化けた月


バイト漬けだった夏休みが明けた。家とバイトの往復でも少し肌が焼けた。海沿いを自転車でよく走ったからかもしれない。海沿いを行くのは遠回りではあるけれど、運動不足になりがちな長期休みにはちょうどいい習慣だった。それ以外にも海沿いを選んだ理由は、一応あるにはあるが。鍵を探した例の自転車はいつの間にかなくなっていた。
クリーニングに出していた制服に、約一か月半ぶりに袖をとおした。しみやしわがひとつもない半袖シャツは生まれたてのような白さで、自分ではそれほどではないと思っていた日焼け具合を顕著に表した。一方で、履き心地が硬くなったズボンのサイドラインは、夏休み前よりも褪せて見えた。晴れた朝の海は比にならないほどまぶしく、今もなお余韻があった。
耳が隠れるほど伸びた黒髪を毛流れに沿って梳き、母の日焼け止めクリームを借り、家を出た。
徒歩でも自転車でもよかったが、休み中の習慣と今日の天気から自転車を選んだ。通学路を走るだけで、すれちがう同じ制服の女子たちからキャーキャー騒がられた。これにはひさしぶり感はない。カフェの接客中もずっとこうだった。

学校の正門をとおり、駐輪場に自転車を停めた。夏休みの課題でかさばった、校章入りのスクールバッグを肩にかけ、東校舎まで歩いた。
休み明けだからか、遠巻きにいる女子の人数が多い気がした。盗撮はしていなさそうなので素通りし、昇降口に入った。下駄箱の角で、制服と同様に新品同然まできれいにしてきた上履きをカバンから取り出した。履いてきたスニーカーは、俺の学年クラス番号が記された下駄箱の一マスに収納しようと扉を開けた。すると、バサァーッ! と休み前に空っぽにしてきたはずの中から何かが雪崩れた。すのこの上に落下したのは大量の手紙だった。封筒の有無、色、形も様々だが、ハートマークをどこかにあしらったものが多く見受けられた。周りをちらりと見回してみる。何人かの女子と目が合った。黄色い声もちらほらと生じた。なるほど、遠巻きにいる人数がいつも以上にいるのはこれのためか。
長期休みのあとは告白ラッシュが起きやすい。この現象は去年も発生した。夏休み中に期待がふくらむのか、再会でテンションが盛り上がるのか。詳しい発生理由は俺にはわからない。それにしても今回はすさまじい量だ。現在交際中のヤヨイさんがSNSをまったくやらない人だから休み中に浮ついた噂が立たず、俺が今フリーだと勘違いしてしまっているせいもあるかもしれない。
足元に散らばるラブレターをひとつ残らず拾い集めながら、それぞれにお断りの返事をするのは骨が折れるなと思った。下駄箱の中にぎっしり詰まった手紙の束もすべてカバンに入れ、空いたスペースにスニーカーをしまった。
ぱんぱんに膨れたカバンを携えて移動した2-1の教室でも、俺の机にだけラブレターや手土産の山ができていた。

「よーよー、おいでになったか満さま。どうするよ、このバカでか簡易宮殿」

俺の前の席で百田が仰々しく待ちかまえていた。俺の机にバランスゲームよろしく積み上げられた献上品を高みの見物し、おまえにこれを崩せるか? と二学期最初のいじりをかましてくる。すでに雪崩に巻きこまれたあとだと伝えると、見るからに興醒めした。

「はーあ、おまえのモテ期は終わりが見えねえな。夏休みと大違いだ」

いかにも夏休みを惜しんでいるセリフだが、きっと休みという休みはなく、ラグビーの試合や練習に明け暮れる日々だっただろう。バイト三昧だった俺と大差ない。もちろん互いにあげられる土産話も品もない。

「おはよーう大上くん、百田。ひさしぶりー! ふたりとも焼けたね?」

隣の席に毛むくじゃらの暑苦しいキャラクターのキーホルダーをつけたカバンが置かれた。螺旋を描くツインテールが視界に入る。元気100%の笑顔を向ける帆波に、俺と百田は低血圧な挨拶を返した。

「帆波は逆に白くなってね? なに、そういう妖怪?」
「努力の賜物ですぅ」

帆波の手には折りたたみ式の日傘があった。
仕事は常に屋内だった俺とは対照的に、屋外の活動が多いラグビー部の百田はこんがりと日焼けし、坊主頭から深爪の中まで褐色に上塗りされた。視覚情報で暑さが増す。彼に言わせれば、俺は焼けたうちに入らないという。
教室ごとに設置された比較的新しめのエアコンは、節電のため生ぬるい風しか出さない。教室は好意の熱も相まって蒸し蒸しした。
九月になっても、夏の気候はもうしばらく続く。
俺はシャツを第二ボタンまで開けた。

「はい、ふたりにお土産。軽井沢に旅行したときの」

日傘をカバンに差しこんだ帆波は、手首に提げていた同じロゴの入った紙袋ふたつを両手にそれぞれ持ち直し、俺と百田に差し出した。
百田は俺の分をチラ見した。俺のほうがひと回り大きな袋だった。

「また増築されるな、乙女宮殿」

やれやれと言わんばかりに首を振り、遅れて礼を告げて自分の分の土産を受け取った。早速中身を覗き、食いもんだラッキーと頬をゆるめた。

「乙女宮殿? 何のこと? 新しい観光地?」
「このでっけえタワーのこと。おまえのもこの一部になるよ。よかったな」
「え、何これすごっ。今日ってバレンタインだっけ?」
「バレンタインはこの程度じゃ済まねえよ。ダンボール箱が一、二……いや、四は必要だね」

大部分が紙でできた脆弱な宮殿を上から丁寧に取り壊した。ラブレターだけでカバンはいっぱいになった。

「休み前よりも持ち帰るもの多くなるな」

量が量だからか、百田もさすがに同情していた。

「でもカフェのときよりましじゃね? よぉ知らん人の差し入れより、同じ学校の生徒(もん)だと証明されてるやつからのほうが断然安心感あるだろ」
「そんなことないよ」

どちらもたいして変わらない。俺にとってはみんな他人だ。俺への好意も、何が入っているかわからない危険性も、平等にある。
俺の返答に何を勘違いしたのか、帆波は俺のことをやさしいと評した。

「ていうか百田って大上くんのバイト先に行ったことあるんだ?」
「部活帰りに数回な。ちゃんと満にサービスしてもらったぜ」
「えー! ずるーい! あたし、行ったこともなければサービスしてもらったこともない!」
「行ったことねえならサービスもあるわけねえだろアホ」

サービスと言ってもただ接客しただけだ。俺のおすすめメニューを教え、店長のご厚意でライス大盛りとスムージージュースセットを無料で振舞ってもらい、退店時に次回ドリンク半額のクーポンを渡した。ただそれだけ。

「帆波のことだからてっきり通い倒してると思ってたけどそうでもねえんだな」
「だ、だって……さすがにバイト先に詰めかけるのは、お、重いかなあって」
「は? 俺のこと遠回しに悪く言ってる?」
「やめてよ被害妄想。これはあたしの価値観の話で」
「意味わかんねえ。おまえ、満に対してずっと重いじゃん。大丈夫だよ。今さら隠すもんじゃねえ」
「えっ、嘘」
「ほんと。なあ、満」
「俺はふたりに重いも軽いも感じたことないよ」
「そ、そうだよね! 百田の感覚がおかしいんだよね!」
「いやいや、そこはちがいをわかっとけよ満。苦労すんぞ」

ラブレターをすべて回収し、次は物品類をまとめた。宮殿の背景を担う、花々のイラストがかわいらしい大きな紙袋に入れるだけ入れた。入りきらなかった分は、次に大きそうなビニール袋に詰めた。せっかくいただいたものがつぶれてしまわないよう細心の注意を払った。

「今日の放課後はバイトある? あるなら、あゆちゃんとかひとちんとか誘って行ってみようかな」
「いや、今日は」
「あ、デートか?」

百田が食い気味に言い当てた。
今何日目かと聞かれ、瞬時に脳内で計算し、たぶん一ヶ月くらいと答えた。記念日を重視しない人間がモテている事実に、百田はへそを曲げた。

「彼女、いるんだね。どんな人?」
「ちらっと見ただけだけど、なんかオーラすごかったわ。お麗しいお嬢さまって感じ。絶対金持ちだぜ」
「お嬢さまかあ……。大上くんから見てもその人きれい?」
「そうだね」

きれいかきれいでないかで言えばきれいだろう。俺は正しくうなずいた。
けれど、心に残る人は、ただひとり。夜の海の中、月光に包まれた男。あの強く儚い姿が今でも忘れられない。

「そっかあ。いいなあ。あたしもきれいになりたい」
「俺もモテてーなー。宮殿級はごめんだけど。ま、部活がんばるかー」
「努力あるのみだね」
「遺伝子に勝とうぜ」

始業式が始まる。どうにかすっきりさせた机にカバンを置き、ふたりとともに体育館に移動した。


大量のラブレターをまとめる際、封に入っていないものの中に「今日の昼休み、南校舎二階旧音楽室で」という文章をいくつか見かけた。視認したのは両手で足りる数だが、おそらく他にもまだあるだろう。昼休みではなく放課後、旧音楽室ではなく屋上など、時間と場所の指定を変えたものを含めれば、数は倍になるにちがいない。さすがにすべてを確認するには時間が足りないので、把握できている「今日の昼休み、南校舎二階旧音楽室で」にのみ応えることにした。
始業式の日でもおかまいなしに通常授業が行われ、休みボケが一掃された昼休み。二学期初日から日直の仕事に追われた百田を教室に置き去りにして校舎を移った。
こころなしかほこりっぽさが増した南校舎は相変わらず閑古鳥が鳴いている。定番の告白スポットが一箇所にできたにしては栄え出す兆候がまったく見受けられない。用事がないと来ないし、その用事というのが今では告白か備品整理くらいしかないせいだ。
歩いたところからほこりがきらきらと舞った。久方ぶりの来訪者を喜び、躍っているようだ。
一番乗りした旧音楽室は、まるで夏休みなど存在しなかったかのように椅子の置き場ひとつ変わっていなかった。学校側は撤収させる気がないらしい。グランドピアノの周りにできた日光のたまり場が、廃墟然とした汚さを緩和させていた。

さて、これからここに何人来るだろう。終わりが見えない。始まりすらわからない。昼休みはずっとここで過ごすしかなさそうだ。
ここにいること自体は嫌々ではない。勇気を出してラブレターをくれた相手への必要最低限の敬意は、こう見えてちゃんと持っている。それに、普段常に注目の的である俺にとって、告白以外にほぼ人が寄り付かない旧音楽室は隠れ家のようで落ち着くのだ。
いっそ全員一度に来てくれたら、返事も一度で済むし、残り時間はゆっくり休めるのに。
ポケットに収納していたスマホが振動した。見てみると、ヤヨイさんから放課後のデートについての連絡だった。やっぱりひと休みできないみたいだ。
返信するが先か、ガガッ、とレールを引っかくようにして扉がスライドされた。その開け方からして誰が来たのかすぐにぴんときた。
と同時に、先ほどまで考えをめぐらせていた旧音楽室での過ごし方を反すうし、はたと気づいた。
彫りの深い美形をいざ目の当たりにし、

「あ」

声が漏れた。

「なに」
「いや」

そういえば、俺はさっきまで、ひとりでここに居残るイメージをまったくしていなかった。
この箱庭は孤独ではない。彼が、宍戸昇が、ともにいる。あの窓際に孤立した指定席に彼がいる絵面を、信じて疑わなかった。
らしくない考えだ。なぜそう思い込んだのか自分でもよくわからない。
胸のあたりがとたんに震え出した。違和感も不快感も働かず、さらに困惑した。

「あんた、今日はいちだんと変だな。夏休み明けだからか?」

入口付近で立ち止まっている俺に肩をぶつけて通り過ぎた彼は、ゆったりとした足取りで定位置に着席した。遅れて俺も、机のバリケードに背面を隣接した、部屋の真ん中にある一脚の椅子に腰掛けた。
彼の手にはめずらしくコンビニの袋があった。中に大量の手紙が透けて見えた。ビニール製で耐久性の乏しい袋は、今にも手持ちが破けそうだった。その満杯な見た目は、いつかの夏夜の海で砂まみれになった、俺への好意と善意であふれかえった袋と瓜ふたつだった。

「あのあと大丈夫だったか」
「あのあと?」
「鍵探しのあと。風邪、引かなかったか」
「いつの話してんの」

あれは夏休みが始まって間もないころだった。つまりもう一ヶ月ほど前になる。
今さらな話であることはわかっているが、彼と連絡を取れる手段がなかったのだから仕方ない。
これでも一応気にしていたのだ。結局俺は症状悪化に加担してしまったのではないか。それこそ入院するくらい重症だったらどうしようかと。海沿いを通勤ルートに入れるほど心配だった。元気な姿をひと目見たかった。

「とっくに完治した」

頭から海水にまみれた姿が、記憶の引き出しから水飛沫を上げて飛び出した。
約一ヶ月もの時間が経過し、あの日は過去になった。けれど記憶の中の彼はいつまでも更新されない。会っていなかったのだから当然だ。潮の匂い、波をかき分ける音、冷ややかに濡れた質感。すべて昨日のことのように鮮明に憶えている。昨日の今日で完治したと言われてもにわかには受け止められない。
水も滴るいい男、というフレーズがあるが、全身滴っていたら良し悪し以前に心配が勝る。いい男であることは間違いではないのだが。

「なに、疑ってんの」

無言の俺に、彼は前屈みになり問いかけた。その声は低いがかすれておらず、喉を痛めているふうには聞こえない。
完治したという言葉を信じるなら、一度はしっかり体調不良になったということだ。罪悪感が募った。一応彼の先輩だという立場がなおさら良心を痛めた。

「じゃあ自分で確かめてみろよ」

彼は息を吐きながら胸を開いた。全身脱力し、胴体は低い背もたれに沈み、露出の少ない手足は大の字に広がった。
いつになく開けっぴろげな態度に虚を突かれ、俺はしばし目を疑った。警戒心はどこへやったんだ。雰囲気がずいぶんとやわらかくなっている。夏休みを経たからだろうか。いや、病み上がりだからではないか。俺はためらいつつも彼に近寄った。
左右に伸びた青線の間に身を据えた。彼は伏し目がちに俺を見上げる。
彼の手ぶらな左腕をいきなりつかみあげた。それでもその身体からトゲは出ず、俺を許容し続ける。
骨太な手首を左手で支え、右手の人差し指と中指と薬指で脈を測った。人形でお医者さんごっこしているみたいでだんだん気恥ずかしくなってきた俺を落ち着かせるように、トク、トク、トク、と一定のリズムが指の平を打った。
彼の首が傾いた。瞼がわずかに上がり、唇がつんと前に出た。もう満足か、と呆れている。いいや、まだだ。まだ安心材料がほしくて、その角度をつけた顔の輪郭を両手で包み、持ち上げた。
陽射しの熱をほのかにまとった顔は、艶のある白さだった。しいて言うと赤みの少ない頬は、やすりをかけたようになめらかで、手のひらに心地よくフィットする。
親指で頬をひと撫でし、涙袋の下を軽く引いた。瞼の裏の粘膜は、頬に足りない赤色をためこんでいた。
見れば見るほどこれといって悪いところはなく、十六か七の男子(ヒト)として正常だった。
指先を乾いた髪がくすぐった。軽やかにうねった髪の毛は、触ってみると思いのほか少し硬かった。つむじの流れに沿って分けられた前髪を、すべての指を使って梳くようにしてこめかみから耳のうしろに垂らした。彼は依然として受け身な体勢で、むしろ俺の手に頭の重みを預け始めている。
まどろみたくなるあたたかさ。ずっと見ていられる、たくましい美しさ。今、俺の、手のひらの上にある。

――相手を思いどおりに動かしたい気持ち。

それを形容した感情の名前が脳裏を占めた。ドクン、と不整脈の前兆に襲われた。
光る眼差しが俺を貫く。透きとおる瞳に俺の一挙手一投足が判然と映っていた。

あ、だめだと思った。
明らかに俺のほうが正常ではない。

瞬間、世界がひっくり返った。気づいたときには床に尾てい骨をぶつけ、窓が目線の上にあった。
窓に飛んだ焦点に、重なる影。彼の凛々しい顔面が俺の眼前、わずか数センチ先に迫っていた。
彼が俺に馬乗りしている。それを理解したのは、頭上に何かが当たってからだった。後頭部をすべり落ちたのは、季節はずれの桜、かと見まがうほど鮮やかな色をした封筒だった。コンビニの袋に詰まっていた彼宛の手紙が、彼が腰を上げた拍子に窓ガラスに、頬に、目の端に、花吹雪のごとくこぼれたのだ。
床に虹色が架かる。
俺を押し倒した彼の右手は、手紙を拾う素振りをまったくせず、ただ俺の左腕をつかみ続けた。

「ど、どうした?」

彼は平静に俺を見下ろす。

「笑ってたから、あんた」

自分の心音に鼓膜が揺さぶられた。
笑った? 自覚していなかった。
背筋がぞっと震えた。欲望の煙が噴きそうになり、焦って生唾ごと食道を下らせた。

「……笑うこともある。人間なんだから」
「笑えんなら笑えよ」
「君もな」

言い返されると思っていなかったのか、彼の瞳孔がきゅっと丸くなった。
彼の胸板を押して起き上がろうとした、そのとき、扉が開いた。数人の女子が列になり、顔を覗かせた。俺たちと目が合うやいなや、ソプラノに近い声を合唱させた。

「おっ、おじゃましましたあああ!!!」

勢いよく扉を閉められた。足音が凄まじい速さで遠のいた。
今の、告白のために呼び出した子たちだよな? Uターンしてしまってよかったのだろうか。俺からしたら告白時間の短縮になり楽になるから結果オーライなのだが。

「もしかしたらもう誰も来ねえかもな」

そうひとりごち、彼は立ち上がった。

「待つ必要も、ねえよ、たぶん」

差し伸べられた手を借り、俺も体を起こした。彼の手はその流れで床を覆う手紙も拾い上げた。俺も手伝い、袋はすぐに元の膨らみを取り戻した。
あらかた集め終えると彼はまた椅子に座った。股の間に袋を置き、腕を天井に伸ばした。

「待つ必要がなくなったかもしれなくても、まだここにいるのか」

立ったまま聞くと、彼はあくびを我慢するようにまなじりをほぐした。

「居心地いいから」

それは、俺がいても?
と、危うく不必要な言葉を重ねてしまう前に、彼の喉仏が動いた。

「あんたは?」

条件反射で唇を結んだ。
彼とは一緒にいるべきではないのかもしれない。直感的にそう思った。なのにここを出ていく気にはなれなかった。根拠のない矛盾、あるいは本能。息が苦しくなる。
ゆっくりと唇の縫い目をほどいた。

「俺も、まだここに残る」
「あー、それもだけど」
「え?」
「体調。どうなん」

ああ、そっちか。俺はこめかみをかきながら自分用の椅子に腰を下ろした。

「俺は咳も熱もなし。健康だった」
「今も?」
「うん、問題ない」

たぶん。その三文字を付け足しかけ、すんでのところで止めた。胸の拍動にはいまだに狂いを感じる。

「ほんとかよ」

先ほど俺が疑った仕返しか、彼は腕を組み俺をじっと睨んだ。

「元気ならもっと食えよ。あんた軟弱すぎ」

昔から食欲はないほうで、平均体重を上回ったことがない。健康診断で引っかかったことはないのだが、男子高校生にあるまじき軽さではある。だから年下に簡単に押し倒されるのだ。
今日はちゃんと食べよう。栄養剤で済まさず、ちゃんと、食事らしい食事を。昼休みが終わる前に教室で。
でも今はもう少し。あと五分だけ。旧音楽室に伸びるふたつの影が交わるまで。椅子から離れずに居残った。
南校舎はその日ずっと静かだった。


翌日、俺と帆波が日直になった。放課後に日誌を書きまとめていると、百田がいやに清々しい顔で「お疲れ~い」と端的に俺を煽り、さっさとラグビーの練習に向かった。他のクラスメイトは手伝おうかと声をかけてくれたが、気持ちだけもらい、それぞれ帰らせた。夏休みの課題回収のために教室と職員室を何往復もしていた昨日と比べたら今日の仕事量は全然たいしたことない。あとやるべきことは窓の施錠、黒板の掃除、授業で使った資料の片付け、日誌の記入と提出だけだ。このあとバイトがあるが、これくらいなら余裕で間に合う。

「ねえ大上くん!!」

資料を片しに行ってくれた帆波が、大慌てで帰ってきた。日誌から顔を上げると、すでに隣にいた。席にはつかず、困り顔で俺を見つめた。

「か、彼女、いるんじゃなかったの!?」
「いないよ」

俺は一旦シャーペンを置いた。

「え、い、いないの!? じ、じゃあ、あの噂は本当ってこと……?」
「噂?」
「さっきあゆちゃんと会って、それで、聞いちゃって。あの、お、大上くんが宍戸昇くんに乗り換えたって」

は?
思わず額を抱えた。
間違いなく昨日の目撃されたことが発端だ。あれがそんな噂になるだなんて思いもしなかった。今まで好き勝手噂されてきたけれど、こういうことははじめてだ。
それを聞いて俺はなんて思うのが正解なのだろう。なんて言えばいいのだろう。

「その噂は事実とは異なる」

頭より先に口が動いていた。もっと他に答え方があるだろうに、妙に堅苦しい言い回しになってしまった。

「や、やっぱりデマだよね、そうだよね!」

デマ。嘘。誤解。
俺が彼に触れ、彼が俺に乗ったことは事実。
あの温もりは、衝撃は、まだ手の中で燻っている。

「でも、彼女がいないっていうのは? どういうこと? 昨日デートだって言ってなかった?」

帆波は俺の机の周りをうろちょろしながら、窓を閉めたり机を整頓したりした。俺はシャーペンを持ち直した。

「別れ話だった」
「え!? デートじゃなかったの!?」
「デートだったよ。別れ話もした」
「ええー……」

昨日の昼休みにヤヨイさんから来た連絡は、デートの待ち合わせ場所、ひとつ星ホテルの住所の共有だった。宿泊ではなく、その最上階に併設されたフレンチレストランでのディナーコースを予約してくれたのだ。星を獲得している高級ホテルに入っているだけあり格式高く、それ相応に値段も張る。一般の学生なら本来背伸びをしても届かない。しかし彼女はスマートに予約と前払いを済ませた。実際にレストランに行ったときも勝手知ったる実家のように慣れた様子だった。さらに、年下であれ彼氏の俺に対して何か要求することなく、最初から最後まで彼女がリードしてくれた。
食事中の別れ話さえスムーズだった。あらかじめシナリオを決めていたかのように滞りなく話をされた。
端的にまとめると、バイオリン留学のために別れた。
教授による推薦で十月から留学することが決まったそうだ。推薦枠は毎年ひとりで、選ばれるには厳しい条件をクリアしなければならないらしい。見事選ばれた彼女は、すなわち大学きっての優等生でありバイオリニストのホープであるということだ。
留学期間はバイオリンのことだけを考え、バイオリンのために生きなければならない。恋人はおろか家族にも割ける時間はない。

――あなたを手放すのは惜しいけれど、あなただから後腐れなく別れられる。短い間だったけれど、わたしに付き合ってくれてありがとう。

俺の噂は彼女の大学にまで届いているようで、俺が引き止めないことを彼女はあらかじめ理解していた。

「美人さんだったんでしょ? 別れてつらくない?」
「いや別に」

互いに別れ話をしてもなんとも思っていなかった。その時点で彼女との関係性はたかが知れていた。

「そ、そっか。じゃあ、今は、フリーってこと、だよね?」

なぜかカタコトな確認に肯定すると、帆波はより挙動不審になった。相槌を無駄に打ちまくり、俺たちしかいない教室を何周も見渡し、黒板に残る和歌の解説を呆然と眺めたかと思えば、はっとしてクリーナーに手を伸ばした。

「実はね、あたし」

白い粉がぼやけた黒板に息がかかる。聞こえづらくて耳を澄ませば、同時に彼女の声量が上がった。

「実はの実はなんだけど! あたし、大上くんのこと……す、好き、なんだよね」

手とクリーナーを一体化させた状態で振り返った。俺を見つめては目を泳がせ、ややあってまた俺と向かい合い、すぐにぎゅっと瞑った。

「実はずっと好きだったの」
「そうか、ありがとう」
「うん、だから、ね、その……付き合って……ほしい、です」

書き終えた日誌を閉じた。その乾いた音で彼女は目を開いた。

「いいよ、付き合おう」
「えっ! ほんとに!? ほんとのほんと!?」
「うん」
「大上くん……本当に、誰でも受け入れるんだね」

今誰とも付き合ってないからねと返答すると、そういうことじゃなくて、と苦笑された。

「あたしからフラないよ、絶対」
「うん」
「いいの? 重いらしいよあたし」
「いいよ」

席を立ち、黒板前の彼女の元へ移動した。もうひとつのクリーナーを手に取り、百六十もない彼女では届かないであろう黒板の上のほうを掃除し始めた。彼女も笑みをこぼしながら、下半分にクリーナーをすべらせた。

「ねえ、気づいてた? あたしが大上くんのこと好きなこと」

首を横に振った。好意があることは隠す気もなく、誰が見ても明らかだったが、恋愛的にどうこうなりたい意欲があるかまでは読めなかった。どちらでもよかった。クラスで近しい友だちのままでも、恋人関係になっても。俺にとっては些細なちがいでしかない。

「百田にはバレバレだったよ。たぶん付き合ったこと知ったらめっちゃいじってくると思う」

やだなあ、とぼやくその表情は喜色満面だった。

「いつから片思いしてたかも、百田は当てたんだよ。地味にすごいよね。大上くんはわかる?」
「さあ、いつからだろう」
「これも実はの話! あたし、はじめて隣の席になったときから好きだったんだ」
「入学してからずっとってこと?」
「うん、そう。ずっとずっと好きだったの。ずっと告白したかったけど、いつもタイミング逃しちゃって。やっと言えた。一年以上もかかっちゃった」

黒板の表面にチカチカと光がすべった。彼女のネイルが夕日を反射し、海のような輝きを散らした。チョークの跡が打ち消されていく。
俺たちはクリーナーもきれいにしてから元の場所に戻した。

「でも、あたし、今日から大上くんの彼女なんだよね」
「そうだよ」
「うわああ~、やばいね。えへへ、これやばいよ!」

左右の髪の束を前に持ってきて交差させ、赤面を隠した。髪の結び目にハートのチャームが飾られていた。りんご飴のような透明感のある赤色で、こころなしか甘い香りも漂った。

「あらためて、よろしくね大上くん! あ、満くん、って呼んでもいい?」
「いいよ」
「やったー! あたしのことは歩都莉(ホトリ)でいいよ」
「わかった、ホトリ」

自分から頼んだのに、キャッと悲鳴を上げた。頬が紅潮しすぎて熱があってもおかしくなかった。

「一緒に帰る?」

今日は自転車ではなく徒歩通学にした日だった。

「え! 帰る! 帰ろ!」

カバンと日誌を携え、夕焼けに照らされた教室をあとにした。
俺が日誌を出すから先に昇降口に行っていていいと気遣ったが、彼女はついていくと言って聞かなかった。できるだけ長く一緒にいたい気持ちが言外にひしひしと伝わり、ふたりで職員室に日誌を提出しに行った。
昇降口で靴を履き変え、ふたり並んで校門へ歩く。その間にすれちがった生徒は全員俺たちをチラ見した。俺たちの交際を広めるのは、先生と生徒、どちらが先になるだろう。
何気なく辺りに視線を彷徨わせた。様子をうかがっていた生徒の大半がさっと目を逸らした。その中で俺を射止め続ける視線があった。南校舎の二階。廊下の窓からだ。一番星のような照り方をする髪の毛が、影の周りを浮いている。
宍戸昇、と心の中で呼んだ。
放課後にも呼び出しを受けたのだろう。でなければ用事もないのに南校舎にいるわけがない。
彼はいまだかつてない冷たい目つきで俺を見ていた。残暑ごと拒絶し、深い影をまとう瞳の中に映るものすべてを凍りつかせた。
昼休みのときと別人のようだった。
寒気がした。身体の芯から震え、血の気が引いていく。
なのに、安堵している自分もいた。
おぞましい化け物を蔑むような目で見られても、胸の内の欲望は煮え立たず、まんまと冷えこんだことがうれしかったのだ。だって、ここで欲望が奮ったら、本当に化け物になってしまう。
新しくできた彼女に呼ばれ、俺は南校舎から目を外した。深緑の葉をつけた桜の木をスルーし、校門の外に出た。
胸の痛みが、歩く振動で拡がった。