のぞみは誰よりも早く


新幹線のホームに降り立つまで、八月の広島がこんなに暑かったことを私は忘れていた。
隣を歩く近藤マネージャーのブルーのストライプシャツは、もう背中に張り付いている。

「早坂さん、それ、やっぱり持とうか?」

近藤マネージャーは、私の手元を指さしてそう言った。
『丸昌百貨店』と一目でわかる、赤と黄色の楕円があしらわれた紙袋の中には、手土産用の和惣菜の詰め合わせが入っている。
紙袋の持ち手は、すでに指の第二関節に食い込みはじめていた。お菓子ではなく惣菜にしたのは、今日これから伺う店が、スコーンと焼き菓子の店だからだ。焼き菓子の店に、別の焼き菓子を持っていくほど、私はチャレンジ精神に溢れてはいない。

丸昌百貨店に入社して今年で六年になる。最初の配属は服飾雑貨売り場で、ストールの巻き方と傘の骨の数には詳しくなったけれど、私が本当に行きたかったのは食品売り場だった。異動願いを出し続け、ようやく念願の食品催事のチームに入って二年になる。
マネージャーに、「なぜ私を食品に呼んでくれたのですか?」と、いつだったか訊ねたことがある。
「面接で、あんなに食べ物の話をした人、ほかにいなかったからね」
彼はそのとき、ビールを飲みながら面白そうに笑った。入社面接でありったけの食べ物への愛情をぶつけたことが、思わぬ形で返ってきたらしい。リクルートスーツを着た当時の私に感謝しながら、今は修行中というところだ。

「あ、電車、こっちです」
「さすが、広島出身。頼もしいな」

マネージャーの言葉は正しくない。正確には、子どもの頃、数年住んでいただけだ。この暑さの中、訂正するのも面倒で、私は曖昧に微笑んだ。エコモードでいこう。入ってきた路面電車に乗って、西へ向かう。平日の昼間だけれど、車内はわりと混んでいた。窓の外では、背の高いビルが少しずつ減り、住宅のベランダと古い看板が増えていく。カーブで車体が大きく揺れるたび、吊り革を握る手に、昔の感覚が少しずつ戻ってくる。一度、乗り換えをして、さらに二十分ほど電車に揺られて、目的の駅についた。

◼️

最初にこれから伺う『月曜日のスコーン』を知ったのは、誰かのインスタだったと思う。スコーンなら東京でも手に入る。有名なお店だっていくつもある。それでも、月曜日のスコーンが作る、地元の食材を使った季節のスコーンには、画面越しでも目を引くものがあった。春は瀬戸内レモン。初夏は夏みかん。秋にはいちじく。冬には、広島県産のはちみつを使ったものも出るらしい。最初に取り寄せたのは、プレーン、メープル、紅茶、そして塩レモンのスコーンだった。

袋を開けた瞬間、バターの香りの奥から、レモンの皮のような苦みがふわっと立った。甘いだけじゃない。少ししょっぱくて、噛むほどに粉の味が残る。甘さも控えめだから、食事にもできる。何より美味しい。これは売れる、と思った。この味を他の人にも知ってもらいたい。今のサイズのまま四つ並べると、少し重たいかもしれない。催事用に小さめの詰め合わせが作れたら、手に取りやすくなる。輸送で潰れない包材も考えられたら――。

何度か取り寄せをして、近藤マネージャーやチームのみんなにも感想を求めた。
「これは、呼びたいね」みんながそう言った。何度目かのミーティングで、正式に打診することが決まった。中国・瀬戸内フェアの開催に合わせて連絡をしたものの、最初の返事は丁寧な断りだった。やりとりは基本的にメールが中心だったけれど、私はあるとき、取り寄せた商品の感想を丁寧に伝える手紙を書いた。名刺と、催事の趣旨を簡単にまとめた資料をクリアファイルに入れて、『月曜日のスコーン』宛にレターパックで送った。配達履歴で受け取られたことはわかった。二週間ほど連絡はなく、諦めかけた頃に、メールが届いた。スクロールをする指が震える。


『丸昌百貨店株式会社
早坂のぞみ様
いつもお世話になっております。
ご丁寧な手紙と資料受領いたしました。
催事の件ですが、話を聞くだけなら、かまいません。
それでもよろしくればご連絡お待ちしております。

月曜日のスコーン 店主森川』

「やった!!」

短い内容だったけれど前進だ。モニターの前で小躍りして、スケジュールを決めて、先方の定休日の今日、向かっている。

『月曜日のスコーン』は、駅から少し歩いた住宅街の角にあった。白い壁に、紺色の小さな看板。店先の鉢植えのローズマリーは、八月の陽射しにも負けずに青く茂っている。ガラス扉には、「今日は定休日です」と手書きの札がかかっていた。まだ少し早い。私たちは一度店の前を通り過ぎ、少し離れた日陰で待つことにした。約束の時間まで、あと五分ある。あたりを見回していると、お店のドアが開いて、声をかけられた。

「丸昌百貨店さんですか?」
「はい、丸昌百貨店の近藤と申します。少し早く着いてしまいまして、待たせていただこうかと」

ドアを開けてくれたのは、三十代前半くらいの細身の柔らかい雰囲気の女性だった。白いブラウスの上に、紺色のエプロンをつけている。髪は後ろでひとつにまとめられていて、額の横に少しだけ汗がにじんでいた。

「いえ、暑いですし。どうぞ中へ。店主を呼んできますね」

声はやわらかかったけれど、少し緊張しているのがわかった。話を聞くだけなら、かまいません。あの短いメールの温度が、言葉の内側に残っているようだった。店内に入ると、甘い匂いがした。焼きたての匂いではなく、バターと粉と紅茶の葉が、棚や壁にしみ込んだような匂いだった。

白い壁際には紅茶の缶が並び、カウンターの上には、今日は空のケーキスタンドが置かれている。奥の扉が開いて、男性が出てきた。生成りの半袖シャツに、同じ紺色のエプロン。袖口から出た腕には、うっすら粉がついている。年齢は奥さんと同じくらいだろうか。やせ型で、眼鏡の奥の目はやさしそうなのに、口元だけが少し固かった。

「お待たせいたしました。森川です」
近藤マネージャーが、すぐに名刺入れを出した。
「丸昌百貨店、食品催事担当の近藤です。本日はお休みのところ、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、何度もご連絡いただいて」
森川さんは、近藤マネージャーの名刺を両手で受け取った。それから、私の方を見た。慌てて名刺を差し出す。
「同じく食品催事担当の早坂と申します。メールで何度かやりとりさせていただいております」
「早坂さん」
森川さんは、名刺に目を落としたまま、私の名前を小さく繰り返した。その横で、奥さんがほんの少しだけ顔を上げた気配がした。けれど、すぐに森川さんは顔を戻した。
「どうぞ、こちらへ。おかけください」

案内されたのは、店の奥の小さなテーブルだった。営業中なら客席として使われているのかもしれない。木の椅子が四脚、壁際に寄せられている。テーブルの上には、畳まれたショップカードと、ガラスの水差しが置かれていた。近藤マネージャーが腰を下ろす前に、私は紙袋を差し出した。
「こちら、心ばかりですが。弊社の食品売り場で扱っている和惣菜の詰め合わせです」
「あ、すみません。お気遣いいただいて」
奥さんが受け取ってくれた。紙袋の持ち手から指を離した瞬間、第二関節のあたりに残っていた重さが、じんわりと遅れてほどけた。「お惣菜って珍しいですね。重たかったんじゃないですか?」
私は思わず背筋を伸ばした。
「はい。いえ。焼き菓子のお店に焼き菓子をお持ちするのは、さすがにそれは、ちょっと」
言ってから、少し軽すぎただろうかと思った。けれど奥さんが、ふっと笑った。
「おかずになるから助かります」
その笑いにつられるように、森川さんの口元もほんの少しだけゆるんだ。けれど、それだけだった。テーブルの上に置かれた名刺と資料の間に、まだ目に見えない線が一本ある。今日はそれを、少しでもこちら側に動かしに来たのだ。近藤マネージャーは、クリアファイルから資料を取り出した。

「今回ご相談したいのは、十月に東京本店で予定している中国・瀬戸内フェアへのご出展です」
森川さんは資料に目を落とした。奥さんも隣から少し身を乗り出す。
「お声がけいただけるのは、本当にありがたいんです」
森川さんはそう言ってから、ゆっくり顔を上げた。
「ただ、うちは私たちと、アルバイト数名で回している店なので」
森川さんがそう言ったところで、奥さんがグラスを二つ運んできた。大きな氷の入ったアイスティーだった。
「よかったら。暑かったでしょう」
薄張りのグラスの表面には、細かい水滴がびっしりついている。ひと口飲むと、渋みより先に、柑橘のような香りがふわっと広がった。甘くない。けれど、喉の奥に残る香りがやわらかい。
「こちらの紅茶ですか?」
思わず訊ねると、奥さんが少しだけ表情をゆるめた。
「はい。夏だけ、水出しにしているブレンドです」

私はグラスをもう一度見た。紅茶まで、売り場に並んだ姿が浮かんでしまう。透明なカップに注いだ試飲。横には、塩レモンのスコーン。冷蔵ケースにはクロテッドクリーム。催事は十月。その頃には、きっと温かい紅茶も売れるはず。だめだ。まだ商談は始まったばかりなのに、頭の中だけ先に八階の催事場へ行っている。

「ご提案としては、三日間限定で考えています」
近藤マネージャーの声で、私は八階の催事場から店の奥のテーブルに戻った。
「商品は、冷凍で納品いただく形を想定しています。販売時の解凍方法や表示については、事前に確認させていただきます。平日の追加納品はお願いしません。ご用意いただける数の中で、売り場はこちらで調整します」
森川さんは資料に目を落としたまま、黙って聞いていた。奥さんも隣で、グラスを置いた手をそのまま膝の上に戻す。
「出展料の割合や販売員の手配については、ご相談ということで。まずは、御社に無理のない形を一緒に考えられればと思っています」
近藤マネージャーの説明は、いつものように落ち着いていた。数字も条件も、先に相手の不安になりそうなところから差し出していく。私が二年かけて、まだ半分も盗めていない技術だ。
「かなり、こちらの事情を考えていただいているのはわかります」
森川さんは、ゆっくりと言った。
「でも、やっぱり不安なんです」
「どのあたりが一番ご不安でしょうか」
近藤マネージャーが訊ねると、森川さんは少しだけ奥さんの方を見た。奥さんは何も言わず、視線だけで続きを促しているようだった。
「まず、数です。通常営業分を焼きながら、催事用の商品を用意するとなると、どうしても仕込みの時間が足りません。冷凍なら前もって作れるとはいえ、うちの冷凍庫もそこまで大きくないので、借りる必要があります」
「はい」
「それから、販売です。うちの商品は、焼き立てじゃなくてもおいしく食べてもらえるようにはしています。でも、解凍の仕方や、食べる前に少し温めてもらうことまで含めて説明しないと、たぶん伝わらないんです」
森川さんの声は、強くはなかった。でも、ひとつひとつの言葉が、粉を量るときみたいに慎重だった。
「ただ並べて、売れました、で終わるなら、うちじゃなくてもいいと思うんです」
私はアイスティーのグラスを両手で包んだ。冷たさが指に移ってくる。言いたいことは、わかる。売れればいいわけではない。でも、売れなければ次はない。売り場は夢だけで作れないし、夢がなければただの平台になる。その両方の間で、私はまだ修行中だ。近藤マネージャーは、小さく頷いた。

「おっしゃる通りです。ですので、今回はまず、商品数を絞ったご提案にしたいと考えています。たとえば定番のプレーン、メープル、紅茶に、季節感のある塩レモンを加えた四種類の詰め合わせを中心にする形です」
森川さんの指が、資料の端に触れた。
「塩レモンも、入れるんですか」
「はい。広島、瀬戸内らしさもありますし、何より味に特徴があります」
思わず口を開いていた。近藤マネージャーがちらりと私を見る。止められてはいない。たぶん。

「甘さだけじゃなくて、皮の苦みと塩気が少し残るところが印象的でした。スコーンを普段あまり召し上がらないお客様にも、手に取っていただけると思います」
言ってから、少しだけ息を止めた。森川さんはすぐには答えなかった。代わりに、奥さんがこちらを見た。
「食べてくださったんですね」
「はい。何度か取り寄せました」
「塩レモン、夏は人気なんです」

奥さんの声が、ほんの少しだけやわらいだ。その瞬間、線が少しだけ動いた気がした。森川さんは資料を閉じず、私を見つめている。
「ありがとうございます」
彼は丁寧に頭を下げた。
「そこまで考えていただいて、本当にありがたいです。でも、すみません。今すぐお受けしますとは、やっぱり言えません。明日またお話できますか?」

外では、路面電車の音が遠くに聞こえた。カーブを曲がるときの、金属がこすれるような音だった。それに混ざって、低く短い振動音がした。近藤マネージャーのスマホだろう。けれど彼は、ジャケットの内ポケットに手を伸ばさなかった。

「もちろんです。今日はまずお話を伺うために来ていますので」
近藤マネージャーは、すぐにそう返した。声は少しも沈んでいない。こういうところが、本当にずるいくらい仕事の人だと思う。
「ご不安な点を持ち帰って、改めて条件を整理させてください」
森川さんは、ほっとしたような、申し訳なさそうな顔をした。
「即答できなくて、すみません」
「いえ。お休みの日にお時間をいただけただけで、ありがたいです」
私は、まだ何か言いたかった。この紅茶も、塩レモンのスコーンも、東京の催事場にちゃんと立つと思います。ただ売るだけじゃなくて、このお店が大事にしているものごとまで、売り場に連れていきたいんです。インスタも見てます。季節を楽しめるように、工夫された丁寧な焼き菓子たち。あれを食べて、月曜日も頑張ろうって思ってもらいたい。でも、その言葉は喉の手前で止まった。感想レビューをわざわざ投稿しにきたのではない。奥さんが、空になりかけたグラスを見て言った。

「おかわり、いりますか」
その声があまりに普通で、私は少しだけ救われた。
「ありがとうございます。でも、このあとも何軒か回るので」
そう言うと、奥さんは小さく頷いた。
「暑いですから、気をつけてくださいね」
その言葉は、商談相手に向けたものというより、暑い日に外を歩く人へ向けたものだった。私は名刺入れを閉じながら、もう一度だけ店内を見た。白い壁。紅茶の缶。空のケーキスタンド。奥に続く扉。話を聞くだけなら、かまいません。
今日は、本当にそこまでだった。でも、そこまでは来られ
たのだと思うことにした。明日もまた、会ってもらえる。

◼️


店を出ると、外の暑さが一気に戻ってきた。店内のアイスティーの冷たさが、ほんの数歩で遠ざかっていく。近藤マネージャーは店の前を少し離れてから、ようやくスマホを取り出した。画面を見た瞬間、足が止まる。

「……すみません、早坂さん」
声の調子が変わった。
「奥様ですか?」
「うん。予定日まではまだあるんだけど、ちょっと、病院に向かってるみたいで」
近藤マネージャーはもう一度画面を見て、それから深く息を吐いた。ブルーのストライプシャツの背中は、さっきよりもずっと濃い色になっている。
「今日の残りは予定通り回る。明日は、もともと視察中心だったよね」
「はい。午前中に駅前の売り場を見て、午後に候補店を二軒。月曜日のスコーンさんは、十五時にもう一度」
「そこ、早坂さん一人で行ける?」
聞かれて、心臓が一拍だけ遅れた。
「行きます」
自分の声は、思ったよりも先に出た。近藤マネージャーは、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「助かる。条件面で即答しない方がいいところは、持ち帰っていいから。無理に決めようとしなくていい」
「はい」
「でも、早坂さんが感じたことは、ちゃんと伝えていいと思うよ」

そう言われて、さっき喉の手前で止めた言葉が、胸の奥で小さく動いた。この紅茶も、塩レモンのスコーンも、東京の催事場にちゃんと立つと思います。まだ、言えなかった言葉。

「わかりました」
「じゃあ、今日の残り、急いで回ろう。僕は申し訳ないけど終わり次第戻る」
「奥様のところ、すぐに行かなくていいんですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
近藤マネージャーは、照れたように少し笑った。それからすぐ、仕事の顔に戻る。
「まず、次の取引先。遅れたら怒られる」
「それは困ります」
私たちは路面電車の停留所へ向かった。


◼️


そのあと、予定していた取引先を一軒回った。瀬戸内の柑橘を使ったゼリーとジャムを扱う会社で、商談室にはレモンの香りがする試作品がいくつも並んでいた。近藤マネージャーは、いつもと変わらない顔で質問をして、納期と賞味期限とロットの確認をした。奥さんから連絡が来ている人とは思えないくらい、声は落ち着いていた。

その様子を横目で見ながら、すごいな、と思う。それと同じくらい、少しだけ怖いな、とも思う。仕事の顔を保つというのは、こういうことなのかもしれない。私もこんなふうになれるのだろうか。夕方、近藤マネージャーは予定より早い新幹線に乗ることになった。改札の前で、明日の予定をもう一度確認する。

「月曜日のスコーンさんには、十五時で連絡済み。早坂さん一人で伺うことも、さっきメールしておいた」
「ありがとうございます」
「困ったら電話して。出られなかったら、あとで必ず折り返す」
「出なくて大丈夫です。明日は、私が行きます」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。近藤マネージャーも、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「頼もしいな」
「エコモードは解除します」
そう言うと、近藤マネージャーは声を出して笑った。
「解除しすぎて空回りしないように」
「はい」
改札の向こうへ消えていく背中を見送りながら、私は肩にかけた鞄の紐を握り直した。


◼️

そのままホテルへ戻るには、まだ早かった。私は広島駅の近くにある系列店の食品売り場へ向かった。出張に来ると、結局こうなる。観光地より先に、地下の食品売り場を見てしまう。平台の高さ。冷蔵ケースの照明。地元の銘菓がどの位置に置かれているか。観光客らしい人が、何を手に取って、何を戻すのか。

ぼんやり眺めているだけのつもりでも、頭の中では勝手に売り場が組み上がっていく。夕飯用に、広島菜のおむすびと、穴子入りの巻き寿司、それから小さな牡蠣フライの惣菜を買った。本当は広島焼きを食べに行くつもりだったけれど、今日はたぶん、ひとりで鉄板の前に座るより、部屋で考える方がいい。

ホテルに戻ると、冷房の効いた部屋がやけに静かだった。靴を脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろす。紙袋から惣菜のパックを取り出すと、ソースと揚げ物の匂いがふわっと上がった。先にお風呂にしよう。レンジであたためればいい。

ドライヤーで髪を乾かしながらスマホを開いて、『月曜日のスコーン』のインスタをもう一度見る。季節のスコーン。焼き上がりを知らせる写真。店先のローズマリー。臨時休業のお知らせ。完売のお礼。小さな字で書かれた、紅茶の淹れ方。写真を見ているうちに、惣菜のことを思い出した。

ふと思い立って、お湯を沸かして惣菜を温める。持ってきたインスタントのお味噌汁をマグカップに溶かし、口をつけた。これはこれでおいしい。念のため持ってきて良かった。広島菜のおむすびを手に取ってから、スマホをもう一度開いた。今度は、最初の投稿までゆっくり遡っていく。

「いただきます」

広島菜のおむすびをひと口かじると、漬物の塩気が思っていたより強くて、汗をかいた体にしみた。葉に包まれたご飯は少し冷えていたけれど、噛むほどに米の甘さが戻ってくる。画面を見直した。開店したばかりの頃の投稿だった。まだ看板も今より新しくて、ケーキスタンドに並ぶスコーンの数も少ない。本文には、店名の由来が書かれていた。

月曜日からも、頑張れるように。

私は、広島菜のおむすびを持ったまま、しばらく画面を見つめていた。あの甘さ控えめのスコーンも、少し苦みの残る塩レモンも、夏だけの水出し紅茶も。全部、特別な日のためだけではなく、普通の一週間を始める人のために作られている。

画面を伏せて、穴子入りの巻き寿司に箸を伸ばす。甘いタレの匂いがして、酢飯の酸味があとからくる。小さく切られた穴子は、冷めていてもやわらかい。

明日、森川さんに何を伝えればいいのか。どうすれば、不安をひとつずつほどけるのか。考えようとして、牡蠣フライをひとつ食べた。レンジで温めたせいで衣は少ししんなりしていたけれど、噛むと中に熱が残っていた。ソースの甘さの奥に、少しだけ海の苦みがある。

数。冷凍庫。解凍方法。販売員。休憩回し。商品説明。

ノートを開いて、思いつくままに書き出していく。近藤マネージャーなら、もっときれいに整理するのだろう。でも、明日話すのは私だ。

三日間限定。四種類の詰め合わせ。販売説明カード。温め方の紙。紅茶との組み合わせ。

そこまで書いて、ペンを止める。休憩回し。その横に、もう一度丸をつけた。販売員さんが見つからない時間があるなら、一時間だけでも私が入る。レジは集合レジでいい。私が立つのは、商品説明とお客様対応のためだ。本当にできるのだろうか。そう思った途端、急に怖くなった。でも、怖いと思えるくらいには、私はこの売り場を自分のものとして考えはじめている。

インスタントのお味噌汁をひと口飲む。ちゃんと温かい。明日、もう一度あの店に行く。今度は、近藤マネージャーの横ではなく、私ひとりで。私はノートを閉じた。それでもなかなか眠れなくて、ホテルの天井をしばらく見ていた。

◼️

翌朝、カーテンの隙間から入る光で目が覚めた。眠れなかったわりに、頭は妙に冴えている。ホテルの朝食会場でコーヒーを飲みながら、昨夜のノートを開いた。字はところどころ斜めになっていて、最後の方は少し大きい。眠かったのか、焦っていたのか、たぶん両方だ。

数。冷凍庫。解凍方法。販売員。休憩回し。商品説明。どれも、「大丈夫です」と勢いだけで言ってはいけないことだった。午前中は予定どおり駅前の売り場を見て回ったけれど、頭の中ではずっと、昨日の森川さんの言葉が回っていた。昼過ぎに、近藤マネージャーからメッセージが入った。

『病院にいます。まだです。そっちは無理せず』

無理せず。その言葉を見て、少し笑った。昨日あんなに仕事の顔をしていた人が、今は病院の椅子でスマホを握っているのかもしれない。私は返信を打った。

『こちらは予定どおりです。十五時、行ってきます。無事に生まれることを祈っています』

送信してから、スマホを鞄にしまった。

◼️

十五時少し前、私はまた『月曜日のスコーン』の前に立っていた。昨日と同じ白い壁。同じ紺色の小さな看板。店先のローズマリーは、今日も八月の陽射しの中で青く茂っている。ただ、ガラス扉にかかった札は昨日と違っていて、営業中と書かれている。中から、若い女の子の声が聞こえた。

「ありがとうございましたー」

ドアを開けると、カウンターの奥に、昨日はいなかった女の子が立っていた。大学生くらいだろうか。紺色のエプロンの紐を、腰の後ろできゅっと結んでいる。

「あ、いらっしゃいませ」
「こんにちは。丸昌百貨店の早坂です。十五時に森川さんとお約束していて」
「あっ、東京の百貨店の方ですか」
女の子の声が、ぱっと明るくなった。その声に反応するように、奥から奥さんが顔を出した。
「早坂さん。暑かったでしょう。どうぞ」
「お邪魔します」
昨日と同じ奥のテーブルに案内される。
けれど、今日は近藤マネージャーの椅子がない。空いている椅子が一脚多いだけで、店の奥が少し広く見えた。森川さんは、昨日と同じ生成りのシャツに紺色のエプロンをしていた。口元の固さは、昨日より少しだけ薄い。

「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ、続けてお時間をいただきありがとうございます」
「今日は、早坂さんおひとりなんですね」
「はい。近藤は諸用で東京に戻りまして」
「伺っています。お子さん、無事に生まれるといいですね」
昨日より、少しだけ森川さんの雰囲気がやわらかい。ちゃんとそこまで伝えてくれていたのだと思うと、胸の奥が少し温かくなった。

「ありがとうございます。条件面で持ち帰るべきところは、私から無理にお返事しません。ただ、昨日伺ったご不安について、こちらで考えたことをお伝えできればと思って来ました」
自分でも驚くくらい、声がまっすぐ出た。

「よかったら、今日はこちらを」

奥さんが、昨日とは違う色のアイスティーを運んできた。昨日の紅茶より少し濃く、グラスの中で琥珀色が深い。

「秋に出しているブレンドです。まだ暑いので、出しにしました」

ひと口飲むと、昨日の柑橘の軽さとは違って、やわらかい甘さが先に来た。あとから、果物の皮みたいな香りがゆっくり残る。この味はなんだろう。

「いちじくですか?」

思わず訊くと、奥さんが嬉しそうに目を細めた。
「はい。わかりますか」
わかります、と言い切れるほど自信はなかった。でも、昨日より少しだけ、この店の味に近づけた気がした。森川さんは黙って頷いた。私はノートを開く。

「まず、数のことです」

昨夜書いたことを、ひとつずつ話した。三日間限定にすること。四種類の詰め合わせを中心にすること。商品は、用意できる数から逆算して売り場を組むこと。平日の追加納品は求めないこと。冷凍庫の保管量については、納品日と数量を分けて考えること。森川さんは途中で何度か質問を重ねる。昨日よりは熱心に聞いてくれているようだ。
奥さんは隣で、昨日より少し前のめりに聞いている。

「解凍方法と温め方については、売り場用の説明カードを必要ならこちらで作ります。もちろん、文面は事前に森川さんに確認していただきます。お客様にお渡しできる小さな紙も用意します」
「ショップカードや、食べ方のリーフレットはあるので、それは大丈夫です。でも、そこまで考えてくださっていたのですね」
「そこまでしないと、伝わらないと思いました」
言ってから、昨日の森川さんの言葉を思い出した。ただ並べて、売れました、で終わるなら、うちじゃなくてもいい。

「ただ並べて売るだけには、したくありません」
森川さんが、少しだけ顔を上げた。そのとき、カウンターの方からさっきの女の子が顔を出した。

「すみません、聞こえちゃったんですけど」
奥さんが振り向く。
「美咲ちゃん」
女の子は、少し気まずそうに笑った。
「東京の百貨店に、うちのスコーンが並ぶんですか?おじさんすごい!」
森川さんが、困ったように眉を下げる。
「お店では、店長ね。まだ決まったわけじゃない」
「でも、もし出るなら、私、東京行きたい」
その声は、あまりにもまっすぐだった。奥さんが小さく笑う。美咲ちゃんと呼ばれた彼女は、お二人の親戚のようだ。
「ほら、こういう子もいるんよ」
「いや、でも」
森川さんは言いかけて、言葉を止めた。
「販売のことも、不安ですよね」
私はノートの次の行に目を落とした。
「販売員さんについては、マネキン会社さんにも確認します。ただ、どうしても見つからない時間帯が出るようなら、休憩回しの一時間は私が入ります」

言ってから、一瞬だけ近藤マネージャーの顔が浮かんだ。解除しすぎて空回りしないように。でも、これは空回りではないと思いたかった。

「レジは集合レジで対応できます。私は商品説明と、お客様対応に入る形です。以前は服飾雑貨売り場にいましたので、接客経験はあります。もちろん、正式な体制や費用負担は会社に戻って確認します。でも、一時間だけなら私が売り場に立ちます」
森川さんは、驚いたように私を見た。
「早坂さんが、ですか。いや、接客の心配はないのですが」
「はい」
「百貨店の方が、そこまでされるんですか」
私は少し迷ってから、正直に答えた。
「毎回できることではないと思います。私も、全部をひとりで抱えられるわけではありません。でも、今回はそうしたいです」

店内が静かになった。外を通る自転車のベルが、少し遠くで鳴った。私はノートを閉じた。ここから先は、資料に書いていない。

「昨日、インスタを最初の投稿まで見ました」
森川さんの指が、ぴくりと動いた。
「店名の由来も読みました。月曜日からも、頑張れるように、って」
奥さんが、ゆっくり森川さんを見る。美咲ちゃんはカウンターの奥で、息を止めるみたいにこちらを見ている。

「昨日いただいたアイスティーも、取り寄せた塩レモンのスコーンも、特別な日のご褒美だけじゃなくて、普通の一週間を始める人のための味だと思いました」
声が少し震えた。でも、止めずに続ける。
「東京にも、そういう月曜日があります」
森川さんが、私をまっすぐに見ている。
「会社に行きたくない朝も、週末が終わってしまったことが寂しい夜も、たぶんたくさんあるけえ」
少し訛ってしまった。でも、言い直さない。
「だから、このスコーンを届けたいんです」
私は、膝の上で両手を握った。
「東京のみんなの月曜日も、頑張れるように。三日間だけでいいので、出展していただけませんか」

しばらく沈黙が続く。森川さんはアイスティーを飲んでから、口を開いた。

「早坂さん、広島の人?」
「あ、はい。実は子どもの頃、西区に住んでました。数年でしたけど」
「え、西区のどのへん?」
「高須です。今は違う町名かもしれませんが」
「そう」
「インスタで初めてこちらを見た時に気になったのも、馴染みがあったからかもしれません」
森川さんは奥さんに視線を送ると、奥さんが頷いた。
「三日間だけ、ですよね」
「はい。まずは三日間です。無理に期間を延ばすことはしません」
「数も、こちらで決めていい」
「はい。ご用意いただける数をもとに、売り場を組みます」
「追加も、無理には」
「お願いしません」
森川さんは、テーブルの上に置かれた資料をもう一度見た。昨日より、紙をめくる手つきがゆっくりだった。

「……三日間だけなら」

奥さんが、小さく息を吐いた。美咲ちゃんが、カウンターの向こうで身を乗り出す。
「三日間だけなら、やってみます」
一瞬、言葉が出なかった。
「ありがとうございます」
声に力が入りすぎて、自分でも少し驚いた。慌てて頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます。正式な条件書とスケジュールは、東京に戻り次第お送りします。数量や納品日、表示の確認も、改めて細かくご相談させてください」
「お願いします」
森川さんはそう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
「でも、早坂さん」
「はい」
「うち、そんなに派手な店じゃないですよ」
その言葉に、私は首を振った。
「派手じゃないところが、いいんだと思います」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。けれど、森川さんは笑わなかった。奥さんが、グラスの中の氷を指で少し揺らした。
「東京のみんなの月曜日、か」
その声は小さかったけれど、店の奥までちゃんと届いた。「なんか、ええね」
美咲ちゃんが、ぱっと顔を明るくした。
「私、本当に東京行っていいの?」
「まだ決まっとらん」
森川さんがすぐに言う。
「でも、三日間なら、土日だけでも誰か行けたら心強いかもしれんね」
奥さんがそう言うと、森川さんは返事をしなかった。その代わり、資料の端をそろえて、もう一度私の方へ向けた。それからしばらく流れについて説明をする。森川さんからも積極的に質問が飛んでくる。

「じゃあ、まずはできる数を出します」
「はい」
「プレーン、メープル、紅茶、塩レモン。四種類で考えます」
「ありがとうございます」
「紅茶も、少し持っていけるか考えます。いちじくのブレンドも」
私は思わず、目の前のグラスを見た。深い琥珀色の中で、氷が小さく音を立てた。昨日は、話を聞くだけなら、かまいません。今日は、三日間だけなら、やってみます。たった一日で、全部が変わったわけではない。数も、冷凍庫も、解凍方法も、販売員も、休憩回しも、まだ何ひとつなくなっていない。けれど、ひとつずつほどいていく相手ができた。
「早坂さん」
奥さんが、ふと思い出したように言った。
「昨日、広島焼きは食べられました?」
「いえ。結局、ホテルでお惣菜を食べました」
「あら。じゃあ今日は食べて帰りんさい」
「え」
「この近くに、うちがよく行く店があるんです。観光客向けじゃないけど、おいしいんよ。並ぶけえ、早く行かんとね」
気がつくと、時計は夕方五時を過ぎていた。美咲ちゃんが、すぐに店名を言った。
「あそこ、焼きそば入りがおすすめです」
「そういうのは、先に言わんでいい」
森川さんが少しだけ笑った。昨日より、ずっと普通の顔だった。私はノートの端に、店の名前を書き留めた。商談は終わった。でも、広島の夜はまだ終わっていない。

店を出ると、夕方の空気になっていた。それでも暑いことに変わりはなく、日なたに出た瞬間、首の後ろに残っていた冷房の感覚がすぐに消えた。奥さんが教えてくれた店は、『月曜日のスコーン』から歩いて十分ほどのところにあった。住宅街の端にある小さなお好み焼き屋で、赤いのれんが店先に揺れている。

まだ早い時間のはずなのに、入口の横には二組ほど並んでいた。並ぶけえ、早く行かんとね。奥さんの声を思い出して、私は少し笑った。今日は、誰かにすすめられた店に向かっている。昨日とは違う。昨日は、食品売り場で選んだものをホテルの部屋で食べた。あれもちゃんと広島の夜だったけれど、今日は店の人に送り出されている。

二十分ほど待って、カウンター席に通された。目の前には大きな鉄板があり、店の人が手早く生地を丸く広げている。薄い生地の上に、山のようなキャベツがのせられ、もやし、豚肉、そばが重なっていく。「そば入りで」美咲ちゃんに言われた通りに注文すると、店の人が短く頷いた。鉄板の上で、キャベツが少しずつ沈んでいく。蒸気と一緒に、ソースの甘い匂いが立ち上がった。昼間に飲んだいちじくの紅茶とは全然違う、濃くて、熱くて、逃げ場のない匂いだった。スマホが震えたのは、卵が鉄板に割られたところだった。近藤マネージャーからだ。

『無事に生まれました。女の子です』

その一文を見た瞬間、体の力が少し抜けた。無事に。女の子。昨日、あの暑い広島で、背中に汗をにじませながら商談をしていた人が、今は病院で小さな子どもを見ている。そう思ったら、胸の奥がじんわり温かくなった。

『おめでとうございます。こちらも、月曜日のスコーンさん、三日間だけ出展いただけることになりました』

少し迷ってから、もう一文足した。

『今日はビールで乾杯しておきます』

送信すると、すぐに返事が来た。

『やったな! お疲れ様。それは飲んでいいやつです』
思わず笑ってしまった。

「すみません」

顔を上げて、店の人に声をかける。
「生ビール、小さいので」
グラスが置かれたとき、ちょうどお好み焼きも焼き上がった。鉄板の上に運ばれてきたそれは、思っていたより大きくて、ソースが照明を受けてつやつや光っている。青のりと鰹節がのって、鰹節の薄い端が熱で少し揺れていた。私はグラスを持ち上げた。

「おめでとうございます」

小さく呟いて、ひと口飲む。冷たいビールが喉を通っていく。朝からずっと張っていた背中のあたりが、ようやくほどけた気がした。近藤マネージャーの子どもが生まれたこと。
『月曜日のスコーン』が三日間だけでも東京に来てくれること。そして、私がひとりで言えたこと。全部にまとめて、乾杯した。

お好み焼きをヘラで切ると、中から湯気が上がった。キャベツは甘く、そばはソースを吸って少し焦げている。卵のやわらかさと、豚肉の脂が重なって、口の中が一気に熱くなった。熱い。おいしい。

思わず、昨日の広島菜のおむすびを思い出した。ホテルの小さなテーブルで、冷めたご飯としんなりした牡蠣フライを食べながら、私は明日のことばかり考えていた。今日は、ちゃんと熱いものを食べている。鉄板の前で、汗をかきながら、少しだけ肩の力を抜いている。スマホがもう一度震えた。

『よくやった。東京戻ったら詳しく聞かせて』

私はビールのグラスを置いて、少しだけ考えた。それから、短く返した。

『まだこれからです。引き続きよろしくお願いいたします』

送信して、またお好み焼きに箸を伸ばす。商談は終わった。でも、仕事はこれからだ。数も、冷凍庫も、解凍方法も、販売員も、休憩回しも、まだ残っている。東京に戻れば、確認しなければいけないことが山ほどある。それでも今だけは、鉄板の熱と、ソースの匂いと、冷たいビールの苦みの中にいたかった。


◼️

催事前日の夕方、八階催事場はかなり散らかっていた。平台の上には商品名の札が並び、通路には段ボール箱を載せた台車が行き交っている。

『月曜日のスコーン』の商品は、午前中に無事届いていた。プレーン、メープル、紅茶、塩レモン。紅茶の缶も、いちじくのブレンドも、予定どおりだ。

「早坂さん」

振り向くと、森川さんが立っていた。
「遠いところ、ありがとうございます」
「こちらこそ。明日から、よろしくお願いします」
森川さんは、まだ空に近い平台を少し緊張した顔で見た。私は、用意していたショップカードを一枚立てる。

月曜日からも、頑張れるように。

森川さんはそれを見て、少しだけ笑った。

「妻と美咲は、明日の午後来ます」
「はい。お待ちしています」
「早坂さん」
「はい」
「三日間、よろしくお願いします」
「こちらこそ。ちゃんと売り場に立ちます」
森川さんは小さく頭を下げて、設営スタッフに呼ばれて戻っていった。私は平台の上をもう一度見た。広島から届いたものが、明日ここに並ぶ。それだけで、少し背筋が伸びた。
「早坂さん、今いい?」
「はい」
近藤マネージャーに声をかけられて振り向くと、彼は声をひそめた。
「森川さん、どうやって口説いたの? あのとき、ちょっと厳しいかなって思ってたんだよね」
「熱意を伝えただけです」
「あー、なるほど。面接と同じやつね」
「まあ、そうともいいます。そんなこと言いにきたんですか? 夏菜子ちゃんの写真はもういらないですよ?」
夏菜子ちゃんは、もうすぐ三ヶ月になる。
「えっ、こんなに可愛いのに?」
近藤マネージャーはスマホを出しかけて、それから笑ってポケットに戻した。
「まあ、それはさておき、真面目な話。これまで、早坂さんはアシスタントだったよね。どう、もっとやってみたいと思う?」
思いがけないようで、どこかで待っていた言葉だった。私は前のめりになって答えた。
「やりたいです。いろんな場所の、いろんな食べ物をお客様に知ってもらいたいです」
これも、面接と同じ言葉だった。
マネージャーは口許をゆるめる。
「ブレないね。そういうの、嫌いじゃないよ」
「はい」
「今後はアシスタントではなく、仕事を回していくから。全国出張も増えると思う。それでも大丈夫?」
「望むところです!」

思ったより大きな声が出てしまい、近くにいた設営スタッフがちらりとこちらを見た。近藤マネージャーは、声を殺して笑う。
「頼もしいな」
平台の上には、まだ空のトレーが並んでいる。明日になれば、ここに広島から届いたスコーンが並ぶ。プレーン、メープル、紅茶、塩レモン。いちじくの紅茶も、少しだけ。

月曜日からも、頑張れるように。
ショップカードの文字を見て、私は小さく息を吸った。早坂のぞみ。のぞみは、誰よりも早く。

新幹線で。
飛行機で。
路面電車で。

月曜日を楽しみにしながら、きっとまた、おいしいものを探しに駆けていく。