怨念猫の気配が完全に途切れたのを確認してから、しのぶは公園をあとにした。
夜風が、さっきまでの血と鉄の匂いを薄めていく。
街灯の下を三つ、四つと抜けるたび、世界は少しずつ「普通の夜」へ戻っていくように見えた。
けれど、しのぶの足取りは完全には緩まない。
この区画で“仕事”をしたあとに通る、いつもの帰り道。
まっすぐ帰途へ戻る道から一本だけ外れた細い坂道を登ると、古い鳥居が闇の中に浮かび上がる。
その奥にあるのは、廃社となった稲荷神社だ。
地図と記録の上では、とうに「無人」の印がついている。
鳥居の足元には、ひびの入ったブロック塀。
参道の石段には落ち葉と砂利が積もり、誰が捨てたのか分からない空き缶まで転がっている。
拝殿の屋根はところどころ色を失い、夜空との境目さえ曖昧になっていた。
しのぶは、いつもなら鳥居を横目に素通りする。
けれど今夜は、足が止まった。
“鳥居”という境界を越えて、明らかなケガレと瘴気がこちら側へ滲み出している。
空気そのものが澱んでいた。
まるで透明な布を一枚、頭から被せられたように、外界の音がくぐもって聞こえる。
「……なにか、いる」
誰にともなく呟いた、その瞬間。
廃神社の奥から、じわりと視線が滲み出てきた。
古びて乾いた書物のような匂い。
それでいて、眠りから頭を擡げた獣が、巣穴の入口から外を窺うような気配。
しのぶは鳥居の前で立ち止まり、暗がりを見つめた。
闇の向こうからも、何者かがこちらを見ている。
ただ見ているだけではない。
こちらの力量を。
立場を。
そして、自分が何者なのかを。
まるで値踏みするように、静かに測っている。
(なんだろう。穢れた土塊と、怨嗟の匂い……?)
姿は見えない。
名前も分からない。
それでも、相手が確かにこちらを認識していることだけは分かる。
そして向こうもまた、今ここに立っているのが、ただの人間ではないことを見抜いている。
ついさっきまで深夜の公園で、怨念の塊を仕留めてきた境界守。
境界のこちら側とあちら側。
その隔たりを挟んで、視線だけがぴたりと噛み合う。
今が、まさにそれだった。
しのぶはしばらく黙っていたが、やがてほんの少しだけ首を傾げた。
「今日は、通りすがっただけ。貴方のことは、またそのうち」
鳥居の向こうにいる“何か”へ向けた、挨拶とも牽制ともつかない言葉だった。
続きは口にしなかった。
約束にも、宣言にもしたくなかったからだ。
それでも廃神社の気配は、まるでその言葉を記憶したとでもいうように、微かに波打った。
砂利を踏む音が、夜気に吸い込まれていく。
しのぶは鳥居に背を向け、再び坂道を下り始めた。
背中に突き刺さるような敵意はない。
ただ、じっと観察するような眼差しだけが、長く尾を引いている。
追ってくるわけでもない。
呼び止めるわけでもない。
ただ、見ている。
その視線を背中に感じながらも、しのぶは振り返らなかった。
怨念猫の声が消えた夜。
別の何かが、静かに目を醒ましている。
そんな予感だけを連れて、しのぶは自分の暮らす「日常」へ戻っていった。
夜風が、さっきまでの血と鉄の匂いを薄めていく。
街灯の下を三つ、四つと抜けるたび、世界は少しずつ「普通の夜」へ戻っていくように見えた。
けれど、しのぶの足取りは完全には緩まない。
この区画で“仕事”をしたあとに通る、いつもの帰り道。
まっすぐ帰途へ戻る道から一本だけ外れた細い坂道を登ると、古い鳥居が闇の中に浮かび上がる。
その奥にあるのは、廃社となった稲荷神社だ。
地図と記録の上では、とうに「無人」の印がついている。
鳥居の足元には、ひびの入ったブロック塀。
参道の石段には落ち葉と砂利が積もり、誰が捨てたのか分からない空き缶まで転がっている。
拝殿の屋根はところどころ色を失い、夜空との境目さえ曖昧になっていた。
しのぶは、いつもなら鳥居を横目に素通りする。
けれど今夜は、足が止まった。
“鳥居”という境界を越えて、明らかなケガレと瘴気がこちら側へ滲み出している。
空気そのものが澱んでいた。
まるで透明な布を一枚、頭から被せられたように、外界の音がくぐもって聞こえる。
「……なにか、いる」
誰にともなく呟いた、その瞬間。
廃神社の奥から、じわりと視線が滲み出てきた。
古びて乾いた書物のような匂い。
それでいて、眠りから頭を擡げた獣が、巣穴の入口から外を窺うような気配。
しのぶは鳥居の前で立ち止まり、暗がりを見つめた。
闇の向こうからも、何者かがこちらを見ている。
ただ見ているだけではない。
こちらの力量を。
立場を。
そして、自分が何者なのかを。
まるで値踏みするように、静かに測っている。
(なんだろう。穢れた土塊と、怨嗟の匂い……?)
姿は見えない。
名前も分からない。
それでも、相手が確かにこちらを認識していることだけは分かる。
そして向こうもまた、今ここに立っているのが、ただの人間ではないことを見抜いている。
ついさっきまで深夜の公園で、怨念の塊を仕留めてきた境界守。
境界のこちら側とあちら側。
その隔たりを挟んで、視線だけがぴたりと噛み合う。
今が、まさにそれだった。
しのぶはしばらく黙っていたが、やがてほんの少しだけ首を傾げた。
「今日は、通りすがっただけ。貴方のことは、またそのうち」
鳥居の向こうにいる“何か”へ向けた、挨拶とも牽制ともつかない言葉だった。
続きは口にしなかった。
約束にも、宣言にもしたくなかったからだ。
それでも廃神社の気配は、まるでその言葉を記憶したとでもいうように、微かに波打った。
砂利を踏む音が、夜気に吸い込まれていく。
しのぶは鳥居に背を向け、再び坂道を下り始めた。
背中に突き刺さるような敵意はない。
ただ、じっと観察するような眼差しだけが、長く尾を引いている。
追ってくるわけでもない。
呼び止めるわけでもない。
ただ、見ている。
その視線を背中に感じながらも、しのぶは振り返らなかった。
怨念猫の声が消えた夜。
別の何かが、静かに目を醒ましている。
そんな予感だけを連れて、しのぶは自分の暮らす「日常」へ戻っていった。
