化けた月


トレーニングを欠かさないガタイのいい体をぐったりとさせ、百田は教室に入ってきた。経緯は容易に想像できた。

「席替えしねえかなあ」

席について開口一番の愚痴で、想像は確信に変わった。ここに来るまで知り合いという知り合いに俺と歩鳥の関係について根掘り葉掘り聞かれたのだ。
打って変わり、俺の新しい彼女・ホトリがスキップで登校した。ヘアメイクがやりすぎなくらい強めに整えられ、どう見ても昨日より気合いが入っている。

「おはよう! み、満……くんっ!」
「おはよう」
「んふ、今日もすごくかっこいいね! あ、百田もいたんだ、おはー」
「……はあ」

百田は砂浜に埋もれたような頭を両手でかきむしった。

「ゲロ甘な空気に耐えらんねえ……。満も酷なことするなよな。グループ内で手ぇ出すなんてご法度だぞ。気まずいったらねえよ」
「あたしが手を出されたくて告ったの! やっと付き合えたんだから百田は勝手に気まずくなってて」

前の机に直立した登山用レベルに大きなリュックが、こてんと頼りなく倒れた。百田はこっそり舌打ちをする。

「片思いこじらせてんなー。見てらんねー」
「今は両思いだもん!」
「厳密にはちげえだろ。両思いの意味、辞書で引いてこい」

ゲテモノを食べたときのような渋面になる百田に、ホトリはふてくされてそっぽを向いた。

「意外と帆波も人気あんのにな。この間なんかラグビー部の内藤(ナイトウ)がかわいいって」
「えっ」

一瞬でホトリの視線がひるがえった。声のトーンが若干高い。

「あ、やべ。今のなし」

言うなって言われてたんだった、と百田は人差し指と中指をハサミに見立て、カットするジェスチャーをした。もちろんそんなことでなかったことにはできない。
ホトリははっとして俺の右肩を叩き、ガシッとつかんだ。角が丸いネイルが痛くない程度にシャツに食いこんだ。

「あ、あたしは満くん一筋だから! いくら他の人に言い寄られようと満くんしか視界に入らないからね!」
「おいおい、俺も視界に入れろ。おまえらの数少ない男友だちだぞ、大事に扱え」

俺が瞬きで理解を示すと、百田に熱い握手を求められた。渋々応じたら、握力の強さに骨が金切り声を上げた。
低空を飛行するカラスの影がよぎった。
水色を広げる空に、雲が多く生産されている。そういえば朝のニュースで午後から雨だと報じていた。

「つうかおまえらが別れたら、いっちゃん気まずい思いすんの俺だかんな」
「縁起でもない話やめてよ」
「どうせ今回も長く持たねえよ」
「性格悪っ」
「じゃあ交際何日目標だよ、言ってみろ」

話の合間に愛用の日傘を器用に巻いていたホトリの手つきが、とたんにもたついた。

「……は、半年っ!」
「お~、意外と現実的ぃ~。ただの夢見る乙女じゃなかったのか」
「ふんっ、あたしを他の子と一緒にしないでくれる? ちゃんとわかってるよ、現実も見えてる。だからまずは半年。文化祭もクリスマスもバレンタインも一緒に過ごせるようにがんばる。いろいろ計画立てて、自分磨きもして、あたしにできることはなんでもやる!」
「そこだけ聞くとイベントぼっちがいやなだけのメンヘラみてえだな」

教室がにぎわってきた。特に教室後方のロッカー前、小窓付きの扉周りで、噂の種がぐんぐん育っている。

「んじゃあこれから昼飯はおまえらふたりで食うわけ?」
「百田もいてもいいよ、あたしたちの邪魔をしなければ」
「うざ。こっちから遠慮するわ。今日から部活のミーティングが続くし」

試合の戦略と文化祭の出し物を練るためのミーティングらしく、百田は早くもだるそうにしている。

「あ、今日の昼なら俺もだめだ」
「え!? 満くんも!? なんで!?」
「あー、いつもの呼び出しか」
「そう」

今朝教室前で言い逃げされたのだ。昼休みに旧音楽室で待ってます、絶対に来てください、と。スカートのチェック柄は赤色、つまり同学年だが見たことのない女子だった。おそらく理系クラスがある東校舎ではなく、文系の集まる西校舎の生徒だろう。在籍している校舎が異なるなら、俺とホトリの噂をまだ知らないのも無理はない。
その場で断ろうとしたのだが、すぐに立ち去ってしまい言うに言えなかった。
あからさまにしょげた彼女にごめんなと謝ると、ひかえめにシャツの袖を摘まれた。

「……断るんだよね?」
「うん」
「なら、いい。待ってる」

付き合う前は耐えられたことが受け入れられなくなる。理解していたことが納得いかなくなる。笑い飛ばせたことが気に病む。
欲望とは実に素直な生き物だ。
知れば知るほど許容範囲は変形する。許しがたいことがひとつ、ふたつと積み重なる。
俺は最上級にやさしく彼女の指をはがした。

「満と付き合うと大変だなー」

窓の向こうにたたずむ樹木にカラスが止まった。震えて伸びる鳴き声が数回、地響きも同然にとどろいた。


「あ! 大上さん!」

南校舎二階の廊下に声が反響した。今でも「音楽室」と彫られたままの表札が目と鼻の先に見えたところだった。
長い廊下の向こう、西の方角から人が走ってくる。今朝記憶したばかりの顔だ。ショートカットの髪にゴールドのヘアピンをつけ、シャツの上にジャージを羽織っていた。ジャージの胸元に刺繍された「金森(カナモリ)」の字で名前を知った。

「あの、呼び出してしまってすみません! わたし、大上さんに彼氏ができたなんて知らなくて」

西校舎のトレンドは、最先端ではないようだ。
できたのは彼女のほうだが、いちいち訂正するのも手間だ。律儀に頭を垂れようとしたのを制するだけに留めた。
するとなぜか彼女は目を潤ませた。

「大上さん、わたしのわがままですが、どうか伝えさせてください。あなたが好きです。王子様みたいに麗しくて、誰に対しても分け隔てなくやさしいところに心から惹かれました。大好きです。もう少しだけ好きでいさせてください。お願いします」

彼女は結局深く頭を下げた。前髪を留めたヘアピンが重力に負け、ずり落ちる。俺はそれを指でそっと押さえやりながら顔を上げさせた。

「伝えてくれてありがとうございます。気持ちに応えられなくてごめんなさい」
「い、いえ、ありがとう、ごっ、ございます!」

痰が絡んだ彼女は、ひと息ついて落ち着いてから、あらたまって言い直した。

「こうしてここに来てくれただけで十分です。本当にありがとうございます」

廊下に声がよく反響した。彼女は恥ずかしそうに口を覆い、何度か会釈を挟みながら踵を返した。
俺も東側につま先を向けた。足は進まなかった。視界にずっと捉えていた旧音楽室が気になって仕方なかった。
本当は、来たくなかったのだ。彼が、宍戸昇がいるかもしれないその部屋に。近づきたくなかった。昨日のあの冷徹な眼差しに、二度も心を揺さぶられたくなかった。呼び出しを無視してしまおうかと、はじめての暴挙に出ることも考えたくらいだ。
だけど、だからこそ、気にせずにいられなかった。
心拍数が上がった。膝がこわばった。思考が鈍った。
これは緊張か、あるいは恐怖だろうか。
特別何があるわけでもない。ただ静かで居心地がいいだけ。ときおりめずらしい人とエンカウントするだけ。それだけの場所。
告白が済んだらもう用無しのはずの、物置同然のその部屋に、ずるずると誘いこまれるように身体が動いた。

おそるおそる扉を開けた。肌寒い空気が癖のない髪をさらった。
中は無人だった。
人類が絶滅したかのように温度を感じられなかった。部屋の全域に木とカビの匂いがしみていた。
心音が細くなった。足の力が抜けた。頭がよく回った。
安心したのか、あるいは拍子抜けしたのだろうか。
煙みたいに曇った雲が太陽の位置を惑わせた。室温は下がる一方だ。少しして雲間から雨と明かりがぽつぽつとこぼれ始めた。夢の中のように曖昧な天気だった。
誰に咎められるわけでもないが、部屋に入る理由を探した。目をつけたのはピアノだ。
机と椅子のバリケードを越え、窓際の隅に置き去りにされた黒塗りのグランドピアノに触れた。鍵盤のふたを上げるとほこりが中空に散漫した。咳をしながら顔まわりの空気を払った。
鍵盤は黄ばみ、表面がガタついていた。右手を添えてみる。 ド、レ、ミ。音の起こりが遅く、響きが重かった。絶対音感を備えていない俺でも、何年も調律していない弊害をひしひしと感じ取れた。
とはいえ耳障りが悪いほどの歪みではないのでそのまま弾き続けた。俺が一曲演奏できるのは三曲のみ。ねこふんじゃった、きらきら星、それから中学の校歌。校歌の伴奏は、中学の合唱コンクールをきっかけに付き合った元カノに教わった。白鍵のみで織り成されたメロディーは、単純なリズムの繰り返しで、初心者でも一時間あれば習得できた。
譜面も演奏のコツも体が覚えている。一方で、その元カノのことは、顔も名前も正確に思い出せない。さっき告白してくれた子すら、もうおぼろげだ。
告白されて、付き合って、別れて。好意はとめどなく注がれて。断っても、幻滅されても、解放されず、美しい思い出にもならず。ただ月日が過ぎる。
欲望からは逃げられない。
俺はいつまでも素直になれない。

――本当に、きれいなお顔だわ。
――今日もすごくかっこいいね!

まるで呪いだ。
生きやすくて生きにくい、愚かな呪い。

――なんとなく思ってたけど、あんたってけっこう変だよな。

指がすべった。ぽん、と半音ほど高い黒鍵の音色が室内に満ちた。

――自分のしたいようにしねえと気が済まねえタチだろ。

かつてそう指摘した男の顔が、記憶の海に浮かんだ。凪いだ波の中、輝きを反射させた濡れた顔。
あの夜のほころんだ口、昨日の凍てついた眼も、影の形ごと鮮明に思い描けた。
青白く澄み、暗く陰り、妖しくも清らかな。そんな美しい、月のような。
逸る鼓動に、手が走った。
頭上で鐘が鳴った。とっさに鍵盤から身を離した。

「あ、時間……」

乾いた拍手のような足音が廊下のほうから聞こえた。誰かいたのだろうか。足音があるなら幽霊ではないはずだ。
正体不明の音と入り交じったピアノの音色が、儚く溶けた。
雨を弾く窓の調べが最後に残った。


衣替えを経て、長袖にカーディガンが定着し始めた学校で、制服以外の装いが多く見られる特殊な日がある。体育祭に並ぶ学校の大型イベント、文化祭当日だ。
縁日を催す俺のクラス、二年一組も、希望者は浴衣や甚平を着る。ちなみに女子は全員浴衣着用する。俺は希望しなかったので今日も変わらず制服なのだが、ホトリを筆頭に女子陣に頼みこまれ、縁日の当番のときだけ甚平を借りることになった。
一般客の会場入り直前、浴衣の帯に手間取っていた女子陣がようやく準備を整えた。全員で記念撮影をし、自然分解した流れで、ホトリが入口の飾り付けをする俺に小走りで近寄った。

「走ると危ないよ」
「満くんやさしい!」

でも大丈夫だよ、と満面の笑みで片足を軽く前に上げてみせた。赤のペディキュアが光る素足に、レンタルの下駄ではなく自前らしき厚底サンダルがぴったりはまっていた。

「美里たちと相談して下駄はやめたんだ。かわいいんだけどね、下駄。文化祭をまわるなら動きやすさを重視しようって決めたの。あとね、浴衣の着方とヘアメの研究もしたんだよ。それでも時間かかっちゃったけど」

小さな金魚を不規則に描いた白地の浴衣に、尾ひれのようにひらめかせた茶色い帯。
メイクはナチュラルに艶を際立たせ、トレードマークのツインテールは三つ編みにし、毛先をくりんと上向きにカーブさせていた。
縁日の雰囲気にこれ以上なくマッチした格好だ。

「ど、どうかな? あたし的にはうまくできたと思ってるんだけど……」
「うん、似合ってる」
「ほんと!? うう、うれしい……うれしい! がんばってよかった!」

彼女はその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。履き慣れたサンダルだから動きが軽快で俊敏だ。
子ウサギがタップダンスしたようなジャンプで起こった微小な風圧で、扉を全開にした入口の上に垂れ下げた、色とりどりの折り紙で作った輪つなぎがふらふらと踊った。

「写真撮ろうよ、ふたりで!」

手に抱えたスマホの内カメラに、俺を引き入れる。撮ったか撮っていないかわからずにいると、ころころとした笑い声が耳をくすぐった。動画だったらしい。何にツボったのか、笑いが止まらない彼女は、震えた手でカメラ機能に切り替えた。髪と同じように反り返ったまつ毛が、たびたび俺の顔を扇いだ。

「全身の写真もほしいよね。ねえ百田ぁ撮って!」

欲張りな彼女は、ヨーヨーを膨らまし終えて休憩していた百田をカメラマンに指名した。

「あ? 俺は高くつくぞ」
「そういうのいいから早くー」
「満と付き合ってっからって姫気分でいるなよ、目を覚ませ」

棒読みのツッコミはフルシカト。百田は文句を垂れながら渋々引き受けた。
制服でも甚平でもなく、ラグビーのユニフォームに身を包んだ姿は、間近で見るとなかなかに迫力がある。ちょっと歯向かっただけでひねりつぶされそうだ。まんまと怯んだホトリは俺の背に半身を隠して自制した。
百田自身は通常どおりラフで、テキトー。ホトリのスマホを借りてすぐ、頼まれた写真撮影をかけ声なく実行した。こだわりの多い女子が許せるクオリティーになったかは定かではない。
クレームが入る前にスマホは返却された。案の定、ホトリは眉をしかめた。

「ほらよ、ちゃんと撮ってやったんだから、お礼にラグビー部の出し物に顔出せよ」

文化祭の出し物は各クラス・部活・委員会があくまで主体的に運営するていで催される。やりたくなければやらなくてもいいが、祭りの空気感にそそのかされ、毎年全団体が参加表明を出す
ちなみに俺は部活にも委員会にも入っていないので、仕事はクラスの持ち回り当番のみだ。担当時間は夕方からラストまで。ホトリも同時間に組まれていた。作為を感じる。

「ラグビー部は何するんだ?」
「レッツトライ&ゴール! 俺ら部員から点を決められたら景品の菓子をゲットできるぜ」

百田はニヤリと口角を上げた。文化祭だからといってサービスする気はなさそうだ。

「おまえらは強制参加だからな。俺は正午まで当番だからそれまでに絶対来いよ」

何回も売上貢献を命じたあと、時計を一瞥し、あわててグラウンドにある持ち場に走っていった。
文化祭開始のアナウンスが流れた。中身のないポップスソングがかかり、校内が一気に活気づく。
彼女とともに過ごすフリータイムは、ひとまず校内を見てまわることにした。放送部による朗読劇を満喫し、体育祭実行委員による体育祭のときの写真展示をめぐり、ほどよく甘味補給をした。そのあとで満を持して百田の待つグラウンドに出た。

「おっせーよ! 道草食いすぎだっつの! もう俺の当番終わりそうなんだけど!?」

ラグビー用のH型のゴールポストが立った、グラウンドの一角。楕円形のボールを脇に抱えた百田が、新手の歓迎を示した。カフェバイトをしている身としては接客がなっていないと怒り返すべきだろうか。当然そんなだるい役回りをやる気はさらさらないが。
グラウンドは全体的に校内に比べて人がまばらだった。ラグビー部の反対側、南校舎側に用意された特設ライブステージすらもぬけの殻だった。
あのステージで正午から文化祭実行委員による目玉イベントが行われる。それに併せて校内から人が流れてくるだろう。
午前の売上がすずめの涙だったラグビー部は、運が悪かったとしか言いようがない。

「八つ当たりするなら帰るけどぉ?」

文化祭のムードになじみ、インパクトのあるユニフォーム姿に物怖じしなくなったホトリが、おもしろ半分に引き返すムーブを見せると、百田は声を張って引き止めた。

「いやいやせっかく来たのに帰んのはなしだろ! 強制参加つったろ! 遊んでけ!」

退屈すぎて焦りを募らせた次期エースは必死だ。

「やるよな? な? どっちからやる? かわいこぶんなら帆波が先か?」
「あたしはいいよ、見てる。浴衣、着崩れたらやだし」

俺は首をうしろに回した。

「みなさんはやりますか?」
「は? みなさん?」

実はうしろにいるのだ。俺のあとをついてきた一般客が、ラグビー部のエリアに大量に群がっている。
ストーキング行為をいくら注意しても聞かず、放置していたのだ。盗撮はしないように、彼女に迷惑をかけないようにと、先ほど――朗読劇と写真展示のあとに二度――釘を刺しておいたから大丈夫だと信じたい。
十割女子で構成された群衆は、きゃあっ! わあっ! とBGMよりも軽薄な発声をするだけでまともに返事をしない。それでも百田は急上昇した人気(ヒトケ)にころっと機嫌を直した。現金なやつだ。

「よーし、じゃあ満! 最初はおまえだ! かかってこい!」

ルールは簡単! という前置きから説明が始まった。
ゲーム時間は五分。ラグビーボールを奪われずにゴールラインまで持っていく「トライ」、もしくはボールを蹴ってゴールポストを超える「ドロップゴール」のどちらかが成立したら勝ち。ゲーム中に部員にボールを奪取されたり、時間内にゴールができなかったりしたら負け。
俺の相手は現在の当番、次期エースの百田に加え、現エースの部長が務める。サルでもわかる負け戦だ。
白線のゴールラインから十メートル離れた距離にあるスタートラインは、グラウンドの土に木の棒で引いただけの、即席にしても手軽すぎる手描きの一線だった。予算の少なさが透けて見える。

「満くん、がんばってね! 応援してる!」
「ああ、尽力するよ」
「百田は気をつけてね。満くんに傷ひとつつけちゃだめだよ」
「そっちの心配かよ。スポーツは何だって怪我しやすいだろ。無茶な約束させんな。まあ、けど、一応イベントだし、こいつもお客さんだし、俺も尽力してやるか」

俺はカーディガンの袖をまくった。ボールを受け取り、浅くへこんだスタートラインに靴先をそろえた。
巨大な肉壁が二枚、ゴールライン手前にそびえ立つ。

「準備はいいか?」

片手で丸を作ると、百田は意気揚々とホイッスルを鳴らした。ゲームスタートだ。
さて、勝つにはあのふたりを出し抜いてゴールを決めなければならないわけだが。ドロップゴールと呼ばれる、ボールを蹴ってゴールするやり方は、やめておいたほうがいいだろう。慣れない形のボールをゴールポストの限られた範囲にピンポイントで蹴り入れるなんて一朝一夕で成せる技ではない。
一か八か幸運を信じて蹴るより、五分間の猶予をフル活用し自力で運ぶほうが勝算はある。
俺は慎重にスタートラインから足を進めた。

「そんなひょろい体でどう俺たちを倒す?」

百田たちは余裕綽々と迎え撃つ。俺に合わせてじりじりと間合いを詰め、射程圏内に入った瞬間、合図もなしにふたり同時に襲いかかった。
そのとき、ふたりの間から光が射した。それに導かれるように、俺はその奇跡的に生まれた隙間をスライディングですり抜けた。

「なに!?」「しまった……っ!」

走るほどの距離もなく、ボールを持った体ごとあっさりゴールラインにたどり着いた。天高く昇った太陽が、白線の奥に置いたボールを照らした。

「満くんゴーーール!!」

笛の代わりにシャッター音が響いた。興奮気味にスマホを向けるホトリに、一般客が続く。盗撮禁止令はまだ現行のはずだが。
現役部員に勝てた快感が失せた。対照的に百田は全力で悔しがっている。

「くっそ! もやし体型を利用しやがって、姑息な」
「作戦勝ちと言ってくれよ」
「ずる賢いやつめ。ラグビー部に入部するなら早めにしな」
「バイト優先してるから遠慮する」

景品のお菓子を雑に手渡された。ハロウィン仕様のラッピングをされた詰め合わせの駄菓子だ。渡されてそのままホトリに受け流せば、子どものように喜ばれた。

「散々からかった俺が言うのもなんだけどさ、満、最近ちょっと太った?」

ホトリを筆頭に周りの女子たちが一様に殺気立った。百田は取り急ぎ訂正にかかる。

「あっ! いや! なんつうの? 健康になったっつうか? なっ、満! 最近はわりと食ってるほうよな?」

だから俺に勝てたのだと、言い訳がましい考えをほのめかしている。

「なに、帆波ママに何か言われた?」
「ママじゃないよ! 彼女だよ!」
「食事について俺に言ってきたのは、ホトリじゃなくて――」

カシャッ! カシャカシャカシャッ!
突然、シャッター音が劇的に増した。言葉尻を切り、いい加減注意しようと辺りを警戒した。しかし、近辺にいる人たちはすでにスマホを片付け、盗撮の証拠を隠滅していた。
大量の機械音は今もなお続いている。発生地は、遠くのライブステージだった。
いつの間にか正午を回り、イベントを始めたライブステージに人混みができていた。花火さながらにフラッシュの光が点滅している。
ラグビー部の待望の熱狂を軽々と上書きされ、百田は二重で敗者の気分を味わうはめになった。

「さあ、みなさんお待ちかね、告白大会のトップバッターをお呼びしましょう! ミスコンの覇者、矢澤(ヤザワ)せりなさんです!」

大歓声が空気を揺らした。
毎年恒例、生徒人気ナンバーワンの文化祭目玉イベント、告白大会。恋愛関係はもちろん、友人間のトラブルや家族に黙っていたこと、不特定多数への訴えなど、告白する内容はなんでもあり。一般客の飛び入り参加も歓迎している、非常にエンターテインメント性の高いイベントだ。
撮影も基本OK。堂々とシャッター音を鳴らしているのはそのためだ。なかには一眼レフカメラを持ってきている人もいた。
その大人気イベントにまず登壇したのは三年の女子だ。告白大会に並ぶ人気イベント・ミスミスターコンテストで二年連続グランプリになった人で、話題性は抜群。はじめのつかみとしては完璧だ。客は思惑どおりに盛り上がった。
今年も告白大会後に行われるミスコンに出場し、前人未到の三連覇を狙う。そんな謳い文句をつけられた当の本人は、満更でもなさそうに客に向かって手を振った。
司会者にアジアンビューティーと称された顔立ちに、胸下で外巻きにした亜麻色の髪。頭にはおもちゃのティアラ。
服装は本来緑のチェック柄のスカートのところを、今日はティアラに合わせてプリンセスらしく膨らんだチュールスカートに替えてコーディネートを組んでいた。

「そういえば満くんは今年のミスターコン出ないんだよね? どうして?」
「たしか去年はあのせりな先輩と並んで記念写真撮ってたよな」

昨年のミスターコンで俺はグランプリだった。当初出る予定はなかったが、そのとき付き合っていた彼女が勝手にSNSで俺の出場決定と応援コメントを公開し、取り返しがつかなくなり、やむを得ず参加したのだ。
今年もミスターコンへの出場を打診されたが、今の彼女はモラルがきちんとあり、正式に辞退できた。

「俺には彼女がいるから」
「だからミスターコン不参加だって? ダウト。去年もどうせいただろ」
「ホトリと文化祭を一緒にまわるって約束してたし」
「満くん……!」
「もうおまえらが告白大会出ろよ」

実は告白大会も、告白される側での参加依頼があった。それも恋人を口実に断った。

「学校のマドンナと名高いせりなさんが告白したい相手は誰なのか? みなさん、気になりますよね? 予想をちょっと聞いてみよう……って、え、ちょ! まだ登場は早……!」

進行を割りこみ、ステージ上によじ登ってきた人がいた。しかも、ステージ脇の階段を使わずに。
マイクが焦ったようにハウリングした。

「え、えーっと……あ、あらためまして、西校舎のお天道様、宍戸昇さんです!」

青一色の線が二本引かれた通常制服、そのポケットに両手を入れた姿勢でステージに立った宍戸昇に、観衆のテンションがまたひとつ跳ね上がった。

「うわあっ、豪華なふたり!」
「ん? せりな先輩って前にあいつにフラれたんじゃなかったっけ? 二回目の告白(チャレンジ)ってことか?」
「そうとう好きってことじゃん! かわいい先輩。純愛だよ」

彼が現れたのが意外だった。ガツンと頭を殴られたくらいの衝撃だった。
呼び出しであれば、どこでも、誰でも、応じるのか。
だが、この晴れやかな空の下、彼のおそろしく暗い顔が目に留まり、思い直した。いや、あれはイベントの主催者に泣いて頼まれた顔だ。
妙に胸がすいた。そして、ふっと違和感が湧いた。
あれ? 俺はいつから彼のことをよく理解できるようになったんだろう。彼は俺と同類で、感情の起伏が外に出にくい性格(タチ)なのに。

「ねえねえ、噂だとこのあと古典の糸田先生が、体育の剛力(ゴウリキ)先生に告白するらしいよ。あゆちゃんがチャットで教えてくれた」
「まじかよ! あそこ幼なじみらしいもんな。ついにか。めでてえ」
「気が早いよっ。まだ登場も告白もしてないのに」
「いやあそこは確だろ。なんなら恋人未満の関係を楽しんでた節がある。授業中に挟む地味な惚気がうざいのなんの」

時間差で百田の口から、くそうらやましい、と隠しきれなかった本音がこぼれた。

「あっちのふたりはどうかな。うまくいくかな」
「俺ならOK出すけど。あんな美人な先輩に二度も告られたらウハウハだろふつう。でも、あっちのモテ男はな~……ひと筋縄じゃいかなさそうだな」
「う~ん……噂を聞く感じ、ちょろくはないもんね。絆されてもくれなそう……」
「結果がわかっておもしろくねえな」

グラウンドの対極の位置にいながら、百田もホトリも、俺目当てで来た一般客も、イベントに釘付けになっていた。
ステージの音響を媒介に、告白タイムの甘ったるい曲が奏でられた。その裏では、百田の次の当番がラグビー部のゲームを回し始めた。

「宍戸くん、今日は来てくれてありがとう。何回もごめんね。いっぱい告られても困るのはわかってるけど……でも、あきらめられなかった。追う恋ははじめてだから、このまま終わってしまうのがいやで」

好きな人を前にしたその先輩は、三連覇を声高に宣言したときと打って変わってか弱く、ひかえめで、言動の節々から不安がにじみ出ていた。

「この場を借りてもう一度だけ伝えさせて。好き。あたしと付き合って」
「無理。じゃ」

間髪入れずに立ち去ろうとする宍戸昇に、近くにいるすべての人が待ったをかけた。

「ちょっと待って、お願い、待って。ちゃんと理由を聞かせて。言ってくれなきゃわかんないよ。あたしのどこが無理? 直すよ、あたし。こう見えて好きな人に染まるタイプなの。だから」
「知らねえよ」

目もくれずに一刀両断。けれど、ステージ上に居続けるところに根の真面目さが表れている。
そんな彼に惹かれたのだろう、ティアラをかぶった彼女はまぶしそうにほころんだ。

「付き合ってから知っていけばいいんだよ」

――わからないままでいるの、損してる気分にならないか。
――別に、得でもねえし。

損得ではない。単なる欲だ。
純粋に見せかけたエゴイストが、幸せを求めて追う行為。それが、恋。そんなものがずっと美しくあれるわけがないのだ。

「あたしのこと知ってほしい。あたしの性格とか趣味とか、どれだけ宍戸くんを好きかとか、まだ全然知らないでしょ? 付き合いながら少しずつ知らないことをなくして、親しくなっていきたい。そうしたらいつか本当の恋人になれる。そんな始まりの恋もすてきだと思わない?」

先輩らしく諭すような言い分。観衆はうっとりと聞き入った。俺のすぐ横からも、わかる、わかるよ先輩! と共感の声がする。
宍戸昇はおもむろに首を振り向かせた。頑丈な骨組みで形成された立派な顔立ちに、ぴくりと歪みが生じた。その微弱な変動を察知できたのはきっと俺だけだった。
俺だけが、息を止めていた。

「興味ねえやつのこと、わざわざ知りてえと思わねえ」

彼の視線がつと移ろった。照りつける陽光を切りつけるような流し目は、ラグビーのゴールポストをかまえた対極側に着地した。

「あくまで俺はな」

見られている、ポストのそばにいる俺を。
顔の中心を的確に射止められた感覚が、たしかにあった。
後方で出し物のゲームをしていたラグビー部が試合終了の笛を鳴らした。
軸足を突き動かされた。一歩前に出た右の足は、彼のいるライブステージを向いていた。

「後悔するよ!」

俺は我に返った。

「あたしの告白を受けなかったこと、絶対後悔する日が来るよ!」

マイクで拡張された、キンと高まる声に、頭痛が生じた。

「もうしてる」

吐き捨てるように彼はつぶやいた。近距離で見つめる彼女は、期待と驚きで目を開いた。

「こんなとこ、来るんじゃなかった」

彼女は反動で泣き出した。このあとのミスコンに支障が出る荒れ方だ。
ささくれた感情が観衆にみるみる伝染した。司会者は困り果てている。
触れたら斬られそうなほど尖った彼は、一切顧みず、ステージをひと息で飛び降りた。イベント前に文化祭実行委員につけられたのであろうピンマイクを、着地した近くにいた誰かに押しつけ、その場を離れた。ステージ周りの雑踏は彼を避け、南校舎までの一本道をつくった。司会者の仕切り直しのひと声でその道は塞がった。
彼が南校舎に入ったかは見えなかった。
陽射しが強まる。焦げつく目元に手を当て、うつむいた。地面に寝そべる影は青黒く濁っていた。


「見応えあったね、告白大会。最初はどうなることかと思ったけど、最後の糸田先生と剛力先生がハッピーエンドでよかった! 一生そばにいてくださいって、ほぼプロポーズだったよね!」

東校舎の昇降口で靴を履き替えながら、ホトリは嬉々として語る。グラウンドからここまでの道中で、同じような感想を三回は聞いた。
百田も途中まで一緒にいたのだが、ひと足先に中に入っていった。ユニフォームから甚平に早着替えしてクラスの当番を務めに行くのだ。俺とホトリの当番はさらにそのあと、百田と交代で入る予定だ。

「ねえ聞いてる? 満くん」
「うん、聞いてるよ」
「ほんとかなあ?」

足裏に伝わる感触が変わり、地面が近くなったふうな気がした。どうも不愉快で、疲れがたまっているのを実感した。遠くのライブステージに目と耳を酷使したせいかもしれない。
今ごろミスターミスコンテストの真っ最中だろうが抜けてきて正解だった。宍戸昇も不参加だったし。

「じゃあ満くんは何が楽しかった?」
「……告白大会前」

思い返して出てきた回答に、俺自身がすぐに意図を理解できなかった。
反対に、聞き手は納得の笑みを向けてきた。

「あー、ラグビー部のゲーム? あたしも観てて楽しかった! 百田と部長さんに勝っちゃうなんてほんとにすごい! 満くん、かっこよかった! ゴールを決めたときの写真あとで送るね!」

ちがう、そうじゃない。
そう直感したけれど、それなら何が正解なのか、上手に説明できる自信がなく、結局沈黙してしまった。
頭が重い。自分が思っている以上に疲れている。

「もっといろんなところ見てまわりたかったけど……」

彼女のテンションがいきなり落ちた。クラスでの縁日の前に、所属する美化委員会で校内清掃の任務があるからだ。時間はこのあと十五分後、集合場所はこの昇降口だ。

「あーあ、ずっとデートしたいのに……」

十五分、微妙な時間だ。どこか行くにしても充分に過ごせない。かといってじっとしているのはもったいない。妥協案として校内清掃の時間になるまで一階のフロアを散歩することになった。

「最後にさ……手、つないでもいい?」

彼女は駄菓子の詰め合わせを右手に抱え、空けた左手を差し出した。

「いいよ」

俺は右手を重ねた。手のひら同士をくっつけ、指で固定する。意識的に力を抜くと、彼女の手がぐっとしがみついてきた。
彼女のペースに寄り添って廊下を歩いた。
彼女の手は震えていた。浮ついた目に見られている意識が震えを悪化させた。
やわく、小さく、繊細で、少し力をこめただけで折れてしまいそうなか弱い女の子。

彼女はだめだ。ふとそう思い至った。

俺といたら壊れかねない。
傷つけたくはない。俺は、幸か不幸か、他人(ヒト)を安易に脅かす化け物ではないから。暴力的なまでに愛されてしまった、ただの人だから。
俺が触れてもいいのは、触れたいと思えるのは、別にいる。
けっして傷つかない人。厚く、硬く、たくましく、かえって俺がやり返されてしまいそうな。そんな、俺の根深い欲望に耐えられる強い人が、いる。

「おんぎゃあああっ!!!」

どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえ、廊下がざわついた。俺は足を止め、つないだ手をほどいた。
廊下の奥、南校舎のエリアに、赤ん坊をあやす母親がいた。
展示系の出し物をまとめられた南校舎は、いつもとちがって人の往来が盛んだ。気配の多さに落ち着かなくなる赤ん坊の気持ちがわかる。
そのような場所に宍戸昇が好んで逃げこむとは思えない。
今日、旧音楽室に彼はいない。会うことは叶わない。
ああ、そうか。ぼんやりとした意識に晴れ間が覗いた。

俺は彼に会いたいのか。

「あ、満くん、赤ちゃん泣き止んだみたい。よかったね」

母親の腕に抱かれ、赤ん坊は眠りにつく。昼下がりの廊下に安らぎがもたらされた。


文化祭閉幕のアナウンスが校内を駆け抜けた。俺が当番を代わってから行列が続いた縁日の催しから一般客が退場した。別の学年・クラスの生徒で列に並んでいた人に関しては、クラスの総意でイベントの時間外で接客した。完全に店じまいしたのはアナウンスから三十分が過ぎたころだった。
浴衣や甚平から制服に着替えてから撤去作業に入った。繁盛したおかげで景品類はすべて出払ったので、準備ほどに作業時間を要さなかった。ヨーヨー釣り、射的、くじ引きと屋台風に並んだ外観をたたむと、ほぼ日常風景も同然。ビニールプールや配置の異なる机がかえって異物に感じてくる。
机と椅子を教室らしく復元した。達成感よりも非日常の終わりを寂しがる人が多かった。体育祭に続き文化祭も終わってしまったら、今年度はもう現実逃避できるイベントはない。まだ遊び足りない、思い出をもっと作りたいと、クラスメイトはみんなたそがれた。
その要望に応えるように後夜祭の知らせが放送された。
後夜祭は、いわば学校を挙げての文化祭の打ち上げだ。告白大会やミスミスターコンテストを実施したグラウンドの特設ライブステージに全校生徒を集めて行われる。出し物を分野ごとにランク付けした表彰式、有志によるパフォーマンス披露、締めには花火が打ち上がる。
クラスメイトは颯爽と教室を飛び出した。こういうとき一番に声を上げそうな百田は、ラグビー部のほうの片付けがあり、すでにグラウンドにいる。

「満くん、後夜祭行こっ!」

先に帰り支度を済ませていた俺を、ホトリが呼びに来た。制服に着替えてはいるが、靴はサンダルのままだった。

「えっ……まさか、バイトがあるから後夜祭サボるとか言わないよね?」
「荷物をしまってたんだよ」
「そ、そっか。ならよかった。満くんと後夜祭を過ごせないのかと思った」

彼女は大げさなほど胸を撫で下ろした。
レンタルした浴衣と甚平が集められた教卓に、俺の借りた分を重ね置いた。

「今年の後夜祭、何すると思う? 去年は軽音部、チア部、コーラス部、新体操部がパフォーマンスしてたよね。あっ、あと、ミスミスターコン出場者のパレードもあったね。なつかしいなあ」

水と空気を抜いたビニールプール、割り箸で作った射的、空になったくじの箱。余韻の残骸が角に置き去りにされた教室。気づけば人の形はふたつだけになった。

「今年も絶対楽しくなる! だって満くんが隣にいるんだもん!」

徐々に薄くなるふたりの影は、恋人らしく触れ合っていた。俺はとっさに距離を取った。

「ごめんホトリ」

窓の向こう、赤と青がせめぎ合う夕闇に、紫の毒が立ちのぼる。

「ごめん、別れよう」
「え……え?」

毒が回ったように、彼女は楽しい夢を思い描いた表情もろとも崩れ落ちた。反射でやわな腕が教卓につかみかかった。きれいに折りたたまれた浴衣にしわが寄った。真っ赤な出目金が一匹、山からはみ出した。

「ど、どうして……? あたし今日何かしちゃった?」

立っているのがやっとの状態だろうに、彼女はちゃんと俺と向き合ってくれた。
俺は静かに首を振り、重ねて謝罪した。

「じゃあどうして? あたしの気持ち、伝わらなかった?」
「十分伝わった。ありがとう」

別れ話は過去に幾度となく経験してきた。する側も、される側も。感情は常に無に等しく、記憶にも残らない。俺にとってこの先も続くループの一節でしかなかった。
だけど今はじめて緊張している。
永遠に思われたループとも、ついに別れのときが来たのだ。

「俺、好きな人ができたんだ」

また最低だと罵られる覚悟はできている。
教卓にもたれかけていた重心をゆっくりと起こした彼女は、こぶしを握りしめた。俺はビンタをしやすいように右頬を差し向けた。

「わかった」

ところが彼女はすんなりと了承した。

「わかったの?」
「うん。だって、みつ、あ、いや、大上くんが、好きな人がいるって言って断ったの、これがはじめてでしょ?」

情報通なめないでよね、と彼女は無理に笑顔をつくった。
事実、今まで嘘でも言ったことがないセリフだった。
好きな人。俗世で多用される表現だが、心の中はもっと複雑だ。
会いたい人。添い遂げたい人。手中に収めたい人。俺だけが見ていたい人。
そうした欲望を集約し、簡略化した言葉がきっと「好きな人」になるのかもしれない。

「好きな人が幸せなら、あたしも幸せ。そう思いたい。思える自分でいたい。だから……わかった。別れてあげる」

引きつった口角の上を、ぽろぽろと雫が滴った。彼女は急いで顔を背け、手の甲で雫を拭い取り、乾いた笑顔をまた俺に向けた。今日のメイクは薄付きで、多少の土砂被害があっても変わらずかわいらしかった。

「ただし条件がある! 大上くん、好きな人にちゃんと想いを伝えること。絶対だよ! わかった?」
「ああ、わかった」

今も震える彼女の小指に、自分のを交わした。

「指切りげんまん、嘘ついたら、今日撮った写真を全世界に発信しーます、指切った!」

抜かりなく俺がいやがりそうな罰に言い換えた彼女は、してやったりな顔をして小指を離した。水晶のようなネイルが先行きを照らした。
あらためて感謝を伝えると、みるみる困り眉になった。前髪を整えるふりをして隠し、開いた扉のほうに小走りで向かった。

「しばらく百田にネタにされちゃうだろうなあ」

冗談めかしてひとりごち、教室を一歩で出た。外でひしめく陽気な雑音が、廊下に貫通していた。

「後夜祭は先に行ってるね」

不規則なテンポで足音が遠のいた。
俺は教卓の上の浴衣と甚平をたたみ直してから教室を離れた。廊下だけでなく昇降口までもがらんとしていた。後夜祭を開催したグラウンドに人口密度が偏っている証拠だ。
スニーカーにかかとを押しこみ、東校舎から身を出した。空はふやけた紫色に浸食されていた。夜は夜でも、子どもがひとりでも帰れる明るさだった。多くの星はまだ隠れて遊んでいる。
人の気配がして視線を下ろすと、向かいの西校舎にちょうど人が出現した。宍戸昇だ。金茶の頭と日本人離れした体の等身が存在感を強調していた。彼ならどこにいても見つけられる気がした。
肩にカバンをかけた彼は、首を反らすようにして俺の周囲をうかがった。俺ひとりだとわかると、何も言わずに俺をじっと見据えた。
切れ長の瞳は、氷が溶けるように丸みを帯びていく。今、目の前にいるのは、まぎれもなくあどけない年下の少年だった。
行くな、と念じた。どこかに行ってしまうな、と。
手のひらに痛みが走った。おそるおそる手の内を確かめてみると、爪の跡がくっきりとついていた。
自分の欲深さを思い知った。
だから彼の瞳も深い色をして見えるのだろうか。東西それぞれの校舎の入口に立つ俺たちでは到底認識できるはずのない瞳孔の色が、ふしぎとイメージできたのだ。空が更けるにつれ浮き上がる月光のように。
それほど俺は今まで彼を見ていたのだろうか。
見ていたのだろうな。無意識のうちに。何度も。何秒も。
手のひらをさすり、再度顔を上げた。西校舎前に彼の姿がなかった。彼は校門の方向に歩いていた。葉を赤く色づけた桜の木によそ見し、ペースを落としながらも、悪びれる様子もなく校門を抜けた。
あとを追おうかしばらく迷った末、やめておいた。俺はまだ帰らない。後夜祭に参加するよりもまずやることができた。


文化祭の代休が明け、ありふれた平日。彩りの乏しい校舎は、やけにため息が多く降る。祭りばやしはもう聴こえず、代わりにチャイムが打たれた。
昼休みになり、英気を養おうと周りは一様に昼食の用意に動き出す。俺は今朝通学路に建つコンビニで買っておいたシーチキンとサラダをカバンから出すことなく席を立った。

「お? 満、また呼び出しか」
「いってらっしゃい! がんばってね!」
「帆波が笑顔で送り出せるとは、この数日で成長したな。文化祭デートで自信ついたか」

百田の考察は、爽快な声色で否定された。

「自信とか関係ないよ。だって、あたし、もう彼女じゃないもん」
「わお」

教室中がざわめいた。

「別れたのか。目標は半年っつってなかったか?」
「たぶんね、あたし、最初から彼女になれてなかったんだと思う」
「今日は愚痴大会? ポエム大会? それとも告白大会カムバックで、おまえも二回目の告白するか?」
「百田は聞き役も司会者も向いてないから却下。美里たちに話してくる」
「はあ? 人の親切を無下にしやがってこんにゃろ。だからフラれるんだぜ」
「あーっ! 傷口に塩を塗ったー! 誰かこいつをとっちめてー!」

元気がありあまった口喧嘩に背中を押され、俺は目的地に向かった。
ところどころ黄ぐすみした南校舎の二階、ひときわ劣化した扉で封じられた旧音楽室。今や恋バナによく登場する定番スポットだが、ここで噂話がささやかれることはない。自分の息づかいだけが耳をくすぐる。
すきま風が足元をくぐった。ひやりとした冷たさで、冬の兆しを覚えた。
扉を開けた先に、空の椅子があった。他の椅子にも、誰の影もない。
俺ひとり。何をしても許される。いや、許可なんていらない。自由な世界だ。
いつも座っている、大量の机側にある椅子には座らなかった。一番に視界に飛びこんだ、窓際で孤独に寒さに耐えるその椅子を、今日はあえて選んだ。一度ここに座ってみたかったのだ。ここから展望できる景色を知りたかった。彼の世界に、触れてみたかった。
水っぽい空。縮れた雲。白とも黒とも言い切れない翼を広げたハト。まばらに敷かれた落ち葉。
どれもたいしたことはなかった。俺は何よりも美しいものをすでに知っている。

完全に閉めておいた扉が、鈍い音を立ててどかされた。こもった空気が放たれていく。
目鼻立ちを強調する光と影が芸術的な、格好のいい男と相対した。ジャケットの胸にくくりつけられた「宍戸昇」の名札がきらりと輝いた。
彼はまず机が押しこまれた前方に目を向けた。数拍の間を置き、扉の正面を見返した。自分の定位置に俺が座っている現実をしかと捉えると、ずかずかと俺に詰め寄った。

「なあ、これ書いたのあんた?」

窓枠に左手を置き、俺の眼前に右手を出した。封筒に見立てた折り方をした真っ白なルーズリーフが親指と人差し指で支えられていた。
宍戸昇さまへ。
折りこみが見えない表面に添えられた宛名は、まさしく俺の字だ。裏にもちゃんと差出人、すなわち俺の名前を明記してある。
中には一文だけ。――昼休み、いつもの場所で待ってる。

「本気か?」

疑いの目に、胸が締めつけられる思いだった。でも仕方ない。逆の立場なら俺も信じられなかっただろう。

「こういういたずらするタイプだったのか」
「まさか。本気だよ」

いたずらでこんな手間のかかることはしない。奇跡的な確率で起こるダブルブッキングでもない。俺が仕掛けた、故意の出会い。その手紙は俺から彼への、正真正銘のラブレターだ。
先日の後夜祭の最中、誰もいないのをいいことに彼の下駄箱に投じたのだ。クラスがわからなかったから下駄箱で名前を探し回った。自転車の鍵を探したあの夜より苦労した。
靴の汚れか、インクがしみたか、ルーズリーフは少し汚れていた。

「あんた彼女いんじゃん」
「別れた」
「は?」
「君への気持ちを自覚して、別れたよ」

別れる時の条件だった告白。だけど、わざわざ指切りをしなくても、するつもりだった。
今さらこの欲望を見て見ぬふりはできない。

「俺は君に惹かれてる」

真上から下がる青色のネクタイを軽く引き寄せた。ろうそくの灯火のように揺れたパーマの髪が、俺の視界を囲った。

「君の手綱を引くのは俺がいいと思うくらいに」

言った。言ってしまった。
とたんに口の中がこそばゆくなり、つい笑いが漏れた。

「なんで笑う? やっぱいたずら?」
「いや……やっぱり、君の前だと俺は存外素直になれるんだなと思って」

正直、この告白がうまくいく自信はない。それでよかった。いや、本心ではよく思っていないが、いいのだ。
ありのままの言葉で好きだと伝えたかった。
欲望を少しだけでも吐き出してみたかった。
それが叶っただけで、俺は。

「変な先輩」

満たされつつあった心が、不意に波打った。
笑いで震えた顎を、手紙を持った手ですくい上げられ、山の尖った唇が俺の息を奪った。
判を押すように触れた熱は、一瞬にして染みこんだ。

「いいよ」
「え?」
「満先輩なら、いい。好きにしろよ」

額と額がこつんと当たった。体温をなじませるようにぐりぐりとこすりつけられた。

「俺も気になる。満先輩が俺をどうすんのか」

くぐもった声に、欲望がかき立てられる。脈がぐんと跳ねたのがわかった。

「なんか気になるんだよ」

彼はほんのわずかに首を起こした。高く上がった鼻筋に自然光がすべった。
目が離せない。ネクタイをつかむ手が熱くなる。

「教えろよ、全部」

強まる陽射しを遮る雲影が、俺たちの存在にヴェールをかける。
ネクタイから首根にかけてなぞるようにして俺は手を移動させた。太い首のうしろを手のひらで覆うと、力を加えずとも彼の顔が近づいた。ほほえみを乗せた表情がクリアに見えた。

「昇」

薄く開かれた唇を、そっとついばんだ。
三日月の瞳に俺だけが映っていた。


end