肌の上を化粧筆が滑る感触はくすぐったくてなかなか慣れない。
「寧々様、眉間に皺が寄っています」
笑わないように我慢していたら一花に注意されたので、寧々は顔の力を抜くよう努力した。
「もう少しだけ我慢してくださいね」
再び肌に化粧筆が触れる。
「……はい、これで完成です。我ながらよくできたと思います」
得意げな表情でそう告げると、一花は寧々の目の前から背後に移動した。
すると、彼女の体で隠されていた鏡の中の自分があらわになる。
少年にしか見えない自分の姿に寧々は驚き、まじまじと鏡を覗き込んだ。
目と唇は細く、眉は太くなっており、顔全体の骨格がより強調されている。
「ちゃんと男に見える……。これってお化粧の効果ですか?」
「はい。寧々様は化粧映えするお顔立ちなのでとても楽しかったです」
一花はにこにこしながら神祇官の制服の上着を手渡してきた。千晃が手配したそれは、織部の霊布製の本物だ。
いよいよ東宮のところに向かい、呪詛を斬る日が訪れた。
ただの平民にすぎない寧々が、皇宮に入るには相応の理由がいる。
関係者で色々と方法を考えた結果、寧々は神祇官に扮して千晃の付き人として同行すると決まった。
しかし女性神祇官は数が少なく目立つため、男装することになったのである。
千晃は美栄よりも寧々を優先してくれた初めての人だ。
また美栄が働いた不敬な行動の数々を、里に返すだけで不問としてくれた。
あの日から寧々は千晃のために何だってすると決めていたから、男の格好をしろと言われても否やはなかった。
凸凹に乏しい体が幸いして、全身を鏡に写しても全く違和感がない。
「千晃様は晃成様と居間でお待ちです。見せて差しあげてください」
一花が声をかけてきた。
今日は千晃だけでなく、彼の従弟で秘書のような役目を務める藤澤晃成三等神祇官も同行すると聞いている。
「もう晃成様も到着されているんですね」
「ええ、つい先程」
一花の返事を聞いた寧々は、鏡台の前の椅子から立ち上がった。
一階の居間に移動すると、中にいた千晃と晃成の視線が一気に寧々に集まった。
「申し訳ありません、お待たせして!」
謝罪すると千晃が首を振る。
「いえ、女性の身支度は時間がかかるものですから。それにしても、見違えましたね。褒め言葉にはならないかもしれませんが、十代の少年に見えます」
「一花さんを褒めてあげてください。何でもできるのが凄すぎます」
報酬にお金や結婚相手より一花が欲しいくらいだ。
千晃は絶対に手放さないだろうし、これだけ力のある付喪神を従えるのは寧々の霊力では不可能だと思うが。
「女性に男装をさせるなんてどうかと思っていましたが、この出来栄えなら誰にも見破られないでしょうね」
感心した表情で発言したのは晃成である。
皇宮は結界で厳重に守られているので、千晃が変装する時に使った神術は使えないらしく、寧々は物理的に変装をする必要があった。
皇宮では武装できないが、神器である羽々斬は武器とは見なされないらしいのでこっそりと制服の内ポケットに忍ばせている。
「こんな格好を強いて申し訳ありません」
千晃に謝罪され、寧々は首を横に振った。
「千晃様のお役に立てるならこれくらい何でもないです」
彼の気遣いが嬉しかった。
◆ ◆ ◆
約束の時間には少し早いが全員の準備が終わったので一行は一条堀河宮を出発した。
移動の足は晃成が運転する神祇庁の官用車だ。
寧々は千晃と並んで後部座席に座る。
一条堀河宮から皇宮までは近いので、すぐに特徴的な瓦葺きの薄茶の塀が見えてきた。
眺望塔からの景色でわかってはいたが、塀は端が見えないくらいずっと続いている。
今からこの中に入ると思うと緊張してきた。
「寧々さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
寧々が硬くなっているのを察してか、千晃が声をかけてきた。
「あまり大丈夫ではないかもしれません。だってこの中には皇帝陛下がいらっしゃるんですよね……」
寧々は顔を曇らせる。
「いますがこの時間は執務をなさっているはずです。顔を合わせることはないと思いますよ」
「そうだとしても恐れ多くて……」
「兄の所に着くまでは俺と晃成に付いてきてくれたら大丈夫ですよ。仕草が女性的にならないようにだけ気を付けてください」
「はい……。頑張ります……」
寧々は眉を下げながら返事をした。
やがて一行を載せた官用車は、皇宮の正門にたどり着く。
門の前には近衛兵が立っていたが、千晃のおかげか簡単な確認だけで中に入ることを許された。
車が門を通り抜けた瞬間、清浄な空気に全身が包まれる感覚があり、寧々は目を見張った。
「わかりますか? 皇宮の結界に入りました」
千晃が話しかけてきた。
「神社の鳥居の中に入った時みたいです」
「そうですね。皇宮を護る結界の起点は御祖神の社なので」
彼の解説に寧々は納得する。
一条堀河宮が鬼門封じという性質からか、皇族の霊力と付喪神の一花の妖力の影響からか、清濁併せ持った気配を帯びているのとは対照的だ。
後部座席の窓からは、皇宮を構成する建物群が見える。
ぼうっと見蕩れていたら、晃成は車を馬車の停車場と思われる一角に停めた。
「寧々さん、車で入れるのはここまでなので降りてください」
千晃に声をかけられ、寧々は彼の荷物を持って車を降りた。
「女性に荷物を持たせるのは気が引けますね。重くないですか?」
「はい。大丈夫です」
付き人という設定なので寧々が荷物を持つのは当然なのだが、気遣ってくれる千晃は紳士である。
寧々は彼に笑みを向けると、鞄の持ち手を握る手に力を込めた。
「寧々様、眉間に皺が寄っています」
笑わないように我慢していたら一花に注意されたので、寧々は顔の力を抜くよう努力した。
「もう少しだけ我慢してくださいね」
再び肌に化粧筆が触れる。
「……はい、これで完成です。我ながらよくできたと思います」
得意げな表情でそう告げると、一花は寧々の目の前から背後に移動した。
すると、彼女の体で隠されていた鏡の中の自分があらわになる。
少年にしか見えない自分の姿に寧々は驚き、まじまじと鏡を覗き込んだ。
目と唇は細く、眉は太くなっており、顔全体の骨格がより強調されている。
「ちゃんと男に見える……。これってお化粧の効果ですか?」
「はい。寧々様は化粧映えするお顔立ちなのでとても楽しかったです」
一花はにこにこしながら神祇官の制服の上着を手渡してきた。千晃が手配したそれは、織部の霊布製の本物だ。
いよいよ東宮のところに向かい、呪詛を斬る日が訪れた。
ただの平民にすぎない寧々が、皇宮に入るには相応の理由がいる。
関係者で色々と方法を考えた結果、寧々は神祇官に扮して千晃の付き人として同行すると決まった。
しかし女性神祇官は数が少なく目立つため、男装することになったのである。
千晃は美栄よりも寧々を優先してくれた初めての人だ。
また美栄が働いた不敬な行動の数々を、里に返すだけで不問としてくれた。
あの日から寧々は千晃のために何だってすると決めていたから、男の格好をしろと言われても否やはなかった。
凸凹に乏しい体が幸いして、全身を鏡に写しても全く違和感がない。
「千晃様は晃成様と居間でお待ちです。見せて差しあげてください」
一花が声をかけてきた。
今日は千晃だけでなく、彼の従弟で秘書のような役目を務める藤澤晃成三等神祇官も同行すると聞いている。
「もう晃成様も到着されているんですね」
「ええ、つい先程」
一花の返事を聞いた寧々は、鏡台の前の椅子から立ち上がった。
一階の居間に移動すると、中にいた千晃と晃成の視線が一気に寧々に集まった。
「申し訳ありません、お待たせして!」
謝罪すると千晃が首を振る。
「いえ、女性の身支度は時間がかかるものですから。それにしても、見違えましたね。褒め言葉にはならないかもしれませんが、十代の少年に見えます」
「一花さんを褒めてあげてください。何でもできるのが凄すぎます」
報酬にお金や結婚相手より一花が欲しいくらいだ。
千晃は絶対に手放さないだろうし、これだけ力のある付喪神を従えるのは寧々の霊力では不可能だと思うが。
「女性に男装をさせるなんてどうかと思っていましたが、この出来栄えなら誰にも見破られないでしょうね」
感心した表情で発言したのは晃成である。
皇宮は結界で厳重に守られているので、千晃が変装する時に使った神術は使えないらしく、寧々は物理的に変装をする必要があった。
皇宮では武装できないが、神器である羽々斬は武器とは見なされないらしいのでこっそりと制服の内ポケットに忍ばせている。
「こんな格好を強いて申し訳ありません」
千晃に謝罪され、寧々は首を横に振った。
「千晃様のお役に立てるならこれくらい何でもないです」
彼の気遣いが嬉しかった。
◆ ◆ ◆
約束の時間には少し早いが全員の準備が終わったので一行は一条堀河宮を出発した。
移動の足は晃成が運転する神祇庁の官用車だ。
寧々は千晃と並んで後部座席に座る。
一条堀河宮から皇宮までは近いので、すぐに特徴的な瓦葺きの薄茶の塀が見えてきた。
眺望塔からの景色でわかってはいたが、塀は端が見えないくらいずっと続いている。
今からこの中に入ると思うと緊張してきた。
「寧々さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
寧々が硬くなっているのを察してか、千晃が声をかけてきた。
「あまり大丈夫ではないかもしれません。だってこの中には皇帝陛下がいらっしゃるんですよね……」
寧々は顔を曇らせる。
「いますがこの時間は執務をなさっているはずです。顔を合わせることはないと思いますよ」
「そうだとしても恐れ多くて……」
「兄の所に着くまでは俺と晃成に付いてきてくれたら大丈夫ですよ。仕草が女性的にならないようにだけ気を付けてください」
「はい……。頑張ります……」
寧々は眉を下げながら返事をした。
やがて一行を載せた官用車は、皇宮の正門にたどり着く。
門の前には近衛兵が立っていたが、千晃のおかげか簡単な確認だけで中に入ることを許された。
車が門を通り抜けた瞬間、清浄な空気に全身が包まれる感覚があり、寧々は目を見張った。
「わかりますか? 皇宮の結界に入りました」
千晃が話しかけてきた。
「神社の鳥居の中に入った時みたいです」
「そうですね。皇宮を護る結界の起点は御祖神の社なので」
彼の解説に寧々は納得する。
一条堀河宮が鬼門封じという性質からか、皇族の霊力と付喪神の一花の妖力の影響からか、清濁併せ持った気配を帯びているのとは対照的だ。
後部座席の窓からは、皇宮を構成する建物群が見える。
ぼうっと見蕩れていたら、晃成は車を馬車の停車場と思われる一角に停めた。
「寧々さん、車で入れるのはここまでなので降りてください」
千晃に声をかけられ、寧々は彼の荷物を持って車を降りた。
「女性に荷物を持たせるのは気が引けますね。重くないですか?」
「はい。大丈夫です」
付き人という設定なので寧々が荷物を持つのは当然なのだが、気遣ってくれる千晃は紳士である。
寧々は彼に笑みを向けると、鞄の持ち手を握る手に力を込めた。
