改札を出てから、ざっと辺りを見渡し、埋め尽くす人、人、人に言葉を失った。
都会が人だらけだということは知っていた。一日に電車が数本しかない地方の私からすれば、もはや時刻表など不要なこの世界は、驚愕以外なにものでもない。
慣れるのは時間がかからなかった。
いや違う、慣れるというより受け入れるようになった。似ているようで少しだけ違う。気がつけば夜、気がつけば朝。寝て起きての繰り返しで、仕事で忙殺され、自分が何を楽しんでいたのかすら思い出せずにいた。
デジタル時計は二十時と表示されている。
目の前には巨大な赤提灯、小舟町とでかでかと主張してくる。左右には仁王像が今にも動き出そうな面をして私を睨む。ぐぅ、とお腹が鳴った。
しかし、私はまだやらねばならない事がある。
浅草寺を素通りし、ビジネスホテルにチェックインする。ボストンバッグを床に放り投げた。クローゼットにスーツの上着をかける。パンツのボタンを外し、ウエストを緩めるとようやく開放感が出た。
出張先のホテルの一室。しんと静まり返った部屋で、ごろんと寝ころび、ズボンを脱ぐとボストンバッグから無造作にワンピースを手に取った。上からかぶるだけの簡単な洋服ナンバーワン。そこにネックレスでもすれば、最低限なオシャレの完成だ。
鏡に映る自分を見る。目の下に隈、ごまかすように浮き出たファンデ。ここ最近はストレスで不眠気味だった。
化粧品をたっぷり浸らせたコットンパックをしていた、あの学生時代を思い出す。いまではその気力もなく、適当に叩いて拭いて終わりだ。髪の毛はざっくりとまとめ、電子の波を追って気が付いたら眠るだけ。明日も仕事なんだから、食事なんてその辺のコンビニで買ってくればいいか。ぽろんと通知がなった。
浮かび上がった通知の相手は弟だ。
――姉ちゃん、美味しいラーメン見つけたよ。
画像には紅生姜と葱が山盛りの正統派豚骨ラーメン。背油に小麦色の麺、香りまでたちそうな湯気の画像にごくりと喉が鳴った。
高校生の弟は、私が今現在、お腹を空かせたままホテルの一室にいることも、客先に謝罪にきてへこんでいることも、慣れない靴で歩き回っていたことも知らないだろう。
この野郎、この馬鹿野郎、こんちくしょう。
がばっと起き上がり、ショルダーバッグを手に取った。
ホテルを飛び出し狙うはラーメン、東京で一番美味しいラーメンだ。
行き先の駅はどうしようか。
東京、上野、新橋、品川、目黒か渋谷か新宿か。ここでもう一度時計を見た。すでに二十時半だ。うかうかしていたら、ラーメン屋がしまってしまう。
お腹に聞いた。
あなたは今、何が食べたいの?
醤油? 塩? 豚骨? それとも……うん、つけ麺だ。
山手線に乗り、改札を通ってたどり着いたのは同じく歓楽街――秋葉原である。
煌々と光る電子の森と、二次元で埋め尽くされた摩天楼の街。
どうやらそこに、美味しいつけ麺屋があるらしい。いつぞや聞き流した話を私はこうして記憶の彼方から掘り起こした。
流れに逆らって私は歩く。人などものともせずに突撃、今の私は貪欲かつ強欲である。我は食のためにあり、食は我のためにある。確固たる意志をもって私はぐんぐんと進み、やがてひとつの灯りにたどり着いた。
ぴたりと足を止める。
黒いのれん、看板には金文字で『つけ麺』の筆文字。
絶対ここだ、間違いない。
ざっくりと見て、六人並んでいる程度で、並びからいっても美味しいだろう。
本当につけ麺でいいのか? と私はお腹に問うた。
お腹はぐぅきゅるる、と返事をする。
いよし、それではここに決めた、あなたに私は決めたのだと決意し並ぶ。
メニュー表を確認し、お金を投下しボタンを押した。
つけ麺、トッピングは味付き卵、チャーシュー追加にメンマ増量。目立たないところに海苔もあった。なかなかの金額だ。今の私は天下無敵、これ以上盛れないというところまで盛ってやる。
一人、二人と減っていくうちに、席がカウンターしかないことに気づいた。席についてから、机の上の七味唐辛子を確認する。
贅をつくしたフルトッピングがテーブルに置かれる。
冷水でしめられた麺、熱々のつけ麺スープがどんと置かれた。スープの器は驚くべきことに黒き焼き石だ。五右衛門風呂のようにぐつぐつ煮えたぎっている。
パキンと音をたてて箸を割り、腕まくりをして麺をすくう。
あつあつのスープの中に、麺が沈んでいく。たっぷりとつけてやれ、最初のひとくちが肝心なのだから。そうして、冷えと熱さが口の中で広がった。小麦の味がしっかりとする、コシがある太麺だ。
濃厚な魚介出汁、醤油ベースで作られたスープだ。醤油の味が強すぎず、かといって魚粉も負けてはいない。まるで私のために作られたスープ。醤油の絶妙な香りが鼻孔を駆け抜ける。もう一度、確かめるように、レンゲでスープをひとくち飲んだ。
うん、旨い。
ここで葱がいい仕事をする。飽きた食感をリセットしてくれる、ベストポジションの葱だ。ここで私は気が付いた。海苔を早く食べねば、しおしおになってしまうことに。パリッと音が鳴る。
そうしてどんどんと麺は減っていく。
ワンピースに汁がはねた。一張羅が台無しだ、しかし、そんなことなどお構いもせずに次々と口に放り込む。かみ砕くと奥歯でごりっとメンマに噛み応えを感じる。
啜る。
唸る。
啜る。
もうこうなったら自棄である。
うまいものをうまいと味わう事こそ至高。
ずずっと麺をひたすらほおばる。
心の中まで広がったのは充足感。
張り紙には、つけ麵注文の方には専用のお出汁を……の文字。スープを最後まで飲めということだな。運ばれてきた出汁は、ちんまりとかわいらしい急須に入っていた。
出汁だけレンゲにいれ、ほんの少しだけ飲んでみる。薄めの昆布出汁の味だった。なるほど、確かにこれをいれて薄めれば美味しいだろう。三分の一ほどスープに入れ、豪快に飲んでいく。
最後の一滴まで残らず、たいらげる。
もう水の一杯だって飲めやしない。
「私も見つけた、今度東京に来たら、一緒に食べよう」
ホテルについて弟に画像を無理矢理送り付ける。
そして送信ボタンを押してから、ごろんとベッドに横になる。
眠くなる。
まだシャワーを浴びてない。
それでも眠気はどんどん襲ってくる。眠い、眠い……。久しぶりの気分だった。そうだ、これはきっと、ラーメンを食べてインスリンが大量に出たからに決まってる。
手のひらからスマホが滑り落ちる。
拾う気もなく、今度は惰眠を貪った。
都会が人だらけだということは知っていた。一日に電車が数本しかない地方の私からすれば、もはや時刻表など不要なこの世界は、驚愕以外なにものでもない。
慣れるのは時間がかからなかった。
いや違う、慣れるというより受け入れるようになった。似ているようで少しだけ違う。気がつけば夜、気がつけば朝。寝て起きての繰り返しで、仕事で忙殺され、自分が何を楽しんでいたのかすら思い出せずにいた。
デジタル時計は二十時と表示されている。
目の前には巨大な赤提灯、小舟町とでかでかと主張してくる。左右には仁王像が今にも動き出そうな面をして私を睨む。ぐぅ、とお腹が鳴った。
しかし、私はまだやらねばならない事がある。
浅草寺を素通りし、ビジネスホテルにチェックインする。ボストンバッグを床に放り投げた。クローゼットにスーツの上着をかける。パンツのボタンを外し、ウエストを緩めるとようやく開放感が出た。
出張先のホテルの一室。しんと静まり返った部屋で、ごろんと寝ころび、ズボンを脱ぐとボストンバッグから無造作にワンピースを手に取った。上からかぶるだけの簡単な洋服ナンバーワン。そこにネックレスでもすれば、最低限なオシャレの完成だ。
鏡に映る自分を見る。目の下に隈、ごまかすように浮き出たファンデ。ここ最近はストレスで不眠気味だった。
化粧品をたっぷり浸らせたコットンパックをしていた、あの学生時代を思い出す。いまではその気力もなく、適当に叩いて拭いて終わりだ。髪の毛はざっくりとまとめ、電子の波を追って気が付いたら眠るだけ。明日も仕事なんだから、食事なんてその辺のコンビニで買ってくればいいか。ぽろんと通知がなった。
浮かび上がった通知の相手は弟だ。
――姉ちゃん、美味しいラーメン見つけたよ。
画像には紅生姜と葱が山盛りの正統派豚骨ラーメン。背油に小麦色の麺、香りまでたちそうな湯気の画像にごくりと喉が鳴った。
高校生の弟は、私が今現在、お腹を空かせたままホテルの一室にいることも、客先に謝罪にきてへこんでいることも、慣れない靴で歩き回っていたことも知らないだろう。
この野郎、この馬鹿野郎、こんちくしょう。
がばっと起き上がり、ショルダーバッグを手に取った。
ホテルを飛び出し狙うはラーメン、東京で一番美味しいラーメンだ。
行き先の駅はどうしようか。
東京、上野、新橋、品川、目黒か渋谷か新宿か。ここでもう一度時計を見た。すでに二十時半だ。うかうかしていたら、ラーメン屋がしまってしまう。
お腹に聞いた。
あなたは今、何が食べたいの?
醤油? 塩? 豚骨? それとも……うん、つけ麺だ。
山手線に乗り、改札を通ってたどり着いたのは同じく歓楽街――秋葉原である。
煌々と光る電子の森と、二次元で埋め尽くされた摩天楼の街。
どうやらそこに、美味しいつけ麺屋があるらしい。いつぞや聞き流した話を私はこうして記憶の彼方から掘り起こした。
流れに逆らって私は歩く。人などものともせずに突撃、今の私は貪欲かつ強欲である。我は食のためにあり、食は我のためにある。確固たる意志をもって私はぐんぐんと進み、やがてひとつの灯りにたどり着いた。
ぴたりと足を止める。
黒いのれん、看板には金文字で『つけ麺』の筆文字。
絶対ここだ、間違いない。
ざっくりと見て、六人並んでいる程度で、並びからいっても美味しいだろう。
本当につけ麺でいいのか? と私はお腹に問うた。
お腹はぐぅきゅるる、と返事をする。
いよし、それではここに決めた、あなたに私は決めたのだと決意し並ぶ。
メニュー表を確認し、お金を投下しボタンを押した。
つけ麺、トッピングは味付き卵、チャーシュー追加にメンマ増量。目立たないところに海苔もあった。なかなかの金額だ。今の私は天下無敵、これ以上盛れないというところまで盛ってやる。
一人、二人と減っていくうちに、席がカウンターしかないことに気づいた。席についてから、机の上の七味唐辛子を確認する。
贅をつくしたフルトッピングがテーブルに置かれる。
冷水でしめられた麺、熱々のつけ麺スープがどんと置かれた。スープの器は驚くべきことに黒き焼き石だ。五右衛門風呂のようにぐつぐつ煮えたぎっている。
パキンと音をたてて箸を割り、腕まくりをして麺をすくう。
あつあつのスープの中に、麺が沈んでいく。たっぷりとつけてやれ、最初のひとくちが肝心なのだから。そうして、冷えと熱さが口の中で広がった。小麦の味がしっかりとする、コシがある太麺だ。
濃厚な魚介出汁、醤油ベースで作られたスープだ。醤油の味が強すぎず、かといって魚粉も負けてはいない。まるで私のために作られたスープ。醤油の絶妙な香りが鼻孔を駆け抜ける。もう一度、確かめるように、レンゲでスープをひとくち飲んだ。
うん、旨い。
ここで葱がいい仕事をする。飽きた食感をリセットしてくれる、ベストポジションの葱だ。ここで私は気が付いた。海苔を早く食べねば、しおしおになってしまうことに。パリッと音が鳴る。
そうしてどんどんと麺は減っていく。
ワンピースに汁がはねた。一張羅が台無しだ、しかし、そんなことなどお構いもせずに次々と口に放り込む。かみ砕くと奥歯でごりっとメンマに噛み応えを感じる。
啜る。
唸る。
啜る。
もうこうなったら自棄である。
うまいものをうまいと味わう事こそ至高。
ずずっと麺をひたすらほおばる。
心の中まで広がったのは充足感。
張り紙には、つけ麵注文の方には専用のお出汁を……の文字。スープを最後まで飲めということだな。運ばれてきた出汁は、ちんまりとかわいらしい急須に入っていた。
出汁だけレンゲにいれ、ほんの少しだけ飲んでみる。薄めの昆布出汁の味だった。なるほど、確かにこれをいれて薄めれば美味しいだろう。三分の一ほどスープに入れ、豪快に飲んでいく。
最後の一滴まで残らず、たいらげる。
もう水の一杯だって飲めやしない。
「私も見つけた、今度東京に来たら、一緒に食べよう」
ホテルについて弟に画像を無理矢理送り付ける。
そして送信ボタンを押してから、ごろんとベッドに横になる。
眠くなる。
まだシャワーを浴びてない。
それでも眠気はどんどん襲ってくる。眠い、眠い……。久しぶりの気分だった。そうだ、これはきっと、ラーメンを食べてインスリンが大量に出たからに決まってる。
手のひらからスマホが滑り落ちる。
拾う気もなく、今度は惰眠を貪った。



