化けた月


支配欲――相手を思いどおりに動かしたい気持ち。

バイトに向かう電車の中で、言葉の意味をあらためて検索してみた。
やっぱり自分のとはちょっとちがう。
従順な犬を求めたことはない。想像するだけでわずらわしい。端から他人をどうこうすることに興味はないのだ。
ただ、思い上がった態度を取られると、どうしようもなく不快に感じる。黙らせたくなる。すべて俺の手のひらの上だとわからせたくなる。
そんな俺を元カノは最低だと罵った。そのとおりだ。俺よりもやさしい人はこの世にごまんといる。
俺を好きにならないほうがいい。そう忠告したところで意味はないのだろうけれど。だって、そういう星の元に生まれてきてしまった。

二週間前、夏休みに入ってすぐ、バイト先のカフェで告白された。常連の大学生だ。カフェ近くの音大に通う、いかにも清楚な一回生のヤヨイさん。今日もこのあとモーニング帯に勤務したあと、そのまま店内で合流してランチをともにし、美術館でデートをする予定だ。
楽しみでも憂鬱でもない。ただの日常の延長戦だ。夏休みの実感もない。ガラガラの電車を光彩であふれさせる夏空ですら感動もないハリボテに見えた。
最寄り駅からわずか十分弱、二駅隣の目的地で降車した。この駅は高校が近く、普段は自転車で来ることが多い。電車を使うのはたいてい悪天候の日だが、今日はバイト後のデートでこの駅を離れるので便利な交通機関を頼った。
駅前にある商店街の入口に、高校入学と同時に働き始めたカフェがある。登校中に開店の準備をしていた店主とすれちがい、ホールスタッフにスカウトされたのだ。ちょうど交際費を稼ぎたいと考えていた俺に断る理由はなかった。
個人作業に向いたモダンなカフェだが、俺の勤務時間だけチェーンのファミレス店のように混み合う。どうせどこで働いていてもそうなる運命(サダメ)だ。行列のできる大人気店と化したカフェで、今日も休む暇なく注文を聞き、料理を運び、会計とあと片付けをし、しっかり売上に貢献した。店長は毎日感激している。
正午、店内のソファー席でお茶をして待つヤヨイさんに、ランチ限定のセットメニューを自分の分とあわせてふたつ持っていった。これで本日の仕事は終了。あらかじめ店長に話をとおし、着替えも打刻も済ませてきた俺は、彼女の向かい側に着席した。

「ご苦労さま、大上くん。お食事ありがとう。今日の日替わりはオムライス?」
「お待たせしました。これは店長からのサービスです。秘伝のソースは俺がかけました。よければ召し上がってください」
「ハートにしたのね。かわいい。いただくわ」

あ、その前にお写真を、とテーブルの隅に置いていたスマホを手に取った。手帳型のケースで守られた画面を開き、ふたつ並んだオムライスのプレートを一回だけ撮影した。
フリルとリボンをあしらった白いワンピースを身にまとった彼女に、そっと食事用のエプロンを渡した。バイオリンを弾くしなやかな手がそれを服の上にかぶせると、早速スプーンを携えた。半熟にとろけた卵とスパイスの効いたチキンライス、店長の口添えでハートの形にしてみたクリーム状のソースもすくい、小さな口に運んだ。口の端がほころんだのを見届け、俺も食べ始めた。ここでしか食べられない味! と銘打つ斬新さはない。しかし、昔ながらの家庭的でまろやかな風味が安心感をくれ、また食べたいと思わせてくれる。食に無頓着な俺でさえそう実感できる。このカフェでバイトを続けるには充分すぎる理由だった。
彼女は俺が働き始める少し前、大学に進学した春先からここに通いつめ、店長に顔と名前を覚えられた。言動からお金持ちのお嬢様な節が見受けられ、舌が肥えているにちがいない彼女がここのリピーターという事実も、一見すると異様に感じるが、味を知って腑に落ちた。品のよい所作でひと口ひと口味わう彼女の表情は、恋する乙女のように恍惚としていた。
俺にしてはめずらしくしっかり咀嚼しながら腹を満たした。あっという間に空になった俺の皿に対し、彼女の皿にはまだ半分も残っていた。雪崩れかけた黄色い小山の上に、ふふ、とのどかな息づかいが吹いた。彼女は弧を描いた口元にスプーンを持っていない左手を添えていた。

「好きよ」

告白のときも今みたいに唐突だった。何の脈絡もなく、恥ずかしげもなく、当然のことのように。
これで三度目だ。一度目は、アヤネ先輩と付き合っていたころ。二度目は、交際を決めた夏休み二日目。そして、今。単刀直入に好きと、俺の顔が好きなのだと、彼女は告げた。

「わたしの好きなものしかない、贅沢な時間だわ」

欠けたハートを大事にスプーンにおさめ、口の中に溶かした。

「大上くんの顔を見ながらお食事をしていると、いつもよりおいしく感じる。ふしぎね」

欲望を包み隠さず光らせた瞳が、俺を丁寧に描いた。オムライスを味わうときと同じ色で。

「本当に、きれいなお顔だわ。何か特別なお手入れをしているの?」
「いいえ、これといってこだわりはないです」
「あら、それでそれほどの美貌だなんて、嫉妬しちゃうわ」

そういう彼女も、世間一般的に美女と分類される見た目をしている。色白で粗のない顔は最低限のメイクで成り立ち、胸下まである黒髪は毛先までケアが行き届き、爪の短い指先はネイルをしていないにもかかわらず珠(タマ)のような光沢がある。育ちのよさが如実に表れた美貌だ。気軽にナンパをされることもないだろう。
そんな彼女のほうがナンパまがいに好意を伝えてくるとは誰も予想だにしなかった。告白されたときは一度目も二度目も、俺より他の客――老若男女問わず全員――が、客より店長が驚きあわて、カトラリーが落ちる音が立て続けに奏でられた。

「わたしはきれいなものに目がないの。音楽、お洋服、骨董品、大自然の景観も。今まで数多く堪能してきたわ。だけど、人ははじめて。あなたと出会って、はじめて人を美しいと思ったわ」

こういうのをひと目惚れというのね、と彼女は桃色の瞼を伏せ、あまっているアイスティーを飲んだ。
ひと目惚れ。耳にタコができるほど聞くその言葉を心の中で咀嚼した。噛んでも噛んでも味はしない。俺は首を気持ちひねった。

「俺以外にもいますよ、あなたのお眼鏡にかなう人は」
「そうかしら。わたし、美的感性はかなり厳しいわよ。これまで芸能人や美容家の方々ともお会いしたことがあるけれど、あなたほどに心ときめく人はいなかったもの」

ひとりでお茶をたしなみながら三時間ほどずっと鑑賞していられるくらい俺のことを――正確には俺の容姿を――気に入ってくれている。
逆に言えば、俺個人に固執しているのではなく、きれいなものであればなんでもいいということだ。バイオリンを始めたきっかけのクラシック曲、今日のためにおろしたワンピース、美術館に展示された油絵、山の間に流れる神秘の滝。彼女がひと目惚れしたものならいくらでも俺の代わりになり得るのだ。
たとえば、宍戸昇。彼のことはどうだろう。
剛健な線に濃淡の激しい色使いを重ねたような、荒々しくも凛々しい面貌。相反してやわらかに咲く髪。温度の上がらない瞳は、ときおり爪を研いだ猫のような鋭さと危うさを帯びる。
野性的感性の中に秘めた、品性と似て非なる高い純度は、汚れがなく美しい。
そう、俺にはない美しさだ。
話をすればきっと彼女は食いつき、会いたがるにちがいない。そしてひと目会えば、心底気に入るはずだ。俺からころっと乗り換えてもおかしくはない。
自信はあった。試してみてもよかった。おままごとのような付き合いは、楽は楽だが無駄に疲れる。これ以上不快に思わないよう自衛を兼ねて見切りをつける、いいチャンスだった。
だけど結局、話をしなかった。
ただの一度も彼の名前を出さず、時間が過ぎるのを待った。二枚のプレートを合わせたあともしばらく彼女は眼差しで俺を愛でていた。


美術館の特設展示をめぐり終え、彼女を乗せたタクシーを見送った。電車で最寄り駅についたころには、空がすっかり暗くなっていた。
思ったよりも荷物が多くなってしまった。バイト先のカフェから一枚拝借したビニール袋はいっぱいだ。
店長がおすそ分けしてくれた、モーニングメニューのセット商品であるボトルタイプのスムージージュースのあまりものがふたつ。本当は三個あったけれどヤヨイさんにひとつあげた。そのお返しのつもりか、彼女が帰り際にプレゼントしてくれた、展示グッズのひとつ、ピアノを描いた絵画をモチーフにしたハンドタオル。彼女とおそろいらしい。それと、同じ展示を観ていた名も知らぬマダムに手渡された、俺にお似合いだという小さな花束。こういうことはざらにあるので驚きはしなかった。投げ銭のようなものだ。
肩がずっしりと重い。
今日はもう誰にも会いたくない気分だった。知り合いはもちろん、赤の他人とも。
人通りの多い道を避け、遠回りして家路に着いた。人っ子ひとりいない踏切を越え、海沿いを歩いた。
海は、凶悪な怪物だ。やさしい顔をして人を誘い、たわむれながら油断させ、おいしくふやけた足から引きずりこむ。丸々平らげると、何ごともなかったようにまたやさしく手招きする。
底抜けに手強く、おそろしく、それでも美しい。
遠くにかすむ星明かりを粉飾させた海面は、波打つたびに光の粒を弾けさせる。スポットライトのような満月が、その粒たちを黄金に染め、一筋の道を架ける。人を誘いこむのにぴったりな一本道だ。
闇を裂く、不透明な輝き。
その美しさに、人は騙されてしまうのか。
かくいう俺も歩きながら呆然と眺めていた。そのときだった。バシャッ! とさざ波を上回る勢いで水が跳ねる音が響いた。
反射的に音のするほうに目を凝らした。
だだっ広く、暗い海の浅瀬から人影が起き上がった。凛と伸びたそれは、怪物に襲われた被害者にはとても見えなかった。大いなる自然の流れを制する姿は、むしろ支配者のごとく貫禄があった。
ざぶん、と水面を泡立てる足が、満月へとつながる道の入口に踏み入れた。人の形をした影が、みるみる浮き彫りになる。
水の滴る、浮世離れした顔。潮風にきしんだ、濡れた長髪。満月を背負った、岩のような肩。見覚えのある強靭なシルエットだった。

「宍戸昇……?」

俺の知る宍戸昇とは、おしとやかな音大生に紹介するに足る基本無害な一般人であり、まちがっても夜の海水浴などという奇行に出る狂人ではない。そのはずだった。しかし残念ながら、あの整った肉体は宍戸昇以外に考えられなかった。
彼は隙だらけでありながら、再び海中に上半身をもぐらせた。躊躇のない飛びこみは、はっきりとした意思を物語っていた。
誰にも会いたくない気分が軽率に揺らいだ。
自転車が何台か放置された石造りの階段から浜辺に下りた。海面にぼやけた背中におそるおそる近寄った。
その背中が急に飛び起きた。ぜえ、はあ、と酸素を求めながら、背の上についた頭と顔が素早く左右に振られた。海水の飛沫が周囲に散った。
体育祭の長距離走を造作もなく完走したころの面影はなかった。いっそドッペルゲンガーであったならまだ理解できた。が、俺の気配に遅れて気づいた彼は、

「……何してんの」

と、気軽に話しかけてきた。本当に、本物の宍戸昇のようだ。
正直、まだ少し信じられない。

「俺が聞きたいんだけど。何してるの君」
「探し物」
「何?」
「チャリの鍵」
「鍵? なんで落としちゃったんだ」

海辺でかけっこでもしていたのか? 元気すぎる小学生みたいな理由じゃないか。

「俺のじゃねえよ」

若干キレ気味に否定された。

「さっき知らねえおっさんがここで倒れて、寝覚め悪ぃし病院に連れてってやろうとしたら、鍵がねえ帰れねえって騒ぎやがって。くそ迷惑だからおっさんを救急隊に任せて探してんだよ。はあ、ツイてねえ」

そんなふうにあからさまに口を悪くするところも目新しい。いつもはダウナー系男子の見本のようなのに。
文句を言いながらも、息を整えたら深い色をした海の中に両手を突いた。辺りをまさぐり、あー見えねえーとぼやきながら息を吐き、それから思いきり吸って顔面も突っこんだ。

「寛容な心の持ち主とは、君のことを言うんだな」

思わずこぼれた心からの賞賛は、水中の彼に拾われることはなかった。
雄々しい背筋の形がくっきりと浮かび上がったノースリーブの黒シャツは、肌色を避けるための単なる布切れと化していた。砂浜にぽんと捨て置かれたサンダルは、砂に半分埋もれ、存在感を薄れさせている。
彼の言う「さっき」とは、いったい何時ごろのことだろう。どれだけここで探し続けているのだろう。
いくら夏でも浸かりっぱなしは身体に悪い。ましてや今は夜だ。体温を急激に奪われ、風邪を引くどころではなくなる。
強引にでも止めさせるべきだ。そう判断する思考の裏で、体育祭の記憶がよみがえる。クラスの誰もやりたがらなかった長距離走に出場し、一位をかっさらい、クラスメイトに感謝される彼の勇姿が。

――ご、ゴールおめでとう、宍戸くん! あと……あ、ありがとうね、出てくれて。
――何が。ただ走っただけだけど。

今回もあのときと同じなのだろう。
自分が決めたことを、ただ、やり切ろうと。
俺は右手に携えた満杯の袋を、砂まみれのサンダルの横に放った。スニーカーと靴下を脱ぎ、ジーパンの裾を折った。デニムの素材の異なるポケット部分からスマホを取り出し、ライトをつけた。彼の眼が不審げに向けられた。

「は? 何してんのあんた」

潮の満ち引きを素足で妨げた。夜の海は想像以上に冷たく、一瞬で鳥肌が立った。
今さら引き返しはしない。緊張する足を無理に動かし、彼の手元を照らしに行った。満月よりも強力で明瞭な光は、肌の青白さを明らかにした。

「お手伝い。鍵なんて小さいもの、ひとりで見つけるのは至難の業だよ」
「頼んでねえよ」
「君も頼まれていないだろう」

どうせあとは帰るだけだ。家までそう遠くもない。少し寄り道して、少し濡れてしまってもどうってことない。とはいえさすがに顔から入る度胸はなく、文明の明かりと手足の感覚を頼りに手探りで調べた。幸い手足が長いため、全身を海に落とさずともある程度の範囲をカバーできた。
それっぽい感触をつかみ上げては、石や貝と知って捨てる。今まで何十、何百と繰り返されたであろうその一連の行為を、はじめて客観視した彼は静かに目を逸らした。苦しげに奥歯が鳴った。

「いいよ、もう」
「え?」
「やめだやめ」

ポケットから覗かせたスマホのライトを横切り、波を切るようにして浜辺に上がった。

「こんだけ探しても見つからねえんだ。もう流れてったよ」

おっさんには気の毒だけど、とつぶやく声は震えていた。
彼はわざとらしく海に背を向けた。肌に密着した黒シャツをまくり、雑巾を扱うみたくしぼった。水がドブドブとあふれ出る。瞬く間に砂浜が泥沼に変わり果てた。サンダルの片方が傾き沈んだ。
月の誘いを断ったうしろ姿は、今にも暗闇に消え入りそうだった。

「そうか、わかった」

俺は明るい道に従い、一歩進んだ。浜辺からより深いほうへ。
静寂の波を蹴った。海の泣き声がこだました。
手を海底に伸ばした。水位が肘を越えた。半袖の端から潮の匂いがしみていく。

「おい、やめだっつってんだろ」

震えをごまかしきれていないかすれ声がしても手を動かし続けた。

「うん、俺もわかったって言ったけど、聞こえなかった?」
「聞こえたから聞いてんだよ」

そっちは暗くて、どんな表情をしているのか、唇が何色なのかも正確につかめない。じれったそうな様子であろうことは声色で察した。
彼のことが手に取るようにわかるこの状況が、なんだかおかしかった。

「俺はまだ余裕あるし、もう少しだけ探していくよ」

変にやる気を出す俺に、へえ、と気のない返事が返った。

「やさしい先輩」
「思ってないだろ」

波音が広がる。感覚が研ぎ澄まされる。夜が更けていく。
徐々に、しかし思ったより早く、指先の神経が遠のいた。でも、なぜだろう、今猛烈に生きている実感がある。楽しいとさえ思った。デート中、一度も思ったことがないのに。自分でもふしぎだった。
割れたガラスの破片に一喜一憂した。魚はあまり活動していなかった。天の川さながらのきらめきを、俺が独り占めしていた。
不意に水位が乱れた。澄み渡る水中に筋肉質な足が見えた。視線を上げると、眉根を寄せた彼がいた。最初から海パンだったかのようなハーフパンツが、限界までたくし上げられている。
彼は肩と腕を回し、少しでも体をあたためながら入水した。俺と背を預けるような態勢を取ると、無言で捜索を再開した。
満月が俺たちを笑っていた。
俺は手元に視線を戻す。矢先、やさしい月明かりと電気の力が交わり、浜辺の一点ではね返った。きらり。米粒ほどの、けれどたしかな反応を、俺は見逃さなかった。とっさにスマホを手に抱え、浜辺を照射した。かかとが沈んでひっくり返ったサンダルの奥のほうに、薄ぼんやりとした光が見えた。

「なあ、あれ」

そろりそろりとその光に近づいてみる。まだぬかるんでいない、チャーハンのような砂をひとすくいすると、鍵らしい鍵が顔を出した。年季の入った、小さな小さな鍵だ。
彼の再入水から発見まで一分と経っていない。

「なんだ、そっちにあったのかよ」

彼は一も二もなく海を出た。浜に残る俺の足跡をかき消し、発見した鉄の塊を覗きに来た。

「貸せよ。試しにそれで合ってるか確認してくっから」

彼の顔にも砂が貼り付いていた。濡れているのか乾いているのか、一見わからない。疲れているのは間違いない。
潮を散々浴びた髪の毛は、海藻の仲間になれそうなくらい縮れ、べたついている。さっき水分を切ったばかりのシャツは、開き直って海水浴を楽しみ、六つに割れた腹を下心なく見せびらかした。
どれもビジュアルをマイナスにすることなく、かえって男前度を上げる要素になっていた。

「おい。聞いてんのか。ん」

入水時間が短く済んだおかげで顔も髪も服も八割方無傷な俺に、差し出された大きな手のひらには手相とはちがう線が浮いていた。スマホのライトがなければ見落としてしまいそうな細く浅い線は、どれも赤くにじんでいた。
本人は気づいていないのか、それとももう感覚がないのか、痛がる素振りはなかった。俺の手の中に寝そべる、いかにも自転車の鍵らしいサイズと形をしたそれを早く寄越せと急かしている。
パーに開かれた彼の手がぱたぱたと煽る。俺は右手で鍵をぐっと握りしめた。じゃんけんなら負けだ。

「鍵、ほしいのか」
「あんたが持ってても仕方ねえだろ」
「君でなければならない理由もなくないか?」
「は?」

あ、今、めんどくせえ、って顔をした。
寒さと疲れでくたびれた表情筋の歪みを目ざとく察知でき、気分がいい。間違い探しをいち早く解けた快感に近しいものを感じる。

「なんとなく思ってたけど、あんたってけっこう変だよな」

落し物探しを手伝ったあとで言うことかそれは。

「自分のしたいようにしねえと気が済まねえタチだろ」

俺の内なる欲望を指摘されたのは、これがはじめてだった。俺が彼をわかりやすく感じていたように、彼もまた俺をわかり始めているのかもしれない。
したいようにする。思いどおりにする。
損にも得にもなったり、ならなかったりする意思表明。
彼も大概だと思う。
俺の化け物じみた、実に扱いづらい欲望は、彼にとって不器用な良心だ。
こんなにもかっこよく、やさしい人を、俺は知らない。
愛し、愛されるなら、きっと俺でなく彼のほうがいい。

「そういうタチだから俺が確かめてくるよ。自転車って階段上にあるやつのことだろう?」

彼はあきらめ、さっさと行ってこい、とパーの手を払った。

「袋の中に新品のハンドタオルがあるから、よければ使って」

濡れた足のままサンダルを履いた彼は、その横に寂しそうに持ち手をなびかせた袋を遠慮なく探った。
俺は防波堤に設けられた階段を駆け上がり、風が吹けば飛びそうな古びた自転車に鍵を差した。カチンとはまり、ぐるりと回った。自転車を軽く押したり引いたりしてみた。タイヤは正常に動いた。
改めて鍵を閉めてから浜辺に戻った。びしょ濡れのシャツを脱いだ彼は、ハンドタオルの柄など気にも留めず全身の水気を拭っていた。

「鍵、合ってたよ」
「そう」
「持ち主はどこの病院にいるんだ? 届けるよ」
「知らね。そのまま自転車につけとけば」
「不用心すぎないか? 盗まれたらどうする」
「でも持って帰るわけにもいかねえだろ。あのおっさんの家も、どの病院に運ばれたのかも、俺は知らねえし」

鍵を見つけ出すことで頭がいっぱいだったのだろう。いや、たとえ聞けたとしても、赤の他人に教えてもらえる情報ではないか。

「もしかしたら自転車の存在自体、忘れてるかもな」

まさしく他人ごとである彼は、固くねじったシャツを広げ、空中を叩いた。しぼってなおあまる水気が俺のほうにまで飛んだ。

「盗まれたらそのときはそのとき、警察に世話になるしかない、か」

俺もそう割り切り、彼からハンドタオルを回収した。それで素足を拭き、砂を払い、そのままスニーカーを履いた。花束の突き出た袋にハンドタオルと靴下を入れ、再び防波堤を上がった。
シャツを肩にかけた彼はサンダルを履き、半裸の状態ので俺の三歩うしろをついてきた。自力で水分をしぼり取った髪は自然乾燥に委ね、夏の夜の蒸れた匂いをまとった。
自転車の鍵は念のため開錠はせず、鍵穴に入れるだけにしておいた。持ち主と自転車の無事を願い、マダムからもらった花束の一輪を錆の目立つかごに添えた。かぐわしい純白の花が月夜を仰ぎ、揺らめいた。

「あんた、家どっち」

俺あっち、と彼の親指が差したのは、踏切があるほう。俺は人差し指で反対方向を示した。

「そっか。じゃ」

彼は早々に顔を背けた。歩きながら、まったく乾いていないシャツを最後に一度パンッと伸ばしてから着直した。ぶるっと身震いした背中が、次第に丸まっていく。

「風邪、引くなよ」

彼は歩きづらそうにしながらも、片手を上げて応じるだけだった。

「宍戸昇!」

間を置かずに声を張り上げて呼ぶと、今度こそ彼は振り返った。
袋からスムージージュースのボトルをひとつつかんで投げた。彼は突然のことにもあわてず華麗にキャッチした。
店長がこだわり抜いた、栄養素たっぷりのスムージージュース。健康的で手軽なうえに、味も飲みやすく、一杯だけでも十分満足感を得られる。
夏風邪は長引くと聞くし、健康維持や免疫力向上に効果的なものはあるに越したことはないだろう。もらったときからすべて飲み干せる気がしなくて困っていたのだ。必要な人に渡せてよかった。

「それバ先でもらったやつ。賞味期限、今日だから」

彼の視線は手におさまったボトルではなく、俺にあった。

「なんでフルネーム呼び?」

気になるところ、そこなんだ。
別に意味はない。なんとなくだ。首を傾げるジェスチャーで返答した。
彼は俺とボトルを交互に見つめたあと、ボトルを持つ手を掲げた。

「サンキュー、満」

先輩、と付け足された淡い唇が、しなやかに弧を描いた。そんな気がした。
彼は月夜に焦がれた海を一瞥し、進行方向に直った。俺もゆっくりと帰り道をたどった。手足が震えた。濡れた肌が夜風で冷えたせいにちがいなかった。家までの道のりがひどく長く感じた。