啓太が、カナダグースのオリーブのダウンを着て、知らない女の子と手を繋いで歩いているのを見かけてから約12時間後、私は浜松で海老と戦っていた。
正確には、あたりに充満している海老の匂いと、だ。
攪拌された海老と熱した油の匂いは、風上にいても、衛生マスク越しに容赦なく鼻の奥を突き刺してくる。
普段は、東京にある食品メーカーの経理部で請求書や稟議書を処理している。入社五年目の節目研修で、自社工場へ来ている。
「そこにいると危ないから、こっちにいて」
通路を塞いでしまっていたらしく、慌てて端に移動した。そのすぐ脇を、食材の入ったコンテナを載せた台車が、水を跳ねながら通り過ぎていく。コンテナの中身は、これからこの釜でほかの食材と煮込まれ、全国のスーパーや百貨店に並ぶ『こだわり食材で作った、きまぐれシェフの香味海老のじっくり煮込んだパスタソース』になる。
社内の人間でも、商品名のどこかを間違えるパスタソースは、あるアイドルが「かわいい」と、海老のキャラクターが描かれたパッケージをインスタに載せたことをきっかけにバズった。
社内では、「おいしいではなく、かわいいのおかげだね」なんて声も上がっていた。
この工場では、惣菜やソース類などいくつもの商品を作っている。今日はそのうち、パスタソースの製造ラインに入っていた。
足元には水たまりができ、床のあちこちに段差があった。おそらく、補修を重ねた跡だろう。国内にあるいくつかの工場のなかでも、ここ浜松工場は老朽化が進んでいる。施設の修繕稟議も何度か経理へ回ってきた。添付された写真で見るよりも、実物の床はずっと危なっかしかった。
それにしても、一月とは思えないくらい暑い。内部が高温に熱せられる釜が何台も並んでいて、硬い殻を粉砕する攪拌機からも熱がこもる。決められたタイミングで、釜に二十キロほどの材料を投入する工程には、人の手が必要なものもある。
ふいに、タイマーがピピピピピピ、と鳴った。
「はい、入れるよー。せーの!」
「せーの!」
二人が声を掛け合って、粗くみじん切りにされた玉ねぎを投入していく。
長袖の作業服の背中は汗で濡れ、下に着たインナーが透けていた。私は、出張前に空調ベストの稟議申請が届いていたことを思い出す。
「安田さん、これ洗ってくれる?」
さっきまで材料が入っていたポリバケツを渡され、私はほっとしながら、メモとシルバーの小さなボールペンをポケットにしまう。工場内で使えるボールペンは、異物混入対策のため金属製に限られている。
水道で、野菜の色が赤く残ったバケツを洗い流していると、昨夜の光景がよみがえった。
あれは、間違いなく啓太だった。
啓太の家にスマホの予備バッテリーを忘れてしまい、今日から出張ということもあって、取りに行った。
最寄り駅から啓太の家へ向かう途中、彼は私の知らない女の子と手を繋いで歩いてきた。前を開けたキャメルのコートから、オフホワイトのレースの膝上丈ワンピースが覗いていた。
寒くないのかな。
そんなことを馬鹿みたいに考えているうちに、二人はどんどん近づいてきた。私は反射的に、脇道へ隠れた。
「だから、そんなことないって言ってるじゃん」
啓太の声だ。嬉しかったり、楽しいと少し語尾が上がる。
少し寝癖のついた後ろ髪。お気に入りのダウン。よく履いているリーバイスのジーンズ。限定だと自慢していた、NIKEのパープルのスニーカー。
間違えようがない。
その隣で、楽しそうに話している彼女は誰なのか。
今、目の前に飛び出していったら、彼らはどんな表情を浮かべるだろう。頭の中では威勢のいい言葉が駆け巡ったけれど、私は彼らがかなり遠くに行くまで、足を動かすことはできなかった。
結局私は、スマホの予備バッテリーを手に入れないまま、浜松までやってきた。
「安田さん、次はウェンさんのこと、手伝ってくれる?」
リーダーの隣にいる、ウェンさんと呼ばれた二十歳くらいの女の子が頭を下げる。ウェンさんは技能実習生だ。そういえば、経費申請でその名前を見かけたことがあった。
「よろしくお願いします」と彼女に告げると、ウェンさんは、
「よろしく、あまり日本語はわからない、ごめんね」と続けた。
私はウェンさんの後ろを、子犬のようについていく。迷路のような狭い道を何度も曲がり、調理場から離れた場所にやってきた。目の前にはたくさんの段ボールがある。ここは包装をする部署だ。
さっきとは一転、外気が入り込んでかなり冷える。同じ建物の中で、真夏と真冬を行ったり来たりしている。
「このラベル、数字、おかしなのがあったらとる。迷ってもとる。とめないように」
ウェンさんは、コンベアから流れてくるパウチ入りのパスタソースを目の前の作業台に置いた。そして、「破棄」とかかれた段ボールに入っていたものと並べる。
破棄の方は、賞味期限の印字が大きく曲がっていたり、西暦の一部が欠けている。
「じゃあ、私はこっちからみる。やすださんは、
こっちから」
ウェンさんに促され左側に移動すると、ブザーが鳴って、コンベアから充填されたソースが流れてきた。思っていたよりも、流れが早い。
ウェンさんは、手袋をした指先でパウチをタッチして確認していて、私もそれを倣う。
最初は緊張していたものの、同じ速度で、同じ形のパウチが次々と流れてくる。見ているうちに、まぶたが重くなった。昨日ほとんど眠れなかったせいだ。手のひらを手袋越しにつまみ、足を動かす。
ウェンさんは長い睫毛を伏せ、流れてくるパウチを次々と確認していく。ときどき迷いなく一本を抜き取って、「破棄」の箱へ入れた。
「やすださん、つかれた?」
目線はパウチのまま、ウェンさんが話しかけてきた。どうやら気を遣わせてしまったようだ。
「大丈夫です」
流れてくる数字を目で追いかけた。しばらくするとブザーが鳴り、パウチの流れが止まった。五分ほどすると、別の商品に切り替わるらしい。
ウェンさんはベトナムからやってきて、入社してから半年くらい。主に包装業務を担当していて夜勤もあると言う。夜中にコンクリート打ちっぱなしのこの場所は、息が白くなるそうだ。
「食堂、ごはん、おいしくない」
「え、そうなんですか」
初めて聞いた振りをしたけど、実は私も入社研修のとき同じことを思った。国が違っても、相変わらずイマイチらしい。
「駅の近くのジャパニーズレストラン。しずまつ?そこ、アジフライ、おいしい」
そう教えてくれたところで、再びブザーが響く。
「ヤスダさん、今度、場所、かわる」
私とウェンさんの位置が変わる。私が前へ。先頭のパスタソースが迫ってきた。少し緊張しながら、指先で日付の印字を押していく。少しの間なにもなかった。ときどきウェンさんは、私が見逃したパウチを廃棄箱に入れていく。謝ると、「気にしない」と横から声だけ聞こえてくる。
何度か印字が曲がったり欠けているものを見つけたけれど、流れる速さについていくのが精一杯だった。壁の時計を一瞬見る。夕方の4時。
あと、30分もすると今の『きまぐれシェフのホワイトソース』は終わるはずだ。あと少し、そう思っていたら、視界の隅で数字が欠けた気がした。ウェンさんの手は動かない。気のせいだったのだろうか、そう思って前からのソースを見つめ直すと、ウェンさんの指が、コンベアの脇にある黄色の大きなボタンを押した。
すぐに、コンベアが止まる。
ラインにいる人達の視線を感じる。
「ヤスダさん、見つけたら、とらないと」
ウェンさんは歩きながら、一つ一つパウチを確かめていく。その中に、印字が欠けているものがあった。
「ほっとくのいちばんダメ」
「すみません」
「でも、見つけてくれてありがとう」
そう言うとウェンさんは笑った。周りの視線も柔らかくなったのを感じながら、今度は目を逸らさず、再び流れてきたパウチを押し続けた。
◼️
「お疲れ様でした」
「明日は8時20分にここでね」
「はい、ありがとうございました」
ホテルの駐車場に着くと、辺りはすっかり暗くなっていた。もうすぐ20時になる。途中、帰り道が混んでいたこともあって、少し時間がかかった。運転してくれた工場の社員が、一度だけクラクションを軽く鳴らして道に戻っていく。
私はチェックインを済ませて、部屋へと急いだ。ずっと立ちっぱなしだったから、ヘトヘトだ。エレベーターは一人で乗れたことにホッとする。多分、私、今、乗り合わせた人が驚くくらい、エビくさい。外したマスクから、甲殻類の臭いがしたくらいだ。
部屋に荷物を置いて、髪を結び直す。
鏡に映る姿は、たった数時間で5歳くらい老けたように見える。食欲はないけれど、何か胃に入れておかないと明日は持たないだろう。
ポケットにスマホとエコバッグを突っ込んで、ホテルの近くにあるスーパーへ向かった。
唐揚げ弁当。食べたくない。
パスタ。気分じゃない。
海老のチリソース。当分遠慮したい。
惣菜の棚を二周ほどしたけれど、時間が遅いのもあって、あまりパッとしない感じだ。1.5リットルの水と、都内では見たことのない地元メーカーの緑茶、そして梅干しのおにぎりを一つカゴに入れてレジに向かっていると、前を歩いている人のカゴのなかに、つやりとした苺が入っているのを見つけた。
私は苺が大好物で、いつか苺だけを一日中食べてお腹をいっぱいにしたいと企てているくらいだ。ここは、静岡。苺の名産地だ。青果売り場に向かうと、ラスト1パックの苺を見つけた。赤くて粒の揃った苺がビニールの下できらめいている。歩いてきたそのままの勢いでカゴへ入れた。生産農家の望月さんに、私の今夜を託してホテルへと戻った。
「これで、よし」
ドライヤーを洗面台に置く。髪の毛を乾かして時計を見ると、9時を過ぎていた。お風呂から出る頃には、食欲も回復しつつあった。会社支給のスマホには、同期の小林菜摘から連絡が届いていた。
『研修おつかれさま!そっちはどう?』
少し考える。
『海老』
と短く返す。彼女もこの研修に参加したことがあるから、これだけで十分だ。
『やっぱり!今ちょっと電話で話せる?』
珍しい。何かあったのだろうか。いいよと返事をする前に、電話がかかってきた。よっぽど何か伝えたいことがあるのだろう。応答ボタンをスライドして、スピーカーフォンにした。
「聞いてー!あ、突然ごめん。研修おつかれさま。海老って結構匂い残るもんね」
「お疲れ、なんかすごいね、どした?」
菜摘はかなり興奮している。私は冷蔵庫から梅のおにぎりを取り出した。
「山根、どうも異動するらしいんだよ」
「えっ!」
山根というのは菜摘の上司で、年齢は50代前半くらい。別の部署なのでそれほど接点はないけれど、とんでもなく嫌味っぽくて、まるで半乾きの洗濯物の山に囲まれているような気持ちになる不快な会話は、隣の島にいても聞こえてくる。菜摘はその濡れたタオルの被害者の一人だった。
「それ、本当なら、今日一番いいニュースかもしれない」
「でしょ。浜松まで届けなきゃと思って」
「ありがとう。海老の向こう側まで届いた」
「海老、強いな」
私はおにぎりの包装を数センチ開ける。
「現場、どうだった?」
「暑くて寒くて、あと、海老」
「全部じゃん」
「あと、食堂はまだおいしくないらしい」
「そこ変わらないんだ」
「駅の近くの、しずまつ? アジフライがおいしいって教えてもらった」
「ああ、そこ行った。静松かそんな名前だったはず。普通においしい。工場の食堂のあとだと、泣けるよ。あとで地図送っとく」
「ん、いけたらいってみるよ、ありがとう」
「そっちは?海老以外に何かあった?」
昨日、啓太が知らない女の子と手を繋いでいた。そう言えば、菜摘はきっと怒ってくれる。けれど、私はまだ、その女の子の名前も、関係も、何も知らない。
「ない。今日はもう、海老だけ」
「そっか。じゃあ、寝な。明日も早いでしょ」
「うん」
「じゃ、また、東京で。あと一日、頑張ってね!」
「はいはーい、またね」
そこで電話は切れた。部屋が急に静かになり、テレビをつけると、旅番組が流れていた。どこかの港町で、湯気の立つラーメンと、つやつやした握り寿司が映っている。美味しそうではある。けれど、今の私の胃には、画面越しのご馳走くらいがちょうどよかった。スーパーの惣菜売り場にあった梅のおにぎり。海苔はしっとりしていて、米は冷蔵庫の中で少し固くなっている。ピリリとビニールの包装を最後まで開けると、梅干しの酸っぱい匂いがふっと立った。海老でも油でもない匂いに、思わず肩の力が抜ける。一口かじる。
冷えた米が、思っていたよりも重たく口の中に残った。けれど、噛んでいるうちに梅干しの塩気と酸っぱさが舌に広がっていく。酸っぱい。ちゃんと酸っぱい。昼からずっと、工場の匂いに占領されていた鼻と口の奥が、少しずつ自分のものに戻ってくるようだった。初めて飲むお茶も、香ばしくてペットボトルとは思えないほど美味しい。思わず写真を撮った。
私はテレビを見ながら、ゆっくりとおにぎりを食べた。食欲があるわけではないのに、胃に何かが入っていくと、体が戻ってくる。今日一日、床の段差やコンベアやウェンさんの声に置いてきたものがホテルの部屋に戻ってくる。全部食べたところで、苺のことを思い出した。
洗面台で水を出し、パックから苺を一粒ずつ取り出して洗う。指先に触れた苺は冷たく、表面に小さな粒が並んでいた。ヘタの近くは少し白く、先にいくほど濃い赤をしている。持ってきた紙皿に載せると、ころんと転がりそうになったので、慌てて受け止めた。一粒、口に入れる。
「あ、うわ、美味しい。これはあたりだ」
思ったよりも甘かった。けれど、ただ甘いだけではなくて、噛んだ瞬間に酸味が微かに追いかけてくる。果汁が口の中に広がって、冷えた米の重さをさらっていった。望月さんの苺は、甘くて濃厚な味だった。一粒が立派だ。ありがとう、望月さん。
できることなら、このまま東京まで持って帰りたい。
半分ほど苺を食べたところで、自分のスマホが震えた。啓太からだった。
既読をつけないよう、慎重にメッセージの頭の部分だけ確認する。どうも研修を労ってくれているようだった。
返事はしなかった。話す言葉が見つけられなかった。代わりに、苺をもう一粒つまんだ。
甘かった。それが少しだけ、腹立たしかった。
◼️
二日目、午前中は座学だった。工場の歴史や食品衛生について研修を受ける。
「じゃあ、休憩にしましょう。午後は指定の場所に行ってください」
配られたスケジュールを確認すると、午後は再び調理場での作業を行い、最後にレポートを書いて、明日帰宅する流れになっている。
あまり美味しくないと噂の食堂で、事実確認のため、あまり美味しくないうどんを食べたあと、私は指定の場所に向かった。
啓太からの連絡は朝起きて確認した。
研修を労う文面と、一緒に送られてきた海老のスタンプにイラっときたのもあって、返事はしていない。そもそも、工場の作業場に自分のスマホは持ち込めない。だから、ロッカーに入れてきた。それだけだ。
昨日は迷路のように感じられた通路も、今日はそうでもなかった。入り口の鏡に映った自分の姿を確認する。インナーキャップから、髪の毛は出ていない。
帽子は目深に被り、顔を包み込むように整える。後ろ垂れを下に引っ張って襟元に入れる。これで髪の毛が落ちないようになっているらしい。白い作業服に、白い帽子、白いマスク。
まるでフリーイラスト素材の「工場作業員」そのもので、思わず笑ってしまった。
壁に貼られたポスターの順に、肩、背中、腕、足。右から左へと粘着ローラーを身体にかける。指と腕を丁寧に洗い、仕上げに消毒を30秒、タイマーが鳴るまで続ける。アルコールが強くて、数回洗っただけで指先が赤くなっている。請求書の処理をしているだけでは、知り得なかったことだった。
もう一度、鏡の自分と目が合う。
「粘着ローラーよし、手洗いよし、消毒よし、よし!」
その声が大きかったのか、振り返った人が少し笑ったような気がしたけれど、気にしない。
これから私はクリーンルームで、殺菌されて生まれ変わるのだ。
◼️
午後の作業は、調理の前の下処理だった。
「安田さんはこっちね」
声をかけられて振り向くと、昨日とは違う作業台の前に案内された。ステンレスの台の上には、まだ何も載っていない。けれど、その横には透明な袋に入った冷凍のカット野菜の箱がいくつも積まれていた。ナス、ズッキーニ、にんじん。ラベルを見るだけでも、今日のソースに入る野菜の多さがわかる。
「今日は野菜を見るから。黒いのとか、形が悪いのとか、違うものが入ってたら取ってね」
説明してくれたのは、田辺さんというベテランの女性だった。白い帽子とマスクのせいで年齢はよくわからないけれど、声に迷いがない。昨日のリーダーよりも少し低い声で、手袋をはめる動作がやけに速かった。いつの間にか、ウェンさんも隣に立っている。
日や時間によって、誰がどこで何の作業をするのか、ソフトを使ってシフトが組まれているらしい。
「ヤスダさん、ナス」
「はい」
「黒いの、とる。変なの、とる。あと、ビニール、あったら、すぐ言う」
昨日聞いた言葉に似ている。
見つけたら、とる。
私は透明なビニール手袋の上から、さらに軍手を重ねた。食品を扱うのに軍手、と思ったけれど、すべて新品だった。田辺さんが「冷たいからね」と言った。
「最初はいいんだけど、だんだん指の感覚なくなるから」
「そうなんですか?」
「指もなくなるよ。気持ち的に」
田辺さんがそう言って笑うと、ウェンさんも頷いた。
袋が開けられる。出てきたのは、白く霜をまとった、一センチ角ほどのカットナスだった。使用する分量は、あらかじめ測ってあるらしい。袋の内側に残った細かな霜まで、田辺さんが手早く払う。
「はい、こうやって、ならして。重なってると見えないから」
言われた通り、私は両手でナスを広げた。凍ったナスが軍手越しに指先を冷やしてくる。最初は頼もしく思えた軍手も、冷たさを完全に防いでくれるわけではないらしい。じわじわと、指の先から温度が奪われていく。
三人で台を囲み、ナスを見ていく。
黒く変色したもの。
端が潰れて、形が崩れているもの。
皮のようなもの。
ヘタの硬そうな部分。
それらを、中央に置かれた小箱に入れていく。
田辺さんの手は早かった。迷わず拾い、横の容器へ入れていく。ウェンさんも、昨日パウチを見ていたときと同じように、目線を落としたまま淡々と手を動かしていた。
私は二人の速度に遅れないよう、ナスをならしながら目を凝らした。
「安田さん、経理だっけ」
田辺さんが手元を見たまま言った。
「はい」
「じゃあ、空調ベストのやつ、早く通してって言っといて」
「私にそこまでの権限は……」
「そうなの? まあ、そうよね。でも、あれがあると調理場は助かるのよ。熱中症で倒れる子もいるから」
その言葉に、釜の熱気を思い出した。いや、熱風。呼吸をするのも苦しくなるほどの、海老の強烈な熱風だ。確かに、あれはなんとかしなければいけない。それも、早急に。
「わかりました。一応、上に伝えてみます」
「よろしくね」
ウェンさんが「よろしく」と繰り返した。
一袋目が終わった。田辺さんが空になった袋を畳み、次の袋に手をかける。作業が切り替わる、そのほんの短い間だけ、空気が少し緩む。
「この作業、冬きついんだよね」
「夏も寒いです」
ウェンさんが言った。
「そう。結局、一年中きつい」
「食堂より、まし」
調理場のことだろうか。それとも美味しくない本当の食堂のことだろうか。ふと疑問に思ったけれど、確かめなくてもいいかと思った。
「それは言えてる」
二つ目の袋が開くと、また三人の視線は台の上に戻った。次もナスだ。
ざらざらと音を立てて、凍ったナスが広がっていく。白い霜。ところどころに、黒く変色した小さな欠片。私はそれを一つずつ拾っていった。形が大きすぎるものも良くないそうだ。歪なものも外し、小箱に入れる。
見つけたら、とる。
迷ったら、とる。
ほっとくのが、いちばんダメ。
昨日のウェンさんの声が聞こえてくる。
「安田さん、これ」
田辺さんが、黒くなったナスの端を私の方へ寄せた。
「あ、はい」
「こういうのは取っていい。迷ったらこっち」
「わかりました」
迷ったら、取る。
その言葉が、昨日よりも体に入ってきた。印字を見るより、野菜を見る方がわかりやすい気がした。目の前にあるものが、食べものとして見えるからかもしれない。
三袋目に入った頃には、指先の感覚がかなり鈍くなっていた。軍手の中で指を曲げる。自分の指なのに、少し遠い。
そのとき、凍ったナスの間で、何かが細く光った。一瞬、氷かと思った。
けれど、指先でつまむと、それは透明なビニールの切れ端だった。薄くて、軽い。野菜ではない。
「田辺さん」
自分でも驚くくらい、声がすぐに出た。
田辺さんが顔を上げる。ウェンさんも手を止めた。
「これ、野菜じゃないです」
私が差し出すと、田辺さんはすぐにピンセットを取った。
「お、よく見つけたね」
「ビニール?」
ウェンさんが覗き込む。
「うん。こういうの、入ることあるんだよ。袋の端とか、紐とか。見つけたらすぐ言って正解」
田辺さんはビニール片を小さな袋に入れ、横の記録用紙に何かを書き込んだ。
「ありがとうございます」
反射的にそう言うと、田辺さんが首を横に振る。
「こっちがありがとうだよ。出荷前に見つかるのが一番いいんだから」
出荷前に見つかるのが、一番いい。
私は頷いて、もう一度台の上に目を戻した。凍ったナスの白い霜が、少しずつ溶けて、ステンレスの上に水の筋を作っている。
昨日は、見つけたのに取れなかった。
今日は、取れた。
たったそれだけのことなのに、軍手の中で冷え切った指先が戻ってくる気がした。
「ヤスダさん、今日、アジフライ、行く?」
作業が一区切りついたところで、ウェンさんが訊ねてきた。田辺さんが空になった袋を畳み、記録用紙に何かを書き込んでいる。次の原料が来るまで、ほんの少しだけ手が空いた。
「行こうと思ってます。昨日教えてもらったところ」
「しずまつ?」
「たぶん、静松」
「そう。アジフライ、おいしい。ソース、ちょっと。レモン、たくさん」
ウェンさんは親指と人差し指を二センチほど広げてみせた。
「いいですね。今日、それを目標に頑張ります」
「目標、だいじ」
ウェンさんは真面目な顔で頷いたあと、目を細めた。
「ウェンさんは、いつも行くんですか」
「たまに。給料日あと」
「給料日あと」
「うん。アジフライ、ちょっと高い。でも、おいしい」
その言い方があまりに正直で、笑ってしまった。
「日本に来て、半年くらいって言ってましたよね」
「うん。ベトナムから来た。家族にお金、送る」
「そうなんですね」
私が二十歳の頃よりずっとしっかりしている。
「でも」
ウェンさんは言葉を探すように目線を上げた。天井で煌々と光っている白いライトが、睫毛の先に小さく乗る。
「でも、一番は日本のアニメすき」
思っていたよりもはっきりした声だった。
「アニメ?」
「うん。小さいときから、見てた。言葉もアニメで覚えた」
「日本語を?」
「うん。もっと。アニメも、日本語も、ちゃんとわかりたい」
ちゃんとわかりたい。その言葉が、冷えた指先の奥に残った。ウェンさんは家族のために日本へ来た。
そして、自分のためにもここにいる。
私は、昨日からずっとロッカーにしまいっぱなしの自分のスマホのことを思い出した。啓太からのメッセージには、まだ返していない。返せない理由はいくつもあった。工場には持ち込めない。研修中だ。疲れている。何を言えばいいかわからない。
けれど、本当は、訊くのが怖いだけなのかもしれない。思わず隠れてしまったのも、そうだ。
「ヤスダさん?」
ウェンさんが、こちらを覗き込む。
「あ、ごめんなさい」
「アジフライ、食べる。元気、出る」
「はい」
「それで、明日、東京、帰る」
「はい」
「がんばる」
ウェンさんは首を傾けて、こちらを見つめる。私は頷いた。
次の原料が運ばれてきた。田辺さんが「はい、続きいくよ」と声をかける。私たちはまた、作業台の上に目を戻した。今度は緑色。カットされたズッキーニが、サイコロのように広がった。
見つけたら、とる。
迷ったら、とる。
今日の夜、私はアジフライを食べに行く。
それから、訊かなければいけないことを訊こう。
◼️
研修も無事に終わり、菜摘から教えてもらった地図を頼りに商店街をまっすぐ進む。地図アプリによるともうすぐ、ああ、あそこだ。
『静松』と毛筆でかかれた暖簾が目に入ってきた。
外観はよくある、少し古びた定食屋さんだった。店員さんに案内されて、カウンターの端に座った。壁に貼られた短冊メニューには、焼き魚定食、刺身盛り、静岡おでん、桜えびのかき揚げ、と知らない土地の夜が並んでいる。
「アジフライ定食と……生ビール、小さいので」
自分の声が思ったよりもはっきり聞こえた。
普段なら、ひとりで知らない店に入ってお酒を頼むことはあまりない。けれど、今日はささやかな乾杯をしてもいい気がした。昨日の梅おにぎりと苺だけでは足りなかった。
先に運ばれてきた小さなグラスのビールは、泡が少し多かった。ひと口飲むと、喉の奥に冷たさと苦味が落ちていく。工場の熱も、包装室の冷えも、まだ体のどこかに残っていたけれど、少しずつほどけていく。
ほどなくして、アジフライが届いた。
皿の上には、きつね色の衣をまとったアジが二枚、千切りキャベツとレモンを従えて並んでいた。箸で端を割ると、衣がさくっと、小さな音を立てる。中の身は白く、湯気がふわりと上がった。
醤油にするか、ソースにするか迷っていると、
迷っても、とる。
そんな声が頭の奥で聞こえた気がして、私はまずレモンを絞り、醤油を少しだけ垂らした。
熱い。
でも、美味しい。
これまで食べてきたアジフライとは違うとすぐにわかった。衣は軽いのに、身はふっくらとしていて、噛むほどに魚の甘さが出てくる。ソースでも醤油でもごまかさなくていい味だった。
昨日はあんなに油の匂いにうんざりしていたのに、今、目の前の油はちゃんと食べ物の匂いがした。衣の香ばしさと、魚のやわらかさと、レモンの酸っぱさが口の中でほどけていく。
「ウェンさん、正解」
小さく呟いて、ビールをもう一口飲んだ。二枚目は、ウェンさんの言葉どおり、ソースをかけることにした。
ソース、ちょっと。
レモン、たくさん。
レモンをもう一度絞ると、揚げたての衣の上で小さく弾けた。そこにソースをほんの少し垂らす。箸で持ち上げると、衣の端から湯気が逃げていく。
口に入れた瞬間、さっきより味が濃くなった。油の甘さと、ソースの酸味と、レモンの苦味が混ざる。ビールを飲むと、喉の奥が冷えて、目の奥が少し熱くなった。
つけ合わせのきゅうりの漬物を食べる。ぱり、と音がして、口の中の油が遠のいた。塩気が舌に残っているうちに、白いご飯をひと口食べる。米はやや固めで、熱い。梅のおにぎりとは違う、誰かがここで炊いたご飯の味がした。
味噌汁の椀を持ち上げる。湯気の向こうで、豆腐とわかめが揺れていた。ひと口飲むと、出汁の味がゆっくり胃に落ちていく。昨日からずっと、海老の匂いや冷えたナスやビニール片や、啓太の後ろ姿ばかりが体の中にあったけれど、味噌汁の温かさがゆっくりと入り込んでくる。
「また、みのりの豚汁飲みたいな。作ってよ」
いつだったか、啓太がそう言った。
変わったのは私も同じだ。材料がないから。仕事が忙しいから。そんな理由をつけて先延ばしにしてきた。
そのとき、彼がどんな顔をしていたのかだって、思い出せない。冷めた気持ちを600Wで二分半あたためる、なんてことはできない。
厨房の奥では、誰かがまた魚を油に落としている。
その人は、今日ここに私が来ることも、こんな気持ちでアジフライを食べていることも知らない。
ちゃんと、お腹が空いていたんだ。
そう気づいたら、少しだけ泣きそうになった。
また、このアジフライを食べたいな。
そう思ったことに、自分で驚いた。
海老の匂いにまみれて、指先を冷やして、見たくないものを何度も思い出して、それでもこの夜は、またあってもいいと思えた。
スマホを取り出した。既読のまま、返せなかったメッセージ。
酔ってしまったら、送れなくなるかもしれない。その前に。
『啓太が家の近くで、女の子と手を繋いで歩いているのを見ました。あれは誰ですか?』
いや、違う。考える時間がない方がいい。言葉を整えられる前に、顔を見たい。
私は一度その文章を消して、打ち直した。
『研修終わりました。聞きたいことがあるので、週末会える?』
送信ボタンを押す。スマホから手を離して、ビールを口にした。
するとスマホが震えた。菜摘だった。
『ちょっと聞いてー! 山根、異動の噂デマだったっぽい!』
続けて、涙を滲ませたスタンプが届く。
思わず笑ってしまった。けれど今はまだ、この味に浸っていたかった。東京に戻ったら、近いうちに残念会があるだろうから、それまでは。私はスマホを伏せて、残っていたご飯を口に運んだ。
◼️
週末、啓太とは駅前のファミレスで会うことにした。
昼には少し遅く、夕飯にはまだ早い時間だった。店内は思ったよりも空いていて、窓際の席に案内された。隣のテーブルでは、小学生くらいの男の子がドリンクバーのメロンソーダにバニラアイスを浮かべていて、向かいに座る母親らしき人に「それはもう飲み物じゃない」と言われていた。
私はメニューを開く前から、注文するものを決めていた。
海老のパスタ。この店で使われているソースが、うちの会社のものだということは知っていた。経理にいると、納品先の名前や単価やキャンペーン費用は自然と目に入る。けれど、実際に店でそれを食べたことはなかった。
タッチパネルで先に注文を済ませる。啓太が来たのは、その五分後だった。
「ごめん、待った?」
そう言いながら、啓太は向かいの席に座った。
私は首を横に振る。
「大丈夫。先に注文した」
「珍しいね、ファミレスなんて」
啓太はメニューに手を伸ばしながら言った。
確かに、私たちはあまりファミレスに来ない。啓太は、安くて賑やかな店を嫌うわけではないけれど、せっかく会うならもう少し落ち着いた店にしようと言うことが多かった。私もそれに、特に反対したことはなかった。
「うん。ここ、うちのソース使ってるから」
「へえ、そうなんだ」
啓太は少し意外そうにして、それからメニューを眺めた。私はその顔を見ていた。いつもと同じ顔だった。眠そうで、少し眉が下がっていて、悪いことをしている人には見えない顔。
啓太は椅子の横に、オリーブのダウンを畳んで置いた。あの日見た、カナダグースのダウンだった。足元には、紫のスニーカー。限定だと自慢していた、あのNIKEだった。
やっぱり、あれは啓太だった。胸の奥がキュッとして、ああ、まだこんな気持ちになるんだなと思った。
わかっていた。
わかっていたけれど、最後の小さな逃げ道が、目の前で静かに閉じた気がした。
「聞きたいことがあるって送ったでしょ」
私が言うと、啓太はメニューから顔を上げた。
「うん」
「出張に行く前の日、啓太の家の近くで見たの」
喉が少し乾いていた。私はグラスの水をひと口飲んだ。冷たさが喉を通っていく。
「女の人と手を繋いで歩いてた」
啓太は、すぐには答えなかった。
テーブルの上では、グラスについた水滴が丸くふくらんでいた。店内のどこかで、注文を知らせる電子音が鳴る。子どもの笑い声。食器の触れ合う音。ドリンクバーの機械が氷を落とす音。その全部が、啓太の沈黙を引き伸ばしていく。
「……いとこだよ」
啓太はそう言った。
いとこ。
私は、その言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。
「従妹なんだ。どういうつながり?」
「母方の」
啓太は、水のグラスに手を伸ばした。
その指先を、私は見ていた。
「久しぶりにこっち来てて。駅まで送ってただけ」
「手、繋いでたよね」
「いや、あれは」
啓太が少し笑いかけて、途中でやめた。
笑えば済むと思った顔ではなかった。けれど、どう説明するのが正解か探している顔ではあった。
その顔を見に来たのだと思った。
LINEではわからない。電話でも、きっとわからない。
目の前に座って、沈黙の長さや、水を飲むタイミングや、笑いかけてやめる口元を見るために、私はここに座っている。
「それでね」
私は、グラスから手を離した。
「私には、大人になって手を繋ぐ異性のいとこがいないから、よくわからないんだけど」
啓太の指が、グラスの縁で止まった。
「いとこなら、今度、子どもの頃の写真を見せてくれる? それができないなら、会わせて。それもできないなら、別れよう」
今度は、逃げたりしない。
言い終えてから、自分の声が震えていなかったことに気づいた。啓太は何か言いかける。
そのとき、店員がテーブルの横で立ち止まった。
「お待たせしました。こだわりシェフの海老パスタです」
白い皿が、私の前に置かれた。
赤みのあるソースから、湯気が立っている。皿のふちには、細かく刻まれたパセリが飛んでいた。
海老の匂いがした。香ばしくてほんのりと甘い。
けれどその奥に、あの熱さがあることを、私はもう知っていた。
研修のあと私は、空調ベストの件を上に伝えた。通るかどうかは、まだわからない。でも、見つけたものを、見なかったことにはしなかった。
フォークを手に取る。啓太はまだ、何かを言おうとしている顔をしていた。私は構わず、先に皿の方を見た。
啓太は何と私に告げるだろう。誤魔化すのか、開き直るのか。案外、あっさりと終わらせるのかもしれない。
沈黙の奥の言葉を、お行儀良く待ってなんてあげない。
私、見逃さなかったよ。
心の中で、ウェンさんにそっと呟く。
長いまつ毛をぱちぱちさせて、彼女なら少しだけ笑ってくれる気がした。
今度は、あのアジフライを一緒に食べられたらいい。ソースは少しで、レモンはたくさん。アニメの話も聞いてみたい。そうだ、スーパーの苺もまた買おう。
「お先に、いただきます」
そう言ってパスタを巻き取った。
