足りない青を、流し込む。

コンクリートを激しく叩く冷たい雨が、冬の校舎を打ち据えていた。午前中の授業半ば、大雨警報による下校命令。教頭の乾いたアナウンスが響き渡った瞬間、暴風雨には似合わない学校史上最大の歓声があがる。昼から不意に「自由の身」になった生徒たちは、我先にと校舎を飛び出していった。
「この時期に大雨警報なんて珍しい」
「それならいっそ最初から休校にしてくれたら、来る手間が(はぶ)けたのに」
軽口を叩いて帰っていく生徒たちの様子を、墨田凛(すみだりん)は北校舎の窓から見下ろしていた。規則性なく散らばっていく色彩豊かな雨傘は、持ち主の青春を反映した図表だ。はしゃぐ彼らとは対照的に、凛には急いで帰りたい家などなかった。
ここには人がいない。北校舎が担っていた役割は、彼女がこの学校に来る少し前に完成した新校舎にほとんど引き継がれてしまったため、誰も寄り付かないのだ。凛はこれまで、自らの静かな居場所を確保するため、増える蜘蛛の巣を数えてはほうきで払い落とす作業を繰り返してきた。
お役御免のがらんとした教室と、老朽化した薄暗い照明のせいで、幽霊が出るだの旧校舎の亡霊(ぼうれい)彷徨(さまよ)っているだのと、生徒たちの間ではもっぱら「負の吹き溜まり」と呼ばれている。
誰もいない静まり返った廊下を、凛は目的の場所へ向かってひとり歩いていた。顎のラインで切り揃えられた黒髪のショートヘアが、歩くたびに頬を撫でるように揺れる。
きゅっ、きゅっと、凛の靴がいびつな音を立てるたび、追いかけるように反響する。窓が閉め切られているにもかかわらず、濡れている床。一度外に出た生徒が北校舎を歩いたのか、それとも――。都市伝説ごときに影響され、脳内が不穏な思考回路を描こうとする。だんだんと背筋が寒くなってきて思わず後ろを振り返るが、そこにあるのは自分が歩いてきた場所にうっすらと残る足跡だけだった。良からぬ噂は誰のことも幸せにしない。誰かが何の気なしに面白おかしく作った話が、歪曲され、過大解釈され、姿かたちを変えて今の形へと変異しただけだ。凛はすぐに前を向き直し、目的の場所に向かって再び歩き出す。曲がり角の死角からの不意の刺客(しかく)に備えて、1歩ずつ慎重に進んでみるが、前方からは当然誰も来ない。

見えない敵とのくだらないサバイバルを一通り終えたあと、4階北校舎の最西端に位置する「美術準備室」の札を見つけ、短く息を吐いた。ここは、凛のお気に入りの避難所だ。生徒たちがはしゃぐ喧騒(けんそう)も、学校のすぐそばを走る電車の通過音も届かない。すでに確実な未来への切符を手に入れて、3年生としての残りの高校生活が完全な消化試合に突入した凛にとって、この完璧に隔離された真空地帯は一番の暇つぶし空間だった。こんな土砂降りの中、わざわざ靴を濡らして家に帰ったところで、暇を持て余した専業主婦の母親が待ち構えているだけだ。かといって、ファストフード店で一緒に無駄な時間を消費してくれるような、典型的な女子高生のように付き合ってくれる友達もいない。半ば現実逃避のような形で、今日も鍵のかかっていない引き戸をガラガラと開けた。
すると、まず目に入ってきたのは、机の上に立つ「2本の脚」だった。かかとが浮き、ゆらゆらと不器用に背伸びをしている。その人物の首に幾重にも巻き付いているのは、使い古されて黄ばんだ家庭用の延長コード。視線でその線を伝うと、何のために備え付けられたのかわからない天井のフックへと、だらりと引っかかっていた。
「……何してるんですか、コトミ先生」
その脚の持ち主は、赤羽(あかばね)コトミ。年齢不詳の美術教師だ。美術教師のくせにいつも謎の白衣に膝丈のタイトスカート、ピンヒールという出で立ちで、一部の男子生徒はパンチラしないかとストッキング越しの脚に釘付けになり、授業内容がまったく頭に入っていないやつもいる。凛が在籍しているこの3年間だけでも、保護者から何度かクレームが入っているらしいが、本人はこのスタイルを(かたく)なに崩そうとしない。今日はチャームポイントのピンヒールが無造作に、片方は側面を向いて脱ぎ散らかされている。深紅のエナメル素材の艶やかなヒールだった。凛なら、この色のヒールをチョイスする以前に、そもそもこの色に合う服を持っていない。合わせる難易度が高すぎるため、この色を我が物にするコトミはセンスがいいと思うが、死んでも口には出さない。褒めれば調子に乗るのが目に見えているからだ。コトミの独特のスタイルからは、美術教師としてのプライドも感じる。世の中には上下ジャージにボサボサ頭で勤務する美術教師もごまんといるだろうから、コトミの独特の審美眼が光る部分だ。まっすぐに伸びるその脚を、不本意ながらも嘗め回すように視線でなぞり上げ、ようやく彼女の顔へと目を向ける。
「何って。見てわからないの、今から首吊(くびつ)心中(しんじゅう)を図ろうとしていたところだよ。この、ウルトラマリンブルーとね」
「ウルトラマリンブルー?」
なんだそのウルトラマンがフォームチェンジしたみたいな名前は。凛は脳内の辞書を一通り引いてみたが、そのような言葉は初めて聞いた。話が通じない生徒にイライラしたのか、首に纏っていた延長コードをぐるぐると1周ずつ外しながらコトミが説明し始める。
「ウルトラマリンブルーはウルトラマリンブルーだよ! ああ美しき芸術の色……もうこれが最後のストックになってしまった」
世界から最も美しい青が消えてしまった……と絶望するコトミが指さす足元には、絵の具らしきものが1つ転がっていた。凛はそれを拾い上げては、プリントされた表記を確認する。確かに『ウルトラマリンブルー』と書かれている。ラベルの色は、紫と青を、青少し多めで混ぜたような色合いだった。たしかにきれいな色だ。深い夜の海の中にわずかに月光が混ざって反射したような、そんな色調に思える。ただ、絵の具のチューブはいびつな形に(へこ)んではいるものの、まだまだ使えそうだ。
「まだ半分くらい残ってるじゃないですか」
凛がそう言うと、コトミ先生は大げさに首を横にブンブンと振った。
「違う! シダーウッド社のウルトラマリンブルーじゃないとダメなの! この青が最高傑作なの!」
演説調の語り口から一転、急に駄々をこねる子どものような口調で唇を尖らせている。
なるほど、メーカーによって若干色味が違うということだろうか。凛はスマホを取り出して『シダーウッド社 ウルトラマリンブルー』と入力する。確かに、去年の3月に廃盤になっているようだ……が。
「先生、シダーウッド社のウルトラマリンブルーは、パッケージを変更後、すぐに再販されていますよ」
「え?」
コトミは、出目金顔負けくらいに目を大きく見開き、マヌケに口をぽかんと開けている。そんな彼女に、凛はスマホの画面を見せてやる。
「ウルトラマリンブルー、パッケージ変更のお知らせ……? 4月には再販しているだと……?」
ぼそぼそと事実を確認し始めるコトミの顔から、少しずつ陰りが退(しりぞ)いていく。そして確信したのか、もともと自身の首に巻き付いていた延長コードを机の上に放り投げると、腕を前に組み、大仰に凛へと言い放った。
「そういうことだと思ってたんだよね! シダーウッドが私を裏切るはずはないんだよ! ああはははっ!」
切り替え早っ。
目の前で高々と笑うコトミは、コントでもしていたのではないかと疑うほど呑気だ。机からひょいと飛び降り、ドンと着地した。その後ペタペタと歩いて、脱ぎ捨てられたヒールを履き、凛が手に持っていたウルトラマリンブルーをスマートに取り上げては(ほお)ずりし始めた。
無惨に転がった延長コードを手に取った凛は、丸い輪を作り、一周ずつ確実に巻き取ってコードを束ねた。いつからこの美術準備室に放置されていたのかわからない。これは今も、ちゃんと延長コードの役目を果たしているのだろうか。乱雑に扱えば断線して、最悪の場合、爆発するかもしれない。……そもそも、延長コードって爆発するのか?
「そんなはずは」
「私が来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「ゔっ」
クリティカルヒット。痛いところを突いたようだ。コトミから一本取って少し気分を良くし、彼女へ視線を向ける。切れ長で暗黒の瞳が、一瞬キラリと光を帯びたように見えた。その目尻が次第に下がり、やがて緩やかな弧を描く。彼女は片時もこちらから目を離さず、むしろ凛のほうが気圧されて反射的に目を伏せてしまった。
「そういう墨田は? なんでここにいるの?」
クリティカルヒット! 今だけはそれを言わないでほしかった。家に帰りたくありません、なんて警報が発令された学校で、さすがに教師であるコトミには言えない。なんていえばやり過ごせるだろうか。コトミの未遂現場に居合わせたことに意識を取られていて、言い訳までは考えが及んでいなかった。
「えっとですね。忘れ物を取りに来まして」
苦しい、苦しすぎる。美術準備室に忘れ物なんて、常習的にここに潜伏していることがモロバレである。かといって忘れ物をしたことは事実だし、と、先日置いて帰ってしまった小説を、整然と本が並べられている壁際の棚から取り出す。
「おやおや、その本は君の物だったんだね」
完全にばれていたようだ。凛は心の中で白旗を仕方なく振った。コトミは一枚も二枚も上手だったらしい。ここまでやられてしまっては降参だ。
「読書をするということは、自分の人生を生きながらも、誰かの人生を生きる疑似体験ができる! 実に有意義な趣味だね、感心、感心。墨田、これからも精進するんだよ」
先ほどまで勘違いで絵の具と心中しようとしていた奴が言うセリフではないが、当の本人はかなり気持ちよく演説しているので、追及するのはやめておこう。もう凛はここから形勢逆転することはできなそうなので、別の話題へと移すことにする。
「先生、私の名前知っているんですね」
「もちろんだよ! 仮にも先生だからね」
「仮ってなんですか? じゃあ本業はなんですか?」
「殺し屋」
笑っていいのかわからない冗談に顔がひきつる。これはボケなのだろうか。
「ちょっと、今のはどっかーん、と笑うところでしょう?」
ボケだったらしい。どっかーん、といってもここにいるのは凛とコトミの2人だけだが。生きようとしたり、死のうとしたり、殺そうとしたり、実に忙しい人だ。コトミなら、命が3つあっても足りないだろう、すでに5回くらい死んでそうだ。先ほどから軽快なやりとりを見せる2人だが、そもそも凛は今日ここに来るまで、コトミが美術準備室に入り浸っていることなど知らなかったし(実は逆も然りなのは後日のお話なのだが)、この2人がここに居合わせるのはこれが初めてで、今まで接点らしい接点もない。ただの教師と生徒でしかない。
この先生、ちょっと厄介者でめんどくさそうだが、結構おもしろい。変な先生だとは前から思っていたが、こんなにも変だとは。
「先生はなんでウルトラマリンブルーが好きなんですか」
純粋な疑問だった。この人はいつもいろんな色の服を身にまとっているから、1つの色に執着するのは、少し違和感がある。
「ウルトラマリンブルーはね『究極の青』なんだよ。神秘的で深い輝きを持つ青なんだ。その中でもシダーウッド社が販売するものはほかのものとは、透明感が違う。深い青の中に、一筋の雫が滴り落ちた水が映し出す透明感だよ」
後半は何を言っているのか凛には理解できなかったが、とにかくきれいな青らしい。
「先生、ちょっとだけ絵の具出してくださいよ、そのウルトラブルーを見たいので」
「ウルトラマリンブルーだよ」
何度も訂正してくるのをスルーして、コトミが持つ絵の具に手を伸ばす。
「おい、貴重なものなんだから勝手に触るな」
「さっきは机の上に転がっていたのに?」
コトミは凛の正論に観念したのか、チューブの(ふた)を開けた。近くに置かれた、風景に溶け込むほど薄汚れたパレットへと絵の具が少し絞り出される。くすみきった板の上でその鮮やかな青だけが際立って見えた。
「おお、きれいですね」
「当たり前よ」
得意げにコトミが頷く。命をかけるほどのものかはわからないが、きれいな色だということはよくわかった。この色に近い色を凛は知っている。
「先生、この色によく似ています」
凛は持っていたスマホを机に置き、スクールバッグから、エナジードリンクを出す。飲料の色そのままがパッケージされたデザインの缶をコトミの前で揺らす。
「私の『究極の青』を、そんな合成着色料の塊と一緒にしないでもらえるかな?」
「だって青は青じゃないですか」
「君は全世界の色オタクを敵に回したよ、そこらじゅうから叩かれてしまえ」
「そうなんですか」
「わかってないね、色の奥深さを。似たような青は青でも……ってえ?」
再びプレゼンが始まったかと思いきや、コトミは凛の液晶がついたままのスマホを覗き込んで動かなくなった。出目金リターンズである。
「どうしたんですか?」
固まったコトミの横に並んでスマホの文章を1語ずつ目でなぞってから読み上げる。
「環境配慮のため顔料を変更しております……」
悲鳴をあげては、コトミはその場によろめきながら崩れ落ちていった。
「そんなの偽物の青だ……」
「まだ変更後の本物を見てないじゃないですか」
「顔料が違えば、色味も質感も異なるものだよ。間違いない」
「公式が偽物ってことですか、深いですね」
「深くないよ! ああシダーウッドも環境を盾に品質改悪を正当化するメーカーだったのか!」
「まあ環境配慮も、物価高騰も、避けられない時代ですからね」
「ああ怖い! Z世代! 真顔で正論を振りかざしやがる!」
こちらが正論側なのはコトミもわかっているらしい。凛が念入りにまとめたコードを手にして、またしても机に上ろうとする。
「ちょっと何してるんですか、コトミ先生」
「何って! 心中だよ! もうやってらんない!」
いやいや、本気で心中されてしまっては困る。やっと見つけた居場所が事故現場になってしまう。それこそ本当に幽霊が出るようになるかもしれない。たとえ埃っぽくても、腐敗寸前のパレットが生息していようとも、ここなら凛は呼吸ができるのだ。凛は、コトミの首とコードの間に手を入れて、束になったコードをぎゅっと掴む。
「先生、どうしてもウルトラマリンブルーが、世界で最も美しき色が消えてしまったのなら、私が卒業するまでに、その廃盤を超えた『究極の青』を見つけてやりますよ。私の暇つぶしに付き合う対価として、それまではここ、美術準備室で死ぬのを禁止します。いいですね?」
「『究極の青』はそう簡単にある物じゃないんだよ」
「知ってます、だから探すんですよ。まずこのエナジードリンクの青は『究極』ではないんですよね?」
「当たり前だよ」
生徒に対して脅すには対価が重すぎるが、ふてくされながらもきちんと凛の質問に答えるあたり、本当に死ぬ気はなさそうだ。
「先生、約束ですからね? 死んではいけませんよ」
生徒に「死んではいけない」と諭される教師はどこにいる? ここにいる。
「はいはい」
「はい、は1回です。幼稚園で習いませんでしたか?」
「うん」
こうして、誰も寄り付かない美術準備室を舞台にした、凛とコトミの奇妙な関係が幕を開けた。凛の卒業まで、あと3ヶ月。