※本作には、殺人、死体、腐敗、人体損壊、拷問を想起させる描写があります。苦手な方は閲覧にご注意ください。
スコープ越しの世界は、常に無音で無機質だ。
二階堂 遼(にかいどう りょう)はスコープから目を離し、ゆっくりと生ぬるい息を吐き出した。
ひどく蒸し暑い。ここは廃墟と化した雑居ビルの四階。
電気も水道もとうに止められ、床には長年の埃と、正体の知れない古い染みがこびりついている。
埃の奥には、なぜか微かな甘い匂いが混じっていた。
割れた窓の隙間から入り込む夜風が、汗ばんだ前髪をわずかに揺らした。
十五歳で裏社会の組織に拾われて以来、二階堂は自身の感情を分厚いすりガラスの奥に閉じ込めて生きてきた。
教育係だった男に「名前も過去も捨てろ」と命じられ、その通りにした。
恐怖、同情、迷い。そうした人間らしい揺らぎが芽生えるたびに徹底的に削ぎ落とされ、やがて残ったのは、引き金を引く指先と、弾道を描く絶対的な物理法則だけだった。
風速、湿度、距離、重力。数字で記述できるものだけが信用に値する。人間の命など、その冷徹な計算式の先にある「ターゲット」にすぎない。
これまで十四人のターゲットを始末してきたが、誰一人として自分が誰に、なぜ撃たれたのかを理解する間もなくこの世を去った。
死を悟る暇を与えなければ、人間は殺しやすい。
通りの向かい側には、築年数の浅い高級タワーマンションが夜の闇にそびえ立っている。
宝石を散りばめたような街の夜景の中で、最上階の角部屋だけが、ぽっかりと開いた四角い空白のように暗く沈んでいた。
ターゲットの名は、曽根崎 宗一(そねざき そういち)。
表向きは中堅貿易会社の役員を務める、どこにでもいる初老の男だ。
依頼主の素性も、この男を消さなければならない理由も知らないし、興味もない。
二階堂の仕事は、三日間の監視を経て、四日目の夜にあそこの窓ガラス越しに男の眉間を撃ち抜くこと。ただそれだけだった。
今日が、その四日目の夜だった。
午後十一時二十分。
二階堂は再びスコープに右目を当てた。ターゲットの部屋はまだ真っ暗だ。
曽根崎の生活パターンは、異常なほど規則正しかった。過去三日間、男は毎晩十一時半きっかりに帰宅し、リビングの明かりをつけ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して窓辺で飲む。時間にして約三十秒。窓際に立ち止まるその瞬間こそが、確実に急所を撃ち抜く完璧な射撃タイミングだった。
十一時二十八分。
スコープの円形視界の奥で、玄関に通じるドアが静かに開いた。
人影が入ってくる。曽根崎だ。二階堂は無意識に呼吸を止め、人差し指を引き金にかけた。
だが——何かがおかしかった。
明かりがつかない。
曽根崎は暗闇の中、シルエットのままリビングの中央へすべるように歩みを進め、そしてピタリと立ち止まった。冷蔵庫へ向かうこともなく、窓ガラスのわずか三十センチ手前で、彫像のように直立している。
十一時三十分。予定の時刻だ。曽根崎は動かない。
十一時三十二分。まだ動かない。
胸の奥を突き刺す得体の知れない違和感に、二階堂はスコープの倍率を最大まで上げた。暗視モードの緑色がかった視界の中に、男の顔が不気味に浮かび上がる。
目が見開かれていた。
瞬き一つせず、眼球の毛細血管が浮き出るほど見開かれた両目が、百メートル先の闇に潜む二階堂のスコープを、狂いなくピンポイントで見つめ返している。
さらに、その口元は不自然なほど両端が裂けんばかりに吊り上がり、三日月のような笑みを浮かべていた。
背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
気づかれている? なぜだ。
この廃ビルは完全に街の闇と同化している。光も熱も音も漏らしていない。百メートル離れた暗闇からこちらの位置を特定することなど、物理的にありえないはずだ。
二階堂が引き金にかける指に力を込めた、その時だった。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
背後で、鼓膜を破らんばかりの暴力的な金属音が炸裂した。
二階堂は弾かれたように振り返った。心臓が早鐘のように肋骨を叩く。
音の出処は、埃まみれの床の隅に転がっている旧式の黒電話だった。
電話線は三日前の下見の際、切断されているのを確認している。壁のモジュラージャックから引き抜かれ、配線は干からびていた。通電などしているはずがないのだ。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
狂ったようなベルの音が、密閉された廃ビルの一室に反響し続ける。
二階堂はライフルを構え、銃口を向けたまま、すり足で黒電話へと近づいた。
転がった受話器の隙間から、かすかにざらついたノイズが漏れ出している。
息を殺しながら、左手で受話器を持ち上げ、耳元に当てた。
「——見えて、いるよ」
耳の奥を直接引っ掻くような、ひどくしゃがれた男の声だった。
「後ろ」
二階堂が振り返るより早く、背後の窓ガラスがガタガタと激しく軋んだ。
スコープを据え付けていた窓の外。四階の中空、足場などあるはずのない闇の中に、青白い両手がベタリと張り付いていた。
二階堂は息を呑み、足をもつれさせながら後ずさった。
手がズルズルとガラスを滑り落ち、代わりに窓枠の下からぬらりと這い上がってきたのは——首を真横に九十度へし折った、曽根崎の顔だった。
その顔は、もはや人間の構造を保っていなかった。ゼリーのように小刻みに震える眼球。ひん剥かれた目が二階堂を捉えている。
両端が裂けんばかりに吊り上がった口の奥には、黒ずんだ舌が蠢いている。押し当てられた頬の肉が、腐乱した果実のように潰れている。
百メートル先の高級マンションにいたはずの男が、今、夜空に浮かびながら窓ガラスに顔を押し付けているのだ。
受話器から流れる音声と完全に同期して、ガラスの向こうの曽根崎の唇がパクパクと動いた。
「開けて」
その瞬間、二階堂の背中がぶつかったクローゼットの扉が、内側から『ドォンッ!』と爆発のような音を立てて叩かれた。
悲鳴を上げる間もなかった。
扉の隙間から、死人のように冷たく湿った何本もの腕が飛び出し、二階堂の首、両腕、胴体に絡みついた。
鼻を突く猛烈な腐敗臭。
暗闇の底へと引きずり込まれながら、二階堂の視界の端に映ったのは——部屋の隅に打ち捨てられた、頭部を撃ち抜かれてハエが群がる、二階堂自身の腐乱死体だった。
「あ……俺は……三日前に……」
視界が、完全な漆黒に塗り潰された。
スコープ越しの世界は、常に無音で無機質だ。
二階堂 遼(にかいどう りょう)はスコープから目を離し、ゆっくりと生ぬるい息を吐き出した。
ひどく蒸し暑い。ここは廃墟と化した雑居ビルの四階。
電気も水道もとうに止められ、床には長年の埃と、正体の知れない古い染みがこびりついている。
埃の奥には、なぜか微かな甘い匂いが混じっていた。
割れた窓の隙間から入り込む夜風が、汗ばんだ前髪をわずかに揺らした。
十五歳で裏社会の組織に拾われて以来、二階堂は自身の感情を分厚いすりガラスの奥に閉じ込めて生きてきた。
教育係だった男に「名前も過去も捨てろ」と命じられ、その通りにした。
恐怖、同情、迷い。そうした人間らしい揺らぎが芽生えるたびに徹底的に削ぎ落とされ、やがて残ったのは、引き金を引く指先と、弾道を描く絶対的な物理法則だけだった。
風速、湿度、距離、重力。数字で記述できるものだけが信用に値する。人間の命など、その冷徹な計算式の先にある「ターゲット」にすぎない。
これまで十四人のターゲットを始末してきたが、誰一人として自分が誰に、なぜ撃たれたのかを理解する間もなくこの世を去った。
死を悟る暇を与えなければ、人間は殺しやすい。
通りの向かい側には、築年数の浅い高級タワーマンションが夜の闇にそびえ立っている。
宝石を散りばめたような街の夜景の中で、最上階の角部屋だけが、ぽっかりと開いた四角い空白のように暗く沈んでいた。
ターゲットの名は、曽根崎 宗一(そねざき そういち)。
表向きは中堅貿易会社の役員を務める、どこにでもいる初老の男だ。
依頼主の素性も、この男を消さなければならない理由も知らないし、興味もない。
二階堂の仕事は、三日間の監視を経て、四日目の夜にあそこの窓ガラス越しに男の眉間を撃ち抜くこと。ただそれだけだった。
今日が、その四日目の夜だった。
午後十一時二十分。
二階堂は再びスコープに右目を当てた。ターゲットの部屋はまだ真っ暗だ。
曽根崎の生活パターンは、異常なほど規則正しかった。過去三日間、男は毎晩十一時半きっかりに帰宅し、リビングの明かりをつけ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して窓辺で飲む。時間にして約三十秒。窓際に立ち止まるその瞬間こそが、確実に急所を撃ち抜く完璧な射撃タイミングだった。
十一時二十八分。
スコープの円形視界の奥で、玄関に通じるドアが静かに開いた。
人影が入ってくる。曽根崎だ。二階堂は無意識に呼吸を止め、人差し指を引き金にかけた。
だが——何かがおかしかった。
明かりがつかない。
曽根崎は暗闇の中、シルエットのままリビングの中央へすべるように歩みを進め、そしてピタリと立ち止まった。冷蔵庫へ向かうこともなく、窓ガラスのわずか三十センチ手前で、彫像のように直立している。
十一時三十分。予定の時刻だ。曽根崎は動かない。
十一時三十二分。まだ動かない。
胸の奥を突き刺す得体の知れない違和感に、二階堂はスコープの倍率を最大まで上げた。暗視モードの緑色がかった視界の中に、男の顔が不気味に浮かび上がる。
目が見開かれていた。
瞬き一つせず、眼球の毛細血管が浮き出るほど見開かれた両目が、百メートル先の闇に潜む二階堂のスコープを、狂いなくピンポイントで見つめ返している。
さらに、その口元は不自然なほど両端が裂けんばかりに吊り上がり、三日月のような笑みを浮かべていた。
背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
気づかれている? なぜだ。
この廃ビルは完全に街の闇と同化している。光も熱も音も漏らしていない。百メートル離れた暗闇からこちらの位置を特定することなど、物理的にありえないはずだ。
二階堂が引き金にかける指に力を込めた、その時だった。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
背後で、鼓膜を破らんばかりの暴力的な金属音が炸裂した。
二階堂は弾かれたように振り返った。心臓が早鐘のように肋骨を叩く。
音の出処は、埃まみれの床の隅に転がっている旧式の黒電話だった。
電話線は三日前の下見の際、切断されているのを確認している。壁のモジュラージャックから引き抜かれ、配線は干からびていた。通電などしているはずがないのだ。
『ジリリリリリリリリリリッ!』
狂ったようなベルの音が、密閉された廃ビルの一室に反響し続ける。
二階堂はライフルを構え、銃口を向けたまま、すり足で黒電話へと近づいた。
転がった受話器の隙間から、かすかにざらついたノイズが漏れ出している。
息を殺しながら、左手で受話器を持ち上げ、耳元に当てた。
「——見えて、いるよ」
耳の奥を直接引っ掻くような、ひどくしゃがれた男の声だった。
「後ろ」
二階堂が振り返るより早く、背後の窓ガラスがガタガタと激しく軋んだ。
スコープを据え付けていた窓の外。四階の中空、足場などあるはずのない闇の中に、青白い両手がベタリと張り付いていた。
二階堂は息を呑み、足をもつれさせながら後ずさった。
手がズルズルとガラスを滑り落ち、代わりに窓枠の下からぬらりと這い上がってきたのは——首を真横に九十度へし折った、曽根崎の顔だった。
その顔は、もはや人間の構造を保っていなかった。ゼリーのように小刻みに震える眼球。ひん剥かれた目が二階堂を捉えている。
両端が裂けんばかりに吊り上がった口の奥には、黒ずんだ舌が蠢いている。押し当てられた頬の肉が、腐乱した果実のように潰れている。
百メートル先の高級マンションにいたはずの男が、今、夜空に浮かびながら窓ガラスに顔を押し付けているのだ。
受話器から流れる音声と完全に同期して、ガラスの向こうの曽根崎の唇がパクパクと動いた。
「開けて」
その瞬間、二階堂の背中がぶつかったクローゼットの扉が、内側から『ドォンッ!』と爆発のような音を立てて叩かれた。
悲鳴を上げる間もなかった。
扉の隙間から、死人のように冷たく湿った何本もの腕が飛び出し、二階堂の首、両腕、胴体に絡みついた。
鼻を突く猛烈な腐敗臭。
暗闇の底へと引きずり込まれながら、二階堂の視界の端に映ったのは——部屋の隅に打ち捨てられた、頭部を撃ち抜かれてハエが群がる、二階堂自身の腐乱死体だった。
「あ……俺は……三日前に……」
視界が、完全な漆黒に塗り潰された。


