次の日、俺は見事に風邪を引いてしまった。
「尚樹、大丈夫なの? お母さんもお父さんも仕事休めないからそろそろ行かなきゃだけど……」
心配した母親がベッドの枕元に果物とおかゆを運んできた。
「仕事って、もう中学生じゃないんだから、大丈夫だ……こほっ、ほら」
俺は≪36.7≫と表示された温度計を母親に見せる。
「うーん、なんとも言えないわねえ……」
「いや、めちゃめちゃ平熱だろ! こほっ……」
やはり俺が倒れてから、母親の心配性には磨きがかかっているように思う。
「まあ、何かあったらすぐに連絡するのよ。熱が上がったとか……変なもの見えたりとか、そういうのも! それか救急車ね」
大げさなことを言い残し、母親は仕事へ向かっていった。
部長と涼太に連絡しておかないと。そう思って、スマホを取り出す。
『涼太へ ごめん、今日は俺が風邪を引いた。学校は1人で行って』
『部長へ すみません、風邪を引きました。学校を休むので、今日は部活へ行けません』
よし……と、スマホを裏返して枕元に置く。ふう、と息をつくのも束の間で、すぐに通知を受け取ったスマホがブルブルと2度震えた。
『尚樹へ 了解。放課後お見舞いに行くよ。近くまで行ったらメッセージ送る』
『尚樹君 彼氏なのでお見舞いに行きます』
「まずい、2人ともお見舞いに来るつもりだ」
面倒なことになったと思った。病人なのだからゆっくりと休ませてほしい。特に部長の敬語はなんなのだ。そして偽装彼氏だからといって、お見舞いに来る必要はないし。
昨日はあのあと、部長のバイクに乗り、自宅まで送ってもらった。それ自体はありがたいことなのだが、途中で着替える場所があるわけでもなく、結局、女装したまま帰宅する羽目になったのだ。母親に見つからないようにゆっくりと玄関の鍵を開け、自室のクローゼットへ濡れたままの衣服一式を放り込んだ。
つまり、部長は俺の家を知っているし、涼太に関しては言わずもがなだ。
2人とも放課後に来るだろう。俺はそれまでに体力を回復させておこうと、母親の用意したおかゆをゆっくりと平らげたのち、静かに眠りについた。
*
何時間眠っただろうか。寝起きにスマホを確認すると、時刻は14時を過ぎていた。
「……腹減ったな~」
俺は1階のリビングへ降り、冷蔵庫の中を物色する。扉を開いた瞬間、冷気が汗ばんだ俺の肌を撫でた。
そういえば、昨日まで降り続いていた雨が止んでいる。梅雨明けで本格的に暑い季節がやってくるのかと思いながら、冷蔵庫の中にあったプリンを取り出した。ぺりぺりとビニールの蓋を剥がし、キッチンの引き出しから、母親が何処となく集めたであろうプラスチック製の小さなスプーンを探しあて、ツヤツヤのプリンを掬い取ろうとした……その時、パジャマのポケットに入っているスマホが通知を受け取って震えた。
『今、家の前来たんだけど、起きてる?』
「……え、涼太?」
まだ授業が終わっていないはずの時間に。なぜ、涼太が?
急いで玄関に向かうと、そこには本来まだ授業を受けているはずの幼馴染が立っていた。
「お前、なんでこんな時間に来れるんだよ」
「はは、授業サボってきちゃった」
「なんでだよ!」
もしかして、涼太って不良なのか。
そういえば、学校ではいつも彼が俺を迎えに来るか、どこかに集合するかばかりで、教室で彼の様子を見たことがない。
「昨日は俺が学校行けなかったから。2日間連続で会えないのは心配だし、部長とのこともあるし」
部長とのこと、と言われ、心臓がどくんと跳ねた。
――昨日のことは、涼太には言わない方が良いかもしれない。
「まあ、とにかく! 俺はこの通り1日休んでだいぶ元気になったから」
俺はにっこりと笑い、元気よく腕をぐるぐる回して見せた。
「……ダメだよ、ちゃんと休まなきゃ。部屋行こう」
「まあ、そうだな……あ、ちょっと待て、プリンだけ食べるから」
こうして俺はプリンを口の中に掻き込み、一緒に自室へと戻っていった。
「熱ある?」
涼太は俺の額に手を当てて熱を測っている。微熱がまだ引かないのか、その手はひんやりとしていて心地が良い。
「ああ、それなら全然。もともと微熱だったし。明日には治りそう」
「そうなんだ。よかった。……この部屋、久々に来た。やっぱり、だいぶ変わったね」
「ん? まあ、そうか」
確かに俺の部屋は、事故に遭う前とそのあとで変わった。おそらく意識が混濁している2カ月の間に、母親が俺のありとあらゆるオカルトグッズたちを整理したのだろう。俺自身も入学直後で勉強に集中していたため、まだレイアウトは整理されたままだった。
思えば高校生になってから、涼太が家に来たのは初めてだ。以前は毎週とはいわないが、もうちょっと頻繁に遊びに来ていた気がする。
「……昨日、部長とは何したの?」
涼太が神妙な顔つきで言う。ここに来た時から聞きたくてたまらなかったのだろう。
「あ、ああ……海辺デートみたいなことを」
「なんで海? 約束は? キスとかそういうの、されなかった……?」
「あ、ええと……」
部長とのことは隠しておいた方がいいと思ったが、俺は嘘を吐くのも取り繕うのも苦手だ。だからと言って、言い訳するために部長のプライベートな事情まですべて伝えるわけにもいかない。
「う、ううん、されなかった……。口には」
「それは口じゃないところにはされたってことだよね」
「ま、まあ、部長は本当に、呪いのこと以外は何も考えてなさそうだったし……」
嘘を言ってはいない。実際、部長は言うほど俺を本気で口説こうとしているようには見えなかった。それに、成り行きで聞いてしまったこととは言え、事情が事情である。
涼太は「はあ」と大きく息を吐いてこめかみを押さえた。
「……尚樹はさ、部長からそういうことされるの、嫌じゃないの?」
「……は」
嫌か嫌じゃないかと言われれば嫌なはずだ。でも、よくよく考えてみたら、ここ最近の出来事に対して、嫌だとかそういうマイナスなことは、意図的に考えないようにしていた。
「そりゃ、あえて聞かれれば嫌だと思うけど……」
「嫌なら、断りなよ」
「ま、でも、キスもハグも普通に生きてたら一生経験できないかもしれないし……これも経験だ、経験!」
「……ハグもしたの」
「あ」
涼太がいつもより強い語気で俺を問い詰めてくる。「ま、俺は気にしてないから大丈夫だけどな!」という態度を見せるため、ちょっと茶化してみたのだが、そんな俺のなけなしの気遣いが裏目に出てしまった。
「キスって、どこにされたの」
「あ、でも実は部長ハーフらしくてさ、キスやハグなんて日常だって――」
「どこに」
「あ、はい……、ここに」
怒りを孕んだ声色に気圧された俺は素直に、自分の右頬を指さした。
「そっか」
涼太の目が、すっと細められる。
次の瞬間、俺の視界がいきなり暗くなった。涼太の顔が、俺の目の前まで迫ってきていたのだ。
「えっ、ちょ……」
微かな音とともに、俺が指さした右頬に、柔らかい感触が押し付けられた。
「…………は?」
涼太はゆっくりと顔を離すと、先ほどの不機嫌さが少しだけ晴れたような、それでいてまだ独占欲を燻らせているような目で俺を見つめた。
「上書き」
「う、うわああああああ!!!」
俺は悲鳴を上げながらベッドの端まで後ずさり、逃げ込むようにシーツを被って身構える。
「な、なにやってんだお前!!」
「だって、嫌だった。尚樹が部長に触られているの」
「だからって上書きってなんだよ! いや、なに、本当に! 意味わかんねえよ!」
「上書きは上書きだよ。あんな変な人の跡が残ってるの、嫌だし。俺が消してあげる」
「消すってなんだよ、消しゴムか!!」
全力でツッコミを入れる俺は、間違いなくさっきよりも熱が上がっているはずだ。
頬に触れた涼太の唇は、熱を持った俺の肌とは対照的に、冷たく感じた。そのせいで、触れられた部分の感覚だけがいつまでも熱く残っている気がする。
「……もう1回していい?」
「だ、ダメだッ! 大体、涼太との偽装カップル期間は終わったはずだろ! 俺をからかうのもいい加減にしろ!」
「からかってなんかない。俺は本気だけど」
涼太はさらりと、爆弾のようなセリフを落とした。
いつもならここで冗談だよと言って、笑ってすぐに引いてくれるはずなのに、今の涼太の瞳には冗談めかした色が一切なく、俺を射抜くように真っ直ぐにこちらを見つめている。
「ほ、本気って……」
これはマズい。完全に俺のキャパシティを超えた何かが起きている。
この家には俺と涼太の2人しかいない。――誤魔化しが効かない。
焦燥に駆られて打開策を探していると、1階からインターホンの音が鳴り響いた。
「あ、お客さんだ! 出なきゃ」
渡りに船だ、助かった。俺は布団から飛び上がり、病人とは思えない速度でインターホンへ向かう。
『尚樹君、彼氏がお見舞いに来たよ! 開けて開けて~』
インターホンのモニターに表示されたのは、オカルト部部長、霧崎白だった。
「……うわ」
俺が頭を抱えていると、いつのまにか階段を下りてきていたらしい涼太が、後ろから冷ややかな目線でモニターに映る男を見つめていた。
