その夜リビングでは、テレビから明るい声が流れていた。クリスマスを間近に控え、街はすっかり浮き足立っている。
画面の中では、買い物帰りらしい親子連れがインタビューを受けていた。
『やっぱり、子どもが喜ぶものをあげたいですね』
父親がそう答えると、隣にいる子どもが嬉しそうに笑った。一頼はソファに座りながら、その光景をぼんやり眺めていた。
けれど頭に浮かんでいるのは、テレビではなく、昼間見たあの絵だった。
「一頼は、今年もクリスマスプレゼントはあれか?」
不意に父の声が飛んできた。
「新しい小説の単行本かな」
「……え?」
意識を引き戻され、一頼は慌てて振り返る。
「あ……う、うん」
曖昧に頷くと、頼仁は少し笑った。
「一頼は本当に無欲だなあ。お父さんの職場の人の子なんて、新しいゲーム機だの何だの欲しがるらしいぞ」
「……そうなんだ」
再びテレビへ視線を戻すけれど、やっぱり内容はほとんど頭に入ってこない。
『やっぱり親としては、子どもの笑顔が一番ですね』
キャスターがそんな言葉で話をまとめる。その一言だけが、妙に耳に残った。
「……」
一頼は膝の上で、そっと指を握った。
欲しい。初めて、はっきりそう思うものができた。
けれど、それを口にしたら父はどんな顔をするだろう。
本でも、服でも、ゲームでもない。七万円もする、一枚の絵。
少し考えただけでも、普通ではない気がした。
それでも、黙っているうちに誰かに買われてしまったら。
そう思った瞬間、昼間に感じた焦りが、もう一度胸に広がった。
「……お父さん」
一頼は静かに口を開いた。
「ん?」
頼仁が顔を向ける。
「わたし……欲しいものがあって」
珍しいことを聞いたように、頼仁が目を丸くする。
「なんだ、新しい本か?」
一頼は首を横に振った。
「……絵」
「……え?」
「絵を、買いたいの」
頼仁の表情が止まる。一頼は緊張しながら、膝の上で握った手に力を込めた。
少しの沈黙のあと、頼仁が慎重に尋ねる。
「……それは、いくらするんだ?」
「……七万」
言った途端、自分でも金額の大きさを改めて実感して、息が詰まりそうになった。
「七万か……」
頼仁の声が低くなる。
やっぱり無理だ。そう思った。高校生が欲しいと言うものではなかったのかもしれない。
けれど、このまま引き下がったら、きっと後悔する。
「あのね」
一頼は視線を落としたまま、言葉を探した。
「その絵……本みたいに、また同じものを買えるわけじゃないの」
「……」
「作家さんが描いた、一点ものなんだって」
頼仁は何も言わない。だから一頼は、ゆっくりと続けた。
「もし誰かに買われたら、その人のところに行っちゃうから……もう二度と、見られないかもしれなくて」
言葉にするほど、胸が苦しくなる。
あの絵を見られなくなる。そう考えただけで、本当に何かを失うような気がした。
一頼は意を決して顔を上げた。
「私……あの絵、誰にも取られたくない」
思った以上に真っ直ぐな声が出たことに、自分でも少し驚いた。
けれど、言ってしまえば、それが一番正確な気持ちだった。
欲しい。手元に置きたい。誰かに取られたくない。
初めて見た夜に自分を救ってくれたものを、自分のものにしたかった。
「無理なら……進学用のお金から借りてもいいから」
「一頼ちゃん」
「ちゃんと返す。大学に入ったらバイトもするし、だから――」
「一頼ちゃん」
もう一度呼ばれて、一頼は口を閉じた。しばらく、頼仁は何も言わなかった。
怒られるかもしれない。そう覚悟したところで、父はふっと息を吐いた。
「……一頼ちゃんが、我儘言うなんてな」
「……」
「初めてじゃないか?」
その声に怒気はなかった。むしろ、どこか寂しそうで、それでいて嬉しそうにも聞こえた。
頼仁は小さく首を振る。
「いや……お父さんが、言えなくしてたのかな」
「そんなこと……」
反射的に否定しかけて、一頼は言葉を止めた。
先日のことを思い出したからだ。
――私は絶叫マシーンが嫌いなの。
あのときの父の顔。父は、自分の好きなものを知らなかった。
けれどそれは、父だけのせいだったのだろうか。
自分もまた、欲しいものや寂しいことを、ずっと言わずにきた。
一人でできるから。困らせたくないから。忙しいのを知っているから。
そうやって何も言わずにいるうちに、父は自分が何を考えているのか、分からなくなっていたのかもしれない。
頼仁がゆっくり立ち上がる。
「……渡したいものがある」
「え?」
父は仏壇の前へ向かうと、静かに手を合わせた。それから引き出しを開け、中から一冊の通帳を取り出す。
戻ってきた頼仁は、それを一頼の前へ置いた。
「これはな」
「……?」
「一頼ちゃんが成人したら渡そうと思ってたんだけど」
一頼は恐る恐る通帳を手に取る。表紙を開いた瞬間、並んでいる数字に目を見開いた。
「……これ……」
「今までコツコツ貯めてた、一頼ちゃん貯金だ」
「……!」
一頼は何度か数字を見直した。自分が知らないところで、何年も積み重ねられてきた金額。
父が仕事へ出るたび、帰りが遅くなるたび、休みの日まで働くたび。
もしかすると、その中の一部が少しずつ、この通帳へ入っていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸がいっぱいになった。
「お父さんからの、クリスマスプレゼント」
頼仁は少し照れたように笑った。
「春からの一人暮らしの資金にしてもいい。必要なら、その絵を買うのに使ってもいい」
「……」
「バイトするのはいいけど、無理はするなよ。食事もちゃんと摂れ。何より、まずは学ぶことを優先しなさい」
一頼は、通帳から目を上げられない。頼仁は少し考えてから、冗談めかして付け加えた。
「あと、恋人とのデート代に使うのも構わんが、変な男には引っかかるなよ」
「……お父さん」
「ん?」
「……ありがとう」
声が震えた。通帳を握る指先に、力が入る。
嬉しいのは、お金をもらったからだけではなかった。
自分の知らないところで、父がずっと自分の未来を考えてくれていた。
何も知らないと思っていた父が。仕事ばかりだと思っていた父が。ずっと自分のために、少しずつ何かを残してくれていた。
先日ぶつけた言葉が、急に胸を刺す。
――お父さんは、私のことなんてどうでもいいんだよ。
本当は、そんなはずなかったのに。
「……なぁ、一頼ちゃん」
頼仁が静かに言った。
「……?」
「お父さんさ」
少し照れくさそうに頭をかく。
「上手く子育てできたか、正直よく分からないんだ」
一頼は黙って父を見る。
「お母さんがいなくなってから、お父さんなりにやってきたつもりなんだけど……仕事もあったし、一頼ちゃんは昔からあんまり我儘言わなかったからな」
頼仁は一度言葉を切り、そして、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「だから……これからは、一頼ちゃんの好きなもの、教えてくれないか」
「……」
胸の奥に、何かが込み上げた。
ほんの数日前まで、自分は父に何も分かってもらえていないと思っていた。
けれどもしかすると、分かってもらうためには、自分から伝えなければいけなかったのかもしれない。
好きなもの、嫌いなもの。寂しかったことも。一緒にいたかったことも。
一頼は唇を結び、それから大きく頷いた。
「……うん」
頼仁も、静かに頷く。
「うん」
その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
一頼は通帳を両手で抱えながら、ふと思う。
(見せたい)
あの絵を。
自分が初めて、心から欲しいと思ったものを。
あの夜、ひとりだと思っていた自分に、光を届けてくれた絵を。
そして、あの不思議な場所を。
一頼は父を見つめた。
(きっとお父さんも、好きになる)
なぜだか、そんな気がした。
⸻
――そして。
その一枚の絵が、やがて一頼の人生を大きく変えていくことになる。
このときの一頼は、まだ知らなかった。
あの日、ただ「好き」だと思った気持ちが、それだけでは終わらないことを。
一枚の絵を通して受け取ったものが、何年もの時を越えて、ひとりの人間へと繋がっていくことを。
そして、その繋がりを守るために。
傷つき、迷い、ときには失いながらも、自分自身の手で選び取っていく日が来ることを。
画面の中では、買い物帰りらしい親子連れがインタビューを受けていた。
『やっぱり、子どもが喜ぶものをあげたいですね』
父親がそう答えると、隣にいる子どもが嬉しそうに笑った。一頼はソファに座りながら、その光景をぼんやり眺めていた。
けれど頭に浮かんでいるのは、テレビではなく、昼間見たあの絵だった。
「一頼は、今年もクリスマスプレゼントはあれか?」
不意に父の声が飛んできた。
「新しい小説の単行本かな」
「……え?」
意識を引き戻され、一頼は慌てて振り返る。
「あ……う、うん」
曖昧に頷くと、頼仁は少し笑った。
「一頼は本当に無欲だなあ。お父さんの職場の人の子なんて、新しいゲーム機だの何だの欲しがるらしいぞ」
「……そうなんだ」
再びテレビへ視線を戻すけれど、やっぱり内容はほとんど頭に入ってこない。
『やっぱり親としては、子どもの笑顔が一番ですね』
キャスターがそんな言葉で話をまとめる。その一言だけが、妙に耳に残った。
「……」
一頼は膝の上で、そっと指を握った。
欲しい。初めて、はっきりそう思うものができた。
けれど、それを口にしたら父はどんな顔をするだろう。
本でも、服でも、ゲームでもない。七万円もする、一枚の絵。
少し考えただけでも、普通ではない気がした。
それでも、黙っているうちに誰かに買われてしまったら。
そう思った瞬間、昼間に感じた焦りが、もう一度胸に広がった。
「……お父さん」
一頼は静かに口を開いた。
「ん?」
頼仁が顔を向ける。
「わたし……欲しいものがあって」
珍しいことを聞いたように、頼仁が目を丸くする。
「なんだ、新しい本か?」
一頼は首を横に振った。
「……絵」
「……え?」
「絵を、買いたいの」
頼仁の表情が止まる。一頼は緊張しながら、膝の上で握った手に力を込めた。
少しの沈黙のあと、頼仁が慎重に尋ねる。
「……それは、いくらするんだ?」
「……七万」
言った途端、自分でも金額の大きさを改めて実感して、息が詰まりそうになった。
「七万か……」
頼仁の声が低くなる。
やっぱり無理だ。そう思った。高校生が欲しいと言うものではなかったのかもしれない。
けれど、このまま引き下がったら、きっと後悔する。
「あのね」
一頼は視線を落としたまま、言葉を探した。
「その絵……本みたいに、また同じものを買えるわけじゃないの」
「……」
「作家さんが描いた、一点ものなんだって」
頼仁は何も言わない。だから一頼は、ゆっくりと続けた。
「もし誰かに買われたら、その人のところに行っちゃうから……もう二度と、見られないかもしれなくて」
言葉にするほど、胸が苦しくなる。
あの絵を見られなくなる。そう考えただけで、本当に何かを失うような気がした。
一頼は意を決して顔を上げた。
「私……あの絵、誰にも取られたくない」
思った以上に真っ直ぐな声が出たことに、自分でも少し驚いた。
けれど、言ってしまえば、それが一番正確な気持ちだった。
欲しい。手元に置きたい。誰かに取られたくない。
初めて見た夜に自分を救ってくれたものを、自分のものにしたかった。
「無理なら……進学用のお金から借りてもいいから」
「一頼ちゃん」
「ちゃんと返す。大学に入ったらバイトもするし、だから――」
「一頼ちゃん」
もう一度呼ばれて、一頼は口を閉じた。しばらく、頼仁は何も言わなかった。
怒られるかもしれない。そう覚悟したところで、父はふっと息を吐いた。
「……一頼ちゃんが、我儘言うなんてな」
「……」
「初めてじゃないか?」
その声に怒気はなかった。むしろ、どこか寂しそうで、それでいて嬉しそうにも聞こえた。
頼仁は小さく首を振る。
「いや……お父さんが、言えなくしてたのかな」
「そんなこと……」
反射的に否定しかけて、一頼は言葉を止めた。
先日のことを思い出したからだ。
――私は絶叫マシーンが嫌いなの。
あのときの父の顔。父は、自分の好きなものを知らなかった。
けれどそれは、父だけのせいだったのだろうか。
自分もまた、欲しいものや寂しいことを、ずっと言わずにきた。
一人でできるから。困らせたくないから。忙しいのを知っているから。
そうやって何も言わずにいるうちに、父は自分が何を考えているのか、分からなくなっていたのかもしれない。
頼仁がゆっくり立ち上がる。
「……渡したいものがある」
「え?」
父は仏壇の前へ向かうと、静かに手を合わせた。それから引き出しを開け、中から一冊の通帳を取り出す。
戻ってきた頼仁は、それを一頼の前へ置いた。
「これはな」
「……?」
「一頼ちゃんが成人したら渡そうと思ってたんだけど」
一頼は恐る恐る通帳を手に取る。表紙を開いた瞬間、並んでいる数字に目を見開いた。
「……これ……」
「今までコツコツ貯めてた、一頼ちゃん貯金だ」
「……!」
一頼は何度か数字を見直した。自分が知らないところで、何年も積み重ねられてきた金額。
父が仕事へ出るたび、帰りが遅くなるたび、休みの日まで働くたび。
もしかすると、その中の一部が少しずつ、この通帳へ入っていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸がいっぱいになった。
「お父さんからの、クリスマスプレゼント」
頼仁は少し照れたように笑った。
「春からの一人暮らしの資金にしてもいい。必要なら、その絵を買うのに使ってもいい」
「……」
「バイトするのはいいけど、無理はするなよ。食事もちゃんと摂れ。何より、まずは学ぶことを優先しなさい」
一頼は、通帳から目を上げられない。頼仁は少し考えてから、冗談めかして付け加えた。
「あと、恋人とのデート代に使うのも構わんが、変な男には引っかかるなよ」
「……お父さん」
「ん?」
「……ありがとう」
声が震えた。通帳を握る指先に、力が入る。
嬉しいのは、お金をもらったからだけではなかった。
自分の知らないところで、父がずっと自分の未来を考えてくれていた。
何も知らないと思っていた父が。仕事ばかりだと思っていた父が。ずっと自分のために、少しずつ何かを残してくれていた。
先日ぶつけた言葉が、急に胸を刺す。
――お父さんは、私のことなんてどうでもいいんだよ。
本当は、そんなはずなかったのに。
「……なぁ、一頼ちゃん」
頼仁が静かに言った。
「……?」
「お父さんさ」
少し照れくさそうに頭をかく。
「上手く子育てできたか、正直よく分からないんだ」
一頼は黙って父を見る。
「お母さんがいなくなってから、お父さんなりにやってきたつもりなんだけど……仕事もあったし、一頼ちゃんは昔からあんまり我儘言わなかったからな」
頼仁は一度言葉を切り、そして、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「だから……これからは、一頼ちゃんの好きなもの、教えてくれないか」
「……」
胸の奥に、何かが込み上げた。
ほんの数日前まで、自分は父に何も分かってもらえていないと思っていた。
けれどもしかすると、分かってもらうためには、自分から伝えなければいけなかったのかもしれない。
好きなもの、嫌いなもの。寂しかったことも。一緒にいたかったことも。
一頼は唇を結び、それから大きく頷いた。
「……うん」
頼仁も、静かに頷く。
「うん」
その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
一頼は通帳を両手で抱えながら、ふと思う。
(見せたい)
あの絵を。
自分が初めて、心から欲しいと思ったものを。
あの夜、ひとりだと思っていた自分に、光を届けてくれた絵を。
そして、あの不思議な場所を。
一頼は父を見つめた。
(きっとお父さんも、好きになる)
なぜだか、そんな気がした。
⸻
――そして。
その一枚の絵が、やがて一頼の人生を大きく変えていくことになる。
このときの一頼は、まだ知らなかった。
あの日、ただ「好き」だと思った気持ちが、それだけでは終わらないことを。
一枚の絵を通して受け取ったものが、何年もの時を越えて、ひとりの人間へと繋がっていくことを。
そして、その繋がりを守るために。
傷つき、迷い、ときには失いながらも、自分自身の手で選び取っていく日が来ることを。
