の言葉:何で俺が』
『氏名:水野 沙織 / 絶命時:2026.05.29 / 最期の言葉:誰か助けて』
曽根崎は慈しむようにガラス槽の一つに手を触れ、愛おしそうに眺めた。
「彼らは皆、死の瞬間に最高傑作となった。だが君は特別だ。感情を捨てたはずの男が、絶望の淵でどんな顔を見せてくれるのか……想像するだけで、私の心臓は歓喜に震えている」
曽根崎がトレイからメスを取り上げた。
鋭利な刃先が、白々しい蛍光灯の光を浴びて冷たくギラついた。
「さあ、幻覚の時間は終わりだ。次は現実の解体を始めよう。君のその美しい絶望の表情は、私の最高のコレクションとして、永遠にこの場所で生き続けるのだ」
「やめろ……! 来るな、やめろぉぉぉっ!!」
二階堂は絶叫し、拘束を解こうと全身の筋肉を激しく痙攣させたが、革ベルトは肉に食い込むばかりで微動だにしない。
自分がこれまでに撃ち抜いてきた十四人。彼らも、死の直前にこんな底知れぬ恐怖を味わっていたのだろうか。
だが、そんな遅すぎる悔恨すら、迫り来る狂気の前には何の意味もなさなかった。
曽根崎の三日月の笑みが視界を覆い尽くし、「あの雨の夜の、君の三秒間の揺らぎを、ここで完成させよう」と耳元で甘く囁いた。
直後、冷たい刃先が二階堂の首筋に深々と突き立てられた。
皮膚が裂け、灼熱の血飛沫が噴き出す——肉を切り裂く鈍い音と、自らの絶叫が地下室の闇にのみ込まれていった。
死ぬ。今度こそ、本当に死ぬ。
痛みと恐怖の極致で、二階堂の意識は真っ赤に染まり——
——チリッ。
蛍光灯の光が、小さく明滅した。
鼻をつくホルマリンの臭いが、ふっと霧のように消え去る。
首筋を切り裂かれたはずの激痛も、噴き出していた熱い血の感触も、跡形もなく消えていた。
代わりに肺を満たしたのは、ひどく蒸し暑い、長年の埃と正体不明の染みがこびりついた廃ビルの空気だった。
目を開ける。
だが、光はどこにもなかった。一寸先も見えない、完全な闇。
背中には硬い木の板の感触がある。
両肘が左右の壁に強く圧迫され、膝が正面の板に突っかかっている。
身動き一つ取れない。
ここは——クローゼットの内側だ。
二階堂は息を呑み、暗闇の中で凍りついた。
ここはどこだ?
地下室の鉄の椅子の上か? 廃ビルのクローゼットの中なのか?
あのメスで首を裂かれた痛みは現実だったのか? それとも、薬物による新しい『死の幻覚』がまた始まったのか?
確かめる術は何一つない。
絶対的だったはずの物理法則も、時間も、自分の肉体の感覚すら、もはや何一つ信じられる証拠にはならないのだ。
その時暗闇のすぐ外から、けたたましい音が響いた。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
切断されたはずの黒電話が、狂ったように鳴り響いている。
そして、ガタガタと激しく揺れる窓ガラスの音。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
逃げ場のない密室の中、耳のすぐ真横で、あのしゃがれた声がくぐもって囁いた。
「——まだ、見えているよ」
冷たく濡れた何本もの手が、暗闇の底から伸びてきて、二階堂の両足首をヌルリと掴み、下へと引きずり込み始めた。
終わらない。
また、始まる。
スコープ越しの無音で無機質な世界には、もう二度と帰れない。
(了)


