次の日。
朝からザーザー降りの雨が世界を灰色に染める中、俺はいつもより重く鈍い身体をベッドから起こした。
昨日決まった偽装カップル作戦は、今日からスタートするらしい。決まったからには仕方がないが、まだイマイチ実感が湧かない。
傘立てから傘を取り、いつもの待ち合わせ場所へ向かう。
四つ角で待つ涼太は、なんだか少し嬉しそうに見えた。
「涼太、おはよ」
「ん、おはよ」
涼太は俺に向かってふんわりと微笑むと、傘を持っていない方の手をスッと差し出してきた。
「……え?」
意味が理解できず、俺はその場で立ち尽くしてしまう。
「ん? どうしたの?」
「いやいや、何その手」
「何って、手繋いで行くでしょ」
「あ、ああ……! ……え、は?」
当然のように手を繋ぐ流れになっているが、そんな約束をした記憶はない。
動揺を隠せない俺を見て、涼太はくすっと笑った。
「昨日の話忘れたの? 俺たち今日から付き合ってるんだから、手を繋いで通学しないと。幽霊に見つけてもらえないよ」
忘れていない。決して忘れてはいないのだが、急に手を繋ごうと言われると戸惑ってしまう。
俺の通学初日にも同じようなことを言われた気がするが、涼太がそういう冗談を言うのはいつものことなので、あまり気に留めていなかった。ただ、今日の涼太は本気らしく、差し出した手を引っ込めるつもりはなさそうだった。
「じゃ、じゃあ、失礼します……」
実際に付き合っているカップルとは、「手を繋ぎましょう」「はいそうしましょう」と言って手を繋ぐものなのだろうか。
そんな疑問を抱きながらも、やると決めたことはやらねばならない。俺は恐る恐る涼太の手を取った。
「お、おお~……」
誰かと手を繋ぐなんて何年振りだろう。小学生のころに、親に手を引かれていた記憶があるくらいだ。
「なに、その感想」
「いや、誰かと手を繋ぐなんて初めてだな、って……」
「え、俺と昔手を繋いで遊んでたの、忘れちゃったの?」
「マジ?」
記憶を辿るってみるが、そんなことは全く覚えていない。
「ほら、俺たちが小学生のころ。尚樹が近所の心霊スポットに行きたいってうるさいから、2人で行ったじゃん。神社裏の洞窟。でも、尚樹、自分から言い出したのに『怖い~!』とか言いだして」
「……ああ、そんなこともあったかもな」
「その時に、俺が手を繋いで行こうって言ったら、すぐにくっついてきたよね」
「…………」
「あれ、どうしたの?」
「な、なんでもない」
まるで絡まった糸がほどけるように、当時の記憶が蘇ってきた。あの時涼太と繋いだ手は温かく、ひどく安心したことを思い出す。
雨のせいだろうか。それとも俺と同じように、この男も緊張しているからだろうか。あの頃と比べて、今握っているこの手はどこかひんやりとしていた。
「……思い出した? あの日、頼られたの結構うれしくて、ずっと覚えてるんだよね」
「……あ、そ」
「あは、尚樹、照れてる?」
「照れてねーよ!!」
にこにこと笑う涼太に、すっかり翻弄されてしまう。「そういうの得意かも」なんて豪語していただけあって、その彼氏面は見事なものだった。
「ほら、もうちょっとで学校着くだろ!! 離せ離せ」
俺がぶんぶんと腕を振ると、涼太は名残惜しそうに手を離した。そしてそのまま、俺から離した方の自分の手を、いとおしそうにしばらくじっと見つめていた。
*
午前の授業を終え、いつも通り屋上へ集合した俺たちだったが、降り続く雨は止む気配がない。こういう天気の日はいつも、屋上へ続く階段の踊り場でご飯を食べることにしている。
「尚樹、今日のお弁当何?」
「んー、今日は……」
プラスチック製の弁当箱を開くと、そこには卵焼き、ミートボール、ブロッコリー、たこさんウインナーなどのおかずがバランスよく並んでいた。登校初日はこれよりもさらにみっちみちにおかずがひしめきあっていたため、これでもだいぶ落ち着いた方だと思う。母親の心配が和らいできたのは、涼太が俺の面倒を見ているからかもしれない。……不本意ではあるが。
「いつも食べてるやつ、美味しそう。お母さんの弁当、綺麗だね」
「そうか……? まあ、お前からすればそうなのかも……」
涼太はいつも、お昼には購買のパンを持参していた。親と特段折り合いが悪いという印象はないが、俺があまり気にしていないだけで、何か特別な事情でもあるのだろうか。
そういえば中学生のころ、彼が突然髪を染めて俺の家に転がり込んできたことがあった。詳しく話を聞くことはできなかったが、親と喧嘩したような雰囲気があったことを思い出す。
そんな風に物思いに耽っていると、涼太が俺に向けて、弁当のたこさんウインナーを差し出していることに気がついた。
「…………え」
流石の俺でもわかる。これは所謂、あーんってやつなのではないだろうか。
無理もない。だって俺たちは朝、仲良く手を繋いで登校してきた。なぜなら偽装カップルだからだ。そして今、あーんをされそうになっている。なぜなら俺たちは偽装カップルなのだから。
「これかわいいね、尚樹のお母さん、タコの作り方うまい」
「タコの作り方にうまい下手あるか?」
「俺がやると、タコ足が広がらなくて」
「タコ足って」
涼太はにこっと笑う。なんだ、この雑談ターンは。このまま有耶無耶にしてくれないものか。
「はい、あーん」
ああ、ダメだ。スルーできなかった。油断させておいて落とすのか。
「う、うう……あーん……」
手を繋ぐよりも何十倍も恥ずかしい。せめて目の前の整った顔を見ないようにと、俺はぎゅっと目を瞑り、口を大きく開けてタコを受け入れた。気持ちを落ち着けるために、よく噛んで味わおう。
たこさんウインナーには、加工品特有のジャンキーな美味しさがあるな。俺は冷静に頭の中で分析した。
口の中で十分味わったあと、おそるおそる目を開くと、横から俺を観察していた涼太と目が合った。
「……ずっと見てたのかよ」
「うん。照れててかわいいな~って」
「またそれ!」
条件反射的にツッコミを入れる。これはいつもの癖だが、いつもはレア単語であるはずの「かわいい」頻度が異様に高い。
こいつ、偽装カップルとして本気を出すとこうなるのか。
たしかに、いつもの冗談の中にも勘違いしてしまいそうになる言動はいくらかあった。あいつがあまりにも優しく微笑むものだからだ。しかし、そのたびに俺はツッコミを入れることで、変な意識から自分を逃がしていた。
それを繰り返すうちに、俺は条件反射的に、何も感じない精神を作り上げることに成功していた。
しかしながら、このように本気で来られると……心臓に悪い。
俺はその球を受け流す訓練はしていても、打ち返す訓練を積んでいるわけではないのだ。
カツカツと、弁当のおかずを口に掻き込む。涼太もそれを見て、自分が持ってきたミルクパンを齧った。
「あ、尚樹、口に米粒ついてるよ」
「え、マジ?」
自然と涼太の手が俺の口元に伸びる。そこで俺は気が付いた。
――こ、これはまた王道のパターン!?
俺の予感は的中し、涼太はなんのためらいもなく、俺の口元についていたであろう米粒を取って食べてしまった。
「おい……お前、度を越してるぞ」
「え? なんで? 今のは普通だけど」
「そんなわけないだろ!」
「尚樹の口についてた米、普通のよりちょっとおいしい」
「幽霊より怖い!」
涼太の目には本気の魂が宿っていて、なんというか、偽装っていう雰囲気じゃない。
霊の噂が本当なら、ここまでラブラブしていれば幽霊の1匹でも釣れそうなものだが。
ーー早く呪いが現れてくれないものだろうか……。
俺は慣れない行為と案外本気の幼馴染に翻弄され、そんなことを考えていた。
