山を降りて久しぶりに指定の神社へ向かう。
街の様子は変わりがないようでいて、しっかりと年月が流れているのがわかる。
見慣れない建物や、見慣れない看板。あったはずの家は空き地になり、空き地だったところに立派なマンションが建っている。
それでも神社までの道を迷わず歩けるのは、残っている昔の面影があったからだろう。
「やっと来ましたか。どれくらいぶりだと思っているんですか。もう少し頻繁に顔を出しなさいと言ったはずですよ」
参道の階段を登り切って鳥居を潜ったところで、横手から声をかけられた。
振り向いてみると、初老に差し掛かった年頃の男が、少し怒ったような顔で仁王立ちしていた。
「あ……はい、ごめんなさい……」
声を発したのはどれくらいぶりなのか、思ったよりも掠れた小さな声しか出ない。男の耳に届いただろうか。
「今回も指示はいただいております。家に一式揃えておいたので、おいでなさい」
白い衣を着て紫地に紋の入った袴を履いた男に先導されて、社務所の中に入る。ここも昔来た時よりももっと住みやすそうに改装されているようだ。
奥の扉を開けると、男の住まいになっている。
「来られたぞ。お茶を出してもらえるか」
男がそう奥に向かって声を掛けると、軽い足音を立てながら男と同年代ほどの女性が現れた。
「まあ、お久しぶりですね。お元気そうでよかった。……あなた、お茶はうちのキッチンで淹れたものでいいのかしら」
「ああそうだな。一介の青年として扱って欲しいとのお言葉だ、うちのキッチンでいいだろう」
女性は頷くと奥へと戻っていった。それを無言で見送っていると、男性に肩を軽く叩かれた。
「さああちらに着替えを置いております。住むところや学校の説明も致しますのでおいでください」
促されるまま男の後についていくと、リビングに荷物が一山置かれていた。
衣服が何着かに下着や靴下。背嚢に箱に入った靴と、ほどほどの大きさで車輪のついた旅行鞄。
服が入ったままの紙袋もいくつか置かれている。それから本が何冊かと筆記用具もテーブルに置かれている。
以前に来たときも似たような支度をしてくれていた。その前も、ずっと昔も。
この神社の人間が里に降りる度にこうして生活を支えてくれる。もういつからこんな風に迎えてくれているのかも忘れてしまった。
ぼんやりと用意されたものを眺めていると、男に座るように勧められてソファに腰を下ろした。
「さて。この先にある高校に転入届を出して受理されています。そちらに通ってください。先の進路については、都度相談しましょう」
差し出されたのは、先日山に男が来た時に撮られた写真を使った生徒証だ。シャツを着せられたのはこの為だったのか。
「でも、編入試験を受けた覚えはないですよ。高校はそういうのが必要なのでしょう?」
掠れた声で答えると、男はニヤリと笑った。
「以前お送りした各教科のプリントを解きましたよね。あれが編入試験です。特別に山で試験を受けられるようにお願いしました。まあ成績にばらつきは多かったようですが、総合点で合格をいただきましたよ」
確かに家に届けられた問題集の中にプリントもあって、それを解いて送り返しはした。テスト形式のものが久々だったから楽しかったが、まさかあれが。
「私どもの意思ではありませんよ。『お母様』のご意向です。文句があればそちらへ仰ってください」
言いながら生徒証と似たサイズのカードを二枚渡される。
「これから住んでいただく部屋の鍵です。一枚はスペアですので、無くさないようにしまっておいてください」
受け取ったカードを裏表何度かひっくり返しながらみるが、鍵とは。不思議に思って男を見ると、苦く笑っていた。
「だからもっと降りてきなさいと言うんです。……これもみたことはないでしょう?」
手のひらほどの大きさで少し厚さがある、長方形の板を渡される。金属とガラスで出来た板で、四方の縁にボタンのようなものがついていたり、穴があったりする。
「これがスマートフォンです。電話ですよ。使い方は説明書をご覧になってください」
スマートフォンとは何だろうか。説明書を見ればわかるものなら、今聞くよりも話を先に進めたほうがいいだろう。
受け取って頷くと男も頷き、何枚かの書類を渡してきた。
「こちらが戸籍謄本です。あなたの名前と生年月日、それから本籍地はここになっています。住所はその下の賃貸契約書の中に書かれています」
言われて見ると、名前が違った。漢字は似ているが、読み方も違う。念のため生徒証も見てみるが、そちらも戸籍と同じ名前が書かれている。
「あなたの名前は少し古いんですよ。昔も浮いていたんですよ。まああの頃は人とは関わらないようにしていたようなので、気にならなかったかもしれませんが。同じくらい古い名前でも、もう少し違う方向なら、何百周も回っているっちゃいる名前だったんですがねえ」
男がいくつか例に出した名前は、どれも武士みたいな、格のある町人みたいな、そんな名前だった。確かにそれと比べると農民の名前然としてるから、そうかもしれない。
「今回はちゃんと人の中に入って生きよとのご伝言です。だから他の生徒と関わりを持てるようにあの学校に転入するようにとのことでした」
……迷惑な話だ。おれの意思は関係なく、しばらくの生き方を押し付けられた。
「まあ私たちの名前も覚えてはおられないようですからね。人と交わってしっかりと他人への興味を持てるようになるといいですね」
男の顔は少し寂しそうだった。昔世話になったのを覚えているんだから、それだけでいいと思ったが、そうではないらしい。
「もう一度、教えて。……覚えますから」
そう答えると、男の顔が少し明るくなった。ちょうどその時、女が盆に乗せた茶器を持って部屋に入ってきた。
「私はこの神社の宮司、此花雅彦。こちらが妻の佐和子です。親戚と名乗っておりますので、伯父伯母とお呼びくださると嬉しいです」
男——雅彦さんの言葉に、テーブルに茶器を置いた佐和子さんが会釈する。
手にした生徒証には『此花権亮』と書いてある。読み方はコノハナケンスケとなっている。
「わかりました。じゃあおれのことはケンスケと呼んでください。伯父さん、伯母さん」
「はい、じゃあ一回お茶にしましょう。声が掠れているわ。潤しなさいな」
佐和子さんがニコニコと笑って、淹れた茶を渡してくれた。
着替えについては問題なかった。以前と同じ着方のものばかりだった。この辺は年数が経っても変わらなかったものだろう。
昔大きく変わった時には戸惑いもしたけど、それに比べたら多少見た目が変わった程度は大した問題じゃない。
ただ、この制服というのが厄介そうだった。
昔もこのスーツのような服は着たことがないわけじゃなかったけど、腕周りがキツくて動き辛い。足回りも同じくだ。
試着しながらそうぼやいたら、雅彦さんが「作務衣ばかり着ているからですよ」と言ってきた。
あれは山で生活するのに動きやすくてよかったんだから、仕方がないだろう。試着の前もここに来る道はそのまま作務衣を着てきた。
「じゃあ靴も窮屈って思うでしょうねえ。ちゃんと靴下を履いてからスニーカーを履くんですよ」
新聞紙を敷いた上に紐靴が置かれた。ソファに座って靴下を履く。
昔はふくらはぎくらいの丈だった気がするが、これはくるぶしの下までしかなくてどこか頼りない。でも履きやすい。
指が詰まる感じがするのが嫌だけど、この程度なら我慢が出来そうだ。
促されるまま靴に足を入れる。しっかりした作りの分、重い。山では草鞋を履いていたから、違和感しかない。
紐を締めながら、佐和子さんが履き心地を聞いてきたので「長く履いていると疲れそう」と答える。
「学校では上履きを履くから、もう少し過ごしやすいと思うわ」
別の箱を持ってきて見せてくれたのは、真ん中にゴム止めのついた簡易的な靴だった。
「あとは体操着とジャージ、体育用のシューズはこっちの袋にまとめておくわね」
「さあ、今日はここに泊まって行きなさい。明日、学校とあなたの住む部屋へ案内します」
雅彦さんがそう言って立ち上がると、制服の説明はそれで終わった。
制服を脱ぐと、普段着だという服と下着を渡された。おれが褌を下履きにしているのが気になったようで「これからはこちらを履くように」と言われた。
確かに昔もこんな感じの下着を履いていた。でも履き慣れないしどこか違和感があったから、山に戻ってからは履き慣れた下履きを履くようになった。
「体育の着替えでこんなの履いているのを見られたら、色々言ってくる者もおりましょう」
それも一理あるかと思って下着を開いてみると、昔よりも伸縮が良さそうな素材でぴったりと体に添いそうなものだった。少し小さく見える。
「あなたの体型ならそれが丁度いいサイズですよ」
……そんなものか。締め付けられて苦しくはならないだろうか。伸縮するから大丈夫か。
下着を眺めながら考えていると、今日寝る部屋に行くと背中を押された。
風呂と洗面は以前と変わらない作りだったから、説明を受けただけで使うことができた。
シャワーだけは蛇口の形が少し違っていて戸惑ったりはしたが、すぐに慣れた。
今後住む部屋も同じ形式だというから、ここで使えたならまずは湯を浴びることはできるだろう。
着てきた作務衣は風呂に入っている間に回収されてしまった。今後はアルバイトの時だけ着るようにと言われた。
新しいものを制服として支給してくれるようだ。
明るい電気も温かなお湯も山の小屋にはなかった。おれが不要だと言ったからだ。
電気も水道もガスも通っていないほどの山奥だから、整えるのも大変だし、ない生活にも慣れていたから。
これからはこの生活に慣れなければならないかと思うと、少し気持ちが萎んでしまう。
便利な生活に慣れると、山に戻った時が辛いのは、前の時に嫌というほど経験したからだ。
人との関わりもそう。明日の初登校が憂鬱で仕方なかった。
「なんで母さんは学校に行かせようと思ったんだろう」
人の情と愛を知ってこい。これは昔からずっと言われていることだ。それを知ることに意味があるとは思えなかった。
人の中で生きる意味もないと思う。山奥で朽ちるまで生きていればいいのだと思っていた。
深く息を吐くと、おれはとぷりと湯に沈んだ。
温かい食事を食べ、ふかふかの布団に眠った。落ち着かないどころか、即寝熟睡。しっかりと朝まで眠ってしまった。
寝癖のついたざんばら髪を、佐和子さんが切り揃えて整えてくれた。それでも少し長い髪を、後ろで一つに括った。
朝のおつとめから戻ってきた雅彦さんと一緒に食卓に着き朝食を食べると、学校へ行く支度をした。
「今日は私と学校へ行きましょう。放課後に迎えに行きますから、そこからマンションへお送りします」
用意してくれた荷物は車に積み込んで昼のうちに運び込んでくれるそうだ。事前に連絡を貰っていた時間割の教科書だけを鞄に詰めた。
背嚢は色々入って便利だったけど、背負うのが重たかった。体育の用意と、佐和子さんの弁当も入っている。
「住んでいただくマンションは、学校まで歩いて行ける距離ですから。明日からは徒歩で向かってください」
シートベルトを締めながら、雅彦さんに言われた。車や自転車は苦手だから徒歩で行けるのはありがたい。
車の窓からは同じ制服の生徒が歩く姿が見えた。今日からはあの中におれも入るんだ。憂鬱でしかない。
確かに見た目は彼らと変わらないだろう。でも、あの中に入ってやっていけるとは思えなかった。
駐車場に車を停めると、雅彦さんと一緒に校舎へと入った。今日は教員用の入り口から入るようにと言われたようだ。
中に入ると玄関先に一人の女が立っていた。
「此花さんですね。一年四組の担任の山田です。よろしくお願いしますね」
若そうな女だ。ふわりとした白い薄手の服に、てろんとしてゆったりしたズボンを履いている。茶色みを帯びた髪は後ろで一つに括っている。
「じゃあ権亮、私はここまでで帰るからね。帰りは迎えにくるから勝手に帰らないようにね」
雅彦さんはおれの肩を二、三度励ますように叩いて、玄関から出ていった。
「此花くん、靴箱に寄ってから教室に案内するね」
靴を脱いで手に持ち、山田先生の後に続いた。
教室に入ると、たくさんの男女がこちらを一斉に見た。視線にびくりと肩が震えた。こんなに一斉に見られたことがないから、正直怖い。
あの日から人の目を避けて過ごしていたから余計にだ。
「はーい。もう昨日から話題だったみたいだけど、今日から転入してきた此花権亮くんです。よろしくね」
ちらりとこちらを見て、口を開けそうにないと思ったのか、山田先生がおれの紹介をした。慌てて頭だけを下げる。
反応を見るのが怖くて、そのまま顔を上げられなかった。
「じゃあ席は、山里くんの横ね。今はまだ五十音順だけど、まあ転入生だから一番後ろ。そのほうが落ち着くでしょ」
山田先生の言葉に少し顔を上げる。教室の後ろを見ると、窓際に空いた席がある。隣の席に座る男子生徒が軽く手を挙げている。
あそこがおれの席らしい。机の間を、生徒たちを見ないように足元を見て進む。席に座ると山里が声を掛けてきた。
「教科書はあるか? 一限目は英語だけど、大丈夫?」
おれは頷いて、机に置いた背嚢から英語の教科書とノート、筆記具を出す。
「鞄は机の横に掛けるか床に置いとくんだよ」
山里のいう通り、おれは背嚢を机の横に掛けた。その姿を山里は片手で頬杖をつきながらじっと見てくる。
視線が鬱陶しいが無視を決め込む。と、山田先生の話が終わって、チャイムが鳴った。
街の様子は変わりがないようでいて、しっかりと年月が流れているのがわかる。
見慣れない建物や、見慣れない看板。あったはずの家は空き地になり、空き地だったところに立派なマンションが建っている。
それでも神社までの道を迷わず歩けるのは、残っている昔の面影があったからだろう。
「やっと来ましたか。どれくらいぶりだと思っているんですか。もう少し頻繁に顔を出しなさいと言ったはずですよ」
参道の階段を登り切って鳥居を潜ったところで、横手から声をかけられた。
振り向いてみると、初老に差し掛かった年頃の男が、少し怒ったような顔で仁王立ちしていた。
「あ……はい、ごめんなさい……」
声を発したのはどれくらいぶりなのか、思ったよりも掠れた小さな声しか出ない。男の耳に届いただろうか。
「今回も指示はいただいております。家に一式揃えておいたので、おいでなさい」
白い衣を着て紫地に紋の入った袴を履いた男に先導されて、社務所の中に入る。ここも昔来た時よりももっと住みやすそうに改装されているようだ。
奥の扉を開けると、男の住まいになっている。
「来られたぞ。お茶を出してもらえるか」
男がそう奥に向かって声を掛けると、軽い足音を立てながら男と同年代ほどの女性が現れた。
「まあ、お久しぶりですね。お元気そうでよかった。……あなた、お茶はうちのキッチンで淹れたものでいいのかしら」
「ああそうだな。一介の青年として扱って欲しいとのお言葉だ、うちのキッチンでいいだろう」
女性は頷くと奥へと戻っていった。それを無言で見送っていると、男性に肩を軽く叩かれた。
「さああちらに着替えを置いております。住むところや学校の説明も致しますのでおいでください」
促されるまま男の後についていくと、リビングに荷物が一山置かれていた。
衣服が何着かに下着や靴下。背嚢に箱に入った靴と、ほどほどの大きさで車輪のついた旅行鞄。
服が入ったままの紙袋もいくつか置かれている。それから本が何冊かと筆記用具もテーブルに置かれている。
以前に来たときも似たような支度をしてくれていた。その前も、ずっと昔も。
この神社の人間が里に降りる度にこうして生活を支えてくれる。もういつからこんな風に迎えてくれているのかも忘れてしまった。
ぼんやりと用意されたものを眺めていると、男に座るように勧められてソファに腰を下ろした。
「さて。この先にある高校に転入届を出して受理されています。そちらに通ってください。先の進路については、都度相談しましょう」
差し出されたのは、先日山に男が来た時に撮られた写真を使った生徒証だ。シャツを着せられたのはこの為だったのか。
「でも、編入試験を受けた覚えはないですよ。高校はそういうのが必要なのでしょう?」
掠れた声で答えると、男はニヤリと笑った。
「以前お送りした各教科のプリントを解きましたよね。あれが編入試験です。特別に山で試験を受けられるようにお願いしました。まあ成績にばらつきは多かったようですが、総合点で合格をいただきましたよ」
確かに家に届けられた問題集の中にプリントもあって、それを解いて送り返しはした。テスト形式のものが久々だったから楽しかったが、まさかあれが。
「私どもの意思ではありませんよ。『お母様』のご意向です。文句があればそちらへ仰ってください」
言いながら生徒証と似たサイズのカードを二枚渡される。
「これから住んでいただく部屋の鍵です。一枚はスペアですので、無くさないようにしまっておいてください」
受け取ったカードを裏表何度かひっくり返しながらみるが、鍵とは。不思議に思って男を見ると、苦く笑っていた。
「だからもっと降りてきなさいと言うんです。……これもみたことはないでしょう?」
手のひらほどの大きさで少し厚さがある、長方形の板を渡される。金属とガラスで出来た板で、四方の縁にボタンのようなものがついていたり、穴があったりする。
「これがスマートフォンです。電話ですよ。使い方は説明書をご覧になってください」
スマートフォンとは何だろうか。説明書を見ればわかるものなら、今聞くよりも話を先に進めたほうがいいだろう。
受け取って頷くと男も頷き、何枚かの書類を渡してきた。
「こちらが戸籍謄本です。あなたの名前と生年月日、それから本籍地はここになっています。住所はその下の賃貸契約書の中に書かれています」
言われて見ると、名前が違った。漢字は似ているが、読み方も違う。念のため生徒証も見てみるが、そちらも戸籍と同じ名前が書かれている。
「あなたの名前は少し古いんですよ。昔も浮いていたんですよ。まああの頃は人とは関わらないようにしていたようなので、気にならなかったかもしれませんが。同じくらい古い名前でも、もう少し違う方向なら、何百周も回っているっちゃいる名前だったんですがねえ」
男がいくつか例に出した名前は、どれも武士みたいな、格のある町人みたいな、そんな名前だった。確かにそれと比べると農民の名前然としてるから、そうかもしれない。
「今回はちゃんと人の中に入って生きよとのご伝言です。だから他の生徒と関わりを持てるようにあの学校に転入するようにとのことでした」
……迷惑な話だ。おれの意思は関係なく、しばらくの生き方を押し付けられた。
「まあ私たちの名前も覚えてはおられないようですからね。人と交わってしっかりと他人への興味を持てるようになるといいですね」
男の顔は少し寂しそうだった。昔世話になったのを覚えているんだから、それだけでいいと思ったが、そうではないらしい。
「もう一度、教えて。……覚えますから」
そう答えると、男の顔が少し明るくなった。ちょうどその時、女が盆に乗せた茶器を持って部屋に入ってきた。
「私はこの神社の宮司、此花雅彦。こちらが妻の佐和子です。親戚と名乗っておりますので、伯父伯母とお呼びくださると嬉しいです」
男——雅彦さんの言葉に、テーブルに茶器を置いた佐和子さんが会釈する。
手にした生徒証には『此花権亮』と書いてある。読み方はコノハナケンスケとなっている。
「わかりました。じゃあおれのことはケンスケと呼んでください。伯父さん、伯母さん」
「はい、じゃあ一回お茶にしましょう。声が掠れているわ。潤しなさいな」
佐和子さんがニコニコと笑って、淹れた茶を渡してくれた。
着替えについては問題なかった。以前と同じ着方のものばかりだった。この辺は年数が経っても変わらなかったものだろう。
昔大きく変わった時には戸惑いもしたけど、それに比べたら多少見た目が変わった程度は大した問題じゃない。
ただ、この制服というのが厄介そうだった。
昔もこのスーツのような服は着たことがないわけじゃなかったけど、腕周りがキツくて動き辛い。足回りも同じくだ。
試着しながらそうぼやいたら、雅彦さんが「作務衣ばかり着ているからですよ」と言ってきた。
あれは山で生活するのに動きやすくてよかったんだから、仕方がないだろう。試着の前もここに来る道はそのまま作務衣を着てきた。
「じゃあ靴も窮屈って思うでしょうねえ。ちゃんと靴下を履いてからスニーカーを履くんですよ」
新聞紙を敷いた上に紐靴が置かれた。ソファに座って靴下を履く。
昔はふくらはぎくらいの丈だった気がするが、これはくるぶしの下までしかなくてどこか頼りない。でも履きやすい。
指が詰まる感じがするのが嫌だけど、この程度なら我慢が出来そうだ。
促されるまま靴に足を入れる。しっかりした作りの分、重い。山では草鞋を履いていたから、違和感しかない。
紐を締めながら、佐和子さんが履き心地を聞いてきたので「長く履いていると疲れそう」と答える。
「学校では上履きを履くから、もう少し過ごしやすいと思うわ」
別の箱を持ってきて見せてくれたのは、真ん中にゴム止めのついた簡易的な靴だった。
「あとは体操着とジャージ、体育用のシューズはこっちの袋にまとめておくわね」
「さあ、今日はここに泊まって行きなさい。明日、学校とあなたの住む部屋へ案内します」
雅彦さんがそう言って立ち上がると、制服の説明はそれで終わった。
制服を脱ぐと、普段着だという服と下着を渡された。おれが褌を下履きにしているのが気になったようで「これからはこちらを履くように」と言われた。
確かに昔もこんな感じの下着を履いていた。でも履き慣れないしどこか違和感があったから、山に戻ってからは履き慣れた下履きを履くようになった。
「体育の着替えでこんなの履いているのを見られたら、色々言ってくる者もおりましょう」
それも一理あるかと思って下着を開いてみると、昔よりも伸縮が良さそうな素材でぴったりと体に添いそうなものだった。少し小さく見える。
「あなたの体型ならそれが丁度いいサイズですよ」
……そんなものか。締め付けられて苦しくはならないだろうか。伸縮するから大丈夫か。
下着を眺めながら考えていると、今日寝る部屋に行くと背中を押された。
風呂と洗面は以前と変わらない作りだったから、説明を受けただけで使うことができた。
シャワーだけは蛇口の形が少し違っていて戸惑ったりはしたが、すぐに慣れた。
今後住む部屋も同じ形式だというから、ここで使えたならまずは湯を浴びることはできるだろう。
着てきた作務衣は風呂に入っている間に回収されてしまった。今後はアルバイトの時だけ着るようにと言われた。
新しいものを制服として支給してくれるようだ。
明るい電気も温かなお湯も山の小屋にはなかった。おれが不要だと言ったからだ。
電気も水道もガスも通っていないほどの山奥だから、整えるのも大変だし、ない生活にも慣れていたから。
これからはこの生活に慣れなければならないかと思うと、少し気持ちが萎んでしまう。
便利な生活に慣れると、山に戻った時が辛いのは、前の時に嫌というほど経験したからだ。
人との関わりもそう。明日の初登校が憂鬱で仕方なかった。
「なんで母さんは学校に行かせようと思ったんだろう」
人の情と愛を知ってこい。これは昔からずっと言われていることだ。それを知ることに意味があるとは思えなかった。
人の中で生きる意味もないと思う。山奥で朽ちるまで生きていればいいのだと思っていた。
深く息を吐くと、おれはとぷりと湯に沈んだ。
温かい食事を食べ、ふかふかの布団に眠った。落ち着かないどころか、即寝熟睡。しっかりと朝まで眠ってしまった。
寝癖のついたざんばら髪を、佐和子さんが切り揃えて整えてくれた。それでも少し長い髪を、後ろで一つに括った。
朝のおつとめから戻ってきた雅彦さんと一緒に食卓に着き朝食を食べると、学校へ行く支度をした。
「今日は私と学校へ行きましょう。放課後に迎えに行きますから、そこからマンションへお送りします」
用意してくれた荷物は車に積み込んで昼のうちに運び込んでくれるそうだ。事前に連絡を貰っていた時間割の教科書だけを鞄に詰めた。
背嚢は色々入って便利だったけど、背負うのが重たかった。体育の用意と、佐和子さんの弁当も入っている。
「住んでいただくマンションは、学校まで歩いて行ける距離ですから。明日からは徒歩で向かってください」
シートベルトを締めながら、雅彦さんに言われた。車や自転車は苦手だから徒歩で行けるのはありがたい。
車の窓からは同じ制服の生徒が歩く姿が見えた。今日からはあの中におれも入るんだ。憂鬱でしかない。
確かに見た目は彼らと変わらないだろう。でも、あの中に入ってやっていけるとは思えなかった。
駐車場に車を停めると、雅彦さんと一緒に校舎へと入った。今日は教員用の入り口から入るようにと言われたようだ。
中に入ると玄関先に一人の女が立っていた。
「此花さんですね。一年四組の担任の山田です。よろしくお願いしますね」
若そうな女だ。ふわりとした白い薄手の服に、てろんとしてゆったりしたズボンを履いている。茶色みを帯びた髪は後ろで一つに括っている。
「じゃあ権亮、私はここまでで帰るからね。帰りは迎えにくるから勝手に帰らないようにね」
雅彦さんはおれの肩を二、三度励ますように叩いて、玄関から出ていった。
「此花くん、靴箱に寄ってから教室に案内するね」
靴を脱いで手に持ち、山田先生の後に続いた。
教室に入ると、たくさんの男女がこちらを一斉に見た。視線にびくりと肩が震えた。こんなに一斉に見られたことがないから、正直怖い。
あの日から人の目を避けて過ごしていたから余計にだ。
「はーい。もう昨日から話題だったみたいだけど、今日から転入してきた此花権亮くんです。よろしくね」
ちらりとこちらを見て、口を開けそうにないと思ったのか、山田先生がおれの紹介をした。慌てて頭だけを下げる。
反応を見るのが怖くて、そのまま顔を上げられなかった。
「じゃあ席は、山里くんの横ね。今はまだ五十音順だけど、まあ転入生だから一番後ろ。そのほうが落ち着くでしょ」
山田先生の言葉に少し顔を上げる。教室の後ろを見ると、窓際に空いた席がある。隣の席に座る男子生徒が軽く手を挙げている。
あそこがおれの席らしい。机の間を、生徒たちを見ないように足元を見て進む。席に座ると山里が声を掛けてきた。
「教科書はあるか? 一限目は英語だけど、大丈夫?」
おれは頷いて、机に置いた背嚢から英語の教科書とノート、筆記具を出す。
「鞄は机の横に掛けるか床に置いとくんだよ」
山里のいう通り、おれは背嚢を机の横に掛けた。その姿を山里は片手で頬杖をつきながらじっと見てくる。
視線が鬱陶しいが無視を決め込む。と、山田先生の話が終わって、チャイムが鳴った。
