梅雨が明け、カンカン照りに近づいた太陽の下、南校舎の裏手にあるグラウンドに全校生徒が集結した。何の変哲もない景色が瞬く間に紅白の色に華やいだ。
今日は学校の一大イベント、体育祭。紅白の二チームに分かれ、十種目の競技で優勝を争いながら「仲間っていいね」「切磋琢磨しようね」を学ぶための祭りだ。
チームの分け方は、毎年体育祭実行委員が独断と偏見で決める。去年は出席番号を基準にし、おととしは完全ランダムだったらしい。今年はシンプルに校舎別、つまり文系と理系で分けられた。俺の在籍する理系は、白組だ。
チームカラーを象徴するオリジナルの単色Tシャツとハチマキを身につけた各軍がグラウンドの中央に整列し、祭りの開会が行われた。応援団長による選手宣誓が、原色の空に響き渡った。蝉が鳴いていないのがふしぎなほど熱い陽射しに触発され、あちこちから盛り上げの声が飛び交った。
俺は列の隅で辺りを見回した。ほぼ白Tのような白組はともかく、冴えるような赤のTシャツに、入学時に学校指定で買わされるチャコールグレーと言えば聞こえがいい微妙な配色をした体操着の短パンは、やっぱり組み合わせが悪いなと思った。俺は去年も白組で、そして去年も同じようなことを考えた。去年も同じクラスだった帆波が、出席番号のせいでその組み合わせの悪い格好をすることになり、開会式後に悩みながら俺にハチマキの結び方を相談してきたほどだ。紅組の衣装に似合うハチマキの結び方なんぞ知るよしもないが、具体的な注文もなかったのでとりあえず簡単に結んでやった。スマホの内カメラで一度確認しただけで即OKが出た。帆波は基本的に俺に対して全肯定だから、どう結んでも満足しただろう。
「ねえねえ大上くん、ハチマキ、かわいく結んでくれない?」
帆波は今年も開会式の締めを聞いてすぐハチマキを差し出してきた。今年は俺と同じ、ちょっとくすんだ白のハチマキだ。
女子は髪にうるさいので気を遣うが、別に手先自体は悪くはないと自負しているので、去年に引き続き聞き入れた。スプレーで固められた前髪と、いつもより高めのツインテールを崩さないよう慎重に布地をとおし、オーソドックスにつむじの近くでリボン結びにした。去年OKをもらった結び方だ。
かわいく、って本当にこれで合っているのだろうか。猫耳っぽいのとか、ツインテールと巻きこむやつとか、凝った結び方はたくさんあるが。まあでも下で結ぶよりかわいらしさはあるからいいか。帆波も去年と同じように喜んでくれたことだし。
「かわいい! 今年もありがと、大上くん!」
「どういたしまして」
「だから大上くんはモテるんだよね」
何が「だから」なのかはわからないが、ひとまず礼の言葉を繰り返した。
帆波のうしろには、じゃあわたしも、あたしも、といつの間にか長蛇の列ができていた。これも去年と同じ現象だ。なんならついにきたと待ちかまえていた節のある子もいた。何か噂やジンクスが広まっていたのかもしれない。
結ぶついでにウィスパーで好きですと告白されることもあったが、それには同じくウィスパーで丁重にお断りした。俺には今彼女がいるのだ。例のピンク髪のアヤネ先輩。彼女とはあれから平和に交際を続けている。来週で一か月になる。最近にしては長いほうだ。
ハチマキ結びが流れ作業になってきたあたりで、盛大なため息とともに百田が近寄ってきた。開会式でのラジオ体操ではもの足りず、念入りに準備運動をしてきた彼は、白組を表す戦闘服がぴったり似合っている。
「こいつらガキかよ。ハチマキくらい自分でできんだろ」
「百田ぁ~? 男の嫉妬は見苦しいって聞いたことない?」
「嫉妬じゃねえよ。呆れてんだよ。満もいちいち受け付けてんじゃねえよ。それこそ今カノに嫉妬されんぞ」
一理あると思い、今結んでいる隣のクラスの子の分で打ち切った。今の今まで忘れていたけれど、去年これが原因でフラれたのだった。
念のため今カノであるアヤネ先輩のほうを見てみると、満面の笑みで手を振られた。特に気にしてなさそうだ。
「満はもう少しあっちを見習ったほうが身のためだぜ」
「あっち?」
「西のなんとかってほう。ほら、見ろよ。誰も寄せつけてねえよ。あれくらいでいいんだよおまえも」
グラウンドの外周で早速木陰を陣取った宍戸昇がいた。軟そうな木の幹に、熟した果実の色をした装いの体を落とし、目を閉じていた。
普段は西校舎に生息しているという彼は、すなわち文系なので今回は紅組所属。俺と対にされた精悍な彼でも、紅組装備の色合わせはやっぱり悪く見えた。
胸鎖乳突筋が張った首に垂れ下がる敵のハチマキが、無防備にはためいた。
「いいか、満。もうモテにいくのやめろよ。むやみに気を遣うな。俺が迷惑だ」
「やぁっぱ僻んでんじゃん」
「ちげーよ! 俺は一般論をだなあ!?」
「うん、百田の一般論ね。わかったわかった。早く短距離走の準備に行きな。あたしは大上くんと白組応援席に行くから」
「おまえももう満を頼りすぎんなよー。かわいこぶんなー」
「ぶってないし! うざ!」
小学生のように騒ぐふたりにかまわず宍戸昇を見ていると、あちらも不意に片目を上げ、俺を捉えた。寂れた旧音楽室とは対照的な、この解放感に満ちあふれたグラウンドで相対するのは少し変な感じがした。けれど本人は相変わらず冷たいのか涼しいのか絶妙に測りかねる様子で、違和感はすぐに薄れた。
青々とした葉の隙間から光の雫が注ぎ、彼のやる気のない頬に落ちた。今にも焼けただれそうで危うく見えたが、彼は悲鳴のひの字も上げない。光が融ける。彼の一部になる。その絵になる姿を、俺以外も多くの人が目に焼きつけていた。
また、変な感じがした。
枝に覆いかぶさる葉たちがカサカサと擦れ合う。その音が、白で隠した自分の内側からも聴こえた気がした。
彼は首にかけたハチマキをそのままゆるく縛った。まるで首輪だ。ただ一度交差しただけのあの結び方ではすぐにほどけてしまうだろう。いつでも抜け出せる、あってないような首輪。やさしい支配。
影の中で揺らめく赤色は、毒々しくも美しかった。
「大上くん、百田うるさいから早く行こっ」
帆波が俺の腕を触った。俺は前髪の上にかぶせたハチマキを結び直しながら、帆波と応援席に移動した。熱風が結び目から垂れた二本の白い尾を引いた。
競技は短距離走から始まった。紅白で分かれた応援席は開幕から大熱狂だった。椅子があるのにみんな立って観戦していた。俺は百田の出番のときだけ立って観て、それ以外は座って砂埃の立つ勝負を眺めた。
歴代の元カノのみで構成されたレースがあったことには驚いた。周囲から何か言いたげな視線が投げられ、ちくちくと障った。
「す、すごいね、あのレース。どうやって仕組んだんだろうね」
帆波が気まずそうに隣に座り、話を振ってきた。俺は一回うなずいただけで特に声援を送らなかった。周りはそれなりに盛り上がったようだが。
「お、大上くんは、何の種目に出るんだっけ?」
帆波はさりげなさを装って話題を変えた。
「借り物競争と綱引き」
「あれ? それだけ? リレーも出るんじゃなかった?」
「百田と変わった。出たそうにしてたから」
「えー!? そうなの!? 残念……大上くんのリレーも見たかったのに」
カメラに収めるジェスチャーをした両手が、しゅんと膝の上に落ちた。丸みのあるネイルは今日のために白基調に統一されていた。
「応援合戦も大上くんが出たら絶対勝ちだったよ、絶対!」
「どうかな、俺より向いてる人がいるよ」
「そんなことないよ! だって去年、応援団やってたじゃん! 長ランを着た大上くん、最高にかっこよかったよ! 今年も見たかったなあ。あ、でも、紅組もね、団長直々に宍戸くんをスカウトしたけど一蹴されたらしいよ」
またあゆちゃん情報? と聞けば、うんっ! と元気よく肯定された。よく覚えてるね、とも言われた。女子らしい笑い声が、あふれんばかりの歓声に打ち消された。
「大上くんだけ出たら白組有利になっちゃうからフェアじゃないね。これでよかったのかも」
そう自分を納得させながらも、まだちょっと残念そうにしていた。
俺は人垣で見えないレースを、放送委員による実況から想像した。最終レースは紅白で競り、最後の最後に紅が追い抜いて勝ったようだ。両者を称える拍手が響き渡った。
座っているだけで暑かった。
時間が進むにつれ日が高くなり、よけいに汗ばんだ。応援席に生徒が密集していることも、肌に熱がたまる原因だろう。
今朝アヤネ先輩がわざわざ俺のクラスまで持ってきてくれた、きんきんに凍ったスポドリをありがたく飲んだ。お昼も一緒に食べようね、と手作り弁当持参のアピールもされた。俺は感謝を伝えて見送った。彼女は紅組だったが、ボトムスは学校指定のではなく黒のミニスカート風の短パンを履いていた。三年ともなると自由な着方ができるようだった。
好きに生きている彼女を、俺はわりと尊敬している。
「一位の俺が帰還したぜー。しかと観てたか、俺の勇姿」
百田が一位のフラッグを持って戻ってきた。各レース優勝者は、金色で「1」と書かれたおもちゃの旗を記念にもらえるらしい。帆波はそれをうらやましそうに拝んだ。
「白組貢献感謝~感謝~!」
「もっと言うことあるだろ。かっこよかったとか、イケメンだったとか、惚れた腫れたとか」
「ないね」
「おまえはな。他はあんだよ」
「えー? ねーえ、あゆちゃーん! 百田に惚れたー?」
近くにいたらしい噂の「あゆちゃん」が、挙動不審に振り返った。赤茶の髪をトップでひとまとめにし、白のハチマキでくくったおだんごヘアが、ぶるぶると左右に震えた。そうだよねえ~? と帆波は友だちと仲良く肩を組んだ。
「お疲れ百田、おめでとう。ぶっちぎりだったな」
「満、おまえだけだよ、俺の味方は。あといい加減に俺のこと達って名前で呼べって」
「百田、はいタオル」
「はいサンキュー大上」
百田の椅子にかかっていたタオルを渡してやると、彼は嫌味ったらしく苗字呼びを強調しながら頭皮の汗を拭いた。
グラウンドの中央では次の種目の準備が整った。次は障害物リレーだ。
「あっ、てかさ、あの西の、なんだっけ? シシトウ?」
「なあに? 宍戸昇くんのこと?」
「そうそう、そいつ、この次の長距離走に出るっぽいな。門のとこにいてびっくりしたわ。ちゃんと出場すんだ、あいつ。しかも長距離。意外だったわ」
どう見てもサボり常習犯の顔だろあいつ、とぎりぎり悪口になりそうなことまで言い切った百田に、アイラインで囲った帆波の目がじとっと黒ずんだ。
俺は始まった障害物リレーを流し見し、手作り感のあるアーチ型の出場ゲートに焦点を当ててみた。そこに本当に宍戸昇が待機列に並んでいて、わずかに目を見開いた。他の生徒と比べて頭ひとつと半分ほど空に近く、なだらかに光を漂流させた髪と鼻の高い横顔が列から突き抜けていた。首のハチマキまで明瞭に視認できる。
ペットボトルの飲料も青く光らせるほど明るい空にも、彼の存在感は負けていなかった。こころなしか白熱した競技よりも熱視線が向けられていた。
「長距離走の件、あゆちゃんによるとね、宍戸くんのクラスで誰も出たがらかったらしいの。推薦ばっかりして押し付け合いが続いて帰りのホームルームまで長引いたくらい。そんなとき、突然宍戸くんが黒板の出場者に名前を書いて帰ってったんだって!」
「は? くそかっけーじゃん」
情報通の友だちから聞いたばかりの最新情報を、帆波は嬉々として拡散した。
「んねっ! それでファンが急増! 今や大上くんとファン数ほぼ競ってるらしいよ」
興味津々なふたりに連れられ、俺も応援席の前方に立ち入ることになった。ちょうど障害物リレーがつつましやかに終わったころだった。障害物用の備品が迅速に撤去され、更地に戻ったグラウンドに宍戸昇を含む長距離走の出場者が入場した。
首に巻かれたままのあの赤い首輪を、宍戸昇は無理やり額あたりまでずり上げ、固結びをした。パーマの髪が乱雑に浮き上がり、寝起きも同然のボサボサ頭になる。だが当の本人はこれっぽちも気にしていない。気にしなくても顔のよさで十二分に美しさを保てている。
その造形美を崩すようにあくびをしながら、彼は走者のスタート位置の一歩うしろについた。スターターピストルが天高く撃たれた。ワンテンポ遅く走り出した彼に、紅白問わず応援席から黄色い声援が爆発した。
彼はペースを乱すことなく、朝のジョギングよろしくグラウンドのトラックをまわった。髪やハチマキやTシャツ、彼のまとうすべてが弾み、風が目に見えるようだった。
やや前傾がちなフォームで白組の応援席の前を過ぎた。風に混じり、なんとも形容しがたい匂いが舞った。無臭でもなく、香水ほどの人工的な作為も感じない。甘くもなく渋くもない。よくわからない。異様に喉が渇く。
俺はひとりで席に戻り、スポドリを口に含んだ。冷えた液体が、頭にきんと響いた。
長距離走は二百メートルのトラックを五周する持久戦。頑なに立ち見していた周りもぼちぼち座り出した。そのおかげで競技の様子は実況に頼らずとも一望できた。しかしながら進捗に差が出始め、どこが先頭か自力では見分けがつかなくなっていた。宍戸昇の優雅な走りがよりいっそう混乱させた。ずば抜けた背丈に、恵まれた骨格。さらに頭に固定された派手な赤色は、どこにいても目立つ。結局実況に耳を澄ました。
「おおっと!? ついに紅組の宍戸昇が一位に躍り出たー!!」
こめかみを汗が伝ったのがわかった。太陽が頭上で笑っていた。まだ渇きが癒えない。
宍戸昇はそのまま一位でゴールインした。汗が流れているだけで疲れているふうには見えなかった。もう一回同じコースを走れと言われたら、しれっとできてしまえそうだった。
一位の待機場所でじっとせず、入場した即席の門からさっさと退場しようとした彼に、紅組の女子がひとり駆け寄った。細いフレームのメガネをかけた彼女は、顔も真っ赤にしながらタオルを差し出した。
「ご、ゴールおめでとう、宍戸くん! あと……あ、ありがとうね、出てくれて」
学級委員的な雰囲気のある彼女は、なかなか受け取ってもらえないタオルを半ば無理やり押しつけた。彼は仕方なくそのタオルで首の汗を拭った。周辺の女子たちがわかりやすく色めき立った。
「何が。ただ走っただけだけど」
息も脈も正常な発声。建前ではなく本心からの言葉だった。
誰のためでもない、自分のため。自分の気持ちに正直な人。だからきっと告白も断り続けているのだ。
赤を身につけた身体の内は、純真無垢な白さ。
本当に、俺とは正反対だ。
「おいおい聞いたか満。なんちゅうイケメンだあいつ」
いつの間にか隣に戻ってきていた百田が、自分の椅子にどっすんと座り、うなり声を上げた。
「はあ、得しかねえ人生ってあんだな。前世で世界とか救ったんか」
――別に、得でもねえし。
いつかの言葉が耳をかすめた。ついうなずきかけ、スポドリのペットボトルに口を当ててごまかした。凍った中身がまだ溶けきらず、たった数滴の雫が口内を潤した。
「そういえば帆波は?」
「あー、次の二人三脚に呼ばれてた。あいつ、十分前には待機しなきゃいけなかったのに宍戸昇に夢中で忘れてたみたいだぜ。あんなんでちゃんと走れんのかねえ」
Tシャツの袖をまくった百田は、筋肉を自慢するように腕を組んだ。
「まー、おまえが応援すんなら大丈夫か」
ニヤニヤしながら俺を一瞥した。一拍置き、あっ、と二度見の勢いでまた一瞥した。今度は俺の背後を。
「みーつるっ」
呼ばれて首を向かせれば、応援席のうしろにピンクの髪が見えた。紅白に慣れた目にその異色はひどく刺激的に映った。
アヤネ先輩に手招かれ、俺は席を立った。
「敵軍の応援席に来てどうしたんですか。睨まれますよ」
「もう十分睨まれてるからへーき」
人口密度の高い応援席で注目は避けられない。百田なんかガン見している。
俺は彼女を木陰の下まで誘導した。
「それで、何か用事でも?」
「用事がないと会いに来ちゃだめなの?」
「いえ、そういう意味ではありませんが」
彼女の口角はずっと上がっていた。
「顔が見たかったの。あと、写真も撮りたくて」
するりと腕を絡められた。ねっとりとした肌が血管の上をすべった。湿度の高い梅雨が戻ってきたかのような感触だった。
先日の帰り道に一緒に撮ったプリクラをケースに挟んだ彼女のスマホで、似た構図の写真を何枚も撮りためた。俺単体の写真もねだられ、フェンスを背にポーズも何もせずに二回のシャター音を許した。
「あのね、あたし、このあとの二人三脚に出るんだ」
「ならもうすぐ入場では? ここにいていいんですか?」
「大丈夫。走って戻れば間に合うよ」
計算された上目遣いの角度。瞬きの速度。
ピンクが痛くて、思わず目を細めた。
「満。あたしのこと応援してくれる?」
紅組のTシャツを着こなした彼女は、白組の陣地で堂々と頼んだ。「応援して」までが本音で、「くれる?」が蛇足だった。返答はひとつしか許されていなかった。
「わかりました」
「ん~堅いなあ。タメでいいって言ってるのに」
期待という名のラメに満ちみちた目。俺を意のままに召したがる、さながら姫の面持ち。
汗が引いた。
渇きが消えた。
元から無愛想な俺がいくら冷めても、彼女は気づかない。気づけない。
「あ、そうそう、今朝言い忘れてたんだけど、お昼はあたしのクラスにおいで。お弁当、一緒に食べる約束でしょ?」
俺の返事を待たずして踵を返し、入退場の門のところへ行ってしまった。
席に戻ると百田に散々茶々を入れられた。四方八方でひそひそ話も繰り広げられ、あとで昼食のエサになるだろうと思った。
二人三脚が開戦すると周囲の興味が俺から離れ、応援が再開された。隣の百田だけは一生おちょくってくる。
「なあなあ。帆波と今カノ、どっちも応援すんのか? 浮気者」
俺は何も言わなかった。
出番はアヤネ先輩のほうが早かった。それでも静観し続けた。
「応援してくれる? わかりました~、って。あのやりとり、なかったことにしようとしてるな?」
横目に挑発的な笑みが見えた。
「まったく、悪い男だぜ」
安心しろ、チクったりしねえから、と背中をがつんと叩かれた。ふつうに痛い。
なんだかんだアヤネ先輩も帆波もいい結果を得られず、四位とか五位とかなんとも言えない順位で決着した。先ほどトップを獲った百田は、とぼとぼと帰ってきた帆波を鼻高々に出迎えた。百田が俺にもコメントを求めたので、お疲れ、と無難に労いのひと言をかけた。帆波は次はがんばると言って、早々に女子綱引きの準備に向かった。
そうして台風の目、スウェーデンリレーが滞りなく進行し、昼休憩に入った。今回は約束をきちんと守り、アヤネ先輩のクラス、三年二組に伺った。アヤネ先輩を始め、クラスのほとんどの女子に囲まれて食事をした。このクラスは女子が覇権を握っているようで、男子はかなり肩身が狭そうだった。
「あたしが料理上手って、ギャップでしょ? ど? キュンッてした?」
手作り弁当は、朝から何度も自慢してきただけあり、ボリュームがありながら彩りも豊かでレシピ本から飛び出してきたかのようだった。
「とてもおいしいです」
礼を言うと、そうじゃなくて、と拗ねられた。彼女の友人たちがほほ笑み合いながら「かわいい」を連呼した。
言ってほしい言葉。見せたい姿。どう思われているか。
欲望の全貌が、弁当によく表れていた。
食欲が失せ、時間もそこそこに切り上げた。自分のクラスに戻り、あらかじめ買っておいた栄養ゼリーを摂取した。
本日の最高気温に達した午後は、応援団による合戦から幕を開けた。昼食でエネルギーをチャージし、日光に負けじとあたためられた環境下で、満を持して俺の初登板がある。全学年合同の借り物競争だ。
我が校の体育祭はひとり二種目以上出場しなければならないルールだ。それさえなければずっと応援席にいたが、そういうわけにもいかないので、あまり練習する必要のない種目を選んだ。
出場ゲート前に行くと、宍戸昇と鉢合わせした。驚きの声が出た、周りの人が。
おそらく彼も俺と似たような理由で借り物競争を選択したのだろう。明らかに目が合ったが、互いに挨拶すらしなかった。休憩中に昼寝でもしていたのか、ハチマキを輪にしてはめた彼の頭はさらに乱れ、鳥の巣のようになっていた。
運営を務める体育祭実行委員による合図でアーチをくぐると、激しい歓声に待ちかまえられ、鼓膜がひりついた。応援合戦で声量に歯止めが効かなくなったせいもあるだろうし、話題の東西代表がそろっているからでもあるだろう。
応援席には白組側に帆波と百田、紅組側にアヤネ先輩が最前列にいるのがわかった。三人とも何かを叫んでいた。口の動きから察するに俺の名前だった。
初手から宍戸昇が出陣し、応援合戦以上に声援がぶつかり合った。ちなみに俺が出るのは最後のレースだ。
パァンッと空砲が放たれ、六名の走者が走り出した。
宍戸昇はほぼ歩きのような駆け足で、お題のカードが並ぶ長テーブルのところに向かった。もう最後の一枚しか残っていない。荒れた髪を片手でさらにかき乱しながら、トランプほどのサイズのカードをめくった。そして、動かなくなった。
「どうやら校内で一、二を争うイケメンの宍戸くんが選んだのは、各レースに一枚用意された借り物ならぬ借り人のカードのようだ! いったいどんなお題が書かれているのか!?」
これは我が校の伝統ともいえる裏ルールだ。今年度入学したばかりの一年生の中には今はじめて知った人も多いだろう。彼はどうだろうか。この場にいる全員が固唾を飲んで見守った。
目当ての物体を探し回る競争相手をよそに、借り人の指示が示されたカードをじっくり見つめること十秒。すっと顎を上げ、首を回した。風をまとう無骨な顔が、俺を正面に捉えた。
直射日光と重なった彼の眼光をもろに食らい、目が眩んだ。何度か瞬いてから直視した矢先、彼が接近してきた。スタートダッシュよりもたしかな足取りだった。走者の待機列をかき分け、真っ直ぐ俺の元に来た。
真向かいから見ても立体的な相貌は、精巧に引き締まっていた。
分厚い手がぎりぎり握りつぶさずにいるカードが、素っ気ないラブレターに見えた。
あれだけ叫んでいた周囲は、呆気に取られ静まり返った。草木が揺れ、鳥が鳴いた。小さな羽根が花弁のように舞い落ちた。
ひと言もなく左肘の下あたりをつかまれた。彼はそのまま俺を引きずり、来た道を引き返した。
スタートラインからゴールテープまで五十メートルもない一直線。お題が何かわからなかったが、尋ねている間にゴールしそうだと思い、黙ってついていった。思いのほか身長差はなく、並走するのはたいしてきつくなかった。
砂の上をすべるように走るたび、目の前の赤いハチマキが首根へ沈んでいった。俺を逃がさんとする強固な腕が、それにつながるリードのように感じた。
汗がにじむ。白いハチマキに吸収され、肌を汚すことはなかった。
ゴールテープは切られていた。すでに一着でゴールした人がいたようだ。
ゴール横に立つ、体育祭実行委員の腕章をつけた女子に通行証さながらカードを渡し、ゴールラインを過ぎた。審判の女子は顔色を噴火させ、両腕で大きく丸を作った。
「宍戸氏のお題は、び、び、『美人』だーーー!!」
すかさず放送席が反応した。視力がすこぶるよいのだろう、ほぼ時差なく周知された。
ゴールラインをかなり越えてからゆるやかに止まった宍戸昇は、前髪を振り払いながら俺を見やった。
「あんたじゃん?」
「ああ、たしかに」
グラウンドが揺れた瞬間だった。
「これは文句なしのクリア! 紅組ワンツーフィニッシュで大量リードだーーー!!」
今まで抑えていた感情が勢いよくぶちまけられ、いたるところで絶叫のユニゾンが起こった。ただし百田だけは「敵に塩を送るな!」と見当ちがいなことをここまで聞こえるほどのボリュームで喚いていた。優雅に飛んでいた鳥が怯えて逃げていった。
宍戸昇は俺の腕から離した手で片耳を覆った。ピアスの穴はひとつもない、きれいな耳だった。そんなイメージはあった。
俺も開けていないし、これからも開けるつもりはない。高校に入って二番目にできた彼女に勧められたが、じゃあいいやと断った。SNSのアカウントを作るのとはわけがちがう。俺自身を変える要求だ。不相応な願いだ。なぜ許されると思ったのか。ありえないだろう。
悪いけど、俺は寛容ではない。
根深い欲望で心はとうにねじ曲がっている。自分でもわかっている。
「どうも、美人さん」
皮肉めいた口調で雑な感謝をもらった。それくらいがちょうどいい。
外皮の美しさを盲信されるより。どうしようもない本能が目覚めてしまうより、ずっと。このくらいの対等な距離が。
けれどなぜだろう、ふつうではない心から、また、カサカサと音がした。まだ水分が足りていないせいかもしれない。もらいものの冷凍されたスポドリは、そろそろいい頃合いだろうか。
待機列へUターンすると、彼もついていこうとして審判の女子に止められていた。その光景を脇目に、借り物競争では使っていないトラックをとおって列に戻った。
俺のターンは思いのほか早く訪れた。念のため手足をほぐしてから位置についた。よーいドンの合図で長テーブルまで進んだ。右端のカードを選び取った。
『気になる人』
人という字を太文字にして記されていた。
「これは運命のいたずらか!? 宍戸昇に続き、もうひとりのモテ男・大上満も、借り人のカードに当たったようだ!」
ハウリングを起こした放送席、モスキート音も同然の高音を絶え間なく発する応援席。それらを見回した終着点、入退場ゲートのアーチ付近に、ダビデ像に似たシルエットを発見した。首にへたりこんだ赤いハチマキに、毛先を擦らせた色素の薄い髪。遠目からでも厚みがわかる、焼けた赤色の背中。おもむろに角度が変わり、顔が見えた。と同時に俺は応援席に視線をひるがえした。
歩き出すと、歓声の音程がよりいっそう上がっていった。帆波や百田のいる自軍をとおり過ぎ、敵軍に向かった。紅組の応援席、その最前にいる彼女のところに。
「アヤネ先輩、一緒に来てくれませんか」
こういうとき、ピンクの髪色だと見つけやすくて助かる。
最短距離を直進してきた俺に、彼女は大げさに息を呑んだ。
「えーっ、あたしぃ?」
「はい」
「なんでなんで? お題は何だったの?」
「気になる人です」
俺が言い切る前から事件性でもありそうな声があちこちで多発していた。
「うふっ、そっかそっかぁ。それはあたしじゃなきゃだめだね!」
周囲の友人たちから突っつかれ、彼女は応援席から飛び出した。俺の手を握り、チークの色を濃くしてはにかんだ。大歓声を浴び、彼女の笑顔は甘くなる一方だった。
一位に固執していないので彼女に合わせてゆっくり走った。最下位だった。お題が公表され、公然の惚気だのイチャつくならよそでやれだの、お幸せにだの、放送委員と百田を筆頭にいじられた。拍手にまじり口笛も響き、ハッピーエンド感を演出された。彼女は本当に幸せそうだった。幸せだと自分でも言っていた。意図せず弁当の礼になったなら、よかった。得になったとも思ったが、もちろん口には出さなかった。
競争自体は紅組優勢で終わり、退場になった。俺は彼女を元の場所に送り届け、白組の応援席に移動した。短い道中、俺の話題ではしゃぐ女子のグループをいくつも見かけた。
「めっちゃかっこよかったね満くん!」「わたし最初さ、昇くんに声かけるのかと思ってドキドキしちゃった」「え、わかる! ちょっとありそうだったよね!」「あのコンビが二連チャンはさすがに心臓に悪い」「でも彼女さん連れてったのはときめいたよね」「やっぶぁいねあれ! リアル王子じゃん!」「あんな彼氏ほしい~!」「告白しちゃう?」「えー!?」「あはは!」
自分の椅子に置きっぱなしにしていたスポドリは、氷部分がなくなったどころかだいぶぬるくなっていた。ぐっと流し飲み、また出場の準備をした。今度は綱引きだ。帆波と百田も出る。全員で挑んだ綱引きは秒殺だった。白組の圧勝。これでまた点数が並び、接戦になったと放送が入った。
「あと三種目で勝負が決まる!」
熱が入ったコメントを聞きながら、南校舎近くの水道で手を洗った。
俺の仕事は終わった。今は帆波が玉入れに出ていて、次に教師陣対抗リレー、最後に百田が活躍するであろう選抜リレーがある。俺はあとただ観戦するだけでいい。このままサボりたい気持ちもあるが、熱中症疑惑で無駄に騒がられるのは面倒だ。
グラウンドに戻ろうとしたとき、校舎の陰から見覚えのあるピンクがちらついて見えた。
「あやちゃんさ、ぶっちゃけさっきの借り物競争のときどうだった?」
「え? 最高。ちょーハッピーだった」
アヤネ先輩とその友人が複数名、深い深い陰で涼んでいた。校舎脇にある水道のほうにいる俺の存在には気づいていないようだ。
「少女漫画みたいで、見てるこっちも最高だった!」
「途中からだけど動画撮っといた。いるっしょ?」
「いるいる! 今すぐほしい! 見せて!」
「やばいよ、バズり確定」
「やだぁ、あたし有名人になっちゃう!」
青ざめた空にまでピンクが点して見えた。最悪な気分だ。
「このあとちゃんとSNS用の写真も撮るんでしょ? ヘアメイク直しとく?」
「ビジュがいいうちに撮った! 全部激盛れ。見て、投稿一枚目どれがいいと思う?」
遠くでピーッ! とホイッスルの音が鳴った。玉入れの時間が終わったのだろう。ガールズトークは途切れなかった。おそらく彼女たちもすでに種目に出尽くしたのだ。
「そういえば、しょっぱなの短距離走、やばくなかった? 大上満の元カノ選手権。まじの修羅場じゃんね」
「でもあんなんで勝っても意味なくない? だって今カノはあたしだもん。あたしが優勝!」
「あはっ、間違いないね。過去より今!」
「そうだよ。満は今、あたしの。あたしがみんなの憧れのカップルになってあげる。文化祭のミスミスターコンにふたりで出ちゃうのもありだなあ」
ホイッスルにつられたか、しゃべり声に音符がついているようだった。お祭り気分でそうとう浮かれてしまっている。さすがに目に余るものがあった。
「アヤネ先輩」
死角から顔を覗かせると、彼女たちは一歩飛び退いた。影に浸かった彼女の髪は、腐った血肉のような色をしていた。
「び、びっくりしたぁ。満、いつからそこにいたの? いたなら声かけてよ」
「驚かせてすみません、今ちょっといいですか?」
彼女は困惑気味にうなずいた。友人たちは気を利かせて徐々に距離を取る。
「別れましょう」
「え?」
俺を除く全員が硬直した。先ほどの借り物競争で誘ったときとテンション感に差がないから信じられないのも無理はない。
もう一度、別れてください、とはっきり言い直すと、彼女の身体が小刻みに震え出した。
「わ、別れる……? え、な、な、なんで? なんで急にそんな」
「もう潮時だと思いまして」
「で、でも、さっきはあたしのこと、気になる人に選んでくれたよね?」
「はい、あれは助かりました。ありがとうございます。でもごめんなさい」
ばちんっ。静電気が起きたような衝撃が右頬の表面を走った。痛いのは最初だけで、すぐに感覚は落ち着いた。
わなわなと強ばった華奢な手が、目下に沈んだ。
ハチマキがほどけ、ひらりひらりと地面に落下した。白が、汚れた。
「ひどいっ! あれだけ期待させておいて……サイッテー!」
目尻に涙をためた彼女に、友人たちが駆け寄った。全員が俺を睨んだ。やはり痛くもかゆくもなかった。
にぎやかな空気が遠くに漂っていた。
「俺のこと、好きにできると思いました?」
光の差さないこの場所で、俺の目はどう映るだろう。
彼女たちの顔からどんどん血色感がなくなった。加工品の輝きが涙と汗とぐちゃぐちゃに混ざり、淀んだ。俺がハチマキを拾う隙に、脱兎のごとく逃げていった。
またか。
また、こうなった。
ハチマキについた砂を払い、ひと息ついた。
もう何度目だろう。中学のとき、はじめて付き合った子もそうだった。名前はアヤネ先輩と似た音感だった気がするが、もう憶えていない。思い出す気もない。
それまでは告白されることはあっても断っていた。理由は単純明快、興味がなかったからだ。しかし、その子はあきらめが悪く、しつこく追いかけてきた。しまいには泣かれ、仕方なく受け入れることにしたのだ。
初カノというイベントは心が向くものではなかったが、初カノが幸せそうにしているところを見るのは存外悪くなかった。
俺なりに彼氏役をまっとうしていたつもりだったが、彼女の好意はエスカレートしていった。生半可な幸福では満足できない身体になってしまったのだろう。あれだけ一途で無邪気だった恋慕は、承認欲求を満たす道具に成り果てた。
「あたし、人生の中で今が一番幸せだと思う。だって、満がいるから。ちゃんと恋人扱いしてくれるし、わがまま言ったらなんでも付き合ってくれる。みんなからもうらやましがられる。そんな完璧な満があたしの彼氏だっていう事実がたまらなくうれしいの」
彼女の心のままの言葉に、何も共感できなかった。
何を言っているんだろう。俺が、彼女のもの?
ちがうだろう。
自分の立場をわかっていない。
使役も、所有も、彼女の手中にはない。俺のものだ。彼女のひとりよがりな愛も、俺の支配下にあるのだ。
ごく自然に行き着いたその考えを、自分でもおそろしく感じた。
きらわれるより好かれることのほうが多い人生。
生まれながらちやほやされ、優位に立ってきた。そうして自分でも気づかないうちに育ててしまっていた。
吐き捨てるほどの愛を得た代償。醜い本能。
名前をつけるなら、支配欲。優越感。プライド。どれもしっくりこなかった。けれどそれはまぎれもなく欲望の形をしていた。
今さらどうにもできなかった。
俺の容姿と環境は、いわば好意と欲望の製造機だ。長年の慣れもあり、誰にも止めることはできない。
だからいっそのことすべての告白を受け入れようと決心した。止められないのならば、委ねてしまおうと。
よくわからない他人の恋愛を拾ったり捨てたりしながら、いつか、自分の欲望が弱体化するときを待った。あるいは、吐き出せるときを。
いまだそのときは来ていない。
ただの一度も心の声に素直になれたことはない。
ハチマキを結び直そうとして、やめた。もうすぐこの祭りもお開きだ。右手に巻きつけるようにして握りしめた。
ふと前方を人影が過ぎていった。頭上から赤茶の毛束と白いハチマキが崩れていく、そのうしろ姿は、帆波が「あゆちゃん」と呼んでいた子ではないか。グラウンドに向かう足はどこか不安定で、目や頬には涙がこぼれていた。
彼女が出てきた南校舎を仰ぎ見た。二階の窓に、炎のように揺れる赤色が透けていた。部屋干しされたTシャツかハチマキか、しかし人体の首が見え、推測を修正した。そういえばあそこは旧音楽室にあたる場所だ。
宍戸昇はこんな日にも呼び出しを受けたらしい。
それからしばらく経っても、窓から赤色が消える気配はなかった。閉会式前の告白は、サボるには都合のいい口実だったのだろう。
うらやましく思いながらも、温度の高まるほうへ身を投じた。
グラウンドの応援席側に入るやいなや、帆波と百田に捕まった。
「大上くーん! 閉会式の前に写真撮ろーよー!」
「俺の五人抜きを観ずに何してたんだよ。あ、まーた彼女といちゃこらしてたのかこんにゃろ。モテる男は大変だな」
「あ、彼女とは別れた」
「は!?」
「えっ!」
「さっきの今で!?」
百田の唾が飛び、ハチマキで拭った。
「はあ? なんで? 今がいっちゃん楽しい時期じゃねえの? 知らんけど」
「なんか気持ちが切れちゃったから」
「情緒不安定かよ、ってツッコミしてえが、全然不安定に見えねえの何なんだよ。冷てえ男、直訳するとクールガイ」
「褒めてるのかけなしてるのかわからないな」
「あーけなしてるよふつうに」
「ちがうよ、僻みだよ僻み。スルーして大丈夫なやつ」
帆波はウキウキで俺たちにスマホのカメラを向けた。シャッター音はしなかった。動画みたいだ。
「おい帆波には耳を貸すな満。カメラも見なくていい。独り身の男同士で撮ろうぜ」
「心せまーい。いいもん、大上くんだけ映すから」
「体育祭MVPの俺を映さない!? 節穴だな!?」
「自称じゃん。プリンス大上のほうが重要!」
「おまえしか使ってねえ他称も似たようなもんだろうがよ」
「だから! あゆちゃんとか美里も呼んでるって何度も言ってるでしょ!」
少し離れたところに、さっき泣いていた「あやちゃん」を見かけた。泣き跡はきれいさっぱりなくなり、クラスメイトらしき男女数人と談笑していた。
一方で、宍戸昇はどこにもいなかった。旧音楽室にこもっている姿が目に浮かんだ。いや、すでに校舎を出て帰路についているかもしれない。あの、首輪を取って。ひとりで、自由に。俺にはできなかったことだ。
いつの間にか陽射しが弱まっていた。
衣服から伸びた手足はうっすら焼け、じんじんと痛んだ。
元カノのことは頭になかった。紅白の勝敗についてはなおさらどうでもよかった。



